ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

『野火』の話ー極限状態で「神」は現れるか

 

頭をガツンと鈍器で殴られたような強い衝撃を受けた。最初に『野火』(大岡昇平)を読み終えてから2週間ほど経ったが、毎日この小説のことばかり考えてしまい、何度も読み直した。

 

野火(のび) (新潮文庫)

野火(のび) (新潮文庫)

 

 

敗北が決定的となったフィリッピン戦線で結核に冒され、わずか数本の芋を渡されて本隊を追放された田村一等兵

野火の燃えひろがる原野を彷徨う田村は、極度の飢えに襲われ、自分の血を吸った蛭まで食べたあげく、友軍の屍体に目を向ける…。

 

自分自身の無知がとてつもなく恥ずかしく思えた。僕は飢えを知らない。僕は生死の狭間を知らない。僕は戦争を知らない。

 

戦場から帰ってきた田村が戦争について語る言葉が、頭から離れない。

 

戦争を知らない人間は、半分は子供である。

 

とにかく、僕らは知らないことについて、さも知っているかのように語りたがるのであるが、知らないことについて何かを語る資格などあるのであろうか? 僕はこの小説で言うところの「子供」である。

 

『野火』のような極限状態に陥った場合、自身はどのような行動に出るだろうか。まったく予想出来ないし、それについては何も語れず、ただ漠然とした不安が拡がるのみなのである。

 

 

 

神に栄えあれ。 

 

という田村の言葉でこの小説は締めくくられる。彼の「神」は、過酷な戦場での体験や生死についての哲学をする中で、彼自身の内側から出現した神である。その神は彼が子供の頃に信じていたキリストとは、似て非なる神だ。

 

彼はフィリピン戦線の教会で思いがけず現地の女性を射殺してしまう。彼独自の神が現れたのはこのときであろう。彼はこの殺人について、自分はもはや「人間の世界に戻ることは不可能」と思うほど強い罪の意識を覚える。

 

「戦場での殺人は日常茶飯事」であり、フィリピン人の殺害は罪に問われない可能性が高い。罪に問われなければ、その罪を罰せらるのは、ただ一人。それは自分自身である。

 

ここから彼の分裂が始まっていく。彼は1つの個体でありながら、罪を背負った自分とその罪を断罪する自分とに分かれるのである。彼はその殺人のあと、度々誰かに見られている感覚に襲われるが、その見ている誰かは彼自身に他ならない。

 

彼の分裂が決定的なものとなるのは、彼が極度の飢えから彼の同胞の屍体の肉に手をつけようとする場面である。ここで彼の身体に非常に奇妙なことが起きる。屍体の肉を切り取ろうとした右手を、左手が押さえつけたのである。欲望と倫理のせめぎ合い。彼の神は彼の左半身に目に見える形で現れたのであった。

 

同胞が生前に言った、「食べてもいいよ」という許しの言葉が、逆に彼の神の力(倫理、理性、良心)を強固なものとした。彼は、見る田村(左半身)と見られる田村(右半身)とにはっきり分かれるのである。

 

彼は戦場から帰ってきて収容された精神病院で、野火に向かって歩く自分を「見ている」記憶を思い出す。

 

   再び銃を肩に、丘と野の間を歩く私の姿である。緑の軍衣は色褪せて薄茶色に変り、袖と肩は破れている。裸足だ。数歩先を歩いて行く痩せた頚の凹みは、たしかに私、田村一等兵である。

   それでは今その私を見ている私はなんだろう……やはり私である。一体私が二人いてはいけないなんて誰が決めた。

 

私が二人いてはいけないなんて誰が決めた?

 

 

 

戦場で極度の飢えに陥った田村は、狂う。

 

同胞の肉に手をつける自分自身をなんとか制止した彼は、「あたし、食べてもいいわよ」という野の百合の甘い囁きを聞く。飢える右半身。彼の左半身はそれをこんな風に理解する。

 

   私の左半身は理解した。私はこれまで反省なく、草や木や動物を食べていたが、それ等は実は、死んだ人間よりも、食べてはいけなかったのである。生きているからである。

 

彼は自分を含めた人間の身勝手で愚かな振る舞いに強い憤りを感じる。そして思考は飛躍する。彼は自身を神の代行者、つまり「天使」であると自覚するのである。

 

そして、その倒錯した使命感から、人肉を食する獣に堕ちてしまった同胞を殺害してしまう。

 

 

僕は狂いたい。

 

自身の選択で獣に堕ちるくらいなら、狂ったほうがましである。強い欲望から人間として決して許されない行為に足を踏み入れそうになったとき、自身を抑制する部分が自身の中から立ち現われてくれるであろうか。僕には自信がない。

 

……戦争が怖くて怖くて堪らない。

 

 

 

田村がフィリピン戦線で度々遭遇する「野火」は一体何の比喩なのであろうか。これは難解である。野火は彼の左半身的なもの(神性)に属するのか、あるいは右半身的なもの(獣性)に属するのか。

 

とにかく彼は野火を恐れている。野火への恐れは、同胞を殺害したのあとの欠落した(あるいは隠蔽している?)記憶への彼の不安と重なっているように見える。記憶が欠落している時間に野火へと向かったことだけを彼はかろうじて覚えている。なぜ恐れている野火に向かったのか? 彼は「比島人の観念は私にとって野火の観念と結びついている」と言っている。

 

彼は野火の下にいるフィリピン人を襲って、彼らを食したのかもしれない。襲ったとすれば左半身にとって恐るべきことであるし、襲っていないのだとすれば右半身にとって恐るべきことである。

 

野火は「禁忌」の比喩なのでないか。人間の倫理を守ろうとする神性は禁忌を破ろうとする獣性を、生命活動を維持しようとする獣性は禁忌を守る神性を非常に脅威に感じているのである。

 

 

 

この小説を原作にした、塚本晋也監督の映画『野火』(2015年製作)も非常に素晴らしい出来であった。小説ほど田村の内面の思索や葛藤にフォーカスできないにしても、映画でしか表現できない戦争のおどろおどろしさを、生々しい映像表現で描ききっています。必見。

 

野火 [Blu-ray]

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