ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

物語文学の発展と「もののあわれ」の話

 

夏になってから、角田光代訳の「源氏物語」を、原文と照らし合わせながら読み進めている。

 

 

学生のときにはよく分からなかった「もののあわれ」の感覚が、30歳手前にしてようやく分かってきた気がする。「もののあわれ」とは本居宣長が提唱した理念で、折に触れ、五感が触発されて生じる、しみじみとした情緒や哀愁のことをいう。近頃、日本の文学を読むと僕は、その作品に内在する「もののあわれ」を自然と感じ取ってしまい、心動かされずにはいられないのだ‥‥とか言ってみたり。

 

本居宣長は、この「もののあわれ」の頂点が、物語文学の最高傑作「源氏物語」であると規定した。

 

 

 

物語文学は、「古事記」に代表される叙事文学と、「万葉集」に代表される抒情詩の二つの流れを汲んで生まれた。物語文学の嚆矢は、九世紀後半頃に成立されたとされる伝奇物語の「竹取物語」である。後に成立する「源氏物語」に、「物語の出で来はじめの親なる竹取の翁」と書かれていることからもわかるように、平安中期から長く物語の祖として認知されてきた。

 

 

同じ伝奇物語として「宇津保物語」などがあり、「竹取物語」同様空想的な要素を多く含み、抒情性には乏しい。伝奇物語は神秘的なものへのこの時代の人々の憧憬を強く感じさせる。

 

叙事性の強い伝奇物語に対して、和歌の持つ抒情性を強力な要素として巧みに取り入れたのが、「伊勢物語」に代表される歌物語である。「大和物語」「平仲物語」なども歌物語に分類され、短い地の文に数種の歌を加えて一段を形成するのがその特徴である。実話性のある物語の存在が、和歌の持つ抒情性の美しさをより際立たせる。「伊勢物語」では、恋愛を繰り返されしながら盛んに見事な和歌を詠む“昔男”の人間性が魅力である。現代の読み手であっても、その人間性に親近感を覚えてしまう。

 

これらの伝奇物語や歌物語の持つ美を総合し昇華したものとして現れたのが、古典文学の最高傑作といわれる「源氏物語」である。十一世紀初頭に紫式部によって書かれた。類稀なる美貌と才能に恵まれた貴族、光源氏のさまざまな女性との恋愛を中心として物語は展開される。その強固な構成を背景として、叙事性、抒情性、観照性、写実性などさまざまな特性を紫式部は結実させている。平安遷都から二百年を経て円熟した貴族文化と、そこで形成された日本人の心を自由に表現できるかな文字が、一人の女性にこの物語を書かせることになった。

 

源氏物語」全編の底流をなす美意識が、「もののあはれ」である。移りゆくものに即して現れる、しみじみとした深く広い無限の感情が登場人物たちや、作り手の姿勢から感じ取ることができる。そして、その美意識が私たち読み手の心を打つのである。「源氏物語」は物語文学のひとつの話型、ひとつの美を完成させてしまったと言っていいだろう。写実性の強さが特徴である小説物語にこの「源氏物語」、さらには「落窪物語」「堤中納言日記」などが分類される。

 

 

 

源氏物語」以後の物語文学のほとんどに、その影響が伺える。「更級日記」の内容を見ると、その作り手である菅原孝標の女が「源氏物語」に大きく傾倒していたことがわかる。彼女が書いたとされる「夜半の寝覚」に、こんな一文がある。

 

ただ我に成てみるだに涙とどめがたかく、心ふかく、書きつくせ給ひて

 

ここで使われている「心ふかく」は“考えが深い”という意味ではなく、“情が深い”という意味で使われており、「源氏物語」の“あはれ”に通じるものを感じることができるのである。しかし、「源氏物語」以後の物語文学はその美意識を受け継いではいたものの、それほど大きな発展はなかった。

 

時代が中世へと移っていくにつれ物語は、事実性の尊重に主眼を置いた物語と、退廃的な浪漫趣味をもつ物語のふたつに分かれていった。前者は「栄華物語」や「大鏡」などのような歴史物語、「平家物語」や「太平記」などのような戦記物語であり、後者は「住吉物語」や「今とりかえばや」などのような懐古物語である。歴史物語や戦記物語は実録性や叙事性が顕著で、力強さがある。懐古物語は前代の物語文学の模倣に過ぎず、エネルギッシュさに欠けると言わざるを得ないだろう。

 

 

平家物語」では、平家一門の栄華から没落へと向かう“あわれ”が強調して描かれている。その“あわれ”の底に流れる仏教的な無常観は日本人の美意識の特徴のひとつとして現在でも認識されているのである。この美意識も「源氏物語」の「もののあはれ」の延長線上にあると考えてよいだろう。

 

 

 

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紫式部さん

作品にいちいち感動したり涙しやすくなったのは、「もののあわれ」が理解できるようになったわけでなく、単に大人になって共感力が上がっただけという可能性も考えられます。