ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ(89年生まれ)一児の父。読書ブログを目指している雑記ブログです。息子ハルタとじゃれ合うことにはまっています。

息子が立った話と『新・日本の階級社会』と『故郷』の話

 1

 

近頃、鼻の左穴から鼻血が出やすい。数日前にハナクソを深追いしたことが原因だと考えられる。

 

それはさておき、もうすぐ一歳になる息子のハルタが立った。

 

1ヶ月ほど前から、何にも掴まらず立っている姿をちょくちょく見かけていたのであるが、最初の頃は10秒も経たずに倒れてしまった。現在では30秒ほど持続できるようになったので、「立っている」と表現して間違いではないだろう。

 

つたい歩きをしているハルタに、「たっち!」と声をかけると、「おお〜」とか言いながら掴まっていたものから手を離し、直立するのである。

 

「立つ」という行為がこれほど感動的であるだなんて! ハルタが直立して倒れるまでの間には、全米が泣くほどのドラマ性があった。

 

さらに、近頃ハルタは歩行にも挑戦している。しかし、まだ一歩目を踏み出すと倒れ込んでしまう。

 

がんばれ。これが二歩、三歩と歩けるようになったら、彼を泣きながら抱きしめてしまうかもしれないと、僕はハナクソをほじりながら思った。

 

 

 

講談社現代新書の新刊『新・日本の階級社会』を読んだ。

  

新・日本の階級社会 (講談社現代新書)

新・日本の階級社会 (講談社現代新書)

 

 

現代の日本社会が「階級社会」に変貌してしまった現実を、様々な社会調査データを基にして暴いていくといった内容である。

 

階級格差は加速しており、特に非正規労働者から成る階級以下の階級(アンダークラス)の貧困が甚だしい。しかも、階級は世襲として固定化しやすく、親の階級以上の階級に転じることは難しくなっている(逆に「階級転落」の可能性は高い)。

 

僕は大学卒業後、4年間の非正規労働者を経て、正規になったけれども、雇用形態による待遇の違いの大きさを実感した。正規でない頃は、「まだ若いからなんとかなるべ」という楽観と、金銭面などでの余裕のなさからやってくる「なんとかならないかも」という不安な気持ちが交互にやってきていた思い出がある。

 

この本では、格差拡大が社会全体にもたらす弊害が具体的に述べられて、読後、現代社会に対する危機感をちょっぴり持ったのでした。

 

 

 

なんらかの社会貢献を無理のない範囲でしてみたいという気持ちがにわかにわいてきた。

 

ほんの少し前まで社会に貢献したいなんて気持ちは一切なかったのであるが、子どもが生まれたことで社会に対する思いが少し変わった。『新・日本の階級社会』に書かれていることなどの様々な社会問題によって、子どもたち世代を苦しませたくない。

 

格差社会」や「次世代での社会の変革への願い」といった言葉で、最初に僕が思い浮かべるお話は、近代中国の文豪である魯迅の『故郷』である。

 

故郷

故郷

 

 

魯迅(1881〜1936)は、清が辛亥革命を経て中華民国に変わった激動の時代に生きた文豪で、無政府状態により民が苦しむ国の状況に失望し、文学によって中国人の精神改造を図ろうとした。

 

『故郷』 は、魯迅自身をモデルとした「私」が、20年ぶりに帰郷するところから始まる。「私」は、貧困に苦しむ故郷の人々の暗く絶望的な現実に打ちのめされる。「私」の家の雇い人の息子で、少年時代の親友である「閏土(ルントー)」も、子どものときの快活さとは打って変わり、暗い影を落とす大人へと変貌していた。

 

子だくさん、凶作、重い税金、兵隊、匪賊、役人、地主、みんなよってたかってかれをいじめて、デクノボーみたいな人間にしてしまったのだ。

 

大人になった「閏土」と対面して胸がいっぱいになっている「私」に対し、「閏土」は開口一番、「旦那さま!」とうやうやしい態度で言う。「私」は「閏土」との間に「悲しむべき厚い壁」が隔てられてしまったことを感じ、絶望する。

 

「閏土」の息子と彼を慕う自分のおいのことを「私」が思い、彼らには「新しい生活」をしてもらいたいと願う最後の語りが印象に残る。

 

思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

 

「道」とは希望のことだ。つまり、社会を変えるには、人々の希望を結集し、行動に移さなくてはならないということだろう。

 

 

 

息子よ、時間がかかってもいい、何度倒れても立ち上がるのだ。そして、自分の人生を自分のものとしてたくましく生きてもらいたいと、僕はハナクソをほじりながら願うのでした。