『ブレードランナー2049』の話・後編(K編)
前回の記事に引き続き、『ブレードランナー2049』の話をします。ネタバレは気にしません。
前回はデッカードの話ばかりしてしまったが、主人公のレプリカント、Kもヨカッタ。
まさにハードボイルド。僕も映画の鑑賞後はハードボイルドな気分(?)になり、Kのようにコートのポケットに手を突っ込み、冷たい風の吹く中、帰り道をスタスタと歩いた。そして颯爽とラーメン屋に入り、ラーメンと大ライスを食べ、ついでに替え玉も食べた。(全然Kのようではない)
ホログラフのジョイとKの恋も美しく、切なかった。レプリカントとホログラフの愛は人間同士の愛のようにはいかない、不自由さを伴った愛だ。
Kは人間たちから、「人間もどき」と蔑まれている。彼の子ども時代の記憶は、人間によって移植されたものだ。自分自身の記憶や経験を心から信じることが、アイデンティティを構築する前提となるのであろうが、レプリカントたちは自分自身の過去にアイデンティティを求めることに自信はなく、今信じているもの、愛してるものによって自分自身を人間のように作り上げようとしている。
物語は、Kの寡黙さによって、Kの葛藤を伝えている。人間とレプリカントの間に隔たる壁に苦しみ、人間になることができたらと他のレプリカント同様、願っていることだろう。レプリカントを生み出したこの社会や、この社会に支配されている自分自身に対して、疑問や憎しみや怒りや絶望や諦念など様々な感情が渦巻いているということがひしひしと伝わってきた。
葛藤するのは人間である証明じゃないか!Kのことを「人間もどき」とか言わないでよ。ひどいなあ、もお。
この映画で、レプリカントの存在が人間の都合のよいように組み込まれた社会を創造したウォレスと主人公のKの対峙の場面がないことに違和感を抱いた人も少なくないかもしれない。
実は僕にはその違和感があった。ただ、鑑賞中、その場面は必要ないかなと思った。
SFでは、その社会やその社会を創造したものが、その社会に生み出されたものによって打ち壊されるというのはよくあるパターンだ。神でもない誰かが作った世界を人は許せないからである。
宮台真司の『14歳からの社会学』の中に、「SF作品を『社会学』する」というテーマがあり、映画『未来惑星ザルドス』や『マトリックス』、漫画版『風の谷のナウシカ』の主題と物語の展開を例に挙げ、こんなことが書かれている。
14歳からの社会学―これからの社会を生きる君に (ちくま文庫)
- 作者: 宮台真司
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〈世界〉を、どこかの人間が作ったとわかった瞬間に、ぼくたちは〈世界〉を受け入れられなくなる。
「なんでこういうふうに作ったんだ、別の作り方もあったのに!」というふうになってしまうんだ。〈世界〉を作ったのが〈世界〉の外にいる神である場合だけを、ぼくたちは許す。なぜか。それは〈世界〉の外にいる神が、ぼくたちを圧倒的に超越した存在だからだ。
(中略)
結局、〈世界〉や〈社会〉を「その辺にいるヤツ」が作ったという話に、ぼくたちはたえられないんだ。
人間への反抗勢力としてたくさんのレプリカントたちが登場する場面があった。ここで、人間とレプリカントとの戦争が勃発し、ウォレスがKに殺されるラストを僕は予感したが、同時に自分はそんなラストを望んでいないことに気づいた。そんな展開は『ブレードランナー』らしくない。
『ブレードランナー』はレプリカントのネガティブな人間らしさではなく、ポジティブな人間らしさに主眼を置いている。
物語は、レプリカントの内側にくすぶる負の感情ではなく、レプリカントの立ち振る舞いから垣間見える、人間らしさの最も美しい部分である、「愛」や「寛容さ」を中心に据えて描いているのである。
レプリカントたちの愛や寛容さを表現する上で、彼らを生み出した社会やその社会を創造した者の消滅はさほど重要なことではない。むしろ、社会への憤りから生まれるその消滅への運動は、物語が本当に伝えたいことを邪魔してしまう可能性がある。
期待通り、『ブレードランナー2049』の終わり方は素晴らしいものであった。Kは普通の人間でもなかなか実現できない、人間としての理想の行動を起こし、死を迎える。(舞う雪が泣ける。前作の雨のように)
観客は、人間とレプリカント、レプリカントとレプリカント、レプリカントとホログラフとの間などに育まれる様々な愛の形に心を打たれただろう。物語はその愛を最初から最後まで肯定的に描いていた。
☆
『AIの衝撃 人工知能は人類の敵か』(小林雅一)には、人間の最後の砦は「知能」ではないと書かれている(それはいずれAIに抜かされるから)。それでは、それを上回る人間の持つ最後の砦とは何か。筆者は言う。
それは、ある能力において自分よりもすぐれた存在を創造し、それを受け入れる私たちの先見性と懐の深さです。
きっと『ブレードランナー』の世界のように、今生きている実社会でも、人間同等あるいはそれ以上のものを持った「何か」を叡智を結集して作り上げていくことだろう。
そのような存在が形になって眼前に現れたとき、私たちは「愛」や「寛容さ」を持って、それらを迎え入れることができるであろうか。
そんなことを考えさせてくれる映画でした。