ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ(平成元年生まれ)。読書ブログを目指している雑記ブログ。息子ハルタとじゃれ合うことが趣味。

息子にインフルエンザをうつした話

 

インフルエンザになった自身を密室に隔離したが、家庭内別居の努力など時すでに遅く、一昨日の夜、1歳10ヶ月の息子ハルタが高熱を出した。

 

お医者さんに電話して指示を仰ぎ、昨年12月にハルタが熱性けいれんになったときにいただいた熱を下げる座薬をハルタの肛門にインした。座薬は効き、熱は引き、ハルタはぐっすりと眠れた様子。幼児のインフルエンザ脳症の情報をネットで過剰に摂取した僕は自責の念と不安で少々鬱っぽい気分になり、次の日朝一でハルタを病院へ連れて行った。

 

病院の小児科はインフルエンザの子どもで激こみギュウギュウ丸かと予想していたが、意外と空いており、受付を済ますとすぐに診察を受けることができた。小児科の先生は少々チャラ男っぽい若い先生で耳にはピアスの穴が認められた。おそらく僕と同世代。

 

「保育園も行ってなくて、パパさんがインフルなら、確実にハルタくんもインフルっすよ。インフルかどうかの検査も必要ありません。タミフル出しときますね。今日はママさんは?」とその先生。妻は妊婦でもうお腹がかなり大きいので家に置いてきた、もう少しで出産予定日だと説明する。「じゃあ、今度はママさんにうつしちゃまずいですね。もう胎児には影響ないだろうけど、お産のときに熱が出たらママさん可哀想だから」

 

お礼を言い、処方箋をもらってハルタと薬局に行った。薬を待つ間、ハルタに『アンパンマン』の絵本を読んでやった。そのときだった。……ブリブリブリッ!! ハルタは大量のウンチをした。

 

 

 

今度は妻が隔離される番であった。

 

先日までハルタは妻と生活していたのだが、今度は僕と生活することに。ママと離れ離れになり泣き叫ぶハルタ。しばらくお別れ。インフル同士仲良くやろうぜ。

 

ハルタは泣き疲れと、薬の効果があったのだろうかすぐに寝てしまった。ハルタが寝ている間、角田光代訳『源氏物語』の「須磨」の章を、原文と比べながら読んだ。『源氏物語』冒頭の巻は「桐壺」であるが、実はこの「須磨」の巻から起筆されたという伝承が記録されてるそうな。

 

 

「須磨」では、宮中にいられなくなった源氏の須磨行きを多くの人が嘆き悲しむ。領地や財産をすべて託された紫の上。彼女は心細かったろう。思えば、彼女は源氏にほとんど誘拐されるように宮中にやってきたのである。源氏がいなくなれば、宮中では孤独そのものだ。

 

生ける世の別れを知らで契りつつ命を人に限りけるかな

(生き別れることがあるなどとは思いもせず、命ある限りは別れまいとあなたに幾度も約束しましたね)

 

と紫の上に源氏。

 

惜しからぬ命にかへて目の前の別れをしばしとどめてしがな

(もはや少しも惜しくないこの命にかえて、今この別れを、ほんの少しでも引き止めておきたい)

 

と応える紫の上。彼女はきっと永遠の別れになるのではないかと絶望していたことでしょう。

 

 

 

今日になってすっかり息子の熱は下がり、元気になった。ただ、まだ菌を保有しているので、妻と触れ合わせることはできない。

 

今日は妻がかかりつけの産院に検診に行く日であった。僕の実家の母親が、病院に行く彼女に連れ添った。僕はハルタとお留守番。一緒に『アンパンマン』のDVDを見たり、ブロック遊びをしたりした。

 

2時間ほどして、妻が帰ってきた。食料の入った袋を抱えている。

 

「お義母さんが『「妊婦がいるのに、インフルエンザ持ち込みやがって。くたばれ」って伝えといて』って言ってたよ」と妻。

 

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現在奥の部屋から妻の咳が聞こえる。……出産予定日まであと6日。

『トロッコ』(芥川龍之介)の話

 

「このやろう! 誰に断ってトロに触った?」

 

 

 

インフルエンザになり出勤停止になったのであるが、どうしても今週中に終わらせなければならない仕事があり、上司に「その仕事を会社に取りに行ってもいいですか?」と連絡したが、やっぱり「ダメ」と言われてしまった。しょうがないと諦めたが、その後、先輩から電話。「おれが家まで届けてやるよ」

 

本当にいつもこの先輩にはお世話になってます。いつもなめた口きいてすみません。その先輩は仕事を家まで届けてくれた上に、お見舞いに、飲み物や食べ物も届けてくれたのである。泣けるで。

 

お茶、ポカリスエット、アイス、そして、小田原のみかん……。みかんは温暖な小田原の名産である。みかん大好き。

 

 

 

芥川龍之介の短編小説、『トロッコ』を読んだ。

 

トロッコ・一塊の土 (角川文庫)

トロッコ・一塊の土 (角川文庫)

 

 

小説の舞台は、神奈川にある小田原と静岡にある熱海をつなぐ軽便鉄道(熱海鉄道)の敷設工事の現場である。熱海鉄道といえば、前身である豆相(ずそう)人車鉄道が有名。豆相人車鉄道では、車両を人力で押していた(急な山道では、車両を押すのを乗客に手伝わせていたそうだ)。

 

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Wikipediaより

軽便鉄道である熱海鉄道が敷設されたのは、1908(明治41)年であるから、小説の設定時代はこのしばらく前である。主人公の少年、良平は土木工事に使われるトロッコに乗ることやトロッコを押すことにあこがれがあり、毎日村外れへ工事を見物に行った。

 

2月初旬のある夕方、良平はトロッコにひそかに乗り有頂天になる。しかし、麦わら帽の土工に見つかり、「このやろう!」と怒鳴られてしまう。それから10日あまり経ってから、親しみやすそうな若い2人組の土工を見つけた良平は、彼らに声をかけ、一緒にトロッコを押したり乗ったりして、熱海方面に向けて進みことになるのだった。良平のあこがれの実現である。

 

ロッコと進む良平の両隣りに、日を受けたみかん畑が現れる。みかんは、明るさ、暖かさ、ぬくもりの象徴である。情景描写から、良平の胸の高まりが伝わってくる。

 

『トロッコ』は登場人物や語り手の気持ちを想像するのに、情景描写を手がかりにしやすい小説である。

 

 

 

ロッコと一緒に意気揚々と進んできた良平であったが……

 

今度は高い崖の向こうに、広々と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、あまりに遠く来すぎたことが、急にはっきりと感じられた。

 

広々と薄ら寒い海……。ワクワク感から一転、この情景から、良平の心の内から寂しさ、心細さ、孤独感がじわじわと広がっていることがわかる。

 

結局、良平は若い土工たちから「帰れ」と言われてしまい、あっけにとられ、泣きそうになってしまう。絶望へと落ち込む良平。彼は命さえ助かればと、暗くなる道を無我夢中で家に向かって走り続ける。そしてやっと自分の村に帰ってきた良平は、家に駆け込み大声で泣くのであった。不安からの解放である。

 

 

よく考えると、良平にとって本当に優しい土工は、親しみやすい若い2人組の土工ではなく、怒鳴ってくれた麦わら帽の土工だったのかもしれない。ちゃんと叱ってくれる大人もやっぱり必要ですね。

 

小説には、麦わら帽の土工について、「ただそのときの土工の姿は、今でも良平の頭のどこかに、はっきりした記憶を残している。」とある。……「今」とは?

 

 

 

小説の最後に、「今」の良平について書かれている。

 

   良平は二十六の年、妻子と一緒に東京へ出てきた。今ではある雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然なんの理由もないのに、そのときの彼を思い出すことがある。全然なんの理由もないのに?ー塵労に疲れた彼の前には今でもやはりそのときのように、薄暗いやぶや坂のある道が、細々と一筋断続している。…………

 

妻子とともに上京したものの、生活のために校正係をしている「今」の疲労感と、どこにたどり着くのかわからない少年の日の不安感を、良平は無意識のうちに重ね合わせているのである。

 

 

良平のモデルは、芥川龍之介の熱心なファンで、芥川との親交も深かった力石平蔵という人物である。平蔵は芥川の世話で出版社に勤務し、校正係として働いていた。夢は小説家だったらしい。

 

彼の出身地はかつて軽便鉄道が通っていた湯河原吉浜である。『トロッコ』は、子供時代の思い出を書いた平蔵の原稿を、芥川が大幅に手直しして出来上がった作品なんだそうな。 

 

 

 

思いがけぬ9連休と『おどろきの中国』の話

 

妻の出産予定日が1週間後に迫っている。出産直後のサポートに、福井にいる義母が来てくれるというので、3連休は、物置と化してる部屋を片付け、義母が泊まれる場所をつくった。

 

この連休は何の用事も仕事も入れず、掃除、洗濯、食器洗い、買い物などひたすら家事に努めた。1歳10ヶ月の息子・ハルタを近くの公園に連れて行ったりもした。ハルタは最近滑り台にはまっていて、同じ滑り台を35回くらい滑らないと気が済まない。

 

祝日の月曜日の朝方から、鼻水が止まらず、くしゃみが何度も出るようになった。「あー、花粉症だわー、つらい」と僕は思った。

 

その内、頭痛もするようになった。「あー、花粉症だわー、つらい」と僕は思った。

 

その内、寒気を感じるようになり、体がだるくなり、関節が痛み始めた。「あー、花粉症だわー、つらい」と僕は思った。

 

夜は苦しく、全然眠れなかった。火曜の朝、体温を計ると37.6度あった。「こりゃ花粉症じゃなくて、熱だわ!」とこの時初めて気づき、近所の病院に行き、診察を受けた。鼻に棒を突っ込まれた。

 

「インフルエンザA型ですね」とお医者さんは言った。

 

 

 

現在、義母のために整理した部屋に引きこもっている。妊婦の妻と幼いハルタにインフルエンザをうつすわけにはいかない。(3連休中の自身の不用心さのため、もう手遅れかもしれないが。……強い罪悪感)

 

熱は下がったが、菌を保有しているので、会社は今週中は、出勤停止である。ということはつまり、この前の土曜日から数えると、土、日、月、火、水、木、金、土、日……9連休ではないか。今の会社に勤め始めてから、こんなに休むのは初めてのことである。この思いがけずにできた休みを有効活用するにはどうすればよいだろうか?

 

思いつかないので、とりあえず新聞を隅々まで読むことにした。

 

 

 

大学生のときには毎朝新聞に目を通していたけど、今は忙しさを理由にほとんど読まなくなった。ニュースに触れるのはネットとラジオばかり。

 

コンビニで「毎日新聞」を購入した。経済面を開くと、中国関連の記事ばかりである。

 

ここ20年くらいの中国の経済的躍進は凄まじい。アメリカと肩を並べる覇権国家になったと言っても過言ではないだろう。米中は現在貿易戦争の真っ只中であるが、もはや互いは最大のライバルでありながら最大のパートナーであり、世界を牽引する運命共同体である。日本は蚊帳の外。アメリカへの愛は片思いに過ぎない。

 

3連休に講談社現代新書の『おどろきの中国』を読んだ。

 

おどろきの中国 (講談社現代新書)

おどろきの中国 (講談社現代新書)

 

 

社会学者のビッグネームである、橋爪大三郎大澤真幸宮台真司が中国という国について熱く語っている。これがめちゃくちゃ面白い。中国人の物の見方、考え方、中国社会のあり方が様々な方面から分かりやすく語られていて、それと同時に、日本の国際政治の問題点が浮き彫りになっていくのである。

 

正直僕は中国に少々偏見を抱いてたが、これを読んで、中国をリスペクトしたい気持ちが芽生えた。問題点は多くあるものの、その徹底して個人主義的で合理主義的でプラグマティックなところは日本人が参考にすべきところだと思う。そもそも僕たちの文化は中国の影響を受けながら成り立ったのだ。

 

3人の社会学者が日本が今後国際社会の中でとるべ針路について語っているところは非常に勉強になった。彼らは日本は米中の「媒介者」であるべきと語る。

 

大澤    たしかにそうですね。いまのところは、米中が基本的には対立しているというこてから、漁夫の利を得ているというのが日本のポジションだと思うんですよ。でも、それはやっぱりあまりにも情けない。AくんとBくんが喧嘩しているかぎりで、おれは大事にされているだけ。AとBが仲良くなったら、お前なんていらないと言われてしまう。

宮台    それは漁夫の利というより、死刑執行の猶予期間みたいなものだよね。

大澤     そう。だから、非常に情けないし、実際、長いトレンドで見たら、AくんとBくんは仲良くしようという強い志向性をもっているときに、仲良くなったらお前はいらないと言われるようではまずい。

    そうすると一つの生きる道は、AくんがBくんと仲良くするに当たっては、Cくんともとっても仲良くなってしまうんだ、あるいはCくんと仲良くなれば、Bくんと余計仲良くできるんだという状況をつくることですよね。

    ほんとうは、中国を理解するということに関しては、日本人のほうが、アメリカ人よりはるかにアドバンテージがあるはずなんです。だって、日本の文化は中国に影響されながら今日まできたわけだし、文字だって、かなり共有しているわけだし。一般人のレベルで言っても、アメリカ人が中国の歴史について知っている量と、日本人の高校生ぐらいが知っていることを比べれば、日本人のほうが上でしょう。

    日本はそういう意味で有利な立場にあるわけですから、中国との関係において、アメリカがまず仲良くしなければいけないのは日本なんだという構造をつくることが、いま重要だと思いますね。

橋爪   そうなんですよ。

    でね、さっき、香港と台湾が中国のインターフェイスになったと言ったけど、香港と台湾はやっぱり中国寄りなんです。だから日本が、中国のインターフェイスになればいい。

 

日本の国際社会でのポジションの確保は、偏見を持たず、中国のことをちゃんと理解するという姿勢にかかっているのである。

 

 

 

さて、部屋に引きこもりながらできる時間の有効活用の方法を誰か教えてください。やっぱり読書で終わっちゃうのかなあ。

 

楽しい国語の授業と『使える!「国語」の考え方』の話

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学校の「国語」の授業は面白かったか?と聞かれると、率直に言って、ひどく退屈であったと答えざるを得ない。

 

小学生の頃の国語の授業の内容はディスカッションなんかがあったので割と覚えているんだけど、中高生のときは国語の時間が苦痛だったという思い出だけはあって、内容はほぼ覚えていない。中学生のときに『カメレオン』(チェーホフ)、『走れメロス』(太宰治)を読んだことだけは辛うじて覚えている。

 

中学校のときの国語の先生は、授業が最初から最後まで講義形式で、生徒側の活動がほぼなかったので、人の話を長いこと聞くことができない子供だった自分は非常に辛かった。その先生は終始教卓の椅子に座っていて、教科書を読んだり、作品の解釈を滔々と話しているだけで、何か黒板に書くこともなく、ノートをとらせることもなかった(ノートを学校に持って行っていない僕にとっては好都合だったが。ちなみに筆箱も僕は学校に持って行っておらず、散らかっている教室に落ちているだれかのペンを使っていた)。授業では話し合い活動はおろか、作文もなかった気がする(しかし、やっぱり夏休みには読書感想文の宿題が出た)。

 

まあそういう授業は当たり前だが、荒れた。大騒ぎをして授業妨害するやつとか、ズボンを脱ぎだすやつとか、教師が余所見しているときに酎ハイを飲むやつとか、鼻をかんだティッシュをそのまま自分の口に放り込んで咀嚼するやつとかいた。僕はそのころ漫画家になりたかったので、国語の授業のときには、他教科プリントの裏にせっせとイラストを描いていたのであった。

 

学校の国語は授業も面白くないし、勉強の仕方もよくわかないしで、「つまらない」科目という印象を学生時代ずっと持っていた。

 

 

 

ちくま新書の『使える!「国語」の考え方』を読んだ。

 

使える!「国語」の考え方 (ちくま新書)

使える!「国語」の考え方 (ちくま新書)

 

 

国語の授業はとかく批判されがちである。つまらない、役に立たない、小説を読む意味はない、といった声が聞こえてくる。そのため、論理力をつけるための内容に変えるべきだという意見も強まっている。でも、それで本当に国語の力はつくのだろうか? そこで、文学、論理といった枠にとらわれないで、読む力・書く力を身につけるための新しい考え方を提案する。これまでなかった国語の授業がここにお披露目される。

 

第一章「現代文の授業から何を学んだのか」では、多くの人が学校の国語に対する抱くモヤモヤが上手に整理されている。国語の授業への不満の一つとして挙げられるのは、教師による小説文の「解釈の押し付けがいやだ」というものである。筆者は大学生に聞いた、国語の授業に関するアンケートを載せている。

 

   国語の小説文に関する批判で、必ず挙げられるのが、「自由に解釈していいと言いながら、正解が決まっている」というものである。今回のアンケートでもやはりそれは挙げられた。

 

   小説に対する感じ方はそれぞれなのに、一つの答えを強要されるのが好きではなかったので、授業はほぼ聞いていませんでした。私は先生のオリジナル問題で、先生の考えと私の考えがまったく合わなかったので嫌いでした。(慶應義塾大学文学部・女)

 

筆者は続く章で、このような不満が起きる要因として、教師の指導法は別として、教科書に載る小説文が「解釈のブレが起きにくい」作品ばかりあるということを一因として挙げている。

 

第三章「教科書にのる名作にツッコミを入れる」では、高校国語の定番、芥川龍之介の『羅生門』を例として挙げ、「主題が明瞭すぎないか」と疑問を投げかけている。登場人物の心理がはっきり描かれすぎていたり、「老婆」がテーマを説明し過ぎたりしている。解釈のブレが少ない作品では、どうしても読み手の自由な読みの幅が狭まってしまうのである。

 

学校の国語では「教育にふさわしい」教材が選ばれてしまうことにも、筆者は批判的である。

 

   文学が果たす役割は、特定の見方の押しつけではなく、むしろそれを揺るがし、拡大していくことではないだろうか。

(中略)

もちろん、普通の学校で多種多様な作品を提示するのは難しいだろうが、生徒のレベルに合わせてできるだけ多くの出会いを作ると、思わぬ効果が生まれることがある。「教育的に正しい」ものだけを提示するのでは、それは生まれない。 

 

筆者は国語の授業での小説文の読み方の一つとして、「物語論」という読み方を提示している。物語論は、その小説がどのようにできあがっているかという構造を分析する読みの技術である。こういった技術を授業の中で学んでいけば、多様な物語を読み味わうことのできる汎用的な力にきっとつながっていくのではないだろうか。

 

こういった筆者による小説文の授業の考え方に加え、「論理的」とは何かだとか、理解しやすい文章のセオリーだとか、情報の整理の仕方だとか、リテラシーの身に着け方だとかが分かりやすく整理されて書かれていて、非常に勉強になったのであった。

 

 

 

紆余曲折あって僕が中学校の国語の教員になってから、今年度で5年目である。こういった本を読むとかなり刺激を受け、やる気が出てくる。

 

妻は学生時代、国語が大の苦手科目だったらしく、「作者の気持ちを答えなさい、とか本当意味不明だった」なぞと僕に言ってくる。「登場人物の気持ちを答えなさい、て問題はあるけど、作者の気持ちを答えなさい、なんて問題はないよ」と反論しようとするが、面倒くさくなりやめる。

 

僕は社会学部出身だが、大学卒業後に、通信教育で中高の国語の教員免許を取得した。どうして国語科を選択したかというと、いちばん授業の自由度が高そうだったからとただそれだけの安易な理由である。(その後、国語の授業の難しさに何度も挫折しそうになった)

 

授業をするのは楽しいし、教材研究は大好きである。中学生時代の自分がどうしたら面白がるだろうかと想像して、授業を組み立てている。管理職からは「君は本当に授業一生懸命で、面白い授業をするよね」と言われる。(「」は副助詞。他のことがらと対比する意味を付け加える)

 

この業界に入って、すごい授業をする先生は山ほどいることを知った。自分の授業などまだまだチンピラである。授業技術のなさは、目の前の生徒を楽しませたいという気持ちでカバーしている。そういう気持ちは結構生徒に伝わり、生徒が能動的に学習に取り組むきっかけにもなる。

 

しかしながら、生徒の善意に頼ってばかりではいられない。もっと国語の教養を身につけたいし、もっと授業がうまくなりたい。生徒の関心意欲を高め、かつ、力がつく授業ができるよう、研鑽を重ねていきたいです。

 

『野火』の話ー極限状態で「神」は現れるか

 

頭をガツンと鈍器で殴られたような強い衝撃を受けた。最初に『野火』(大岡昇平)を読み終えてから2週間ほど経ったが、毎日この小説のことばかり考えてしまい、何度も読み直した。

 

野火(のび) (新潮文庫)

野火(のび) (新潮文庫)

 

 

敗北が決定的となったフィリッピン戦線で結核に冒され、わずか数本の芋を渡されて本隊を追放された田村一等兵

野火の燃えひろがる原野を彷徨う田村は、極度の飢えに襲われ、自分の血を吸った蛭まで食べたあげく、友軍の屍体に目を向ける…。

 

自分自身の無知がとてつもなく恥ずかしく思えた。僕は飢えを知らない。僕は生死の狭間を知らない。僕は戦争を知らない。

 

戦場から帰ってきた田村が戦争について語る言葉が、頭から離れない。

 

戦争を知らない人間は、半分は子供である。

 

とにかく、僕らは知らないことについて、さも知っているかのように語りたがるのであるが、知らないことについて何かを語る資格などあるのであろうか? 僕はこの小説で言うところの「子供」である。

 

『野火』のような極限状態に陥った場合、自身はどのような行動に出るだろうか。まったく予想出来ないし、それについては何も語れず、ただ漠然とした不安が拡がるのみなのである。

 

 

 

神に栄えあれ。 

 

という田村の言葉でこの小説は締めくくられる。彼の「神」は、過酷な戦場での体験や生死についての哲学をする中で、彼自身の内側から出現した神である。その神は彼が子供の頃に信じていたキリストとは、似て非なる神だ。

 

彼はフィリピン戦線の教会で思いがけず現地の女性を射殺してしまう。彼独自の神が現れたのはこのときであろう。彼はこの殺人について、自分はもはや「人間の世界に戻ることは不可能」と思うほど強い罪の意識を覚える。

 

「戦場での殺人は日常茶飯事」であり、フィリピン人の殺害は罪に問われない可能性が高い。罪に問われなければ、その罪を罰せらるのは、ただ一人。それは自分自身である。

 

ここから彼の分裂が始まっていく。彼は1つの個体でありながら、罪を背負った自分とその罪を断罪する自分とに分かれるのである。彼はその殺人のあと、度々誰かに見られている感覚に襲われるが、その見ている誰かは彼自身に他ならない。

 

彼の分裂が決定的なものとなるのは、彼が極度の飢えから彼の同胞の屍体の肉に手をつけようとする場面である。ここで彼の身体に非常に奇妙なことが起きる。屍体の肉を切り取ろうとした右手を、左手が押さえつけたのである。欲望と倫理のせめぎ合い。彼の神は彼の左半身に目に見える形で現れたのであった。

 

同胞が生前に言った、「食べてもいいよ」という許しの言葉が、逆に彼の神の力(倫理、理性、良心)を強固なものとした。彼は、見る田村(左半身)と見られる田村(右半身)とにはっきり分かれるのである。

 

彼は戦場から帰ってきて収容された精神病院で、野火に向かって歩く自分を「見ている」記憶を思い出す。

 

   再び銃を肩に、丘と野の間を歩く私の姿である。緑の軍衣は色褪せて薄茶色に変り、袖と肩は破れている。裸足だ。数歩先を歩いて行く痩せた頚の凹みは、たしかに私、田村一等兵である。

   それでは今その私を見ている私はなんだろう……やはり私である。一体私が二人いてはいけないなんて誰が決めた。

 

私が二人いてはいけないなんて誰が決めた?

 

 

 

戦場で極度の飢えに陥った田村は、狂う。

 

同胞の肉に手をつける自分自身をなんとか制止した彼は、「あたし、食べてもいいわよ」という野の百合の甘い囁きを聞く。飢える右半身。彼の左半身はそれをこんな風に理解する。

 

   私の左半身は理解した。私はこれまで反省なく、草や木や動物を食べていたが、それ等は実は、死んだ人間よりも、食べてはいけなかったのである。生きているからである。

 

彼は自分を含めた人間の身勝手で愚かな振る舞いに強い憤りを感じる。そして思考は飛躍する。彼は自身を神の代行者、つまり「天使」であると自覚するのである。

 

そして、その倒錯した使命感から、人肉を食する獣に堕ちてしまった同胞を殺害してしまう。

 

 

僕は狂いたい。

 

自身の選択で獣に堕ちるくらいなら、狂ったほうがましである。強い欲望から人間として決して許されない行為に足を踏み入れそうになったとき、自身を抑制する部分が自身の中から立ち現われてくれるであろうか。僕には自信がない。

 

……戦争が怖くて怖くて堪らない。

 

 

 

田村がフィリピン戦線で度々遭遇する「野火」は一体何の比喩なのであろうか。これは難解である。野火は彼の左半身的なもの(神性)に属するのか、あるいは右半身的なもの(獣性)に属するのか。

 

とにかく彼は野火を恐れている。野火への恐れは、同胞を殺害したのあとの欠落した(あるいは隠蔽している?)記憶への彼の不安と重なっているように見える。記憶が欠落している時間に野火へと向かったことだけを彼はかろうじて覚えている。なぜ恐れている野火に向かったのか? 彼は「比島人の観念は私にとって野火の観念と結びついている」と言っている。

 

彼は野火の下にいるフィリピン人を襲って、彼らを食したのかもしれない。襲ったとすれば左半身にとって恐るべきことであるし、襲っていないのだとすれば右半身にとって恐るべきことである。

 

野火は「禁忌」の比喩なのでないか。人間の倫理を守ろうとする神性は禁忌を破ろうとする獣性を、生命活動を維持しようとする獣性は禁忌を守る神性を非常に脅威に感じているのである。

 

 

 

この小説を原作にした、塚本晋也監督の映画『野火』(2015年製作)も非常に素晴らしい出来であった。小説ほど田村の内面の思索や葛藤にフォーカスできないにしても、映画でしか表現できない戦争のおどろおどろしさを、生々しい映像表現で描ききっています。必見。

 

野火 [Blu-ray]

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『さよならミニスカート』が面白い


 

「りぼん」で連載している『さよならミニスカート』(牧野あおい)が面白いと聞いたので、本屋に買いに行った。

 

少女漫画の棚を15分ほど探したが、見当たらない。そのうち、女の子がちらほら棚の前にやってきて、棚の前をうろうろしている自分が恥ずかしくなってきた。「娘が欲しがっている漫画がないなあ」とかつぶやこうと思ったが、余計怪しさが増す気がしたのでやめた。

 

購入をあきらめようかと思ったそのとき、やっと見つけた。『さよならミニスカート』は人気作のようで、平積みにされていた。まだ1巻しか売られていない。

 

さよならミニスカート 1 (りぼんマスコットコミックス)

さよならミニスカート 1 (りぼんマスコットコミックス)

 

 

帯には「このまんがに、無関心な女子はいても、無関係な女子はいない。」とあった。

 

 

 

主人公は、女子高生の神山仁那。彼女は通う高校で唯一スラックスで通学している女子である。言葉遣いも粗暴で、一匹狼である。

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そんな彼女には秘密があった。

 

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仁那は、ミニスカートを売りにした人気アイドルグループ「PURE CLUB」の元センター、雨宮花恋であったのだ。

 

彼女はアイドル時代の象徴でミニスカートを履くことをやめ、長い髪をバッサリと切り、「普通の」高校生として生活している。

 

彼女がアイドルグループを脱退した原因は、ファンとの握手会での傷害事件である。被害者であるはずの彼女は、「そんなに弱くてどうする」だとか「女使って男釣って儲けてるんだから恨み買われて当然」だとかいった心のない言葉を受け、心身ともに傷つき、「女の子」をやめてしまったのであった。

 

第1話のハイライトは、教室で「スカートなんて男に媚び売るために履いてる」と発言する男子生徒に仁那が怒るシーンである。

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スカートは あんたらみたいな男のために履いてんじゃねえよ

 

 

 

続く第2話、第3話でも衝撃的な展開が続き、ぐいぐいと物語に引き込まれる。

 

この作品の魅力は、近年急激に関心が高まっているジェンダー問題を積極的に取り上げ、漫画に落とし込んでいる点にある。ジェンダーレス的存在の仁那を中心としたな高校生の日常生活から、現代における社会上の性差に対する固定観念、無意識、無関心といった問題があぶりだされていく。自身もジェンダー問題への無教養から、これまで知らず知らずのうちに誰かを傷つけてきたのではないかという気持ちにさせられる。

 

……ずしりと重いテーマを扱いながらも、エンターテインメントとしてもかなり楽しめ、なにより、少女漫画らしいピュアなラブストーリーが丁寧に描かれている。仁那の「まっすぐ」で、そして「危険」な恋に、ハラハラ、ドキドキ、キュンキュンせずにはいられない。

 

今最も人にお勧めしたい漫画です! 第2巻の発売が待ち遠しい!!

電車での読書と『螺旋の手術室』と久しぶりに会った大学時代の友達の話

 

先日の土曜日、久しぶりに電車に乗った。目指すは新宿。

 

ちゃんとした社会人になる5年前くらいまでは電車をよく利用していた。ただ、今の職場は交通機関では行きづらい場所にあるので、ほとんど車を利用していて、電車には滅多に乗らなくなった。

 

電車を利用していた時はよく人間観察とかしていた。服装、仕草、会話の内容、読んでいる本などから、その人の生活や人生を想像する。こういう若い時の「自分は社会を外側から見てますよ」感は、今考えると非常に気持ち悪い。僕だって誰かからじっくり観察されていたかもしれない。(人間観察をするA、人間観察をするAを観察するB、人間観察をするAを観察するBを観察するC……)

 

人間観察を上回る電車内での楽しみは、やっぱり読書であった。あのころはどういうわけか電車内がもっとも読書に集中できる場だった。一時期、都心に通ってることがあり、片道一時間ほどかかったので読書がかなりはかどった。

 

先日の土曜日はカバンを持たずに家を出た。コートのポケットにスマホ、財布、家の鍵、文庫本一冊。電車に乗ると、空いていた端の席に座り、揺られながら文庫本を読んだ。

 

 

 

車内で読んだのは、知念実希人の『螺旋の手術室』。

 

螺旋の手術室 (新潮文庫)

螺旋の手術室 (新潮文庫)

 

 

純正会医科大学附属病院の教授選の候補だった冴木真也准教授が、手術中に不可解な死を遂げた。彼と教授の座を争っていた医師もまた、暴漢に襲われ殺害される。二つの死の繋がりとは。大学を探っていた探偵が遺した謎の言葉の意味は。父・真也の死に疑問を感じた裕也は、同じ医師として調査を始めるが……。

 

医療ミステリ好きの先輩が職場にいて、その人に「これを読もう」と勧められたので、借りた。フィクションの世界では病院でよく殺人事件が起きるけど、それは医療と生死がとても近いところにあるからかしらん。

 

実はミステリってジャンル、僕は食わず嫌い。それほど読まない。

 

僕が小説に求めているのは「人間」である。人間が丁寧に描かれてさえいれば、物語の筋に整合性がなくとも、もっと言ってしまえば、筋が支離滅裂でもかまわない。あくまで登場人物が主であり、筋が従である。筋は登場人物の人間性を描く舞台に過ぎず、逆であってはならない。ミステリはどうも読者の予想を裏切る意外な結末のために、筋があまりにもご都合主義的に進み、人間性の深掘りがないがしろにされているように思えてならないのである。

 

……これは偏見です、はい。ちゃんと面白いミステリを読んでないんですよ、僕は。面白いものはやっぱり面白い。

 

ちょっと悔しいけど、『螺旋の手術』の巧みさには舌を巻いた。主人公のまっすぐさや、彼を取り巻く家族の心の機微が非常にリアルに感じられたのである。同時に、一つひとつ手がかりが明らかになりながらも、より謎が深まっていく展開には、非常にドキドキさせられた。とにかく先の展開が知りたくてたまらなくなり、時間も忘れ、ページを繰った。

 

 

 

東京は夜の7時。新宿に来たのは久々である。にぎやかな雰囲気や鮮やかなネオンに何だか気持ちが高揚し、スキップをしたくなった。

 

約束の居酒屋に入ると、入り口の真正面のテーブルに、大学時代の男友達3人(K、S、M)が座っていた。このメンバーで集まるのは3年ぶりくらいである。彼らとは学部学科が同じであった。僕の大学時代に作った数少ない友人で、よく授業の合間にグダグダとしゃべったり喫煙したり、夜に麻雀をしたり、長期休みに旅行をしたりなどを一緒にした。

 

Kは関西でスポーツ新聞の記者をやっていて、Sは横浜で自動車部品の営業をやっていて、Mは六本木に住んでいて、仕事は……忘れた。僕とMだけ妻帯者である。Mはかなりイケメンであり、飲みに行ったりすると、よく近くのテーブルの女の子から声を掛けられていた。

 

そんなMにももう生後五か月の息子がいて、その息子にメロメロらしい。「相対的に言って、嫁さんより遥かに子供を愛してる」などと言い出す。さらに彼は、「嫁さんとは結婚して1年だけど、仲の良い友達のような感覚で、最近女性として見れない」と続ける。いつか妻と別れることになっても、それはそれでかまわないそうだ。

 

Mが大学生のとき、彼の両親は離婚した。離婚した後、彼の両親はそれぞれ新しいパートナーと楽しく過ごしているらしい。「別れても、また新しい楽しみが待ってるしね」と彼。どうやら今から別れることに前向きな様子にすら感じられる。ライトな結婚、ライトな離婚。

 

Kは現在、三人の女の子と付き合っている。器用な男である。誰と結婚を決めようか迷っているらしい。

 

Mが「やっぱり価値観が合う子がいちばんいいんじゃない?」と助言。僕も妻帯者としてそれに乗っかって、「何が好きかっていうことが同じかよりも、何が嫌いかっていうことが同じかってほうが大事かもね」などと適当なことを言ってみる。「そう!おれはそれが言いたかった!」とMは腰を浮かせて言う。だいぶ酔っているようだ。

 

僕はビールを一杯、ウーロンハイを三杯飲んだ。

 

 

 

好きなもの……鶏の手羽先、布団、ごろ寝しながらの読書、朝遅く起きたときに食べる朝食、休日の晴天、プリン、忙しいときに漏れ出るユーモアなど

 

嫌いなもの……寒い朝自己啓発書、バナナの入ったパフェ、感情をコントロールする努力をしない人、他者や環境ばかりに責任を押し付ける人、ほこりだらけの部屋など

 

 

 

友人に2件目も誘われるが、日曜日に仕事があったので、自分だけ先に帰った。

 

帰りの電車の中で『螺旋の手術室』を読んだ。酒が入っているのに、逆に物語に没入できた。しかしながら、電車内での読書は危険で、僕はこれまで何度も同じ間違いを犯してた。

 

最終章に差し掛かったころ、ふと電車の外を眺めて、自分が降りるべき駅を乗り越していることに気づいたのであった。