食欲と反省を強烈に掻き立てる小説、『BUTTER』の話
1
夏の初めは暑さで食欲が減退していたのだが、最近食欲が復活し、明らかに食べ過ぎている。
先日、健康診断に行ったとき、体重計に乗ったところで「太りましたね」と看護師さんに半笑いされた。しかしながら、そんな半笑いを意にも介さず、健康診断を終えたその足で「いきなり!ステーキ」に突撃し、300gのステーキをほおばったのである。
食欲が旺盛になった原因は、間違いなく、柚木麻子の小説『BUTTER』を読んだためである。
結婚詐欺の末、男性3人を殺害したとされる容疑者・梶井真奈子。世間を騒がせたのは、彼女の決して若くも美しくもない容姿と、女性としての自信に満ち溢れた言動だった。週刊誌で働く30代の女性記者・里佳は、親友の伶子からのアドバイスでカジマナとの面会を取り付ける。だが、取材を重ねるうち、欲望と快楽に忠実な彼女の言動に、翻弄されるようになっていく―。読み進むほどに濃厚な、圧倒的長編小説。
小説に登場する美味しそうな料理と、それを登場人物たちがあまりに美味しそうに食べる描写に、僕の食欲は覚醒させられた。
2
容疑者・梶井真奈子は、2007年から2009年にかけて発生した首都圏連続不審死事件の犯人である木嶋佳苗をモデルにしている。自分の欲望に忠実な梶井が、序盤でバター醤油ご飯について語る場面があるのだが、僕はこの描写によって、この小説に一気に引き込まれた。
「バターは冷蔵庫から出したて、冷たいままよ。本当に美味しいバターは、冷たいまま硬いまま、その歯ごたえや香りを味わうべきなの。ご飯の熱ですぐに溶けるから、絶対に溶ける前に口に運ぶのよ。冷たいバターと温かいご飯。まずはその違いを楽しむ。そして、あなたの口の中で、その二つが溶けて、混じり合い、それは黄金色の泉になるわ。ええ、見なくても黄金だとわかる、そんな味なのよ。バターの絡まったお米の一粒一粒がはっきりその存在を主張して、まるで炒めたような香ばしさがふっと喉から鼻に抜ける。濃いミルクの甘さが舌にからみついていく……」
僕はこれを読んだとき、お腹が鳴った。小説にある高級バターはすぐには手に入らない。
すぐにコンビニに北海道バターを買い行った。帰宅すると、チンした冷凍ご飯の上にバターを乗せ、醤油を垂らし、がつがつと口に運んだ。う、うまい……!
このとき以降、食べたい時に食べたいものを食べたいだけ食べるという梶井の思想が乗り移ってしまい、体重を気にせず食べるようになってしまったのである。
3
たとえば、僕ではなく、妻が好きなものを好きなだけ食べて太ったら、僕はいったいどのような反応を妻に対してするであろうか。僕は妻を怠惰であると非難するだろうか。
『BUTTER』の主人公である女性記者・里佳は、梶井という人物をとらえるため、梶井の勧める料理を積極的に取り入れ、太っていく。太るといっても、もともとの痩身体型が標準体型になっただけなのだが、周囲の人たちは彼女を非難するのである。
この小説は、この社会での女性の生きづらさと、どうすれば女性が不自由さから解放され、真の自由さを得られるのかということをテーマのひとつにしている。そして、「女性は○○であるべき」という男性側のものさしで女性の価値を決めるこの男性社会と、そのものさしを過剰に意識して不自由に生きる女性を批判しているように思えた。
男性の自分としては、この小説を読んで強烈に反省の気持ちが沸き起こったのである。
4
自由に生きる女性の代表のように思われる梶井が、実は男側のものさしでしか女性の価値を決められない不自由な女性であったところが面白い。梶井の下の発言には、かなりのインパクトがある。
「仕事だの自立だのにあくせくするから、満たされないし、男の人を凌駕してしまって、恋愛が遠のくの。男も女も、異性なしでは幸せになれないことをよくよく自覚するべきよ。バターをけちれば料理がまずくなるのと同じように、女らしさやサービス精神をけちれば異性との関係は貧しいものになるって、ねえどうしてわからないの。私の事件がこうも注目されるのは、自分の人生をまっとうしていない女性が増えているせいよ! みんな自分だけが損をしていると思っているから、私の奔放で何にもとらわれない言動が気にさわって仕方がないのよ!」
里佳がこの梶井との接触を通して、どのようにして女性としての自由を獲得していくのかというのがこの小説の読みどころである。面白いので、ぜひ読んでみてください。
5
このごろ、妻が第二子の妊娠によるつわりのため、平日の仕事以外の時間と休日は、家事と育児のほとんどを自分が引き受けている。いやあ、これは大変な仕事である。
僕が仕事に行っている間は、妻が不調であるにも関わらずこれをすべてこなしてくれていると思うと、彼女には頭が上がらない。今朝は妻が「久しぶりに私が作る」と言って、食パンと卵とウインナーを焼いてくれた。
僕は正直、どこかで「家事と育児は女性がやるもの」という前時代の意識があったことを認めざるを得ない。本当に申し訳ない。連日、女性差別に関する報道が流れているが、こういう「女性は○○であるべき」という男性の意識が女性を苦しめているのである。
この男性社会を変えるには、まずは自分自身の意識を変えていかなくてはならないと、僕は食パンに大量にバターを塗りながら決意した。運動します。
息子への料理と金髪の友人の話
1○
妻が第二子を妊娠した。
つわりの妻に代わって、1歳の息子・ハルタの離乳食づくりを請け負うこととなり、家にあった『離乳食新百科』を開いた。
最新月齢ごとに「見てわかる!」離乳食新百科―5カ月~1才6カ月ごろまでこれ1冊でOK! (ベネッセ・ムック たまひよブックス たまひよ新百科シリーズ)
- 作者: ベネッセコーポレーション
- 出版社/メーカー: ベネッセコーポレーション
- 発売日: 2014/09/11
- メディア: ムック
- この商品を含むブログを見る
先日の休日、食材をメモし、ハルタを抱いて徒歩でスーパーへと向かった。
とにかく暑い。ハルタの鼻の下には、玉の汗が浮かんだ。
スーパーへ向かう道の途中にある公園のそばを通ると、公園で女子中学生たちが水風船をはしゃぎながら投げ合っている様子が見えた。夏らしい、涼やかな心持になる風景である。
そういえば、自分も中学生の頃は、放課後によくクラスの仲間と公園で水風船を投げ合っていた。
僕たちの場合、見た目も清潔感はないし、ぎゃあぎゃあと騒ぐし、涼を感じさせる爽やかさは持ち合わせていなかったように思える。公園の近所の人たちも、さぞ迷惑したことだろう。
2●
金髪の転校生・Kがやってきたのは、中学3年生の4月のことであった。
Kは金髪な上に恰幅もよいので、僕たちは当初彼に恐怖を感じた。しかも、聞くところによると、彼が前にいた中学校は隣町にある、不良が大勢いることで有名な中学校であり、なお彼を恐れた。
ところが、彼と付き合ってみると、案外いいやつであった。口数は少なく、穏やかで優しい。すぐに僕たちと打ち解け、彼は僕らの遊び仲間に加わった。
僕らの放課後の遊びのひとつにゲーセン遊びがあり、Kもよく付き合ってくれた。Kはゲームが上手で、特に『頭文字D』のレースゲームはベテランであった。そのゲームの記録には、Kの名前が並んでいた。
彼がどんな人間であったかについて、もっと具体的なエピソードを記述したいところであるが……、僕はこのごろ、彼の外見と、それとギャップのある「穏やかで優しい」という抽象的な内面の印象以外のことをなかなか思い出すことができないのである。もっと覚えていたはずなんだけど。
3○
ハンバーグを作る予定であった。
ちゃんと『離乳食新百科』にしたがって、豚のひき肉、玉ねぎ、絹豆腐をスーパーで購入した。
帰りは徒歩ではなく、路線バスで帰ることにした。自宅近くのバス停まで、バスで行けば5分足らずなのであるが、歩くにはあまりにも暑い。
さらに、ハルタは地元の路線バスが大好きである。バスを見つけると、「バッ、バッ!」と言って、興奮してバスを指差す。
バスに乗っている間中、ずっとハルタはゴキゲンであった。
4●
Kが死んだのは、高校2年生の夏である。
朝、母が「この子、あんたの友達じゃない?」と言って、新聞の地域欄を見せてきた。交通事故の記事である。
そこにはKの名前があった。Kと僕は進路が別であり、中学卒業後はほとんど連絡を取り合っていなかった。
Kは新聞に名前が載る前日、原付に乗って、赤信号に構わず交差点に進入し、そのまま路線バスの下敷きになった。即死だったそうである。
僕は中学3年生のときに学級委員だったので、かつての仲間に一人一人連絡をし、一緒にKの通夜に行った。通夜の帰り道、「バカなやつだよな」と仲間の誰かがぽつりと言った(もしかしたら、僕が言ったのかもしれない)。
その時僕は、悲しいというより、不思議な気持ちだった。学校生活を共にし、放課後も一緒にいた遊び仲間が突然この世からいなくなってしまった。同じ時間を生きていたはずなのに、彼の時間だけ止まってしまった。
亡くなった彼も思っていたことだろう。赤信号を通過した先も、ずっとなんとなく自分の人生が続いていくだろうということを。
今でも中学の仲間とはたまに集まり、酒を飲む。彼らは大人になり、毎日を生きるのに必死なようで、その表情からは疲れがうかがえる。
思い出話の中にKは登場するにはするが、皆、段々と彼に関する記憶が曖昧になっている。
5○
ハルタが僕が作ったハンバーグを喜んで食べていて、ほっとした。はりきって作っても、嫌がって全く料理を口にしないこともある。
美味しそうに食べる様子を見て、自分も嬉しい気分になり、またこれからも頑張って料理しようという心持ちになった。
ハンバーグを口にしたハルタは笑顔になり、首を傾けた。こういう今しかない幸せな瞬間をいつまでも覚えていたい。これまで、忘れてはいけない大事なことを様々忘れてきてしまった気がする。
この子も、新しく生まれてくる命も、たくさん食べ、かけがえのない思い出を重ねながら、ただただ健やかに生きてもらいたいです。
食事の苦痛と息子の銘菓と芥川龍之介の『芋粥』の話
1
そういえば、子供の頃、食事の時間が苦痛であった。
食べ物の好き嫌いも多く、何より決まった時間に3食を胃に詰め込めなければならないとうのが嫌だった。(日に3食、それなりに健康的な食事を摂れることのありがたみをまだ知らない子どもであったので許してください)
食事の苦痛というと、太宰治の小説『人間失格』の冒頭を思い出す。主人公の大庭葉蔵は、
最も苦痛な時刻は、実に自分の家の食事でした。
と始め、幼少期の食事の苦痛を長々と語っている。
葉蔵ほどの苦痛を感じていたわけではないものの、僕も幼少期の食事の時間に葉蔵と似た感覚があった。好き嫌いもほとんどなく、食べ物で手遊びもせず、ぱくぱくと美味しそうにご飯を食べる1歳の息子を見て、そんな子どもの頃の憂鬱を思い出したのである。
2
息子・ハルタはたくさんご飯を食べるので、自然、う○ちの量、回数が多い。夏になり、オムツのゴミの匂いがきつくなっている。
先日の仕事中、妻から「さっき出た銘菓は無臭だった!」というLINEがあった。
「銘菓」というのは、僕と妻の間での、ハルタのうん○の隠語である。なぜ、○んちを「銘菓」と呼ぶようになったのかというと、ハルタのそれの形が、なんとなく地方の高級なお菓子のお土産を連想させるからである。
さて、妻はハルタの「銘菓」が無臭だった原因について調べたそうだ。そして、無臭になったのは、最近食べさせているヨーグルトの効果であったことが判明した。
無臭の「銘菓」ができあがるのは、腸内善玉の乳酸菌がたくさんあることで、食べ物が綺麗に分解されている証拠であるらしい。すごいぞ、ヨーグルト。
3
自宅で書斎として使っている部屋の窓を開け、扇風機をつけ、本棚から芥川龍之介の文庫を引っ張りだした。たらたらと汗を流しながら、『芋粥』を読んだ。
時代は平安時代の元慶か仁和年間の頃。主人公の五位は摂政・藤原基経の役所に勤務する、風采のあがらない40歳過ぎの小役人である。彼は才覚もなければ見た目も貧相で、日ごろ同僚からも馬鹿にされ、道で遊ぶ子供に罵られても笑ってごまかす、情けない日常を送っている。しかし、そんな彼にもある夢があった。それは芋粥を、いつか飽きるほど食べたいというものだった。
ある集まりの際にふとつぶやいた、その望みを耳にした藤原利仁が、「ならば私が、あきるほどご馳走しましょう。北陸の私の領地にお出でなされ」と申し出る。五位は戸惑いながらその申し出に応じ、彼に連れられて領地の敦賀に出向く。しかし、利仁の館で用意された、大鍋に一杯(匙で一杯ではなく大鍋一杯)の大量の芋粥を実際に目にして、五位はなぜか「食べ飽きた」として食欲が失せてしまうのであった。(wikipediaより引用)
この小説の最大の面白さは、なぜ五位は、夢であった大量の芋粥を目前にして、食欲を失ってしまったのかを考えることである。
やはり五位は、自分の心の支えとなっていたささやかな夢が簡単に成就してしまったことに虚無感を覚えたのではないだろうか。
どうもこう容易に「芋粥に飽かむ」事が、事実となって現れては、折角今まで、何年となく、辛抱して待っていたのが、如何にも骨折のように、見えてしまう。出来る事なら、何か突然故障が起って一旦、芋粥が飲めなくなってから、又、その故障がなくなって、今度は、やっとこれにありつけると云うような、そんな手続きに、万事を運ばせたい。
夢はそれを追う過程に意味があるのであり、自分にとって本当に大事な夢であれば、その夢への障害が大きければ大きいほど、その夢に夢中になる。その夢が何の苦労もなく、思いがけず叶ってしまったとしたら……。
五位は小説の最後で、大量の芋粥を目前にする以前の自分をなつかしく振り返っている。
それは、多くの侍たちに愚弄されている彼である。京童にさえ「なんじゃ、この鼻赤めが」と、罵しられている彼である。色のさめた水干に、指貫をつけて、飼い主のない尨犬のように、朱雀大路をうろついて歩く、憐れむ可き、孤独な彼である。しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云う欲望を、唯一人大事に守っていた、幸福な彼である。
五位は「芋粥に飽かむ」という夢があったからこそ、それが心の支えとなって、惨めな生活にも耐えられたのである。夢であった大量の芋粥を目前にした彼をはたから見た他者は「幸福」であるように思うだろうが、この瞬間、彼は大切にしてきた夢を突然、ほとんど暴力的に奪われ、「不幸な」人間へと転落してしまったのである。
4
僕が子供のころに飽きるほど食べたいと思っていたのは、フルーツゼリーであった。
嫌いな食べ物はたくさんあったが、やっぱりこういうデザートが子供なので大好きだった。食後デザートとして、よくフルーツゼリーがうちの食卓では出されたが、いつもなんでこんなちっぽけな量しか食べさせてもらえないのだろうと思っていた。
フルーツゼリーをお腹いっぱい食べたい。……その夢は案外すぐに叶った。
食べ放題のお店に家族で行ったのである。僕は『芋粥』の五位のように食欲が失せることなどなく、お腹がはち切れるんじゃないかと思えるほどフルーツゼリーを食べたのであった。
さて、今年の夏は異様に暑く感じ、食欲が減退し、ゼリーばかり食べています。うっ……、お腹が痛くなってきたぞ。
『NARUTO』の話ー諦めの悪い忍者、うずまきナルトについて
1
漫画『NARUTO』を全巻読んだ。
中高生の頃に熱心に読んでいたのだが、大人になるにつれ、次第に読まなくなり、コミックを集めるのも40巻あたりでやめてしまった。しかし最近、妻の本棚に全72巻が揃っているのを見つけ、「最後まで読んでみるか」と思い立ち、平日は1冊、休日は2冊のペースで1巻から読み進め、約2ヶ月で読み終えた。
うーむ……、この漫画は……、面白い!!
2
中高生の頃、『NARUTO』は好きな漫画の一つであったが、「最高!」と言えるほどの作品だったかというと、それほどでもなかった。とにかくこの漫画は設定の無理矢理感が大きく、「『NARUTO』のツッコミどころ」というテーマで漫画好きの友人と語らえば、2時間は軽く超えてしまうだろう。
個人的には、主人公である、うずまきナルトに魅力を感じられなかった。「少年週間ジャンプ」のライバルであった『ONE PIECE』の主人公であるルフィに比べると、ナルトはかなり繊細で弱い主人公のように感じたのである。
ルフィは最初から今まで超ポジティブ人間で、他の登場人物から好かれやすい。対して、ナルトはすぐに落ち込んだり傷ついたりするし、自身の負の感情にしばしば飲み込まれ、周囲の人間から見下された目で見られることがある。
ナルトにもポジティブな部分はある(むしろ、読み返してみてわかったが、ポジティブ傾向の方が強い)。しかし、ネガティブ体質であった中高生の頃の僕は、自分とは真逆なスーパーポジティブな強い主人公に憧れがあった。だから、少しでもネガティブな匂いのする少年漫画の主人公が好きになれなかったのである。
3
ところが、大人になりじっくりと読み返してみると、自分の中で新たな感情が湧いていることに気づいた。……ナルトって、いい奴じゃん!!
通して読むと、この物語は、負の感情にまみれ、周囲の人間との関わりによる温かさを知らなかったナルト少年が、関わった全ての人間を前向きにさせるスーパーポジティブ忍者に成長する話だということが分かる。
ナルトは他者とのつながりに元々飢えていたからか、一度できたつながりにしつこいほど執着する。最大の友であるサスケに何度も関係を断ち切られそうになっても、ナルトはその関係を必死に繋ぎとめようとする。
ナルトの最大の武器は、この諦めの悪さである。
まっすぐ自分の言葉は曲げねぇ。それが俺の忍道だ
俺があきらめるのをあきらめろ!
ナルトのような人間が今の現実社会にいたとしたら、かなり「ウザい」存在だろう。しかし、同時に貴重な存在でもある。
SNSなどの発達によって、価値観の近い他者とつながることが容易になったが、反面、いつでも代替可能な関係であるように思えてしまい、一度できたつながりを断ち切る(ブロックする)ことも容易になってしまったと感じる。
他者との衝突が起きる予感がすれば、その時点でつながりを断ち切る行動をしてしまうという経験が僕にもある。しかし、それは、衝突してでも相手と腹を割って話し合うことで起きる、さらなる関係の深化の可能性を手放してしまっているとも言える。
ナルトはサスケにどんな仕打ちを受けようとも、過去の友情の思い出を原動力に、決して諦めず、衝突を繰り返し、遂にはサスケの心を再び開かせ、信頼に基づいた強い人間関係を得ることとなる。
他者とつながることが容易になったにも関わらず、浅い人間関係しか作れずに孤独を感じる現代人が、ナルトの人間関係に対する姿勢から学べることはとても多いように思える。
4
ナルトが成長するにつれ、自身の強みを最大限に発揮できるようになったことには様々な要因があると思うが、最も大きな要因は、「大人による承認」であろう。
ナルトの最初の師であるイルカ先生は、次第に存在感が薄くなっていくが、この人の果たした功績は大きい。周囲からバカにされ、他者を憎み、存在を認めてもらうためにイタズラを繰り返す少年期のナルトの良さを見つけ、認め、彼を応援する。
ナルトが自分に自信を持つきっかけを作ったのは、このイルカ先生である。これ以後も、ナルトはナルトの良さを認め、伸ばしてくれる良き師に巡り合うことで、自己肯定感を高め、さらには敵をも承認するような寛容な心を持つまでに成長し、忍者の里の長である火影となる。
僕はある程度のネガティヴさは生きる上で必要だと考えているが、あまりの自尊感情の低さは子供の健全な成長を妨げるし、他者の良さを認められない大人に育つ危険性もある。
ナルトが自身を認めてくれる師に出会うことなく、短所ばかりを非難してくる大人や、彼の存在を認めようとしない大人ばかりに出会っていたとしたら……。
『NARUTO』を読んで、子供のよりよい成長に対して、いかに大人の責任が大きいかということについて考えてしまったのである。
5
『NARUTO』はアニメもクオリティが高く、面白い。アニメで使われているOP曲やED曲も名曲が多いです。
アニメに使われた曲の中で個人的に最も思い入れが強いのは、「サスケ奪還編」のときに使われていたOP曲である、サンボマスターの『青春狂騒曲』です。
『ハン・ソロ/スターウォーズストーリー』の話ー激しい眠気の中で
1
先日購入した『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』にどハマりし、子供を寝かしつけると、広大なハイラルに旅立つ毎日である。目の下のクマは濃くなり、現実と空想の世界の違いが曖昧になり、ブログを書く意欲もぱたりと失った。眠い。
『ゼルダ』をプレー中のとある深夜、知人からのLINE。
「『ハン・ソロ』見ましたか?」
……そうだ! 「スターウォーズ」のスピンオフ作品『ハン・ソロ』がすでに公開しているじゃないか! 自分としたことが!
僕はゲームの電源を切り、布団に勢いよく潜り込んだ。ハイラルの旅は終わった! 明日は宇宙の旅だ!
翌日、猛烈なスピードで仕事を片付け、映画館に踏み込み、ポップコーンとペプシコーラとブランケットを装備してスクリーンへ。客は自分を含め、3人! 少なっ!
2(ここからネタバレします。)
エピソード4に似ていると思った。
似ている点は、連続するアクション、単純明快なストーリーなどである。若きソロと若きルークも類似している。
主人公たちに次々とピンチが訪れるジェットコースター感が良かった。手に汗握る場面が何度もあった。ケッセル・ランを12パーセクで飛ぶときのドキドキ感といったら!
あとは、シリーズを重ねるごとに増していく、何が善か悪かを考える小難しさがなく、眠気で頭にもやがかかっている自分にとってはぴったりの映画であった。
若き日のハン・ソロは、孤独であり、自分の故郷を抜け出し、いつか宇宙を自由に飛び回りたいと願っている。ソロは、世界をどうしたいかではなく、自分がどうありたいかということを常に考え、もがき、戦う。それは、エピソード4のときの若きルークの姿に重なる。(ルークの方がお坊ちゃん感が強いけど)
ソロやソロと手を組む仲間たちが、宇宙の平和とかそういう大義のためではなく、あくまでも自己中心的な目的や夢のために最後まで戦い続ける姿が、見ていてすごく気持ち良かったのである。
3
ソロの仲間たちも皆魅力的である。ウーキー族のチューバッカ、ソロの幼馴染で謎多き美女キーラ、強盗グループのリーダーのベケット、ギャンブラーで運び屋のランド、女性型ドロイドのL3ー37など、クセが強いキャラばかり。
ソロとチューバッカの関係以外は信頼関係で結ばれていくわけではなく、仕事のために手を組んでいるだけである。ベケットとソロは言わば師弟関係であるが、ソロはベケットのことを尊敬こそしているものの、信頼はしていない。オビワンとルークのような温かい師弟関係とは違った、ドライさのある師弟関係が『ハン・ソロ』らしさを醸し出しており、そこもこの映画を評価したいポイントである。
キーラはとても怪しさのある女性で、観客はこいつは絶対裏切るだろうと確信している。生き残るための勘が鋭いソロであれば、ベケットに忠告されなくとも、このキークの危うさに気づいているはずであろう。
しかしソロのすごさは、危うさを感じたとしても、自分の惚れた女性には猛烈にアタックし、死んでも守ろうとするところだ。この清々しい女たらしぶりが、ソロの最大のかっこよさである。
ソロの息子であるベンは、明らかにその女たらしの血を引いている。師であるルークや、父であるソロの言葉に耳を傾けなかったベンが、レイの言葉に心動かされたのは、レイが「女性」であったからであると僕は勝手に断定した。
4
最後にダース・モールが出てきたシーンは、蛇足である。
しかし、蛇足なんだけど、ダース・モールの登場はちょっと嬉しかった。エピソード7以降の新作が、エピソード1〜3とのつながりがあまり感じられなかったので、1〜3世代の僕は寂しく思っていたからである(『ローグ・ワン』にベイル・オーガナが出てたけど)。
終始、目が醒める面白さのあったこの映画であるが、不満な点が一点だけあった。
それは、、、
僕が大好きなジャバ・ザ・ハット様が出てこなかったことである! 絶対出てくると思ってたのに! ジャバ様〜!!
2018年上半期に読んだ、心に残る20冊
『故郷』(魯迅)
- 作者: 魯迅
- 発売日: 2012/10/04
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る
『故郷』 は、作者の魯迅自身をモデルとした「私」が、20年ぶりに帰郷するところから始まる。「私」は、時代のうねりの中で貧困に苦しむ故郷の人々の暗く絶望的な現実に打ちのめされる。「私」の家の雇い人の息子で、少年時代の親友である「閏土(ルントー)」も、子どものときの快活さとは打って変わり、暗い影を落とす大人へと変貌していた。
「閏土」の息子と彼を慕う自分のおいのことを「私」が思い、彼らには「新しい生活」をしてもらいたいと願う最後の語りが印象に残る。国語の教科書にも載る名作です。
『宮本武蔵』(吉川英治)
- 作者: 吉川英治
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2013/01/28
- メディア: 文庫
- クリック: 3回
- この商品を含むブログ (5件) を見る
VS吉岡一門が燃える。佐々木小次郎との巌流島での戦いは、引っ張った割にはあっけない決着な気がする。『バガボンド』は、この巌流島の戦いをどのように料理してくれるのか楽しみです。
『翔ぶが如く』(司馬遼太郎)
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2002/02/01
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 36回
- この商品を含むブログ (74件) を見る
2018年の大河ドラマ「西郷どん」にはまり、西郷隆盛の人生の後半戦を描くこの小説に手を伸ばした。司馬遼太郎の小説には、やっぱり心が揺さぶられる言葉が多く、『翔ぶがごとく』にも多くの赤線を引いた。
「大衆は明晰よりも温情を愛し、拒否よりも陽気で放漫な大きさを好み、正論よりも悲壮にあこがれる。」
『蠅の王』(ウィリアム・ゴールディング)
- 作者: ウィリアム・ゴールディング,William Golding,平井正穂
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1975/03/30
- メディア: 文庫
- 購入: 37人 クリック: 711回
- この商品を含むブログ (161件) を見る
「未来における大戦のさなか、イギリスから疎開する少年たちの乗っていた飛行機が攻撃をうけ、南太平洋の孤島に不時着した。大人のいない世界で、彼らは隊長を選び、平和な秩序だった生活を送るが、しだいに、心に巣食う獣性にめざめ、激しい内部対立から殺伐で陰惨な闘争へとの駆りたてられてゆく……。」というあらすじの非常に恐ろしい小説。闘争が極限へと達するクライマックスは手に汗握った。
大人のいない孤島に生きる少年たちは、正体不明の獣に怯え、不安から衝突する。ただひとり、「獣というのは、ぼくたちのことにすぎないかもしれない」と気づいたサイモンという少年は、人間の内なる暗黒の象徴である蠅の王と対決する。自身の獣性に目をそらさず、向き合うことで、初めて人は人間性を獲得できるんじゃないかなと思ったりしました。
『愛についての感じ』(海猫沢めろん)
- 作者: 海猫沢めろん,市川春子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2017/10/13
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログを見る
僕が大好きなラジオ番組である「文化系トークラジオlife」の出演者の中でも異彩を放つ海猫沢めろん先生の小説。はみ出し者たちの恋を描く短編集である。
ヤクザと色町で働く女性のはかない交流を描く短編、『新世界』がおすすめ。
『大日本サムライガール』(至道流星)
拡声器を片手に街頭で叫ぶ謎の演説美少女・神楽日鞠(かぐらひまり)。彼女の 最終目的は日本政治の頂点に独裁者として君臨し、この国を根底から変えることである。その目的達成の手段として、さまざまな人々の協力を得ながら、美貌を武器にアイドルとして活動していく。
キワモノかと思いきや、キャラが立ち、物語の構成も緻密な本格的なエンターテイメント作品に仕上がっている。右翼とアイドルという意外な組み合わせが、読者を魅了する面白さを十二分に発揮している。
ヒロインである神楽日鞠がすごく魅力的で、彼女のアイドルとしてずれた言動にクスクスと笑ったり、(僕は右思考ではないけど)彼女の国のことを心の底から思う真摯な姿勢に感動させられたりしたのでした。
『グローバライズ』(木下古栗)
- 作者: 木下古栗
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2016/03/26
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (75件) を見る
読者によって好き嫌いが真っ二つに割れるであろう木下ワールド。僕は時に木下ワールドが恋しくなったり、憎たらしくなったりする。読むと、体調によって、極上な時間を過ごした気分になるときと、時間をかなり無駄にした気分になるときがある。
短編集である本書の中には、同じ意味不明な下ネタで終わる2つの短編などがあります。
『風姿花伝』(世阿弥)
『風姿花伝』は、世阿弥が父である観阿弥から受け継いだ能の奥義を、子孫に伝えるために書いたものである。この書の中で世阿弥は、若い頃の初心、人生の時々の初心、老後の初心を忘れてはならないと言っている。
若い頃の初心とは、具体的には24〜25歳のころである。この時期こそ、改めて自分の未熟さに気づき、周りの先輩や師匠に質問したりして自分を磨き上げていかなければ、「まことの花」にならないと世阿弥は言っている。世阿弥が言うように「初心」を忘れることなく、自身を日々更新する努力をする生き方をしたい。
『いのちの食べかた』(森達也)
学生のときに読んだけど、久しぶり読み直した。著者は、映画『A』などを監督したドキュメンタリー作家、森達也。
この本には、牛や豚が「と場」に運ばれ、どのように屠殺(とさつ)され、解体されるのかが平易な文章で詳細に書かれている。自分自身の食生活を省みることができたり、「と場」で働く方々への敬意や、食物に感謝の気持ちがわいてきたりする本です。
『社会学』 (長谷川公一、浜日出夫、藤村正之、町村敬志)
社会学 (New Liberal Arts Selection)
- 作者: 長谷川公一,浜日出夫,藤村正之,町村敬志
- 出版社/メーカー: 有斐閣
- 発売日: 2007/11/21
- メディア: 単行本
- 購入: 13人 クリック: 142回
- この商品を含むブログ (34件) を見る
にわかに「社会学」 を勉強したい気持ちになり、入門書として良さそうな本書を買った。丁寧な解説でとても分かりやすい。各テーマごとに、参考文献が紹介されていて、読書の幅が広がります。
『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎)
-
暇と退屈の倫理学
作者: 國分功一郎 - 出版社/メーカー: 朝日出版社
- 発売日: 2011/10/18
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 13人 クリック: 146回
- この商品を含むブログ (128件) を見る
昨年読んだ『中動態の世界 意志と責任の考古学』にドはまりし、同じ著者が書いた本書にも手を伸ばした。「何かをしなくてはならない」という強迫観念に駆られる、あの暇と退屈の正体がよく分かります。
『人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊』(井上智洋)
今後AIを搭載した機械が人々の雇用を順調に奪っていくと、今から30年後の2045年には、全人口の1割ほどしか労働しない社会になっているかもしれないそうだ。僕みたいな役立たずは真っ先にAIに仕事を奪われるであろう。
9割の人が職を失ってしまうそんな時代を救う現実的な制度として、筆者がおすすめしているのが、「ベーシックインカム(収入の水準に拠らずに全ての人に無条件に、最低限の生活費を一律に給付する制度)」である。労働意欲のない僕は、「ベーシックインカム」が導入される時代を今か今かと待ち望んでいます。
『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』(古市憲寿)
様々なメディア媒体で活躍する若手社会学者の古市憲寿が橋爪大三郎、宮台真司、大澤真幸など、日本の社会学のビッグネームと「社会学とは何か?」をテーマに対談している。
「Life」のメインパーソナリティである鈴木謙介(チャーリー)とも対談していて、そこで古市憲寿の「僕がパブリック社会学に何かの貢献ができるとすれば、これからどうしていけばいいと思いますか。」という質問に対し、チャーリーが「『マージナル・マン(境界人)』としての役割を意識的に引き受けていくということ。」と発言するのが興味深い。
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(千葉雅也)
- 作者: 千葉雅也
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2017/04/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (25件) を見る
この本には、「勉強とは、これまでの自分の自己破壊である。」と書いてある。勉強とは、「新たな環境のノリに入る」ことらしい。「アイロニー」と「ユーモア」という言葉を使い、勉強へ取り組む姿勢のあり方が分かりやすく説明されていて、夢中で読み進めた。
勉強の具体的な実践の方策として、勉強用のノートづくりを維持することが推奨されている。「勉強用のノートとは、生活の別のタイムラインそのものであり、自分の新たな可能性を考えるための特別な場所なのだ」と著者。
『世界からバナナがなくなるまえに:食料危機に立ち向かう科学者たち』(ロブ・ダン)
世界からバナナがなくなるまえに: 食糧危機に立ち向かう科学者たち
- 作者: ロブ・ダン,高橋洋
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2017/07/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (3件) を見る
この本には、病原体による現代の食糧危機と、それに立ち向かう科学者たちの戦いが熱を持って書かれている。タイトルにあるバナナだけでなく、私たちが頼る数少ない作物は、すべて危機にさらされている。……僕が大好きなチョコレートの原料である、カカオも例外ではない。この食料危機の危険性を一気に高めたのが、大規模なアグリビジネス(農業関連産業)の台頭である。
アグリビジネスは、生産の極端な効率化を図るために、広域な農場に単一栽培(モノカルチャー)を行っている。短期的な効率化には最上の手段ではあるが、広大な農場に遺伝子的に同一の作物しかないというのは長期的に見て非常に危険である。遺伝子的に同一ということは、同じ害虫や病原体に弱いということである。一つの作物が弱点である害虫や病原体に攻撃されると、その農園の作物が全滅する道にそのままつながるのである。
故意でなくとも、自然に害虫や病原体が農場に拡散する可能性は常にある。本書ではそういった食糧危機に対する科学者の地道な戦いと、私たちに何ができるかということが書かれていて、最初から最後まで知的好奇心を大いに刺激されました。
『パパは脳科学者 子どもを育てる脳科学』(池谷裕二)
- 作者: 池谷裕二
- 出版社/メーカー: クレヨンハウス
- 発売日: 2017/08/10
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
この本では、脳科学者である著者が、娘さんの4歳までの成長を、脳の機能の原理から分析して、成長の一か月ごとに章立てして記録している。自分の息子(現在1歳2ヶ月)の成長と合わせて読み進めていて、とても勉強になります。この娘さんと比べると、自分の息子の成長はかなり遅れており、不安になる笑
『1990年代論』(大澤聡 編)
様々な論者が多角的に90年代を論じている。「社会問題編」では、現在の様々な社会問題が90年代に端を発していることが分かる。「文化状況編」では、様々な90年代のコンテンツが軽妙に論じられていてワクワクした。90年代は幼年期であった自分。もう10年早く生まれて、全身でこれらのコンテンツの受容を楽しみたかった。
『不安な個人、立ちすくむ国家』(経産省若手プロジェクト)
昨年5月に経産省の若手プロジェクトが発表したレポートを書籍化したものである。このレポートでは、変化する社会状況や、その中で増幅される個人の不安を指摘と、変わりつつある価値観に基づいた新しい政策の方向性の提示がまとめられている。日本社会のひずみが浮き彫りにされていて、日本の未来について悲観的にならざるを得ない。
書籍版には、経産省若手プロジェクトと養老孟司の対談が収録されている。養老孟司が、高齢者が「死にたくない!」とわめく様子を見て、若者に向けて「早く大人になってしまい、やりたいことを後回し後回しにしていくと、人生を生きそびれてしまいますよ」と言っているのが印象的。
『新・日本の階級社会』(橋本健二)
- 作者: 橋本健二
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2018/01/18
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (10件) を見る
現代の日本社会が「階級社会」に変貌してしまった現実を、様々な社会調査データを基にして暴いていくといった内容である。階級格差は加速しており、特に非正規労働者から成る階級以下の階級(アンダークラス)の貧困が甚だしい。しかも、階級は世襲として固定化しやすく、親の階級以上の階級に転じることは難しくなっている(逆に「階級転落」の可能性は高い)。
この本では、格差拡大が社会全体にもたらす弊害が具体的に述べられて、読後、現代社会に対する危機感をちょっぴり持ったのでした。
『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(宇野常寛)
この本は、評論家の宇野常寛による、マンガやアニメやゲームといった「オタク的なもの」を取り上げたサブカルチャー論の大学での講義録をまとめたものである。ここ40年ほどのオタク思想を広く(浅く)学べます。
宇野常寛は「life」の出演者でもありますが、番組中、話の流れをぶった切り、自分の話したい話を止まることのなく話しまくるので、個人的には彼をあまり好きではありません。
☆
2018年下半期も読書ライフを楽しみたいです。
海外映画につけられたひどい邦題に対する批判に対する批判
海外映画につけられたひどい邦題をまとめたネット記事を目にすることがあるけど、そこにはよく「最近の邦題つけてる奴って本当にセンスがない」というコメントがついている。僕はそのコメントに違和感を抱く。海外映画の邦題をつける配給会社は、どうやったら観客が高いチケット代を払ってその映画を見てくれるかと、現代の観客の嗜好を踏まえて戦略的に邦題をつけている。センスうんぬんといったコメントは少々ずれている。
さて、僕が好きな邦題は、1967年製作の『俺たちに明日はない』(原題:Bonnie and Clyde/ボニーとクライド)や、1969年製作の『明日に向って撃て!』(原題:Butch Cassidy and the Sundance Kid/ブッチ・キャシディとザ・サンダンス・キッド)など様々あるが、特に好きなのは、1960年製作、ビリー・ワイルダー監督の名作、『アパートの鍵貸します』(原題:The Apartment)である。「鍵貸します」の言葉が、タイトルにどこか官能的な香りを与えている。
タイトルだけでは内容にわかりにくさがあるかもしれないが、原題を超え、受け手の心を揺さぶる、いわゆるセンスのある上に挙げたような邦題を「文学的邦題」、『幸せの~』『最高の~』など万人が喜びそうな言葉を修飾語として使うなど、映画の内容が容易に想像できるようなわかりやすい邦題を「ポエム的邦題」と自分勝手に呼んでみるとする。「ひどい邦題」と馬鹿にされる「ポエム的邦題」は、制作費をかけた大作ではなく、TSUTAYAのDVDジャンルで言うところの、「ドラマ」「恋愛」に分類される作品に多い気がする。知名度の高い俳優や監督が関わる作品や、膨大な制作費のかけた大作と勝負するには、まずタイトルを工夫しなくてはならない。シネコンの増加で鑑賞する映画を選択する幅が広がったり、自宅で映像コンテンツが格安や無料で見ることができたりする映像興行の現状では、作品を「まず見てもらう」こと自体が難儀なのである。膨大な映像作品の中からどれでも視聴できるという環境と、映画館で映画を見るには高い料金を支払わなくてはならないという事情が相まって、観客は映画鑑賞の選択に保守的にならざるを得ない。選択に失敗し(つまり、つまらない映画を見て)、お金と時間を無駄にしたくないという思いになる。そんな安心感を求める観客の傾向を念頭に置いて、配給会社は戦略的に「ポエム的邦題」をつけているのである(多分)。「ハマる人」だけにハマるような文学的邦題をつけては、鑑賞のハードルを上げてしまいかねない。
観客も当たりか外れかわからない「文学的邦題」の作品より、内容がある程度予想できる「ポエム的邦題」を選択するだろう。そうすると、漫画原作の日本映画が増える論理と同じで、「文学的邦題」の映画が淘汰され、より一層「ポエム邦題」が幅をきかせることになる。つまり「ひどい邦題」の増加の責任の一端は観客にもあるのである。観客が保守化する気持ちはとても分かる。しかし、観客が「文学的邦題」の映画へのチャレンジを避け、「センスのない」選択ばかりしていると、今後さらに「ひどい邦題」の増加を推し進めることになると思うのです。