メロスはなぜ「赤」なのか?-『走れメロス』再読のすすめ
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冬になると、学生時代、太宰治の生家である斜陽館に一人で行ったことを思い出す。斜陽館は青森の津軽鉄道線沿いにある。
あの日はクリスマスで、たくさんの雪が降っていた。僕はストーブで温まった津軽鉄道に揺られ旅情に浸りながら、彼女欲しいなあとか思っていた。
2
太宰作品とのはじめての出会いは、中学二年生のときに国語の授業で読んだ『走れメロス』である。
メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の王を除かねばならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らしてきた。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
これまで何度読み返したかわからない、僕にとってのバイブルとも言える物語である。
3
主人公の「メロス」から想像できる色は何色?
と聞かれたら、十人に九人は「赤」と答えるのではないだろうか。(以前、父親にこの質問をしたら、「誰だ、そんなやつ知らん」と言われた)
人を信じ、正義感や友との約束の成就に燃えるメロスの姿から、「赤」が連想させられるのだろう。
ただ、精読していくと、メロスの人間性から、「メロス=赤」と思わされているだけではないことに気づく。
物語には、たくさんの「赤」や「赤」を連想させる言葉が散りばめられているのである。
物語の後半、メロスが疲労回復し刑場へ疾走する場面から、刑場でメロスと友との約束が成就する場面だけでも、たくさんの「赤」が指摘できる。
「斜陽は赤い光」、「葉と枝も燃えるばかりに輝いている」、「口から血」、「赤く大きい夕日」、「緋のマント」、「勇者は、ひどく赤面した」などだ。
読者は、実はたくさんの「赤」を自然に読まされて、「メロス=赤」のイメージを定着させられているのである。
4
対して、暴君ディオニスについては何色をイメージするであろうか。
邪知暴虐であり、人を信じることができなくなってしまったディオニス王に対しては、「黒」や「灰色」などの色が思い浮かぶだろう。物語には、ディオニスの顔は「蒼白」と書かれている。
その王がクライマックス、メロスとその親友の熱い友情を見て、顔を「赤」らめる。
「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それからうれし泣きにおいおい声を放って泣いた。
群集の中からも、歔欷の声が聞こえた。暴君ディオニスは、群集の背後から二人のさまを、まじまじと見つめていたが、やがて二人に静かに近づき、顔を赤らめて、こう言った。
「おまえらの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
王は、メロスの行動によって自分を恥じ、メロスの色である「赤」に染まる。そして、メロスのように人を信じることができる人間になるのである。
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中学校の国語の教科書に載っているので、一度は読んだことがある人が多いのではないかと思う『走れメロス』。
気持ちを込めて朗読したり、メロス以外の登場人物の視点で物語を読んだりすると、次々と新しい発見や考えさせられることに出会うことができる。
大人になった今、もう一度『走れメロス』を読み味わってみてはいかがでしょうか?