『居るのはつらいよ』を読んでーデイケアと学校の共通点の話など
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愛聴しているラジオ番組「文化系トークラジオLife」(TBSラジオ)の前回(10月27日放送)のテーマは「いま友達と集まるならどこですか?~ポスト居酒屋コミュニケーションの時代」であった。
9月にキャンプに行ったばかりの僕は、「いま友達と集まるなら、キャンプだ!」というキャンプの魅力を熱く語ったメールを番組に送った。それがなんと番組内で読み上げられた。ラジオへの投稿が読まれる初めてだった僕は、恥ずかしさを覚えるのと同時に、ギザウレシスな気分となり、舞い上がってしまったのであった。(その投稿は↓のホームページ内でも聴けます)
同じく友達と集まる場としてキャンプをおすすめするLifeクルーの宮崎智之さんは、キャンプ場に流れる円環的な時間の話に関連して、『居るのはつらいよ』という本を番組内で紹介していた。宮崎さんはtwitterでも本書を「今年一番面白かった本」と評していたので、早速購入し、読んでみた。
居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)
- 作者: 東畑開人
- 出版社/メーカー: 医学書院
- 発売日: 2019/02/18
- メディア: 単行本
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「ただ居るだけ」と「それでいいのか?」をめぐる
感動のスペクタクル学術書!
京大出の心理学ハカセは悪戦苦闘の職探しの末、ようやく沖縄の精神科デイケア施設に職を得た。
しかし、「セラピーをするんだ!」と勇躍飛び込んだそこは、あらゆる価値が反転するふしぎの国だった――。
ケアとセラピーの価値について究極まで考え抜かれた本書は、同時に、人生の一時期を共に生きたメンバーさんやスタッフたちとの熱き友情物語でもあります。
一言でいえば、涙あり笑いあり出血(!)ありの、大感動スペクタクル学術書!
本書には、デイケアのぬくもり、寂しさ、希望、苦しみ、そしてあぶり出される問題点がバランスよく凝縮されている。物語風、エッセイ風に書かれているので、非常に読みやすく、最後までさくさくと楽しんで読めた。
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同時に心理師である著者の東畑開人先生の幅広い知識と深い考察に触れることができるので「なるほど」と思うところが多くあった。
「ケアとセラピーについての覚書」という章が後半にあるのだが、とても勉強になる。先生は、ケアとは「傷つけないこと」、セラピーとは「傷と向き合うこと」と定義し、↓のような表を作り、あえてケアとセラピーを二分法で対比している。
ケアとセラピーは「成分のようなもの」という先生の主張には腑に落ちるところがあった。
腑に落ちるところがあったのとともに深く共感したのは、僕が教師という仕事をしているからであろう。学校で生徒と向き合うとき、臨床と同じように、頭を悩ませながら、ケアとセラピーをケースバイケースで使い分けている。
これに加え、教師はデイケアと同じように「居ること」のつらさを日々味わっているように思う。
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『居るのはつらいよ』を読み終わったのは、日曜日、生徒のバスケの大会会場にいたときであった。
大会は休日に行われるが、部活動の顧問は生徒の引率と大会の運営に関わらざるを得ない。自身のチームの試合、審判、駐車場係などの合間をぬって、『居るのはつらいよ』の最後の章をコピーしたものを読んだ。(本を読んでいるとさぼっていると見られるのに、本をコピーしたものを読んでいると勉強している(あるいは仕事している)と見られるから不思議だ)
読み終えると、ちょうど駐車場係の時間になった。係のペアになった先生は初めてお目にかかる先生だった。聞けば、この4月からバスケ専門部にやってきたという。以前までずっとバドミントン専門部にいたそうだ。彼は言った。
「バスケ専門部って鬼畜っすね。大会だと一日拘束されるし。初心者でも審判を強制してやらされるし」
ため息をつく彼の言葉に僕は一応同意する。「そうっすね。体力は大きく削られてクタクタになるし、また明日から平日出勤だと思うと憂鬱ですね」
車は一台もやってこなかった。見上げると、空の高いところにカラスが一匹飛んでいた。
部活の時間を残業としてカウントすると、大会のある月の残業時間は100時間を超える。『居るのはつらいよ』の主人公、トンちゃんと同じように僕たち教師も「居ること」に縛られていた。この激務に、心や体の調子を崩す先生は少なくない。僕もいつまでこの仕事を続けられるかよく分からない。
仕事によって生活の大半の時間を奪われるので、ふいにやってくる隙間時間はちゃんと有効活用しようとする癖がついた。ということで、僕はこの駐車場係の時間に、ポケットからメモ帳をとりだし、そこに『居るのはつらいよ』の感想を書き付けたのだった。
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『居るのはつらいよ』では「時間についての覚書」という章で、セラピーの時間の流れと、デイケアの時間の流れの違いを図にして表している。何らかの変化を目指すセラピーの時間(線的時間)を↓のような感じ。
同じことが毎日のように繰り返されるデイケアの時間(円環的時間)を↓のような感じで表現している。
僕らは二つの時間を生きている、一つは線的時間で、それは僕らに物語をもたらす。もう一つは円環的時間で、それは僕らに日常をもたらす。
僕が思うに、円環的時間には安心感はあるが、線的時間のような物語が希薄なので、「終わらない日常」への疑問やむなしさを感じやすい。教師をしていると、円環的時間の流れの方を強く感じてしまう。一日単位であれば、授業し、給食を食べ、委員会や部活を見て、生徒の帰らせ、たまった仕事を片付ける。一年単位であれば、入学式があり、遠足があり、運動会があり、合唱祭があり、卒業式があるというのを繰り返す。
目の前にいる生徒は、大きく成長するので、線的時間を生きているように見える。彼らはどんどん入学してくるし、どんどん卒業していく。ただ僕ら教師は、この繰り返しからは決して脱出できず、ただ長い長い定点観測を行っているだけではないのか。生徒はどんどん前に進んでいるが、僕自身は一歩も前に進んでいない錯覚に陥るのである。(錯覚ではなく、実際その通りなのかもしれない)
僕はここに教師のむなしさを感じずにはいられない。そして、この円環的時間の中に「居る」ことに教師のすべては投入される。「生徒のため」という最強のマジックワードがそれに拍車をかける。
心は蝕まれ、教師にとっての学校は「アサイラム」化するのである。
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自分の境遇と重ねて読み、最も印象に残ったのは、「居ること」のつらさに心が折れたトンちゃんの次の発見である。
ケアする人がケアされない。そのとき、ブラックなものがあふれ出す。それは僕だけの問題ではない。介護施設もそうだし、児童養護施設もそうだし、学校の先生も、あるいは心理士そのものがそうかもしれない。日本中のケアする施設とケアする人に同じことが起きている。(中略)ケアする場所はアサイラムの種子を抱えている。ケアされる人の「いる」は脅かされやすく、同時にそこでケアする人の「いる」も軽視されやすい。
アサイラムにあっては「いる」が強制される。刑務所はその典型だ。そこから出ていくことが許されない。そのために、高い塀が築かれ、冷たい牢が当てがわれ、脱走につながる不穏な動きをすぐに察知できるように、隅々まで監視と管理が行きわたる。そうやって、自由が奪われる。「いる」が徹底されると、「いる」はつらくなるのだ。
トンちゃんの務めるデイケアでは「いる」ことにつらさに耐えかねた職員が次々と辞めていく。デイケアの「アサイラム」化は、ある「声」によって引き起こされているのだ。その「声」の正体こそ、本書にとって最大の謎である。その「声」とは、一体何なのか……それは本書を手に取ってお確かめ下さい!
『居るのはつらいよ』、ケアに関わる人もそうでない人にも非常にお勧めしたい一冊です。ぜひ読んでね。