ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

無力感で気だるい

 

近頃知り合った美大生が『1つと3つの椅子』という作品を教えてくれた。美術作品に疎い僕にとって、彼女の話は興味深かった。

 

f:id:gorone89:20190602202038j:plain

1つと3つの椅子(1965年)



真ん中にあるのは実物の椅子、向かって左にあるのは椅子の写真、右にある文章は椅子の辞書的な説明である。「『椅子』とは何か説明できますか?」と彼女。僕は「大抵の椅子には脚がある。で、人が座るために使う」と陳腐な返答しかできない。

 

「でも真ん中にある実物の椅子でさえ座ることはできません。展示なので。見るだけです」。つまり並ぶ3つの椅子は、記号(観念)として椅子なのである。それぞれの椅子の存在の意味と、その関連性について考えずにはいられない。そして、「椅子とは何か?」という疑問が湧き、その答えにはなかなかたどりつかない。考えさられる芸術である。

 

『1つと3つ椅子』は、ジョセフ・コスースが製作したコンセプチュアル・アートの代表作なんだそうな。コンセプチュアル・アートとは、1960年代から1970年代に盛り上がった前衛芸術運動であり、アイデア芸術とも言われる。作品の物質的側面ではなく、観念的側面を重視したアートである。

 

 

 

「椅子とは何か?」という問いは、「存在するとは何か?」という究極の問いに飛躍する。古来より、哲学者はこの問いと格闘してきた。

 

観念としての椅子の存在と、今僕が座っているこの椅子の存在にどれだけの違いがあるのか?   僕が今座っている椅子を椅子と認知できなければこれは椅子として存在していることになるのか?  僕の頭の中で思い描いているヘンテコな椅子は果たして存在などしていないと断言できるのであろうか?

 

僕の2歳の息子は、よく空を指差し見上げ、「あ、アンパンマン!」と言う。もちろんアンパンマンが空を飛んでいるはずがない。しかし、それが幼児の妄想だとバカにすることができるだろうか?  息子は空でパトロールしているアンパンマンの存在を確かに信じている。

 

僕たち大人だって目に見えないものを信じている。愛、信頼、人の道理、他者の良心……そういったものの存在を一応信じることが社会秩序を保つ力となっている。

 

 

そういった社会秩序を支える存在を信じる心が揺らぐことが起きたとき、人は動揺する。

 

 

 

 

登戸の事件には、当事者でもなんでもないのに、どういうわけか僕は非常に衝撃を受けた。かなり堪えている。

 

 

近頃このニュースばかり追っている。子供ができたからであろうか、子供が巻き込まれる事故・事件に非常に敏感になった。容疑者はなんて取り返しのつかないことをしてしまったのか。許せない。死ぬのだったら、1人で死んでくれと言いたくなる気持ちも分からなくない。僕は人の良心の存在を信じたいが、それが大きく揺らいだ。いつもと同じ通学の朝、児童に悪意を向ける人間がいようとは誰が想像できたであろうか。襲われた児童の恐怖と、遺族の悲しみを思うとなんともやり切れない。容疑者は自殺してしまったので、動機についてはもう知りようもない。社会秩序とは?   誰もが安心して、幸福に暮らせる社会の実現なんてバカげた妄想なのだろうか?   こういう防ぎようのないアクシデント的な事件は、社会秩序を保つプログラム的には織り込み済みのことで、自然現象と同じで、しょうがないことなのだろうか?    被害者の悲しみを想像すると、そうは思いたくない。……容疑者のような人間をつくってしまったのは社会の責任なのか? つまり僕の責任か? じゃあ僕に何ができる?  もうそれらについては何も分からないし何を語っていいのかもわからない。  とりあえず確かのは、僕の愛する人も不意に悪意を向けられ殺されてしまう可能性があるということだ。無力感で気だるい。

 

 

支離滅裂な記事になってしまった。

 

 

とにかくどんな理由があろうとも、お願いだから子供を殺さないでください。