ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ(89年生まれ)一児の父。好きなものは読書、映画鑑賞、息子ハルタとじゃれ合うこと。

『千と千尋の神隠し』の千尋の両親は豚の姿にならずとも、もともと豚だったのではないかという話

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さて、上の記事は、CookDo「中華が、家族を熱くする。」回鍋肉CMを批判するものである。

 

ブログ主さんは、大皿に並べられた回鍋肉を前にした子どもたちが、兄の「いただきますしてから!」と言う言葉を、「省略~!」と言って無視し、回鍋肉にがっつく姿にお怒りになっていらっしゃいます。食への冒涜だろうと。

 

内容に全面的に同意しつつ、僕がこの記事を読んでぱっと連想したのは、『千と千尋の神隠し』の序盤で、千尋の両親が料理をむさぼり食うシーンである。

 

 

 

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トンネルを抜けた先にある不思議な町にやってきた千尋千尋の両親。父親はおいしそうな匂いをかぎつけ、様々な料理がてんこ盛りになった皿が並べられている料理店を見つける。

 

千尋の両親は、店主の不在にお構いなしに、「いただきます」も言わず、いきなり料理に食らいつく。いくらお腹が減っていたとしても、下品過ぎる。しかもその料理はかなり得体の知れないものである。悲しき哉、飽食の時代。

 

千尋は本能からか、気味悪がって料理店に入ろうともしない。

 

宮崎駿監督作品において、豚は人間の果てのない欲望のメタファーである。

 

この後、両親が豚になってしまうのは必然と言えるだろう。

 

 

 

千尋は最初、お世話になる人(リン)に挨拶もできず、お世話になった人(釜じい)に感謝の言葉も言えない少女である。

 

しかし、これまでの人生のアイデンティティーである「名前」を湯ばあばに奪われ、「千」として働き始めてから、様々な危機に直面することで、環境に素早く適応し、潜在していた「生きる力」を著しい勢いで伸ばしていく。

 

これは子どもだけが持ちうる柔軟性である。さらに、少女である千尋は、金に関心を全く示さないなど、まだ無垢さを残している。

 

神隠しに遭うことなく、汚れてしまった大人の代表である、あの両親のもとで育っていたとしたら、眠っている千尋の「生きる力」は眠ったままであり、無垢さもすぐに消滅していたことだろう。

 

物語の終盤、湯ばあばは、豚の集団の前に立ち、どの豚がお前の両親か当ててみなと千尋に難題を出す。

 

数々の危機を乗り越え、感覚が研ぎ澄まされた千尋は「この中に、お父さんもお母さんはいない」と毅然と答える。

 

ずっと前に読んだどこかの評論に、このセリフは、「もうお父さんもお母さんも私には必要ない。私は一人で生きていける」という意味で読み取ることができると書いてあって、なるほどと思ったことを覚えている。

 

 

 

「親からの脱却」は、『千と千尋の神隠し』のテーマの一つであると言って間違いはないだろう。

 

環境に対する感謝や、謙虚さを忘れ、果てのない欲望にまみれた人間になることを避けるには、子どもの内からなんとかしなければならない。もう大人になってしまっては内面の変革は不可能なのである。

 

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先ほども述べたように、千尋の両親が豚となってしまったのは必然である。千尋の両親は内面に忠実な姿形になったという、ただ単にそれだけの話なのである。

 

 

 

かくいう僕も、豚の一人です。今夜はしゃぶしゃぶの食べ放題に行ってきます。