平成のおわり、桜、令和のはじまり
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改元なぞどうでもいいと思っていたが、新しい元号の発表に何故か妙にワクワクしてしまったのであった。「令和」という新元号を書いてみたくて、あらゆる書類の「平成31年度」と表記してあるところの下に「令和元年度」と書き加えた。
大伴旅人が詠んだとされる、「令和」の典拠となった『万葉集』の漢文の一文も美しい。書き下し文はつい口ずさみたくなる。
時に、初春の令月にして、気淑く風安らぎ、梅は鏡前の粉を招き、蘭は佩後の香を薫らす。
実現はなかなか難しいとはわかっていても、誰もが、新たな時代が、うるわしく、平和な時代になることを望んでいるはず。「令和」の響きはその実現に希望を持たせてくれます。
2
古典の世界では花と言えば梅であるが、現代では花と言えばやっぱり桜である。
先週仕事を早めにあがり、2歳の長男・ハルタとお散歩ついでに近所の神社にお花見に行った。暖かい日が続いていたが、ちょっとこの日は寒かった。三寒四温。
子供の成長は早い。一緒に外を散歩ができるようになって嬉しい。このブログを始めた1年半前は、ハルタはまだ歩くことさえままならなかった。
神社には僕ら親子以外誰もいない。境内の桜はきれいに咲いていた。
ハルタは境内の砂利をひとつひとつ摘んでは、僕に「ドーゾ」と言って渡した。かわいい。『枕草子』の「うつくしきもの」の段を思い出す。
二つ三つばかりなるちごの、いそぎてはひ来る道に、いとちひさき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなるおよびにとらへて、大人になどに見せたる、いとうつくし。
また今年度もめちゃくちゃ忙しくなる予感。それでもこういった家族との時間を蔑ろにせず、大事にしていきたいです。
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妻は、4月1日に新橋で配られた新元号発表の産経新聞の号外をメルカリで手に入れた。そんなものをメルカリで売る方も売る方だが、買う方も買う方である。届いた号外はしわが多い。号外が配られた現地では、それの激しい争奪戦になったらしく、人に奪われないためにくしゃくしゃに丸めたそうだ。
元号の良いところは、元号を主語に置くことで、日本のその時代をひとまとまりと捉え、多くの人と同じ物語を共有できるところだと思う。西暦のディケイドで時代を語るのもいいけど、「昭和は〜」「平成は〜」「令和は〜」といった語りにはやはり何かぐっとくるものがある。
平成が終わる今年、僕は30歳になる。平成は僕の人生の第一幕であると思っている。令和と始まる第二幕では、今の自分の状態に安住することなく、様々なことに挑戦を続けたい。
とりあえず手始めに、社会科の教員免許とバスケットボールの審判のC級のライセンスを取得しようと桜を眺めている時に思い立ちました。