ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

『風姿花伝』を読んで

 

ここ数日、仕事でのミスが続いている。スケジュール管理での失敗など、初歩的なミスが多い。

 

今の会社に入社して、今年度で3年目である。2年しか仕事をしていないくせして、「自分はもう一人前である」という慢心がどこかにある。

 

さらに、1年目の頃と比べると、仕事に対する情熱や新しいことに挑戦しようとする気概が減じている。仕事は楽しいが、正直言って、惰性で仕事を処理している時間が増えた。

 

仕事は自己実現のためにやっているわけではないと思っているし、仕事に対して「意識低い系」でありたいと思っていた。しかし、このままでは自身の人間性自体がどんどんとよくない方向に進んでいくような予感がし、今更ながら、不安と焦りを感じるようになったのである。

 

職場の僕の机には、1年目の自分が書いた、「初心忘るべからず」という走り書きのメモが貼ってある。

 

 

 

久しぶりに古文が読みたくなり、『風姿花伝』と、その読書案内である『NHK100分de名著ブックス 世阿弥 』を買って、GWに読んだ。

 

風姿花伝 (岩波文庫)

風姿花伝 (岩波文庫)

 
NHK「100分de名著」ブックス 世阿弥 風姿花伝

NHK「100分de名著」ブックス 世阿弥 風姿花伝

 

 

風姿花伝』を残した世阿弥は、室町時代に能を大成した人物であるということは、学生時代、歴史の教科書で学んだ。ただ、「初心忘るべからず」が世阿弥の言葉であるということは知らなかった。

 

風姿花伝』は、世阿弥が父である観阿弥から受け継いだ能の奥義を、子孫に伝えるために書いたものである。この書の中で世阿弥は、若い頃の初心、人生の時々の初心、老後の初心を忘れてはならないと言っている。

 

若い頃の初心とは、具体的には24〜25歳のころを言っている。この頃の能役者に対する戒めの言葉が、今の堕落しかけている僕にとってまさに大事に思えた。

 

  この頃の花こそ初心と申す頃なるを、極めたるやうに主の思ひて、はや申楽にそばみたる倫説をし、至りたる風体をする事、あさましき言葉なり。たとひ、人も褒め、名人などに勝つとも、これは一旦めづらしき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねをも直にし定め、名を得たらん人に事を細かに問ひて、稽古をいや増しにすべし。(『風姿花伝』第一 年来稽古条々)

 

あたかも道を極めたかのように思って、人々に話をし、さもそのように舞台でまったりするのは、なんとあさましく、嘆かわしいことであろう。

   むしろこの時期こそ、改めて自分の未熟さに気づき、周りの先輩や師匠に質問したりして自分を磨き上げていかなければ、「まことの花」にならない。(中略)新しいものへの関心からみんなが褒めたたえてくれている時、その中に安住してはいけないと世阿弥は言っているのです。そこでいろいろと勉強しなおして初めて、その上のステップに行けるというのです。(『NHK100分de名著ブックス 世阿弥 風姿花伝』P48) 

 

自分は「イケてる」と勘違いし、堕落していくのがいちばん怖い。成長した息子にも「かっこ悪い父親」と思われたくない。

 

世阿弥がいうように「初心」を忘れることなく、自身を日々更新する努力をする生き方をしたい。

 

 

 

『NHK100分de名著ブックス 世阿弥 風姿花伝』の筆者である土屋惠一郎は、『風姿花伝』に書かれている「住する所なきを、まづ花と知るべし。」を最も好きな世阿弥の言葉としてあげている。

 

意味はまさに字の通りで、一つの場所に安住しないことが大事である、ということです。(中略)今までやってきてうまくいったのだから、これ以上のことはやる必要はない、同じことをやってればいい、という心こそがだめだと言っているのです。(P114)

 

千葉雅也が『勉強の哲学』で書いていた「勉強とは、これまでの自分の自己破壊である」という言葉と通じるところがある。なんだか『風姿花伝』を読んで、仕事も趣味も現状に満足して惰性でこなすのではなく、一つひとつの取り組みに情熱を傾けつつ、新しいことにどんどん挑戦したいと思えるようになった。

 

へたな自己啓発書を読むより、かなり啓発されました。『風姿花伝』が時代を超えて読み継がれていることに納得です。

 

 

 

まずは新しいことへの挑戦の手始めに、元々勉強したいと思っていた「社会学」の勉強を始めることにした。仕事や趣味の幅を広げることにもつながる気がする。

 

入門書として、『社会学』(有斐閣)を買った。

 

社会学 (New Liberal Arts Selection)

社会学 (New Liberal Arts Selection)

 

 

3500円(+税) ……。専門書とあって、ちと高い。

 

息子が1歳になり、育休中の妻の育児手当が終わってしまった危機感から、妻が「節約宣言」をした。このところ僕は本を立て続けに買っているので、またこんな本を買っていると妻にバレたら叱られるだろう。

 

自己破壊も楽じゃないです。

勉強がしたい……!!!

 

1歳の息子ハルタの投げる力が向上している。

 

ゴムボールを投げるのがすごく上手になった。ハルタは「きゃっ、きゃっ」と声をあげ、満面の笑みを浮かべながら、毎日僕とのキャッチボールに励んでいる。

 

ゴムボール以外にも様々なものを投げるようになった。ゴムボールよりはるかに大きく重いものも投げる。したがって、ハルタの近くではおちおち昼寝もできない。

 

例えば、下のおもちゃをハルタが投げ、事故が起こった。

 

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鼻血出ました。

 

 

 

ハルタはすげー勢いで学んでいる。学ぶことに躊躇がないのである。

 

「投げる」だけでなく、「歩く」も覚え始めた。

 

最近、7歩くらいまで歩けるようになった。歩くことに限界がやってくると、前にずっこける。しかし、ハルタはそのような転倒にも負けず、再び歩行に挑戦するのである。

 

よく怖くないなあ。

 

ハルタよ、勇気を分けてくれ! パパは自分が生きる社会のことを少しだけ知ってしまったがために、新しい一歩を踏み出すことがひどく億劫で、怖い大人になってしまったんだよ!

 

 

 

勉強がしたい……!!!

 

どんな勉強がしたいかというと、何らかしらの専門分野を時間をかけて体系的に学び、知識や思考の型を身につけたい。

 

大学を卒業し、社会人になって6年ほど経つが、今すごく大学に行きたい気持ちである。大学生に戻って、ちゃんと授業に出席して能動的に学びたい。

 

僕は大学生のとき社会学部に所属していたものの、大学生が陥りやすい典型的なアパシー(無気力状態)となり、大学の勉強や授業の出席については留年しない程度の最低限のことだけをやり、あとは図書館で本を読むか、映画館で映画を見る毎日であった。

 

そのため、当たり前であるが、社会学の専門性はひとつも身につかなかった。そして、ゴミみたいな卒論を提出して卒業したのである。

 

もったいないことしたなあ。今では大学時代の奨学金の返済に苦しんでいる。

 

本を読むことや、映画を見ることも勉強じゃないかと思われるかもしれないが、あの頃読んだり見たりした本や映画の内容はほとんど覚えていない。本の読み方や映画の見方を身につけた気もあまりしないのである。

 

 

 

大学時代ほとんど勉強をしなかった後悔から、勉強をちゃんとやり直したいという気持ちがもともとあったが、にわかにその気持ちが盛り上がったのは、『勉強の哲学』を最近読んだからであった。

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

この本には、「勉強とは、これまでの自分の自己破壊である。」と書いてある。勉強とは、「新たな環境のノリに入る」ことらしい。

 

アイロニー」と「ユーモア」という言葉を使い、勉強へ取り組む姿勢のあり方が分かりやすく説明されていて、夢中で読み進めた。

 

勉強の具体的な実践の方策として、勉強用のノートづくりを維持することが推奨されている。

 

勉強用のノートとは、生活の別のタイムラインそのものであり、自分の新たな可能性を考えるための特別な場所なのだ、という意識を持ってほしい。

 

そうか。勉強はインプットだけではなく、インプットしたものをどこかにアウトプットすることも含めなくてはならないのだ。そういえば、大学時代、本を読んだり映画を見たりすることを繰り返していたが、どこにもアウトプットなんてしていなかった。

 

アウトプットの手段として、ブログを書くことは、おそらく良いことだろう。実際、読んだ本や見た映画についてのことをブログに(ゆるく)アウトプットするようになってから、学んだことをあまり忘れなくなり、それぞれの学びを少しずつ関連づけられるようにもなった。

 

 

 

本を読むことに関する勉強については、近頃、本の内容についてのブログを書いたり、読んだりするだけでは少々物足りなくなってきた。対話的な学習によって、読みを深めていきたい。

 

聞いたところによると、大きな都市では、課題本を読み、その本について複数の人で語り合うことで読みを深める「読書会」なるものが存在するそうだ。なんて魅力的な会!

 

僕もいつか「読書会」に足を運んで、読書好きな人と一緒に学びを深めたいという願望があるのです。

 

ジモトの花火大会と古市憲寿氏の話


 

先日、自分が暮らす町の花火大会に行った。この花火大会は、10年ほど前から始まった大会で、実際に大会の会場に行くのは初めてであった。

 

昨年の花火は、自宅マンションの部屋から妻と生まればかりの息子ハルタと見た。遠くの夜空に、小さく花開いていた。

 

今年は近くまで行って見ることにした。打ち上げ花火、遠くから見るか? 近くから見るか?

 

この日は時間もあったし、何より、近頃仕事ばかりで家族と過ごす時間が少なかったので、家族サービスがしたかったのである。

 

 

 

会場に着いたのは、花火大会開始の30分くらい前であった。

 

妻とベビーカーに乗ったハルタに鑑賞場所を確保してもらい、僕は花火を見ながら食べる食べ物の買い出しに行った。花火が始まる前に食べ物を確保しようとする人は多く、並ぶ屋台の前は人でにぎわっていた。

 

一通りの屋台を眺めてみて気づいたが、屋台のレベルが高い。地元のホテルや料理店が出店している屋台が何件かあった。僕はステーキ串、フランクフルト、ゴマ団子などを買い込んだ。

 

小さな町の花火大会なのであまり期待していなかったのだが、花火の演出にもかなり感動した。町はこの大会にかなり力を入れていることが伝わってきた。

 

ありきたりの演出かもしれないが、5部構成くらいに分かれており、そのテーマごとのクラシックやJ-POPに合わせて、花火は打ち上げられた。音楽に合わせた花火の打ち上げのタイミングが絶妙で、音楽と花火の調和を感じたのである。

 

花火大会終了後、主催者側が来年の花火大会実施のための募金を呼びかけていた。普段なら募金などしない心の狭い人間の僕であるが、花火大会全体にかなりの満足感があったため、募金に協力したのであった。

 

 

 

最近、通勤中の車で「文化系トークラジオ Life」を聞いている。

www.tbsradio.jp

 

TBSラジオで偶数月に一度、深夜に放送されていて、社会時評サブカルチャーに興味のある人にはかなりおすすめの番組である(自分も「文化系」なお話が好きな友人にすすめられた)。

 

「Life」のホームページに載っている過去の回を遡って聞いているのであるが、この前聞いた『マイルドヤンキー限界論』(2014年4月7日放送)の回がかなり面白かった。「マイルドヤンキー」とは2014年頃話題になった言葉で、知っている人も多いと思うが、簡単に言うと、「不良ではないが、上昇志向が薄く、地域に密着して仲間との小さな範囲での消費にとどまる人々」のことである。

 

この回を聞いた後の花火大会であったので、大会の人ごみの中、ついマイルドヤンキーに該当しそうな人を探してしまった。……いやあ、たくさんいるなあ(勝手にマイルドヤンキーだと断定してしまい、すみません)。

 

というか、よく考えると、自分もマイルドヤンキーか。実家暮らしではないが、子供のときからずっとこの町で暮らしているし、基本は地元の範囲での消費にとどまっている。「マイルドヤンキー」という概念を提唱した原田曜平のあげるマイルドヤンキーの特徴にも、少なからず当てはまっているのである。

 

 

 

『マイルドヤンキー限界論』での、社会学者の古市憲寿の語りが特に面白かった。

 

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この『マイルドヤンキー限界論』を最後に、「Life」に出演していないのでさびしい。歯に衣着せぬ物言いをするので、テレビ出演で炎上することが多いが、僕は『だから日本はズレている』を読んだときから彼のファンである。

 

だから日本はズレている (新潮新書 566)

だから日本はズレている (新潮新書 566)

 

 

 この前読んだ、『古市君、社会学を学び直しなさい!!』も面白かった。

 

古市くん、社会学を学び直しなさい!! (光文社新書)

古市くん、社会学を学び直しなさい!! (光文社新書)

 

 

古市憲寿橋爪大三郎宮台真司大澤真幸など、日本の社会学のビッグネームと「社会学とは何か?」をテーマに対談している。 「Life」のメインパーソナリティである鈴木謙介(チャーリー)とも対談していて、そこで古市憲寿の「僕がパブリック社会学に何かの貢献ができるとすれば、これからどうしていけばいいと思いますか。」という質問に答えるチャーリーの発言が興味深い。

 

もっと業界と外とのブリッジングを強めることを考えればいいんです。たとえば、プロ社会学からの「社会学をもっと勉強しなさい!」みたいな批判を逃げずに正面から受け止めつつ、そこでの勉強をもとに、アイドルや俳優と対談するような「マージナル・マン(境界人)」としての役割を意識的に引き受けていくということ。

 

「マージナル・マン」としての古市憲寿のこれからの活躍が楽しみです。

 

 

 

さて、1歳になったハルタですが、花火が打ち上げあげられている最中、ずっと花火の光や音に怯えていて、僕や妻の体にしがみついていました。花火大会はまだ少し早かったね。

「タテに伸びる」物語への関心と『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』の話

 

4月は山のように仕事があり、処理に忙しく、なかなかブログ遊びに行き着かない。

 

しかし、ストレスが溜まっているわけでもなく、仕事に熱中することに程よい充実感のある今日この頃である。

 

今はお客さんの「成長」を応援する仕事を主にしていて(アバウトですね)、この前お客さんに「いつもニヤニヤしていて楽しそうですね」と言われた。いや、ニコニコしているつもりなんだけど。

 

 

 

先月のとある日の夜、珍しいところから電話があった。

 

大学生の頃にアルバイトをしていた個人経営の学習塾の塾長からである。この塾は、大学生のアルバイトを雇い、個別指導で中学生に勉強を教える小さな塾で、自分も中学生のとき、ここに塾生として通っていた。

 

塾長はもう70歳くらいになるだろう。高校受験のときに、数学のセンスが圧倒的に欠落している僕に、つきっきりで(しかも無償で)数学をみっちり指導してくれた恩師である。

 

高校を合格して塾をやめたが、大学を合格したとき、恩師である塾長に合格の報告に行き、そのままの流れでこの塾の講師になったのである。

 

5年間勤め、講師をやめてから、塾長とは一度も連絡を取り合っていなかったが、突然の電話である。

 

「Aさんが来てるよ」と塾長。「君に会いたいって」

 

時間もあるし、車で行けばさほどの距離ではないので、懐かしの塾に遊びに行くことにした。

 

 

 

塾は相変わらず狭く、ボロボロで、壁には僕が中学生のときに書いた落書きが残ったままだった。生徒はまだいて、静かに勉強をしている。奥の部屋に塾長とAさんが待っていた。

 

Aさんは、中学校3年間、僕が文系科目を教えていた女の子で、よく笑う元気な子であった。その子が今や21歳になっていた。

 

「勉強なんて教えてくれなかったよね」とAさん。

 

「教えたでしょ、ちゃんと」と僕。

 

「なんかイラストを裏紙に描いて、ニヤニヤしながら『うまいでしょ?』とか言ってそれを見せてきた思い出しかない」

 

「……」

 

Aさんは、この4月から看護師になるそうだ。そういえば、中学生のころから看護師になりたいと言っていた。立派な仕事です。

 

21時半頃となり、生徒はみんな帰ってしまった。驚いたことに大学生講師の女の子2人(BさんとCさん)も、僕が大学生のときの教え子であった。

 

塾長がチーズケーキを出してくれ、生徒のいない小さな塾は、塾出身者のプチ同窓会の会場となった。

 

「給料安いでしょ?」と僕は塾長が近くにいるのにも構わず、BさんとCさんに聞いた。

 

「情で続けてるんです。やめられなくて」とBさんはCさんの顔を見て答えた。

 

その後は、今何をしているのかを互いに報告し合ったり、思い出話に花を咲かせたりした。

 

「いやはや、久しぶりに女子大生と話したわ」と僕は言った。

 

「いやらしい言い方ですね」とCさん。

 

「いやらしい言い方ですね」と僕。

 

彼女たちが大人になったことに大きな驚きがあったと同時に、喜びがあった。

 

そして、3次元はやっぱり2次元とは明確に違うなと妙なことを思った。3次元はなぜこんなにも3次元的なのであろうか?

 

 

 

『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』を読んだ。

 

若い読者のためのサブカルチャー論講義録

若い読者のためのサブカルチャー論講義録

 

 

この本は、評論家の宇野常寛による、ここ40年間ほどのマンガやアニメやゲームといった「オタク的なもの」を取り上げたサブカルチャー論の大学での講義録をまとめたものである。

 

今はそれほどでもないが、僕は中学生のとき、マンガやアニメやゲームが大好きであったので、これを読んでいてワクワクした。自分の世代は、この本の第十六回の講義にある「セカイ系から日常系へ」の世代であると思う(「セカイ系」というと、高校生のとき、授業中に友人が『最終兵器彼女』の最終巻を読んで涙を流していた姿が思い出される)。

 

この回では、『涼宮ハルヒの憂鬱』、『らき☆すた』、『あずまんが大王』、『けいおん!』、映画では『ウォーターボーイズ』や『リンダ リンダ リンダ』を例として挙げ、この頃の物語が「目的のない青春の日常の美しさ」を強調して描かれていたと語られている。

 

これらの作品の気分は、中高生の頃の自分の気分そのまんまであったと思う。これらの作品にハマっていた中高生の頃の僕は目標や目的がなく、だから自分自身の成長にもほとんど関心がなかった。一緒にいて居心地の良い仲間たちとニヤニヤとこのまま過ごしてればいいやと思ってたし、この日常に終わりはやってこないと思っていた。

 

 

5

 

中高生の頃、週刊漫画誌はコンビニで立ち読みをしていて、中でも「週刊少年ジャンプ」の『ONE PIECE』にハマっていた。毎週月曜日の友人との話題は、まず「今週の『ONE PIECE』読んだ?」から始まった。

 

『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』では、ジャンプ黄金時代を支えた『幽☆遊☆白☆書』、『ドラゴンボール』、『SLUM DUNK』をトーナメント方式で物語がどんどん「縦に伸びる物語」として、それらの物語と比較し、『ONE PIECE』をこのように語っている。

 

ONE PIECE』は、主人公ルフィがどんどん強くなっていくというよりも、どちらかというと仲間が増えていくということのほうを主題に据えています。要するに個人が成長することよりも、仲間が増えて絆が深まることによって物語が展開していくことになります。尾田栄一郎はこうやって「横に広げる」ことで『ドラゴンボール』や『SLUM DUNK』が嵌った罠を回避しようとしていて、そのやり方は比較的、成功していると思います。

 

そういえば、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を全巻収集したのも高校生の頃であった。主人公の両津勘吉は、見た目はおっさんだが、中身は悪ガキのままで、200巻を重ねても、ほとんど成長しない。

 

振り返ってみると、この頃の僕は「成長しない」物語ばかりを好んでいて、それは目標や成長を拒否する自分の心理からやってきていたのではないかなと推察される。

 

 

 

しかし、当たり前だが、3次元では成長を拒否することはできない。終わることのないと思っていた少年期、青年期はとうに過ぎてしまった。

 

ただ、別に寂しさがあるわけではない。むしろ、近頃、人が「成長する」ということにかなり喜びを覚える。

 

相変わらず自分の成長には無感動なのだけれど、例えば、大学時代の教え子や、自分の子供の成長を見たりすると、強烈な感動がやってくる。

 

「縦に伸びる物語」も悪くないと思ったり、仕事や家庭で人の成長に貢献しているという感覚に居心地の良さを感じている(これが大人になるということかしらん)。

 

3次元は、カットなどの編集ができず、はたから見ているとその動きは非常に遅く感じる。しかし、未来に向けて確実に変化を続けていて、過去を振り返ってその変化に注目するのは面白い。

 

それなりにフィクションの物語に浸かり、楽しんできたけど、最近、個人的に思っていることは、この「現実」という物語に勝る面白さを持ち合わせた物語は存在しないということなのです。

 

【息子1歳の誕生日】東京ディズニーランドと自撮りしまくる女子たちの話

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朝の首都高は渋滞していた。

 

僕たち家族の目的地は東京ディズニーランドだ。この日は、一人息子のハルタの1歳の誕生日であり、その誕生日をお祝いするためのディズニーなのである。

 

しかし、車は渋滞で遅々として進まない。やっとディズニーランド近くにある高速の出口が見え始めた頃、運転席に座る僕に我慢の限界が近づいてきた。

 

……おしっこがしたい!!

 

出口は目前だが、車は詰まっていて、ノロノロと進んでは止まるというのを繰り返している。妻は僕が尿意に苦しむのをなぜか喜んでいて、「ハルタと同じように、オムツを穿いてくればよかったのに」なぞとくだらないことを言っていた。

 

出口に続く道は、東京都と千葉県の境界にある旧江戸川の上である。川面は春の日差しによって、きらきらと輝いていた。

 

僕は額をハンドルにつけ、「車から降りて、川に放尿してえ」と言った。妻は冗談だと思ってケラケラと笑っていたが、僕は本気でそうしようかと迷った。

 

川への放尿の夢想より約5分、やっと高速から降りることができ、ディズニーランドの敷地の前にあるガソリンスタンドに突入した。

 

妻は「いえ、レギュラー満タンではありません。膀胱が満タンです」とギャグを言っていたが、僕はMM5(マジで漏れる5秒前)であったので無視し、車から降り、スタンドのトイレに駆け込んだのである。

 

 

 

ハルタが誕生日ということで、チケット売り場で、誕生日シールをもらった。そのシールには「ハルタくん」と書かれていて、それをベビーカーに貼って入園すると、早速キャストさんに「ハルタくんお誕生日おめでとう」と言われた。ありがとうございます。

 

僕にとってはかなり久しぶりの東京ディズニーランドである。ものすごい人ごみに驚いた。

 

僕たち家族3人はまず、記念写真を撮影するために、シンデレラ城に向かった。

 

「なんじゃこりゃ」

 

シンデレラ城の前の広場には、双子コーデをした女の子や学校の制服姿の女の子たちが溢れんばかりにいた。学校は春休みなのであろう。彼女たちは、シンデレラ城を背景とした自撮りに熱心に励んでいた。

 

僕はその中の一組の双子コーデの女の子に、「写真を撮ってくれませんか?」と撮影をお願いした。すると、右の子が「いいですよ〜」と快く引き受けてくれた。

 

僕は撮影用に自分のスマホを彼女に手渡した。シンデレラ城を背景に並ぶ僕たち家族。

 

スマホを持った子は不意にしゃがみ、撮影する体勢をとった。なるほど、ローアングルからあおりで撮ることによって、城全体が写る。撮影役ではない左の子は、ハルタに向かって、「こっち向いて〜」と言って、手を振って、ハルタの注意を正面に向けた。

 

こやつら撮影慣れしておる。実際、撮っていただいた写真は上手に撮れていた。

 

双子コーデの女の子たちにお礼を言うと、すかさず制服姿の女の子2人組が寄ってきて、妻に「私たちを撮ってくれませんか」とお願いした。

 

女の子たちは写真の構図にかなりこだわりがあるらしく、妻に「この位置で、この角度から撮ってください」と細かく注文していた。

 

 

 

1歳の赤ちゃんが乗れるアトラクションは限られている。僕たちはファンタジーランドにある「アリスのティーパーティー」に並んだ。

 

僕たちの前にいた制服を着た女の子4人組は、列に並んでいる間中、ポーズを変え変え、ずーっと自撮りを繰り返していた。

 

どんだけ自分たちを写真で記録することが好きなんだよ。もっと並んでいる間のたわいもない会話を楽しみなさい。と僕はハルタをビデオカメラで撮影しつつ思った。

 

そうか。彼女たちにとって遊園地に来ることは、レジャーの目的の一部に過ぎない。

 

彼女たちのレジャーは、その場所で撮ったリア充感のある写真をSNSにアップし、仲間と共有したり、他者に「いいね」をもらってプチ承認を得たりすることで、完成するのである。

 

僕は今年で29歳になる。そういえば最近Facebookなどの実名性の高いSNSを覗くと、何年か前より、自分が写る写真や旅行先の風景の写真などをあげる同年代の友達がめっきり減ってしまった。

 

アップした写真について他者からネガティヴな思いを持たれることについて恐れているのであろうか。それもあるかもしれないが、それだけではないだろう。

 

彼らは大人になった。仕事に熱中したり、社会的な関係をどんどん構築していたりする人も多い。子どもが生まれ、「愛」という相互承認を得ている人もいる。そもそも毎日が忙しく、SNSで遊んでいる暇もない人もいるだろう。

 

彼らは現実で充足している。つまり、SNSを必要としない「本物のリア充」になってしまったのである。

 

 

 

僕も大人になったので、「いいね」による承認など求めていません。

 

 

有り体に申しますと、ブックマークによる承認が欲しいのです。よろしくお願いします。

息子が立った話と『新・日本の階級社会』と『故郷』の話

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近頃、鼻の左穴から鼻血が出やすい。数日前にハナクソを深追いしたことが原因だと考えられる。

 

それはさておき、もうすぐ一歳になる息子のハルタが立った。

 

1ヶ月ほど前から、何にも掴まらず立っている姿をちょくちょく見かけていたのであるが、最初の頃は10秒も経たずに倒れてしまった。現在では30秒ほど持続できるようになったので、「立っている」と表現して間違いではないだろう。

 

つたい歩きをしているハルタに、「たっち!」と声をかけると、「おお〜」とか言いながら掴まっていたものから手を離し、直立するのである。

 

「立つ」という行為がこれほど感動的であるだなんて! ハルタが直立して倒れるまでの間には、全米が泣くほどのドラマ性があった。

 

さらに、近頃ハルタは歩行にも挑戦している。しかし、まだ一歩目を踏み出すと倒れ込んでしまう。

 

がんばれ。これが二歩、三歩と歩けるようになったら、彼を泣きながら抱きしめてしまうかもしれないと、僕はハナクソをほじりながら思った。

 

 

 

講談社現代新書の新刊『新・日本の階級社会』を読んだ。

  

新・日本の階級社会 (講談社現代新書)

新・日本の階級社会 (講談社現代新書)

 

 

現代の日本社会が「階級社会」に変貌してしまった現実を、様々な社会調査データを基にして暴いていくといった内容である。

 

階級格差は加速しており、特に非正規労働者から成る階級以下の階級(アンダークラス)の貧困が甚だしい。しかも、階級は世襲として固定化しやすく、親の階級以上の階級に転じることは難しくなっている(逆に「階級転落」の可能性は高い)。

 

僕は大学卒業後、4年間の非正規労働者を経て、正規になったけれども、雇用形態による待遇の違いの大きさを実感した。正規でない頃は、「まだ若いからなんとかなるべ」という楽観と、金銭面などでの余裕のなさからやってくる「なんとかならないかも」という不安な気持ちが交互にやってきていた思い出がある。

 

この本では、格差拡大が社会全体にもたらす弊害が具体的に述べられて、読後、現代社会に対する危機感をちょっぴり持ったのでした。

 

 

 

なんらかの社会貢献を無理のない範囲でしてみたいという気持ちがにわかにわいてきた。

 

ほんの少し前まで社会に貢献したいなんて気持ちは一切なかったのであるが、子どもが生まれたことで社会に対する思いが少し変わった。『新・日本の階級社会』に書かれていることなどの様々な社会問題によって、子どもたち世代を苦しませたくない。

 

格差社会」や「次世代での社会の変革への願い」といった言葉で、最初に僕が思い浮かべるお話は、近代中国の文豪である魯迅の『故郷』である。

 

故郷

故郷

 

 

魯迅(1881〜1936)は、清が辛亥革命を経て中華民国に変わった激動の時代に生きた文豪で、無政府状態により民が苦しむ国の状況に失望し、文学によって中国人の精神改造を図ろうとした。

 

『故郷』 は、魯迅自身をモデルとした「私」が、20年ぶりに帰郷するところから始まる。「私」は、貧困に苦しむ故郷の人々の暗く絶望的な現実に打ちのめされる。「私」の家の雇い人の息子で、少年時代の親友である「閏土(ルントー)」も、子どものときの快活さとは打って変わり、暗い影を落とす大人へと変貌していた。

 

子だくさん、凶作、重い税金、兵隊、匪賊、役人、地主、みんなよってたかってかれをいじめて、デクノボーみたいな人間にしてしまったのだ。

 

大人になった「閏土」と対面して胸がいっぱいになっている「私」に対し、「閏土」は開口一番、「旦那さま!」とうやうやしい態度で言う。「私」は「閏土」との間に「悲しむべき厚い壁」が隔てられてしまったことを感じ、絶望する。

 

「閏土」の息子と彼を慕う自分のおいのことを「私」が思い、彼らには「新しい生活」をしてもらいたいと願う最後の語りが印象に残る。

 

思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

 

「道」とは希望のことだ。つまり、社会を変えるには、人々の希望を結集し、行動に移さなくてはならないということだろう。

 

 

 

息子よ、時間がかかってもいい、何度倒れても立ち上がるのだ。そして、自分の人生を自分のものとしてたくましく生きてもらいたいと、僕はハナクソをほじりながら願うのでした。

【ブログ開設6ヶ月】『暇と退屈の倫理学』とトイザらスの衰退とアイロンビーズへの没入の話

 

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

 

    おろかなる人間は、退屈にたえられないから気晴らしをもとめているにすぎないというのに、自分が追いもとめるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる、とパスカルは言うのである。(『暇と退屈の倫理学』p35)

 

 

 

ここ最近取り掛かっていた大きな仕事がようやく片付き、すかさず、1日有休を取得した。

 

休日の朝、妻は「トイザらスに連れて行って」と言った。アラサーとなった今でも、僕らはトイザらスキッズであった。

 

トイザらスに向かう車では、桑田佳祐のCDなぞ流し、休日感を演出。僕は運転しながら、「波乗りジョニー」を熱唱した。妻は笑いながら、「まじでうるせえな」と言った。

 

トイザらスにやってくると、いつでも子供心を思い出し、ワクワク感が止まらない。棚の隅から隅へと積まれるおもちゃ。いつまで見ていても飽きない。

 

そういえば、アメリカのトイザラスが経営破綻して、アメリカの全店舗が閉店もしくは売却する方針であるというニュースを聞いた。経営破綻の原因のひとつは、玩具のネット通販の台頭だそうな。日本トイザらスは、「通常通り営業を継続する」と言っているが、アメリカと同じようなことが、いつか日本でも起こりかねない。

 

ネット通販も便利だけど、玩具店でのワクワク感が失われてしまうのは寂しい。

 

 

 

退屈とは何か? ラッセルの答えはこうだ。退屈とは、事件が起こることをのぞむ気持ちがくじかれたものである。

(中略)

ここに言われる「事件」とは、今日を昨日から区別してくれるもののことである。(『暇と退屈の倫理学』p53) 

 

 

 

トイザらスでは、カワダの「nanobeads」というアイロンビーズを購入した。

 

ナノビーズ 101 ピカチュウ/モンスターボール 80-63006

ナノビーズ 101 ピカチュウ/モンスターボール 80-63006

 

 

こんにちは。ナノビーズです。ナノビーズはパーラービーズが小さくなった、ミニサイズのアイロンビーズです。絵を描くように表現できる、オトナが楽しめるビーズアート。自分だけの“かわいい”を作ってください。

 

いくつかセットを購入し、帰宅後さっそく妻と作成に取り掛かった。

 

f:id:gorone89:20180318114624j:plain 図案の上にプラスチックの土台を置き、その上にピンセットでビーズを敷き詰めていく。

 

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 全部置けた!ふー。

 

f:id:gorone89:20180318144013j:plain 敷き詰めたビーズの上から、アイロンを押し当てるとピカチュウの完成である。

 

細かい作業が得意な妻も次々と以下のような作品を作成。

 

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 『スーパーマリオブラザーズ3』のしっぽマリオ

 

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 『星のカービィ2』のクー&カービィ。(ネットに載っていた図案を参考に作成)

 

 

 

労働が消費されるようになると、今度は労働外の時間、つまり余暇も消費の対象となる。自分が余暇においてまっとうな意味や観念を消費していることを示さなければならないのである。「自分は生産的労働に拘束されてなんかないぞ」。「余暇を自由にできるのだぞ」。そういった証拠を提示することをだれもが催促されている。

   だから余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ。(『暇と退屈の倫理学』p152)

 

 

 

アイロンビーズで初めて遊んだが、かなり楽しい。シンプルな作業ゆえか、没入できる。

 

一つひとつのビーズを置くたびに、散らかった心の中が整理されていく心持ちになった。 

 

そうだ……!僕は休日に「没入」を求めていたのだ!! 

 

さらに没入感を高めるため、アイロンビーズの作成中、stillichimiyaをBGMとして流した。

 

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   気晴らしをしているとき、私たちは何かやるべきことを探している。やるべき仕事を探している。街道を歩く。木々の数を数える。座り込んで地面に絵を描く。何かやるべきことを探し、その仕事に従事しようとする。

   やるべき仕事といっても、その際、その仕事と内容はどうでもいい。どんな仕事につくかは問題ではない。ここで関心の的になっているのは、やるべき何かをもつことであって、どんなことをやるべきかでない。(『暇と退屈の倫理学』p209)

 

 

 

悲しき哉、休日を上手に休むことができない。ぽっかり空いた暇を、どのような手段で埋めようかということばかりを考えてしまう。

 

自分の中から「退屈だなあ」という声が聞こえるのが怖い。退屈を抑え込み、没入できる「気晴らし」をいつでも求めている。

 

ブログを始めて、もうすぐ6ヶ月。何のためにブログを続けているのかと考え、いろいろと理由が思い浮かんだが、最終的には「退屈しのぎのため」というたった一つの理由に行き着くのでした。