ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ(89年生まれ)一児の父。好きなものは読書、映画鑑賞、息子ハルタとじゃれ合うこと。

『l was born』と『中動態の世界』の話

 

 

「天気がいいから、ハルタと散歩に行ってくる」と言った。

 

「別にいいけど、髪をとかしてから外出したほうがいいよ。誘拐犯と間違われるかもしれないから」と妻。

 

なるほど鏡をしっかり見てみると、無精髭も生えているし、髪は鉄腕アトムみたくなっている。しかし、誘拐犯は言い過ぎじゃないかな。

 

僕はお湯をかぶり、髪をなでつけ、抱っこ紐を身につけ、そこに息子をセットし、外に出た。

 

快晴である。「そらをこえて〜♪ ららら、ほしのかなた〜♪」と口ずさんで歩いた。有給を取り、平日の昼間に外をぷらぷら歩くのはとてもいい気分である。

 

自宅から10分ほど歩いたところにある産院の前を通った。「君が生まれたところだぜ、懐かしいね」とハルタに声をかけると、彼は笑った。最近息子はよく笑うようになった。……息子が生まれてから9ヶ月かあ。

 

「生まれる」って、生まれる本人からすると、どんな感覚なのかしらん。僕はもう随分昔のことなので忘れちゃった。みなさん覚えていますか?

 

 

2

 

「生まれる」という動詞を思い浮かべると、僕は吉野弘の詩である『l was born』を連想する。

 

高校の国語の教科書に載っていた。高校生のときは、講義型の授業(特に国語)はほとんど寝ていたのだけど、この詩については心にずしりとくるものがあり、よく覚えている。

 

吉野弘詩集 (ハルキ文庫)

吉野弘詩集 (ハルキ文庫)

 

 

 確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

 

 或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げにゆっくりと。

 女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想しそれがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。
 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということがまさしく<受身>である訳をふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
----やっぱり I was born なんだね----
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
---- I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね----
その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
----蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね----
 僕は父を見た。父は続けた。
----友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは----。

 父の話のそれからあとはもう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
----ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体----

 

 

 

「生まれる」 は受身なのか?

 

妻の妊娠と出産に接し、新しい命のうごめきを感じて、「生まれさせられる」とは違うと僕は思った。新しい命は、「生まれよう」「生きよう」として生まれてきた(と妻は言ってた)。そして新しい命は、実際に「生まれる」という行為をしている。

 

「生まれる」のは強制されたと言い難く、単純に「生まれる」を受動に分類することはできない。

 

しかし、「生まれる」は能動なのかというと、そうでもない。先ほど「生まれよう」「生きよう」と書いたが、そのような「意志」を持って、新しい命が生まれてきたわけでもなさそうだ。新しい命は「生まれる」という選択しかできずに生まれてきたのである。(というか、「生まれない」という選択肢は意識にのぼらない)

 

そうなると、「生まれる」は自発性が薄く、能動に分類することもできない。

 

……みたいなことを、息子が生まれてから、『l was born』の詩の意味と合わせて、ぼんやり考えていた。

 

 

 

そんな能動か受動かといった行為の分類へのもやもや感は、ライターの友人が2017年の面白かった本として紹介してくれた『中動態の世界』を読んで、かなり晴れた。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

 

強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。

それが見えなくなっているのは、強制か自発かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で物事を眺めているからである。

そして、能動か中動の対立を用いれば、そうした事態は実にたやすく記述できるのだ。

 

この本によると、「生まれる」のように「する/される」に分類することが難しい行為は、かつて存在していたとされる中動態の概念に含まれることになる。

 

現代の私たちは能動と受動が対立する言葉の世界に生きており、その世界には「意志」の概念が存在することが前提とされる。能動的な行為は、行為者にその行為をする「意志」があったとみなされ、行為の「責任」を負わされることとなる。

 

しかし、過去の積み重ねとそのときの状況から、その行為を選択することしかできなかったということは往々にしてある。そのような行為について、「意志」があったとみなされ、「責任」を負わされることに、多くの人が戸惑いや息苦しさを感じたことがあるのではないだろうか。

 

能動態と受動態が対立する以前は、能動態と対立していたのは中動態であったそうな。受動態は、中動態から派生したものに過ぎない。能動と中動が対立する世界では、能動と受動が対立する世界とはまったく違った世界観が立ち現れる。

 

能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。

 

中動態の主語は、動詞の過程の内部にある。中動態に対する能動態の主語は、動詞の過程の外部にある。そして、能動と中動が対立する世界には、「意志」の概念は存在しない。

 

 

 

『I was born』の父親が、なぜ息子に蜻蛉(かげろう)の話をしたのか、なんとなく分かった気がした。

 

母親は、抗うことなどできない生命の営みに身を任せ、自分の命を削って子供を産んだ。

 

その母親の行為を、息子が単なる「母親が(自発的に)自分を産んだ。/自分は母親によって(強制的に)生まれさせられた。」というパースペクティブに落とし込んで理解することに、父親は耐えられなかったのではないだろうか。

 

 

 

そういえば、僕は最近「育児する」も中動態であると理解しています。