ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ(89年生まれ)一児の父。読書ブログを目指している雑記ブログです。息子ハルタとじゃれ合うことにはまっています。

キャラを演じることの寒さと他者とつながることの温かさの話ー『ファイアパンチ』を読んで

 

「面白い」という話を耳にしたので、読んでみた『ファイアパンチ』。ドハマりして、一気読みしちゃった。

 

 

『氷の魔女』によって世界は雪と飢餓と狂気に覆われ、凍えた民は炎を求めた──。再生能力の祝福を持つ少年アグニと妹のルナ、身寄りのない兄妹を待ち受ける非情な運命とは…!? 衝戟のダークファンタジー、開幕!!

 

「面白い」と形容していいのかちょっとわからないが……とにかくすごい!!

 

だって、物語のほとんどの場面で主人公が全裸なのである。しかも、全身燃えている。(ギャグ漫画ではないです、たぶん)

 

とにかく読んだことない人は、これ読んでください! 近頃ずっと僕はこの漫画について考えている。この漫画について話したいことが山ほどあるのです。『ファイアパンチ』を語り合うフレンドが欲しいんです!!(切実)

 

 

 

ファイアパンチ』は、ウェブコミック配信サイト『少年ジャンプ+』で連載されていて、今年に完結したばかりの漫画作品である。

 

作品の内容からすると、少年ストーリー漫画に分類するしかないのであるが、少年ストーリー漫画のセオリーとことごとく相反する展開なのである。(そういう意味では、やっぱりギャグ漫画であるとも言える)

 

どういったところが普通の少年ストーリー漫画と違うのかというと様々あるのだが、この記事では、この漫画のテーマの一つであろう「キャラを演じること」について絞って書くとする。

 

 

 

当たり前かもしれないが、普通、少年漫画のキャラは一貫した一つのキャラクター性を持っている。

 

それぞれのキャラが、それぞれのキャラクター性に基づいて、言動を行う。そしてその言動がさらに、そのキャラのキャラクター性を強固なものとする。

 

キャラクター性に基づかない言動が行われた場合は、「キャラがぶれている」と批判されたりする。例えば、ルフィが「仲間のピンチとかまじどうでもいい。死ぬの怖いし、やっぱり自分が一番」とか言い出したら、ファンは激おこプンプン丸だろう。

 

物語中で、キャラのキャラクター性が変更されることはほぼない(特に主人公は)。

 

しかし、『ファイアパンチ』の主人公であるアグニは、物語中のキャラクター性がどんどん変更されるのである。彼は復讐者になったり、ヒーローになったり、神になったり、悪魔になったり、疑似家族の大黒柱になったりする。(名前すら変わる)

 

しかも、アグニはそういったキャラを「演じている」ということをメタ認知しているのである。(アグニを主人公に映画を撮りたいと言ってカメラを回し続ける登場人物がが、メタ認知のきっかけとなる)

 

彼がキャラクター性をある時点まで一貫させている唯一のことは、本来の自分とは何者なのかということがわからず、思い悩み続けているという点である。

 

 

 

人とのつながりを深めることが容易でなくなってしまった現代では(なぜ容易でなくなったんでしょうね)、多くの人々が場面に合わせて自分のキャラを演じ分けているのではないだろうか。

 

少なくとも僕はそうだ。所属するグループごとにキャラを演じ分けている(このブログでもキャラを演じています笑)。だって、その場の空気に合わせたキャラ通りに生きるのって他者との軋轢も少なくなるし、かなり楽だもん。人にこういうキャラだと理解させたり、逆にあの人はああいうキャラだと決めつけたりすることを日常的に行っている。

 

しかし、常にキャラを演じて生きているってのは、ふとした瞬間、とても寂しくなったりするし、しんどくなったりする。ガチしょんぼり沈殿丸。

 

ファイアパンチ』のアグニは、何かになりたくて、それぞれのキャラを演技を努力してみるが、本当の自分は何者なのかわからなくなり思い悩み、衝動的な行動に走ったり、死を望んだりする。

 

しかし、アグニは大きな思い違いをしている。「本当の自分」なんてものは、一人で探しても決して見つかることはないのである。

 

 

 

自分が「何者か」ということを決定するのは、他者や他者との関係性である。

 

自分が自分であるという自信を持つためには、結局、他者と深いつながりを持たなくてはならないのである。そして、キャラを演じているだけでは、他者と密度の高い関係性を構築することは難しいんすよ。つらいっすね。

 

他者とのつながりを深めるためには、身体性を伴ったコミュニケーションが必要になるんじゃないかなと僕は考えたりする。

 

アグニは、物語を通してほとんど精神的に不安定であるが、七巻あたりで比較的に落ち着き取り戻す。それは、アグニがもともと他人だった人々と、家族のように一つの家で暮らしているときである。

 

彼はその家の中で、妹と容姿が似ている記憶をなくした女性に、自分の死んだ妹を投影し、自分のことを「兄さん」と呼ばせたりしている(かなりやばい)。他にも、悪魔になったアグニに大切な人を殺された人々と、アグニは自分の素性を隠しながら一緒に暮らし、なんやかんやで彼らと絆を深めていく。

 

衣食住を共にすることは、立派な身体性を伴ったコミュニケーションである。

 

アグニはその疑似家族の中で、一緒に食事をしたり、家事に参加したり、食材を獲ってきたり、新しい命の誕生を祝福したり、肌をふれ合わせたりしている。

 

一緒に暮らす人々に嘘をついていることに罪悪感を抱いてはいるが、つながりに支えられた彼は、自分は「何者か」なんてことについて、もうほとんど思い悩んではいないのである。

 

 

 

他者との深いつながり出来上がると、自分の生は自分だけのものではなくなる。同時に、つながりのできた他者の生にも責任を持つことになる。そのとき、やっと自分は自分であることを自覚し、自分は「何者か」なんてことについて考えなくなるのである。

 

人との関係性が深まることはわずらわしいことも多いけれど、寂しさやむなしさに苦しまされることよりマシじゃないかな。

 

 

 

結局は、自身のキャラ化の苦痛から解放されるには、人から愛される努力を尽くさなくてはならない。

 

人から愛される方法はたった一つしかない。

 

それは、人を愛することである。

 

 

 

ファイアパンチ』の話から少し逸れたが、作者の意図がどうであれ、キャラ化すことでしか他者とコミュニケーションすることが困難になってしまった現代社会に生きていると、この漫画からいろんなメッセージを読み取ろうとしてしまう。

 

とにかく僕は、氷の世界で人々に崇められたり畏怖されたりする、全裸で燃えた主人公アグニの存在が、身体性の伴ったコミュニケーションによって他者とのつながりを深めることに対する現代社会の希望と絶望を体現しているとしか思えないのです。

 

ぜひ『ファイアパンチ』を読んでみてください!