ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

楽しい国語の授業と『使える!「国語」の考え方』の話

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学校の「国語」の授業は面白かったか?と聞かれると、率直に言って、ひどく退屈であったと答えざるを得ない。

 

小学生の頃の国語の授業の内容はディスカッションなんかがあったので割と覚えているんだけど、中高生のときは国語の時間が苦痛だったという思い出だけはあって、内容はほぼ覚えていない。中学生のときに『カメレオン』(チェーホフ)、『走れメロス』(太宰治)を読んだことだけは辛うじて覚えている。

 

中学校のときの国語の先生は、授業が最初から最後まで講義形式で、生徒側の活動がほぼなかったので、人の話を長いこと聞くことができない子供だった自分は非常に辛かった。その先生は終始教卓の椅子に座っていて、教科書を読んだり、作品の解釈を滔々と話しているだけで、何か黒板に書くこともなく、ノートをとらせることもなかった(ノートを学校に持って行っていない僕にとっては好都合だったが。ちなみに筆箱も僕は学校に持って行っておらず、散らかっている教室に落ちているだれかのペンを使っていた)。授業では話し合い活動はおろか、作文もなかった気がする(しかし、やっぱり夏休みには読書感想文の宿題が出た)。

 

まあそういう授業は当たり前だが、荒れた。大騒ぎをして授業妨害するやつとか、ズボンを脱ぎだすやつとか、教師が余所見しているときに酎ハイを飲むやつとか、鼻をかんだティッシュをそのまま自分の口に放り込んで咀嚼するやつとかいた。僕はそのころ漫画家になりたかったので、国語の授業のときには、他教科プリントの裏にせっせとイラストを描いていたのであった。

 

学校の国語は授業も面白くないし、勉強の仕方もよくわかないしで、「つまらない」科目という印象を学生時代ずっと持っていた。

 

 

 

ちくま新書の『使える!「国語」の考え方』を読んだ。

 

使える!「国語」の考え方 (ちくま新書)

使える!「国語」の考え方 (ちくま新書)

 

 

国語の授業はとかく批判されがちである。つまらない、役に立たない、小説を読む意味はない、といった声が聞こえてくる。そのため、論理力をつけるための内容に変えるべきだという意見も強まっている。でも、それで本当に国語の力はつくのだろうか? そこで、文学、論理といった枠にとらわれないで、読む力・書く力を身につけるための新しい考え方を提案する。これまでなかった国語の授業がここにお披露目される。

 

第一章「現代文の授業から何を学んだのか」では、多くの人が学校の国語に対する抱くモヤモヤが上手に整理されている。国語の授業への不満の一つとして挙げられるのは、教師による小説文の「解釈の押し付けがいやだ」というものである。筆者は大学生に聞いた、国語の授業に関するアンケートを載せている。

 

   国語の小説文に関する批判で、必ず挙げられるのが、「自由に解釈していいと言いながら、正解が決まっている」というものである。今回のアンケートでもやはりそれは挙げられた。

 

   小説に対する感じ方はそれぞれなのに、一つの答えを強要されるのが好きではなかったので、授業はほぼ聞いていませんでした。私は先生のオリジナル問題で、先生の考えと私の考えがまったく合わなかったので嫌いでした。(慶應義塾大学文学部・女)

 

筆者は続く章で、このような不満が起きる要因として、教師の指導法は別として、教科書に載る小説文が「解釈のブレが起きにくい」作品ばかりあるということを一因として挙げている。

 

第三章「教科書にのる名作にツッコミを入れる」では、高校国語の定番、芥川龍之介の『羅生門』を例として挙げ、「主題が明瞭すぎないか」と疑問を投げかけている。登場人物の心理がはっきり描かれすぎていたり、「老婆」がテーマを説明し過ぎたりしている。解釈のブレが少ない作品では、どうしても読み手の自由な読みの幅が狭まってしまうのである。

 

学校の国語では「教育にふさわしい」教材が選ばれてしまうことにも、筆者は批判的である。

 

   文学が果たす役割は、特定の見方の押しつけではなく、むしろそれを揺るがし、拡大していくことではないだろうか。

(中略)

もちろん、普通の学校で多種多様な作品を提示するのは難しいだろうが、生徒のレベルに合わせてできるだけ多くの出会いを作ると、思わぬ効果が生まれることがある。「教育的に正しい」ものだけを提示するのでは、それは生まれない。 

 

筆者は国語の授業での小説文の読み方の一つとして、「物語論」という読み方を提示している。物語論は、その小説がどのようにできあがっているかという構造を分析する読みの技術である。こういった技術を授業の中で学んでいけば、多様な物語を読み味わうことのできる汎用的な力にきっとつながっていくのではないだろうか。

 

こういった筆者による小説文の授業の考え方に加え、「論理的」とは何かだとか、理解しやすい文章のセオリーだとか、情報の整理の仕方だとか、リテラシーの身に着け方だとかが分かりやすく整理されて書かれていて、非常に勉強になったのであった。

 

 

 

紆余曲折あって僕が中学校の国語の教員になってから、今年度で5年目である。こういった本を読むとかなり刺激を受け、やる気が出てくる。

 

妻は学生時代、国語が大の苦手科目だったらしく、「作者の気持ちを答えなさい、とか本当意味不明だった」なぞと僕に言ってくる。「登場人物の気持ちを答えなさい、て問題はあるけど、作者の気持ちを答えなさい、なんて問題はないよ」と反論しようとするが、面倒くさくなりやめる。

 

僕は社会学部出身だが、大学卒業後に、通信教育で中高の国語の教員免許を取得した。どうして国語科を選択したかというと、いちばん授業の自由度が高そうだったからとただそれだけの安易な理由である。(その後、国語の授業の難しさに何度も挫折しそうになった)

 

授業をするのは楽しいし、教材研究は大好きである。中学生時代の自分がどうしたら面白がるだろうかと想像して、授業を組み立てている。管理職からは「君は本当に授業一生懸命で、面白い授業をするよね」と言われる。(「」は副助詞。他のことがらと対比する意味を付け加える)

 

この業界に入って、すごい授業をする先生は山ほどいることを知った。自分の授業などまだまだチンピラである。授業技術のなさは、目の前の生徒を楽しませたいという気持ちでカバーしている。そういう気持ちは結構生徒に伝わり、生徒が能動的に学習に取り組むきっかけにもなる。

 

しかしながら、生徒の善意に頼ってばかりではいられない。もっと国語の教養を身につけたいし、もっと授業がうまくなりたい。生徒の関心意欲を高め、かつ、力がつく授業ができるよう、研鑽を重ねていきたいです。