「知」と「愛」のバランスの話ー『善の研究』を読んで
1
近頃、「あたま」を使いすぎている。頭蓋骨の間からプスプスと煙が出ている感覚がする。
「考える」とか「判断する」といったことにウンザリしているのである。ブルース・リーだって「Don't think. Feel!」と言っていたじゃないか。……感じたことを感じたままに受け入れたい!
2
土曜の夜、父と母、そして25歳の弟と食事をした。
僕の前に座った弟は、「食事中にする話じゃないんだけど」と前置きして、近頃、ビルの高層階のトイレで大便をすることにはまっていると言った。自身のそれが下水管を通ってはるか下に流れていくことを想像するのが快感なんだそうだ。先日は大便をするために、わざわざ東京スカイツリーに登ったらしい。本当に食事中にする話ではない。
「ちなみに……」と弟は続けた。「ネットで調べたんだけど、東京スカイツリーくらいの高さになると、流れる大便の落下スピードは最終的に、もし人間に当たったとしたら、その人を殺してしまうほどのスピードになるんだって。だから、スカイツリーの下水管の内側には突起がいくつもあって、流れた物をそれにバウンドさせて、落下スピードを抑えているらしいよ」……話がしょーもなさすぎて、僕は笑ってしまった。そういえば、子供の時から兄弟でこういう下品な話をしていた。
「近頃仕事はどうよ?」と僕は聞いた。弟は川崎で一人暮らしをしていて、この休日は実家に帰ってきていた。つい半年前まで地元のスーパーマーケットに勤務していて、そのときは実家から通勤していた。スーパーの仕事は激務で、いつ見ても彼は疲弊している様子だった。
店舗勤務のある日の夜、お客さんから店に「買った大根が腐っている」という電話があったそうだ。弟は自転車でそのお宅へ新しい大根を届けに向かった。途中、縁石につまづき、自転車もろとも転倒してしまった。そして、その衝撃で新しい大根は真っ二つに折れてしまったのであった。
二つに折れた大根を眺めながら、弟は「この仕事辞めよう」と思ったそうだ。弟は上司に辞意を伝えた。すると、どういうわけか本社勤務を命じられた。弟は辞意を保留し、現在は東京の本社で経理の仕事をしている。
本社の仕事は緊張の連続であり、加えて、一人暮らしの生活はかつかつのようで、継続して苦労しているようだった。……みんな生きるの大変そうだなあ。ストレスの中で、スカイツリーでうんこしよう!って発想が生まれてもそりゃあ不思議ではない。
兄弟とは不思議なものだな。親子ほど密でなく、男と女ほど絡み合いもしないが、弟がもしも腕を切られたとしたら、俺の腕がもがれたように痛む。
この気持ちすごくよくわかるなあ。……でも、どうしてこのような気持ちになるのだろう?
食事中、父は孫2人とじゃれ合っていた。父の体調が回復して本当に良かった。昨年のこの頃は、父がうつ病になって大変だった。昨年の僕は父の心の苦しみ、その父を心配する母の不安を「感じ」、なんとかしようと、必死に対話し、考え、動いた。
離れて暮らしていても、家族の痛みは自身の痛みであり、家族の喜びは自身の喜びであった。近頃、僕はこのような自然な心の働きに、どういうわけか不思議さを抱かずにはいられなかった。この心の働きを「絆」という言葉で表現しても、まだ甘い気がする。
そういった心の動きは人として当たり前であり、疑問を挟む余地もないだろうと思われるかもしれない。しかしながら、息子という欠けがないのない、自身の命だって投げ出せる存在ができた今だからこそ、その当たり前を見つめ直してみたいという気持ちがわき上がってきたのである。
3
前置きが長くなってしまったけど、今日は『善の研究』の話がしたいんです!!
知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられて居る。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。しからば如何なる精神作用であるが、一言にて云えば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。
主客合一は、「あたま」だけを使って理解しようとしても作用しない。主客合一には、「心」=「いのち」=「愛」の力が必要とされる。
また我々が他人の喜憂に対して、全く自他の区別がなく、他人の感ずる所を直ちに自己に感じ、共に笑い共に泣く、この時我は他人を愛しまたこれを知りつつあるのである。
今年で僕は30歳になった。30年の間、僕は家族と共に笑い、共に苦しみ、時に憎しみ合ったりした。感情の共有体験を重ねる内に、西田の言うように自他の区別がなくなってしまい、心と心がぴったりと張り付いてしまった。これが「愛」の作用である。
西田は、自己が能力を発展し円満なる発達を遂げる「発達完成(self-realization)」こそが、人の「最上の善」であると定義する。しかし、一個人でどれだけ「知」を蓄え、考えても、「発展完成」にはつながらない。「知」と「愛」のバランスの上で、対象(他者)と心を重ね合わせられるようになってはじめて、「発展完成」のきっかけが得られるのである。
4
ところで、他者と喜怒哀楽を共にするとき、僕の心(=いのち=愛)は、他者のために動いているのと同時に、他者によって動かされている。主語が不明瞭になり、「あたま」で考える前の、能動とも受動とも言いがたいありのままの体験(純粋経験)で感じたこと(もの)こそが「実在」であると西田は言っている(多分)。
西田はこの「実在」に神の存在を見いだしている。「愛」の作用でしか神は捕捉できない。そういえば、西田がたたたえている、親鸞の言葉をまとめた『歎異抄』では、ここに阿弥陀仏の不可思議なはたらき(他力)があることを唱え、その存在を感じ、信じることで救われると説いていた。
「あたま」ばかりを使う毎日に嫌気が差している近頃の僕は、つまり、この「愛」の作用で立ち現れる「実在」とつながっているという意識を常に持っていたいという気持ちが強まっていたのであった。西田は『善の研究』の中で、こう説く。
純粋というのは、普通に経験といって居る者もその実は何らかの思想を交えて居るから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じて居るとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。
学べば学ぶほど、僕は自身を「思想」「思慮分別」「判断」でガチガチに武装している気がする。そして「心」=「いのち」=「愛」をないがしろにしているのではないか。この武装は非常に利己的な行為であると思う。ありのままの自分や、対象(他者)とのありのままの関係は、「愛」による「利他」「無私」の中でしか立ち現れないのである。
僕は『善の研究』を読む中で、「愛」の力を大切にし、「自他合一」の作用に今後注目し続けることを肝に命じた。そして、時間がかかってもいいので、いつか「最上の善」の境地にたどり着きたいと思った。
5
「あたま」を使うことにウンザリしていると書いたが、やっぱり考えることは楽しい作業でもある。『善の研究』は難解であったが、「あたま」を働かせ、考え、理解しようとする試みは心躍った。学んだことが腑に落ちることは、学ぶことの最上の喜びである。
しかしながら、何度も書くが、「知」と「愛」(=「心」=「いのち」)のバランスを大事にしたい。頭と心で学びと向き合っていきたいのである。
学問は畢竟lifeの為なり、lifeが第一の事なり、lifeなき学問は無用なり。急いで書物をよむべからず。
西田幾多郎 『善の研究』 2019年10月 (NHK100分de名著)
- 作者: 若松英輔
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