ゴロネ読書退屈日記

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イリイチの思想ー『脱学校の社会』を読んで

 

社会思想家であるイヴァン・イリイチの『脱学校の社会』を読んだ。

 

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)

 

 

彼はその中で以下のように語っている。

誰もが学校の外で、いかに生きるべきかを学習する。われわれは教師の介入なしに、話すこと、考えること、愛すること、感じること、遊ぶこと、呪うこと、政治にかかわること、および働くことを学習するのである。

 

私たちは日常生活および社会生活を生きていく力を学校を通じて学習できることを“信じて”、国から与えられた教育を享受してきた。産業社会の生み出したこの教育の形の中で長いこと生きてきた人々は、その形の在り方を外側から問い直すことをあまり行ってこなかった。イリイチはこの現代の教育制度に懐疑を抱き、ただ受容するだけの教育を批判し、人々が自律的に学習に取り組んでいく教育の在り方への変容を望んだ。

 

このイリイチの思想はただのユートピアではなく、改革が叫ばれる現在の日本の教育にとっても、大きな参考となる思想であろう。

 

 

 

現代社会の象徴である産業化は、教育だけではなく、医療、仕事、文字などさまざまなものを“制度化”した。この制度化は人々をそれに従属させ、自律性を奪ってしまったのである。私たちはこの制度を一度離れれば生きることが困難になってしまうほど、それに依存している。産業化による制度化は、教育を、自身で学習する力を奪う学校化を意味させることとなった。

 

イリイチは「隠されたカリキュラム」という言葉で、この現代の学校の問題の本質を指摘している。私たちは専門的に教授されて知識が経済的な価値を持つと信じ、学習することはすべての授業に出席することだと信じ、成績上位の学校を卒業すれば社会的にも高い地位や待遇を得られると信じている。僕は大学時代、教員となるため、文科省教育委員会が定めた教職に関する授業に参加し単位を取得していた。教員免許を取得すれば、制度的にはそれだけの能力があると認められることとなり、自身でもそれだけの能力を自分は持っていると考えるようになるだろう。

 

しかし、これは本当に自身のための学習となっているのだろうか。「隠されたカリキュラム」は、私たちに教授と学習を同一視させ、進級を教育と混同させ、資格免状を能力の証であると信じ込ませるのである。

 

フリーターやニート、就職先とのミスマッチによる早期退職が社会問題化しているのも、この学校化への依存が要因となっている部分が大きいのかもしれない。自身の中学生や高校生の頃のことを思い出すと、将来や人生に対して深い考えを持っていなかった。そういう学生は少なくないはずである。ただ段階的に学校での学習を続けていけば、将来的には社会での一定の地位や生活を得られるはずだとどこかで信じていたのである。

 

しかし、それでは本当の学習とは言えず、自分で自ら学び、自ら考え、主体的に判断・行動していく「生きる力」を身につけていけるはずもないだろう。「生きる力」を生徒に身につけさせることは、いわば、学校化への依存を小さくしていくことだと僕は考える。生徒の「生きる力」を育んでいくためには、教師自らが「生きる力」を身につけていなくてはならないだろう。そのためにも教師は、「隠されたカリキュラム」のような学校教育の矛盾に対し、自分自身の深い考えを持っておくことが大切なのである。

 

 

 

イリイチは「脱学校論」を唱えたが、無批判的に学校を廃止することには反対している。学習や知識の基本概念、個人の自由と学習知識の関係などを変えることを提唱したのである。

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イヴァン・イリイチ

彼は自主的な学習機会を保障する四つの試みを提唱している。

 

第一は、教育的対象に対する関連サービス。誰もがいついかなるときでも学習しようと思えば、学習の機会を保障し、かつ学習に必要な手段や教材を利用可能とすることである。

 

第二は、技能交換。自分の知り得た知識や技能を他の人々に教授することを希望する人、そして、その知識や技能を学ぶことを希望する学習者の出会いを保障することである。

 

第三は、仲間同士の出会い。公衆に問題提議をしようと望む人、あるいは学習の仲間作りを希望する人に対して、そのための機会を保障することである。

 

第四は、大きな範囲で教育者を提供するサービス。すべての教育者は自らの情報を公開し、学習者のアクセスを容易にして、選択可能なようにすることである。

 

つまり、イリイチは学校以外の学習のネットワークづくり、共同体づくりを目指したのである。これはとても魅力的な提唱であり、これが実現されれば、学習者は自らの意思で自律的で積極的な学習を行っていけるだろう(学習意欲のある者とない者に大きな格差が生まれてしまう懸念もあるが)。


イリイチの理想とする学習の在り方に、今すぐ現在の教育を切り替えてしまうことは現実的に不可能であろう。学校教育の利点も多くあるであろうし、イリイチの思想の実現が、学習の在り方として本当に正しいのかどうか僕にはわからない。しかし、変化が常態化する現代社会を生き抜く力を子供たちに身につけさせるためには、学習のネットワークづくりというイリイチの考え方を上手に学校教育に取り組んでいくことが望まれる。

 

 

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イリイチの思想は、教育者に学校とは? 自律的な学習とは? といった問いを持たせる。答えの出ない問いではあるが、このような問いについて深く考えることが柔軟な思考を生み、教育の幅を広げることにつながるんじゃないかな。