ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

『悪霊』(ドストエフスキー)の話

 

モスクワに行けば、腹もすくわ

 

 

 

悪霊〈上〉 (岩波文庫)

悪霊〈上〉 (岩波文庫)

 

この作品においてドストエーフスキイは人間の魂を徹底的に悪と反逆と破壊の角度から検討し解剖しつくした。聖書のルカ伝に出てくる、悪霊にとりつかれて湖に飛びこみ溺死したという豚の群れさながらに、無政府主義無神論に走り秘密結社を組織した青年たちは、革命を企てながらみずからを滅ぼしてゆく…


『悪霊』はとても精密にできた群集劇だと言える。登場人物の一人一人が、丁寧に描写されており、リアルに感じられる。

 

そんな彼らの感情、またはそれに基づいた行動を読み手に説明してくれる存在が「わたし」(G)である。「わたし」の視点は物語中で何度も変化をする。ある場面では一人称、またある場面では三人称というように。このような語りの構造は、彼の自己の体験と、後に彼が取材して得た話を両立させていることが可能としている。

 

「わたし」は物語の中で次々と起こる事件にはあまり深くは関わってはおらず、重要人物とはいえないだろう。ピョートルには名前すら覚えてもらえない存在である。

 

注意をしてこの小説を読んでいると、彼には知りえるはずもない出来事を、彼が語っている箇所がいくつかあることに気づく。彼の視点はたまに、「神の視点」にも変化するのである。このような“実体の薄い”「わたし」に物語を語らせることによって、物語に、実際にあったかのような真実味を与えることに成功しているのではないだろうか。

 

 

 

さて、様々な登場人物の中で僕が最も魅力的に感じたのが、ピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホーヴェンスキーである。彼は、この物語の(おそらく)主人公であるスタヴローギンという人物を語る、狂言回しの役も担っている。

 

……それにしても、ロシア民族というのはなんておしゃべりが多いのだろうか。日本の小説ばかり読んでいる僕は、そんなことばかりが気になってしょうがなかった。ロシア人がおしゃべりなのか、それとも日本人が無口なのか。

 

特にこのピョートルはよくしゃべる! ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。彼のこの雪崩のような言葉が、様々な出来事を大げさにし、事件へと発展させているのではないかと思えるほどだ。実際に彼の存在が、他の登場人物たちに不幸をもたらしている。

 

レンプケは発狂し、シャートフは殺され、キリーロフは自殺した。しかも、遂に彼は自分自身をも不幸な状況へと貶めてしまうのである。彼がこの小説に、ドラマ性を与えていることは明らかだ。

 

 


そして、ニコライ・フセヴォロドヴィチ・スタヴローギン。主人公であるはずの彼について語られる場面はかなり少ない。彼という人間を知るのに、読み込むべきは、やはり「スタヴローギンの告白」の章であろう。

 

しかし、それでも彼については多くの謎が残る。これほど他の登場人物のことについて詳細に語られている中で、逆に“語られない”ということが、スタヴローギンという人物の異質さを際立たせているのだろう。

 

彼は悪徳を快感とする異常者である。彼のカリスマ性は周りの人々を熱狂させる。人々はスタヴローギンのカリスマ性ばかりを語り、彼を新時代の革命組織の理想、理念の象徴としたのである。

 

 

 

その新世代の象徴に対するのが、ステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキーだ。彼は旧世代を象徴する存在である。

 

読者は、ああ、なんて情けない不憫なおじいさんなんだと思ってしまうかもしれない(実際僕は思った)。いつも感情的で泣いてばかりいる。

 

しかし、この小説で彼が担った役割はとてつもなく大きい。旧世代の象徴の彼が他の人間に疎まれれば疎まれるほど、それがそのまま、この時代のロシアの混乱を語ることになるのである。

 

「わたし」はステパンの側近であり、ステパンについて語るとき、視点はほとんど一人称になる。ステパンの何もかもが、「わたし」によって語られている。なにも語られないスタヴローギンとは、ここでも対照的である。ステパンはスタヴローギンの鏡であり、この小説のもう一人の主人公と言えるのではないだろうか。

 

 

 

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ドストエフスキーさん

次は『白痴』にも挑戦してみようっと。