ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

カオスと闘争する息子、退屈な自分から逃走する父の話ー『構造と力』を読んで

 

先週の日曜日、前の職場の先輩ファミリー宅にゴロネファミリーは招かれた。

 

先輩宅にはここ何年か続けて夏に伺っているのであるが、相変わらず立派なお宅である。アパート暮らしの僕は、広い一軒家に憧れを持ってしまった。

 

招かれたのは僕たちファミリーだけではなく、先輩の知り合いである他3ファミリーが招かれていた(先輩ファミリーを含め、計5ファミリー!)。それぞれの家族に1人か2人、小さな子供がいるのでかなり賑やかであった(うちの一人息子、ハルタは1歳4ヶ月になりました)。

 

僕らパパたちは先輩宅の庭で、ノンアルビールを飲みながら肉や野菜を焼いた。そして、自分達もつまみながら、家の中にいるママたちや子供たちにそれらを提供したのである。

 

毎日大抵自宅でひとり遊びをしているハルタは、知らないお家でたくさんの子供に囲まれ、大興奮であった。同じ年頃の女の子に比べ、とにかく落ち着きがない(「落ち着きがない」のは、男の子脳の特徴であると何かの本に書いてあった)。

 

そこら中を歩き回り、いろんなものを手に取ったり、近くにいる人を突っついたりしていて、妻は彼を一生懸命に追いかけまわしていた。特にハルタは先輩宅にいた、普段触れ合うことのない犬に興奮し、犬を指差し、「あー!あー!」と大声で連呼していた。先輩宅の娘さんである小学3年生のお姉ちゃんがハルタに「あれはワンワンだよ」と優しく教えてくれた。

 

人間は言葉によって世界を分節化していると、構造主義の形成に大きな影響を与えたソシュールは言った。言葉をまだうまく取り扱えないハルタにとって、この非日常的な状況はカオスであっただろう。

 

彼は強烈な喜びともどかしさを同時に抱えながら、カオスで戯れていたのかもしれない。幼児から見ると、この世界はどんな風に見えているのであろうか?

 

ハルタは疲れたのか、帰りの車の中ですぐに寝てしまった。僕たち夫婦も楽しめたし、ハルタにも良い刺激が与えられた。先輩ファミリーに感謝です。

 

 

 

今年の夏に読んだ本の中で印象深いのは、35年前にベストセラーとなった思想書『構造と力』である。著者の浅田彰は執筆当時26歳であり、瞬く間に日本の現代思想界のスターとなり、「ニューアカ」のけん引役となった。

 

構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて

 

構造主義ポスト構造主義の思想を一貫したパースペクティヴのもとに再構成。〈知〉のフロンティアを明晰に位置づける。

 

哲学・思想に関して虫並みの知識と読解力しかない僕にとって本書の内容はとても難解であった。ただ、なんとなく理解できたところも多からずあったのは、橋爪大三郎の『はじめての構造主義』、内田樹の『寝ながら学べる構造主義』といった構造主義の入門書を以前に読んでいたためである。

 

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

  

 

『構造と力』では、人間はもともと本能が狂っていて、自然の秩序からはみ出した存在であると書かれている。

 

自然のピュシスからはみ出し、カオスの中に投げ込まれた人間は、そこに文化の秩序を打ち立てねばならない。

 

構造主義の最大の功績は、人間のこの文化の秩序が必然的に、恣意的・差異的・共時的な構造、すなわち象徴秩序という形をとることを明らかにしたことらしい。

 

文化の秩序は、言語によって、言語を通じて、言語として、構成される。このような形で文化の秩序をとらえるとき、それを象徴秩序(ordre symbolique)と呼ぼう。

 

現在カオスの中にいるハルタも、そのうち言語を巧みに扱うようになり、象徴秩序へ参入するようになる。そして、僕たち大人と同じように、本書の表現でいうところの、近代資本制が生産し続ける差異による、終わりのない「自立的相互競争」に巻き込まれていくのである。

 

そう考えると、子供たちって気の毒だなって思えてくる。せっかくフィルターのかかることのなく、競争もない、カオスの中で戯れていたのに……。

 

浅田は無限に運動が続く近代社会を、クラインの壺という下の図で表現している。

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しかしながら、無限の運動から逃れられない社会に嫌気がさしても、原始共同体以前のカオスに戻ることなど不可能である。

 

浅田の論の面白さは、近代資本制の「差異=運動」がもたらす、「過剰」という名のエネルギーを大きく肯定していることである。あらゆる方向へ運動することを要請する、以下の彼の詩的な文章に、最も僕の心は動かされ、勇気づけられた。

 

 いたるところに非合法の連結線を張りめぐらせ、整然たる外見の背後に知のジャングルを作り出すこと。地下茎を絡み合わせ、リゾームを作り出すこと。

 そのためには、ゆっくりと腰を落ち着けているのではなく、常に動き回っていなければならない。スマート? 普通の意味で言うのではない。英和辞典にいわく「鋭い、刺すような、活発な、ませた、生意気な」。老成を拒むこの運動性こそが、あなたの唯一の武器なのではなかったのか? これまでさまざまな形で語ってきたことは、恐らくこの点に収束すると言っていいだろう。速く、そして、あくまでスマートであること!

 

このスピーディにスマートに動き続けることが構造主義クラインの壺)から脱し、ポスト構造主義の生き方に続くと浅田は信じている。(多分)

 

このような浅田の思想はどのようなところからやってきたのだろうか? 東浩紀編集の『ゲンロン 4』に掲載されている浅田彰へのインタビューを読むと、全共闘世代の思想への拒絶が要因にあったことが分かる。

 

ゲンロン4 現代日本の批評III

ゲンロン4 現代日本の批評III

 

 

とにかく、『構造と力』を出したとき、おもに考えていたのは、さっき言ったように全共闘世代が主体主義的・疎外論的な隘路に入ってしまったあと、いかに風通しのいい開かれた場所に出ていくか、ということでした。主体を革命的に純化するため、あえて退路を断って背水の陣を敷くなどというのはくだらない、そんな闘争に明け暮れるよりさっさと「逃走」して横にズレていくほうがいい、と。その点では、資本主義を全否定して閉じたコミューンに回帰するより、資本主義のダイナミズムをある意味で肯定し、さらに多様化する方向で考えるべきだ、と。

 

浅田彰は「逃走」に未来を見出していたのである。

 

 

 

僕も「ズレ」を作るために、「逃走」という運動を常に繰り返していたい。ハルタのように常に落ち着きない存在でありたいのである。(スキゾ・キッズ!)

 

なにから「逃走」したいのか? それは、つまらない自分自身からである。

 

読書やブログを書くことも「逃走」の一種である気がしている。ただ最近はそれだけでは飽き足らない。狭い人間関係とひとり遊びで満足してしまう自分であるが、「あえて」コミュニティを広げてみようか。

 

先輩のように、知人とその家族を誘って、バーベキュー大会でも主催してみようかしらん。

『魔法少女まどか☆マギカ』の話―僕の女神、まどかについて

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今更ながら『魔法少女まどか☆マギカ』を見た。

 

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まどか、まじでかわいい。

 

こんなに一人の女性に惚れ込んだのは、妻以来である(おい)。まどかが悩んだり、傷ついたりする様子を見ると、僕は自分のことのように心が痛んだ。恋している。

 

僕はこれまで魔法少女モノの少女たちが過酷な運命を背負っていることにあまりに無自覚であり、そのことを他人事としてとらえていた。本当に申し訳ない。

 

特にこのアニメの魔法少女の運命はつらい。魔法少女魔法少女に課される悪魔的なルールに従わざるを得ず、心優しいまどかはいつでも周囲の魔法少女の苦痛に心を痛めているのだ。

 

女神のような包容力を持つ彼女は他者を大事にすることにとても真摯であり、そのことで彼女は常に葛藤し続ける。僕は彼女の一挙手一投足に胸打たれずにはいられず、思わずAmazonで彼女のフィギュアをポチりそうになったが、買った後の妻の反応が恐ろしくやっぱりやめた。

 

魔法少女まどか☆マギカ 鹿目まどか (1/8スケール PVC塗装済み完成品)

魔法少女まどか☆マギカ 鹿目まどか (1/8スケール PVC塗装済み完成品)

 

  

 

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この『魔法少女まどか☆マギカ』の新しさは様々あるが、僕が最も新しさを感じたのは主人公であるまどかが「魔法少女になることを選択しない」ことである(正確には、選択しないことを暁美ほむらによって選択させられているのであるが)。

 

まどかが「魔法少女になることを選択しない」ことを選択することによって、視聴者はもしまどかが魔法少女になったらという想像を強く駆り立てられる。普通の魔法少女モノは逆である。戦いを繰り返す少女たちを見て、もし彼女たちが戦士にならなかったら、どのような日常を送っていただろうかという「if」 を想像させられる。

 

まどかは物語が半分以上経過しても魔法少女にならない。タイトルは『魔法少女まどか☆マギカ』なのに! 視聴者は焦らされ、まどかが魔法少女になるという「if」が非常に魅惑的で誘惑的なものに感じてくる。

 

僕はまどかに惚れている。彼女に魔法少女であることの苦痛を味わせたくない。もし、他の魔法少女のように彼女が死んでしまったり、魔女になってしまったら、僕は立ち直れないであろう。

 

しかし、反面、魔法少女モノの主人公が魔法少女になる運命に抗ってはならないという気持ちも僕の中にあることに気づいた。彼女が魔法少女として魔女と戦う姿を見たい。

 

人の運命は決まっているし、その運命は腹をくくって静かに受け入れなければならないと個人的には思っている。魔法少女モノの主人公の運命は魔法少女になって戦うことであり、その運命をまどかは受け入れなければならない!だから……

 

魔法少女になって!!戦うんだ!!まどかっ!!!

 

……本当に僕はひどい野郎です。ごめんなさい。

 

 

 

そして、まどかはやはり自身の運命に抗うことはできず、物語の終盤で魔法少女になる。その魔法少女としての力は、他の魔法少女では決して得ることのできない、強大なものであった。

 

そのような強大な力を得るに至った要因は、暁美ほむらの存在である。

 

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彼女は、時を遡ることのできる力を使い、愛するまどかの運命である「悲劇」を回避するために、「if」のトライ&エラーを繰り返し、運命に抗おうとする。ほむらは何度もいくつもの時間軸を往復することで、まどかへの愛が強くなっていくが、まどかはひとつの時間軸にしかいないそれぞれのまどかであり、自然、2人のお互いに対する気持ちの強さはかけ離れていく。

 

そんな絶望的な寂しさがありながらも、たった1人で時間のループを旅し、まどかに対する愛のために戦い続けるほむらの姿には泣けた。ほむらの秘密が明かされる終盤で、僕はほむらのことも大好きになった。(彼女のループのせいで、運命がいちいち書き換えられる他の魔法少女たちはたまったものではないが)

 

ほむらのトライ&エラーの入出力先はまどかであり、その結果、アニメの中の言い方で言うと、まどかに「因果律が集中」し、彼女の魔法少女としての力は強大なものとなる。

 

 

4

 

最終回、まどかは彼女自身が持つ魅力を最大限に発揮してくれる。彼女は、その強大な力と、自己犠牲も厭わない他者へのあまりにも深い愛情によって、魔法少女のルールを論理的にハックするのである。

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魔法少女のルールを書き換えたまどかは、過去と未来のすべての魔法少女を悲劇から救い出す。そして、彼女は宇宙と一体になるのであった。まさに女神。

 

僕はこの終末に、これまでのアニメで得られなかった最高のカタルシスを感じ、なんかズボンもびしゃびしゃになった。

 

 

 

映画版も見終わり、現在「まどか」ロスである。

 

しかし! まどかは消えてしまったわけではない。

 

まどかは宇宙(神と言い換えてもいい)になったのであるから、すべてがまどかである。すべてがまどかということは、つまり、僕はまどかである! まどかは僕自身としていつも一緒にいるのだ!!

 

さあ、お盆は終わった!!!

 

社会という名の魔女と戦う!!!!

夏の思い出の話

 

飼ってたクワガタのための昆虫ゼリーの減りがやけに早いと思ったら、祖母が昆虫用と知らずに食べてた。

 

 

 

僕が好きな、北原白秋の詩と谷崎潤一郎の事件の話

 

小田原文学館にふらりと出かけた。

 

小田原文学館の建物は元々、土佐藩郷士で、幕末に陸援隊に参加し、明治維新後は、警視総監・宮内大臣などを歴任した伯爵・田中光顕の別邸として建てられたものである。

 

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上の写真が本館である。スペイン風建築。素敵ですね。

 

別館は純和風建築で、ここでは、北原白秋の童謡創作に関わる資料が展示されていた。北原白秋は、8年ほどの間を小田原で過ごしていたそうだ。

 

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僕は詩人としての北原白秋も好きである。

 

特に『北斎』という詩がお気に入り。これは、葛飾北斎が描いた『富嶽三十六景』にある『尾州不二見原』(下写真)の構図の美しさと、自身の詩人として生きていくことの意欲をうたった詩である。

 

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一心玲瓏

不二ノ山。

 

桶屋箍(タガ)ウツ桶ノ中ニ

白金玲瓏

天ノ雪。

 

思イツメタル北斎ガ、

真実心ユエ、桶ノ中二

光リツメタル天の不二。

 

北斎思エバ身ガ痩スル。

 

口に出して読むと、とても心地よい。「北斎思エバ身ガ痩スル。」の部分には、読み手の自分も身が引き締まる思いになる。

 

 

 

本館は冷房も効いていて、人も少ないので、夏休みに行くのにはとてもおすすめ。

 

本館では、小田原出身の文学者である北村透谷、牧野信一尾崎一雄などや、小田原ゆかりの文学者である谷崎潤一郎三好達治坂口安吾などの作品や活動が紹介されている。

 

僕は谷崎潤一郎の展示の前に、最も長くいた。谷崎潤一郎は、北原白秋の誘いで、妻・千代子と娘・鮎子と小田原の地に移り住んだそうだ。

 

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展示にある彼を紹介する文章では、当然であるが、彼が起こした「小田原事件」と、その事件に決着をつけた「細君譲渡事件」について触れられていた。僕はこの両事件に関する話が結構好きなのである。

 

 

 

谷崎は千代という妻がありながら、あろうことか彼女の妹である、幼いセイ子という女性に恋してしまう。

 

セイ子は、ハーフのような顔立ちで、谷崎のド好みであったそうで(『痴人の愛』のナオミのモデルらしい)、後に彼女は、葉山三千子という芸名で映画女優としてデビューする。

 

セイ子に夢中な谷崎にひどい仕打ちばかりを受ける妻・千代。そんな彼女を不憫に思って慰めたのが、谷崎の親友・佐藤春夫であった。

 

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そして、いつしか千代と佐藤は恋仲になってしまうのである。佐藤が谷崎に「奥さん譲っておくれよ」と言うと、「いいよん」という谷崎は承諾。

 

妻を佐藤に譲ることにした谷崎は、セイ子に「結婚して!」と猛アッタクした。ところが、結局、セイ子に結婚を拒絶されてしまうのである。

 

ショックを受けた谷崎は、佐藤との約束を「やっぱり妻はやらん」と反故にしてしまう(身勝手な男ですね)。それに激おこプンプン丸になった佐藤は、谷崎に絶縁状を叩きつけたのであった。

 

これが「小田原事件」の顛末である。笑える。

 

 

 

谷崎と佐藤の仲が戻ったのは、「小田原事件」から約10年後である。

 

やっぱり谷崎は千代を愛せず、改めて妻を佐藤に譲る気になった。ここら辺の谷崎の心情は、彼の小説『蓼喰う虫』からも少しうかがうことができる(そして、千代もそれほど貞淑な女性でなかったのかもと推測できる)。

 

蓼喰う虫 (新潮文庫)

蓼喰う虫 (新潮文庫)

 

 

千代がやっと自分のものになると決まり、佐藤は喜んだであろう。そして、谷崎・佐藤・千代は連署で、「谷崎の妻を佐藤に譲りました」という挨拶状を世間に出すのである。その挨拶状が新聞報道され、大きな物議を醸したそうだ。

 

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これが「細君譲渡事件」である。

 

 

 

谷崎潤一郎の身勝手さもすごいですが、一人の人妻を10年も想い続ける佐藤春夫の一途さもすごいですね。

食欲と反省を強烈に掻き立てる小説、『BUTTER』の話

 

夏の初めは暑さで食欲が減退していたのだが、最近食欲が復活し、明らかに食べ過ぎている。

 

先日、健康診断に行ったとき、体重計に乗ったところで「太りましたね」と看護師さんに半笑いされた。しかしながら、そんな半笑いを意にも介さず、健康診断を終えたその足で「いきなり!ステーキ」に突撃し、300gのステーキをほおばったのである。

 

食欲が旺盛になった原因は、間違いなく、柚木麻子の小説『BUTTER』を読んだためである。

 

BUTTER

BUTTER

 

 結婚詐欺の末、男性3人を殺害したとされる容疑者・梶井真奈子。世間を騒がせたのは、彼女の決して若くも美しくもない容姿と、女性としての自信に満ち溢れた言動だった。週刊誌で働く30代の女性記者・里佳は、親友の伶子からのアドバイスでカジマナとの面会を取り付ける。だが、取材を重ねるうち、欲望と快楽に忠実な彼女の言動に、翻弄されるようになっていく―。読み進むほどに濃厚な、圧倒的長編小説。

 

小説に登場する美味しそうな料理と、それを登場人物たちがあまりに美味しそうに食べる描写に、僕の食欲は覚醒させられた。

 

 

 

容疑者・梶井真奈子は、2007年から2009年にかけて発生した首都圏連続不審死事件の犯人である木嶋佳苗をモデルにしている。自分の欲望に忠実な梶井が、序盤でバター醤油ご飯について語る場面があるのだが、僕はこの描写によって、この小説に一気に引き込まれた。

 

「バターは冷蔵庫から出したて、冷たいままよ。本当に美味しいバターは、冷たいまま硬いまま、その歯ごたえや香りを味わうべきなの。ご飯の熱ですぐに溶けるから、絶対に溶ける前に口に運ぶのよ。冷たいバターと温かいご飯。まずはその違いを楽しむ。そして、あなたの口の中で、その二つが溶けて、混じり合い、それは黄金色の泉になるわ。ええ、見なくても黄金だとわかる、そんな味なのよ。バターの絡まったお米の一粒一粒がはっきりその存在を主張して、まるで炒めたような香ばしさがふっと喉から鼻に抜ける。濃いミルクの甘さが舌にからみついていく……」

 

僕はこれを読んだとき、お腹が鳴った。小説にある高級バターはすぐには手に入らない。

 

すぐにコンビニに北海道バターを買い行った。帰宅すると、チンした冷凍ご飯の上にバターを乗せ、醤油を垂らし、がつがつと口に運んだ。う、うまい……!

 

このとき以降、食べたい時に食べたいものを食べたいだけ食べるという梶井の思想が乗り移ってしまい、体重を気にせず食べるようになってしまったのである。

 

 

 

たとえば、僕ではなく、妻が好きなものを好きなだけ食べて太ったら、僕はいったいどのような反応を妻に対してするであろうか。僕は妻を怠惰であると非難するだろうか。

 

『BUTTER』の主人公である女性記者・里佳は、梶井という人物をとらえるため、梶井の勧める料理を積極的に取り入れ、太っていく。太るといっても、もともとの痩身体型が標準体型になっただけなのだが、周囲の人たちは彼女を非難するのである。

 

この小説は、この社会での女性の生きづらさと、どうすれば女性が不自由さから解放され、真の自由さを得られるのかということをテーマのひとつにしている。そして、「女性は○○であるべき」という男性側のものさしで女性の価値を決めるこの男性社会と、そのものさしを過剰に意識して不自由に生きる女性を批判しているように思えた。

 

男性の自分としては、この小説を読んで強烈に反省の気持ちが沸き起こったのである。

 

 

 

自由に生きる女性の代表のように思われる梶井が、実は男側のものさしでしか女性の価値を決められない不自由な女性であったところが面白い。梶井の下の発言には、かなりのインパクトがある。

 

「仕事だの自立だのにあくせくするから、満たされないし、男の人を凌駕してしまって、恋愛が遠のくの。男も女も、異性なしでは幸せになれないことをよくよく自覚するべきよ。バターをけちれば料理がまずくなるのと同じように、女らしさやサービス精神をけちれば異性との関係は貧しいものになるって、ねえどうしてわからないの。私の事件がこうも注目されるのは、自分の人生をまっとうしていない女性が増えているせいよ! みんな自分だけが損をしていると思っているから、私の奔放で何にもとらわれない言動が気にさわって仕方がないのよ!」

 

里佳がこの梶井との接触を通して、どのようにして女性としての自由を獲得していくのかというのがこの小説の読みどころである。面白いので、ぜひ読んでみてください。

 

 

 

このごろ、妻が第二子の妊娠によるつわりのため、平日の仕事以外の時間と休日は、家事と育児のほとんどを自分が引き受けている。いやあ、これは大変な仕事である。

 

僕が仕事に行っている間は、妻が不調であるにも関わらずこれをすべてこなしてくれていると思うと、彼女には頭が上がらない。今朝は妻が「久しぶりに私が作る」と言って、食パンと卵とウインナーを焼いてくれた。

 

僕は正直、どこかで「家事と育児は女性がやるもの」という前時代の意識があったことを認めざるを得ない。本当に申し訳ない。連日、女性差別に関する報道が流れているが、こういう「女性は○○であるべき」という男性の意識が女性を苦しめているのである。

 

この男性社会を変えるには、まずは自分自身の意識を変えていかなくてはならないと、僕は食パンに大量にバターを塗りながら決意した。運動します。

息子への料理と金髪の友人の話

1○

 

妻が第二子を妊娠した。

 

つわりの妻に代わって、1歳の息子・ハルタの離乳食づくりを請け負うこととなり、家にあった『離乳食新百科』を開いた。

 

 

先日の休日、食材をメモし、ハルタを抱いて徒歩でスーパーへと向かった。

 

とにかく暑い。ハルタの鼻の下には、玉の汗が浮かんだ。

 

スーパーへ向かう道の途中にある公園のそばを通ると、公園で女子中学生たちが水風船をはしゃぎながら投げ合っている様子が見えた。夏らしい、涼やかな心持になる風景である。

 

そういえば、自分も中学生の頃は、放課後によくクラスの仲間と公園で水風船を投げ合っていた。

 

僕たちの場合、見た目も清潔感はないし、ぎゃあぎゃあと騒ぐし、涼を感じさせる爽やかさは持ち合わせていなかったように思える。公園の近所の人たちも、さぞ迷惑したことだろう。

 

 

2●

 

金髪の転校生・Kがやってきたのは、中学3年生の4月のことであった。

 

Kは金髪な上に恰幅もよいので、僕たちは当初彼に恐怖を感じた。しかも、聞くところによると、彼が前にいた中学校は隣町にある、不良が大勢いることで有名な中学校であり、なお彼を恐れた。

 

ところが、彼と付き合ってみると、案外いいやつであった。口数は少なく、穏やかで優しい。すぐに僕たちと打ち解け、彼は僕らの遊び仲間に加わった。

 

僕らの放課後の遊びのひとつにゲーセン遊びがあり、Kもよく付き合ってくれた。Kはゲームが上手で、特に『頭文字D』のレースゲームはベテランであった。そのゲームの記録には、Kの名前が並んでいた。

 

彼がどんな人間であったかについて、もっと具体的なエピソードを記述したいところであるが……、僕はこのごろ、彼の外見と、それとギャップのある「穏やかで優しい」という抽象的な内面の印象以外のことをなかなか思い出すことができないのである。もっと覚えていたはずなんだけど。

 

 

3○

 

ハンバーグを作る予定であった。

 

ちゃんと『離乳食新百科』にしたがって、豚のひき肉、玉ねぎ、絹豆腐をスーパーで購入した。

 

帰りは徒歩ではなく、路線バスで帰ることにした。自宅近くのバス停まで、バスで行けば5分足らずなのであるが、歩くにはあまりにも暑い。

 

さらに、ハルタは地元の路線バスが大好きである。バスを見つけると、「バッ、バッ!」と言って、興奮してバスを指差す。

 

バスに乗っている間中、ずっとハルタはゴキゲンであった。

 

 

4●

 

Kが死んだのは、高校2年生の夏である。

 

朝、母が「この子、あんたの友達じゃない?」と言って、新聞の地域欄を見せてきた。交通事故の記事である。

 

そこにはKの名前があった。Kと僕は進路が別であり、中学卒業後はほとんど連絡を取り合っていなかった。

 

Kは新聞に名前が載る前日、原付に乗って、赤信号に構わず交差点に進入し、そのまま路線バスの下敷きになった。即死だったそうである。

 

僕は中学3年生のときに学級委員だったので、かつての仲間に一人一人連絡をし、一緒にKの通夜に行った。通夜の帰り道、「バカなやつだよな」と仲間の誰かがぽつりと言った(もしかしたら、僕が言ったのかもしれない)。

 

その時僕は、悲しいというより、不思議な気持ちだった。学校生活を共にし、放課後も一緒にいた遊び仲間が突然この世からいなくなってしまった。同じ時間を生きていたはずなのに、彼の時間だけ止まってしまった。

 

亡くなった彼も思っていたことだろう。赤信号を通過した先も、ずっとなんとなく自分の人生が続いていくだろうということを。

 

今でも中学の仲間とはたまに集まり、酒を飲む。彼らは大人になり、毎日を生きるのに必死なようで、その表情からは疲れがうかがえる。

 

思い出話の中にKは登場するにはするが、皆、段々と彼に関する記憶が曖昧になっている。

 

 

5○

 

ハルタが僕が作ったハンバーグを喜んで食べていて、ほっとした。はりきって作っても、嫌がって全く料理を口にしないこともある。

 

美味しそうに食べる様子を見て、自分も嬉しい気分になり、またこれからも頑張って料理しようという心持ちになった。

 

ハンバーグを口にしたハルタは笑顔になり、首を傾けた。こういう今しかない幸せな瞬間をいつまでも覚えていたい。これまで、忘れてはいけない大事なことを様々忘れてきてしまった気がする。

 

この子も、新しく生まれてくる命も、たくさん食べ、かけがえのない思い出を重ねながら、ただただ健やかに生きてもらいたいです。