ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ(平成元年生まれ)。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

マルクス・ガブリエルは哲学の革新者なのか?-『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』を読んで

 

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先日起きた、中東のホムルズ海峡地点でタンカーが攻撃を受けた事件関連のニュースを追っている。今回の件での、ドナルド・トランプ米大統領のやり口はえげつない。イランによるタンカー攻撃の証拠が十分ではないのにかかわらず、わずかな時間で、その権力とメディア操作によって、イランの犯行を「事実」に仕立て上げてしまおうとしている。

 

トランプ大統領による怒涛の攻めは、まるでショーを見ているかのような心持ちになり、現実感がない。ただ、僕たちは真偽について確かめようがなく、あふれる情報の波に翻弄されるばかりなのである。

 

 

 

マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』を読んだ。以前、マルクス・ガブリエルの哲学書、『なぜ世界は存在しないのか』を楽しく読んだので、彼の思想に興味を持っていたのである。

 

マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する (NHK出版新書 569)

マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する (NHK出版新書 569)

 

 

マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』の中で、彼はトランプ大統領を「ポストモダン的天才」と呼んでいる。ガブリエルはポストモダンについて、「何もできないし、何であれそれに対して何の意味もないし、何の構造もないし、何の存在もないし、現実も真実もない」と定義している。

 

「表層の時代」であるポストモダンは、現実感を帯びないソーシャルメディアと非常にマッチしている。トランプ大統領は、ソーシャルメディアこそポストモダン・プラットフォームだということを完璧に理解していて、twitterなどを駆使し、このプラットフォームを「人々を統治するため、そして経済的な豊かさを作り出すため」活用しているとガブリエルは分析する。

 

余談であるが、『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』の著者で、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリの思想も、ガブリエルの説くポストモダンの思想と合致しているように僕は思えた。

 

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ハラリは著書の中で、貨幣、国、宗教、道徳観といったものはすべて人類の作り上げた虚構であると強調している。僕は彼の著書を読んで、現実の世界は、それほどコンピューター・シュミレーションの世界と差異はないのではないかという考えに至った。

 

しかし、ポストモダンの時代に生きる僕たちは、ハラリにわざわざ指摘されるまでもなく、何もかもは虚構であると薄々感じていたのかもしれない。すべては虚構であるという考えはあまりに寂しく、生きている「はり」もなく、単純なニヒリズムに陥る可能性もある。それらを回避するために、虚構と知りながらも、僕たちは「あえて」その虚構と戯れているのではないか。

 

 

 

「真実などない、真実にアクセスする方法もない」というポストモダンの思想に、相対主義は強く結びつく。哲学における相対主義の定義は、「すべての意見はほかの意見と同じくらい良いものである」というものである。つまり、相対主義は「ものごとの事実などないと論じる」とガブリエルは言い、しかしながら、相対主義は「常に一般的に正しいはずなどない」と続ける。

 

よく知られているように、相対主義は自己言及のパラドックスを孕んでいる。相対主義は「ほかの意見を正しいと認める」論であるから、「相対主義は正しくない」という意見も認めなくてはならないことになってしまうのである。この相対主義への批判に加え、ガブリエルは「子どもを拷問してもいいのか?」という道徳観を例に出す。

 

   僕は、絶対的大多数の人間が、ロシア人であれ日本人であれインド人であれドイツ人であれ、「子どもを拷問していいのか」という質問に対して「NO」と答えるだろうと説く。当然だよね?  「子どもを拷問していいか」だ。

   答えはNOだ!  もちろん子どもを拷問していいはずがない。

 

ある種の道徳観は絶対的であり、相対化などできないと主張する。ガブリエルがこの相対主義を乗り越えるために提示する新しい思考の枠組みが、「新実在論」である。新実在論はフランスの哲学者、クァンタン・メイヤスーの議論に端を発する。

 

 

 

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最近読んだ『社会学史』(大澤真幸)の最終章では、今後の社会学の発展を救うのは、メイヤスーが議論を展開している新実在論である「思弁的実在論」ではないかと書かれている。著者の大澤真幸曰く、社会学の本格的な理論的な発展は、前世紀末の二クラス・ルーマンミシェル・フーコーツインピークスのところで終わっているそうだ。

 

思弁的実在論の狙いは何かと言うと、相関主義を超えて、実在を復権させることである。「相対主義というのは、思考と世界は相互的な相関の関係にある、という考え方です。」と大澤。メイヤスーはこの思弁的実在論によって、思考とは無関係な、なまの「実在」を救い出そうとしている。『社会学史』では、近代哲学のトレンドである相関主義の欠点を以下のように述べていた。

 

    相関主義は哲学的には主流かもしれませんが、自然科学とは相容れません。誰も認識するものがいなくても、ビッグバンは実在したと言えなくてはなりません。自然科学だけではなく、私たちね常識とも、相関主義は対立します。思弁的実在論は、相関主義を乗り越えて、実在をなんとか回復しようとしている、と言いました。ということは、思弁的実在論は自然科学や常識の味方です。

 

ガブリエルの著者を読むと、彼は哲学的史を俯瞰して、自身の思想を新実在論の潮流の中に位置づけていることがわかる。このポストモダンの時代に、なまの「実在」を掴み取るために私たちができるかとは何なのか。ガブリエルは『マルクス・ガブリエル  欲望の時代』の中で、事実(真実)を知ることに努めなくてはならないと結論づける。

 

   僕らは、今こそ、本当の事実を見つけ出すため、人類全体として力を合わせなければならない。経済的事実、宇宙に関する事実、そして道徳的事実。

 

 

 

ガブリエル独自の新実在論は、『なぜ世界は存在しないのか』に書いてある。

 

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その主張は、「わたしたちは物および事実それ自体を認識することができる」ということと「物および事実はそれ自体は唯一の対象領域(→意味の場)にだけ属するわけではない」ということのテーゼからなる。僕はこれを読んだとき、後者のテーゼに面白さを感じた。物や事実などの存在は、無限の意味の場に現れることができる。

 

しかし、『マルクス・ガブリエル  欲望の時代』を読んで気づいたが、この主張は相対主義と変わらないのではないか。僕はガブリエルの説く新実在論を「わたしたちが認識する物事は、どれも一面の意味に過ぎない。しかし、意味は尽きることはなく、見方によって多様な意味に出会える可能性がある」と受け止めたが、それは「すべての意見はほかの意見と同じくらい良いものである」という相対主義と僕の中ではどうしても結びついてしまう。ガブリエルは相対主義を乗り越えようとして、逆に相対主義に飲み込まれているのではないか。

 

僕の哲学的知識が浅はかで、読解力が足りないだけか。なんかすっきりせず気持ち悪いので、もう一度、『なぜ世界は存在しないのか』を読み直してみた。

 

わたしたちはーー少なくとも、この文章を書いている今このときは認めざるえないけとですがーー誰もがいずれは死ぬほかありません。それに不幸が数多く起こっていること、必要のない理不尽な苦しみがあることにも、疑いの余地はないでしょう。しかし、わたしたちは以下の点もわかっているはずです。すなわち、どんな物ごとでも、わたしたちにたいして現象しているのとは異なっていることがありうる、ということです。それは、存在するいっさいのものが、無限に数多くの意味の場のなかに同時に現象しうるからにほかなりません。わたしたちが知覚しているとおりの在り方しかしていないものなど存在しない。むしろ無限に数多くの在り方でしか、何ものも存在しない。これは、ずいぶんと励みになる考えではないでしょうか。

 

もしかすると肝要なのは、「どんな物事でも、わたしたちにたいして現象しているのとは異なっていることがありうる」というところではないか。これは、つまり「偶有性」のことである。

 

大澤真幸は、先に紹介した『社会学史』で、「偶有性」を「この世界がまったく別のものになりうる」ということと説明していた。新実在論をリードしているメイヤスーは、「『偶有性』だけが、相関主義的な循環(思考と世界の相互依存の関係)から独立した、絶対的な実在である」と言っている。大澤は「偶有性」を社会の原理として置くことで、相関主義(おそらく僕の考えでは相対主義ポストモダン)も乗り越えることができるのではないかと主張している。

 

ガブリエルは、『なぜ世界は存在しないのか』の中で、ほかの物事はどれも相対化されてしまう可能性があるが、「どんな物事でも、わたしたちにたいして現象しているのとは異なっていることがありうる」という偶有性だけは絶対的だということを言いたかったのではないか。もしそうだとすれば、ガブリエルは哲学はもちろん、他の周辺の学問をも本当に刷新する思考の枠組みを構想していることになる。

 

だんだんと頭がこんがらがってきたぞ。……しかしながら、僕はどうしても『マルクス・ガブリエル  欲望の時代』と『なぜ世界は存在しないのか』とでガブリエルが矛盾していることを言っているような気がしてならない。

 

マルクス・ガブリエルは哲学の革新者なのか、はたまた単なるペテン師なのか。それは、ある程度時が過ぎてからでないとわからないのかもしれない……と偉そうに言ってみる。おしまい。