秋の夜長に『ホモ・デウス』
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なんか最近眠れない。
深夜、NHKEテレの『ニッポンのジレンマ』という番組をぼんやり眺めていると、イスラエル人歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリのインタビュー映像が流れた。あ、『サピエンス全史』と『ホモ・デウス』の筆者だ。
「新しいテクノロジーが、新しい社会のあり方を決定するわけではない。そのテクノロジーを人がどのように利用するかによって社会のあり方は変わる。人がテクノロジーの奴隷になるような未来はあってはならない」みたいなことを彼は言ってた。
僕は本棚から、読み終えたばかりの『ホモ・デウス』を引っ張り出した。パラパラとめくり、自分が赤線を引いたところを拾って読み直し、人類の近い未来に対して9割の不安と1割の希望を抱いた頃、やっと眠気がやってきた。
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『ホモ・デウス』、最高に面白い。読んだ人を絶対に後悔させない極上の読書体験を提供してくれる。
前作、『サピエンス全史』では、認知革命、農業革命、科学革命を人類の歴史の重大な転機と位置づけ、サピエンスがどのようにして世界を征服したかについて語られていた。ハラリの独特で鋭く新鮮な歴史観と語り口に、自身の先入観や固定観念を揺さぶられずにはいられなかった。
前作で人類の「過去」を語ったハラリは、今作『ホモ・デウス』で人類の「未来」を語る。「ホモ・デウス」とは、飢饉と疫病、戦争をほぼ克服した人類が次に目指す姿である。私たちが今後の歴史で目標とするのは、不死と幸福、神性の獲得である。
飢饉と疾病と暴力による死を減らすことができたので、今度は老化と死そのものさえ克服することに狙いを定めるだろう。人々を絶望的な苦境から救い出せたので、今度ははっきり幸せにすることを目標とするだろう。そして、人類を残忍な生存競争の次元より上まで引き上げることができたので、今度は人間をアップグレードし、ホモ・サピエンスをホモ・デウス〔訳注 「デウス」は「神」の意〕に変えることを目指すだろう。
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誇張ではなく、目次を読んだだけで、血が熱くなる感覚になり、内容の期待感にゾクゾクとする本書である。
人類の未来についてひたすら語られるのかと思いきや、サピエンスはどのような能力を持っているのかについて、ページをたっぷりと使って、『サピエンス全史』よりさらに深く語られる。なかなか予測を立てることの難しい人類の未来を語る上での土台作りを、丁寧に、そして周到に行う。
その土台作りで語られるのは、例えば、人類と他の動物との相違点である。どうして人類が世界を征服し、他の動物にはそれができなかったのか。
それは人類が単に知能が高かったからではないとハラリは言う。人類が世界を征服できた要因は、私たちが「虚構」を物語り、それを利用して多くの人間を結びつけ、大勢で柔軟に協力する能力を身につけたことにある。
同時に、人類と他の動物とが全く変わらない点もある。それは、前者も後者も、遺伝子やホルモン、ニューロンに支配された、ただのアルゴリズムに過ぎないという点である。
近現代の人間至上革命の中で最も尊重された、「私」の意識や意志さえも人類のこしらえた「虚構」であり、それらの意識や意志は、単なる脳内のデータ処理の結果であると本書は強調する。
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人類をアップデート(あるいは破滅)へと導く「データ史上主義」とは何かということについては、本書を読んでほしい。人間至上主義に取って代わる、このデータ至上主義について語られる最後の章に、僕は最も強い知的興奮を感じた。
現在、人間至上主義からデータ至上主義への移行は確実に進んでいる。
人間至上主義によれば、経験は私たちの中で起こっていて、私たちは起こることすべての意味を自分の中に見つけなければならず、それによって森羅万象に意味を持たせなければならないことになる。一方。データ至上主義は、経験は共有されなければ無価値で、私たちは自分の中に意味を見出す必要はない、いや、じつは見出せないと信じている。
データ教の信者は、テクノロジーの発展で実現する「すべてのモノのインターネット」と一体化したがり、「データフローと切り離されたら人生の意味そのものを失う恐れがある」と考えている。
自分しか読まない日記を書くのはこれまでの世代の人間至上主義者にとっては普通のことだったが、多くの現代の若者にはまるで意味がないことのように思える。他の人が誰も読めないようなものを書いて、何になるというのか? 新しいスローガンはこう訴える。「何かを経験したら、記録しよう。何かを記録したら、アップロードしよう。何かをアップロードしたら、シェアしよう」
実はこんな風にブログを書く行為も、ハラリの歴史観に立てば、自分がデータ至上主義者であることの証明なのである。
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テクノロジーとサピエンスの未来について広い視野を与えてくれる本書『ホモ・デウス』は2018年必読の書である。
秋の夜長のお供にもおすすめです。