ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

松陰神社に行った話など

 

 

Audibleで『いっきに学び直す日本史』を聴いた。大学受験の学習参考書であった『大学への日本史』が最新内容に全面改訂されたのが本書であるそうだ。

 

いっきに学び直す日本史 【合本版】

いっきに学び直す日本史 【合本版】

 

 

高校で文系クラスにいた僕は、大学受験では好きだった日本史を社会科の受験科目として選択した。学習塾には通わなかった。自分なりにコツコツと勉強して、日に日に知識が積み重なっていくことに充実感を抱いてことを覚えている。

 

『いっきに学び直す日本史』を聞いて少し衝撃があったのは、高校生のときに必死になって覚えたことをもうすっかり忘却してしまったことに気づいてしまったこと。まあ、人名や事件などの固有名詞にはなんとか引っかかりはあるんだけど、それが一体何なのか、歴史の流れの中でどういった意味があるのかってことについての記憶はかなり曖昧になっている。大学受験から10年以上経っているし、当然か‥‥。

 

今年は意識して、歴史本ばかり読んでる。元々歴史好きだったので、歴史本を読んでるとかなりワクワクする。現在の自分の生活に生かせるとかどうかとかそういうのは関係なく、ただ単に歴史に名を残した人たちの生き方や考え方に触れるのは楽しい。

 

また一から歴史を勉強し直して、歴史の学習を生涯の趣味の一つに加えようと決意したのであった。

 

 

 

といっても、古代から時系列に学んでいくはつまらないので、日本史世界史関わらず、興味の湧いた人物や事件からつまみ食い的に学んでいこうと思う。

 

近頃、歴史を熱く語るPodcast『コテンラジオ』にハマっていて、勢いで月1000円払うサポーターにもなってしまった。その『コテンラジオ』のホームページに参考文献が掲載されていて、そこで紹介されている本に手を出していくことにした。

 

cotenradio.fm

 

まずは半藤一利『幕末史』、そして田中彰吉田松陰 変転する人物像』などで吉田松陰と彼が生きた時代周辺を学んだ。

 

幕末史 (新潮文庫)

幕末史 (新潮文庫)

  • 作者:半藤 一利
  • 発売日: 2012/10/29
  • メディア: 文庫
 

 

吉田松陰 変転する人物像 (中公新書)

吉田松陰 変転する人物像 (中公新書)

 

 

吉田松陰かっけえ。友達のために脱藩したり、黒船に乗り込んだり、聞かれてもないのに老中の暗殺計画を幕府に告白して処刑されたりなどと、とにかくパンク。

 

彼の一君万民の思想と行動が後の尊皇攘夷運動や明治維新を牽引する人物に与えた影響は計りしれない。松蔭の一君万民の思想については、今年5月に出版された『もっと試験に出る哲学』にコンパクトかつわかりやく紹介されている。

 

 

では誰が倒幕するのか。もはや大名や藩に期待はできません。それどころか、「おそれながら天朝」も頼ることはできないとまで覚悟を決めます。こうして松蔭は、尊王攘夷の志を持つ草莽(在野)の人々の決起に、天皇と人民が直接結びつく「一君万民」への政治改革を託したのです。

 

 

 

ということで吉田松陰熱が高まったので、先月家族を連れて、世田谷の松蔭神社にお参りしてきた。

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そういえば、31歳になりました。

 

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『エチカ』を読んでースピノザ的自由の話

 

 

スピノザの説くあり方の神であれば、なんとか信じることができた。

 

すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられない。(『エチカ』第一部定理一五)

 

17世紀オランダの哲学者スピノザは、世界のあらゆるものは神の持つ性質のあらわれだと考える「汎神論」を説いた。この考えは、自然は神の創造物だとするキリスト教とは相慣れないものであり、教会側から強いバッシングを受けたそうだ。

 

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ベネディクトゥス・デ・スピノザ(1632〜77)

精神と身体は別々に存在しているとする、デカルトの説く心身二元論スピノザは疑問を抱いていた。私たちが経験から知っているように、精神と身体は密に結びついている。心身二元論では精神と身体が連動することの説明ができない。

 

心身二元論は精神を至高のものとし、身体をただの物体の地位に格下げもしたが、身体は精神が操縦するロボットのようなものではない。無意識のうちに身体が動くなんてことは日常生活でざらにあることだからだ。

 

スピノザは人間の精神も身体も含めた自然はすべて神の一部であると考えることで、心身二元論を乗り越えようとした。この汎神論であれば、精神も身体も神の性質のあらわれに過ぎないので、これらが密につながり、連動する事実は当然のことと捉えることができるようになる。

 

神の一部である人間は神の考えの下に動いている。スピノザは人間の行動は人間の意志によるものではないとし、自由意志の存在を否定する。ちなみに、自由意志の存在は最新の脳科学でも否定されていて、意識は行動よりも後に現れるというのが定説である。人は自分の行動があたかも自分の意思の結果であると錯覚しているだけなのである。

 

私たちの無意識は常に外部からの作用や影響にさらされていて、そこで起きていることすべてを意識することは到底できない。自分の意志ではどうにもならない(「運命」とも言い換えられる)ことを「神」と呼ぶのであれば、たしかに神は存在していると思うのである。

 

 

 

先日やっと、スピノザの『エチカ』を読み終えた。半年くらい時間をかけて、ちびりちびりと読み進めていた。難解なので、最初の5ページくらいで挫折しそうになったが、『100分de名著』での國分功一郎先生の解説に縋ることで理解へのモチベーションを保つことができた。

 

エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

  • 作者:スピノザ
  • 発売日: 1951/09/05
  • メディア: 文庫
 
スピノザ エチカ 下 (岩波文庫)

スピノザ エチカ 下 (岩波文庫)

 

 

スピノザの哲学について最も魅力を感じたところは、「自由」についての考え方である。

 

「自由」を辞書で引くと、「他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまうこと」とあり、これは当然私たちがイメージする「自由」の状態と一致している。しかしながら、全く束縛のない、制限のない状態などあり得ないし、ましてやそれらを超え出ることなど人にはできないとスピノザは考える。人は神の考えの下で動いているからだ。

 

では、スピノザはどのような状態を「自由」と捉えているのだろうか?

 

スピノザ『エチカ』 2018年12月 (100分 de 名著)

スピノザ『エチカ』 2018年12月 (100分 de 名著)

  • 発売日: 2018/11/24
  • メディア: ムック
 

 

   与えられている条件のもとで、その条件にしたがって、自分の力をうまく発揮できること。それこそがスピノザの考える自由の状態です。(『100分de名著 スピノザ エチカ』)

 

 と國分先生は言う。『エチカ』では「自由」を以下のように定義している。

 

自己の本性の必然性のみによって存在し・自己保身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。(『エチカ』第一部定義七)

 

スピノザは、自らの必然性に従って存在したり、行為をしたりすることが自由であるのだと言っている。自由の度合いは、水の中で泳ぎ回る魚のように、必然的な法則の中で自らを充分に生かせているかどうかで決まるのである。

 

自由であるということは、すなわち「能動」の状態であるとスピノザは言う。

 

  ふつう能動と受動は、行為の方向、行為の矢印の向きで理解されています。行為の矢印が、私たちから外に向かっていれば能動であり、矢印が私に向かっていれば受動というわけです。

    しかしスピノザはそのような単純な仕方ではこれらを定義しませんでした。スピノザは、私が行為の原因になっている時ーーつまり、私の外や内で、私を原因にする何事かが起こる時ーー私は能動なのだと言いました。(『100分de名著 スピノザ エチカ』)

 

仕事でたとえるが、心からワクワクする自発的にとりくむことができる仕事もあれば、外部から与えられた恐ろしくつまらなくやる気の起きない仕事もある。社会人の責任としてどちらの仕事もこなすし、行為の方向だけ見れば、前者も後者も「私がその仕事をする」ので「能動」である。ところが、スピノザの哲学においては、後者の仕事は他人の力をより多く表現している行動、つまり外部によって強制されているそれなので「受動」と呼ばれる状態に当たるのである。

 

先にも触れたように、私たちは常に外部から何らかの制限や影響を受けているので、完全な能動、完全な自由は存在しない。國分先生はそれつについてこのように説明する。

 

    ただ、完全に能動にはなれない私たちも受動の部分を減らして、能動の部分を増やすことはできます。スピノザはいつも度合いで考えるのです。自由も同じです。完全な自由はありえません。しかし、これまでよりすこし自由になることはできる。自由の度合いをすこしずつ高めていくことはできる。(『100分de名著 スピノザ エチカ』)

 

スピノザは100%の能動の状態あるいは100%の受動の状態のどちらかがあると考えるのではなく、ある状態には能動と受動が入り混ざっていると考える。受動をゼロにすることはできない。しかし、能動50%を60%にすることはできる。そうすることで自由の度合いも広がっていくのだ。

 

図にすると以下のような感じ。

 

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お盆は毎年、妻の実家にある福井の田舎に行くのだけど、コロナ禍なので断念した。今年のお盆は外も暑いし、家に引きこもっている。といっても、元々お家大好きなので、かなり楽しんでるし、自由を感じている。

 

心身のおもむくままにゴロゴロし、何か食べたいものが思い浮かんだら、外に食事に出かける。昨日は家族でかき氷を食べに行った。

 

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近頃、仕事でスピノザ的な受動の状態が続いていたので、現在そこからの解放感に浸っている。しかしながら、受動の状態にうんざりしているだけじゃあダメな気もする。現在の自身の状態をできるだけ客観視し、いかにして外部からの強制を自発に置き換える工夫ができるかっていうのが今の自分の課題なんだよなあと『エチカ』を勉強して思ったのであった。

体が溶け出す8月がやってきた話

 

いつの間にか30回目の8月がやってきた。僕はそれに気づき、慌てて朝からプールに飛び込んだ。水の中は気持ちがいい。

 

プールに入ると、学生の頃を思い出す。大学生の夏休みがあまりに長く、退屈であったので、毎日午前中は近所のプールに通っていた。へたくそなクロールと平泳ぎを繰り返し、飽きると、流れるFMヨコハマを聴きながらプールサイドでファンタを飲んだ。

 

あの頃は止まっているんじゃないかと思うほど時の流れがのろのろとしていたが、この頃はどういうわけかとてつもなく早く進む。今年の夏も少し目を離したらすぐにどこかへ行ってしまいそうなので、夏をなるべく体感すべく、プールの底に潜水し、必死に足をばたつかせた。

 

ここ数ヶ月でため込んだ精神的な疲労が体の外に流れ出ていくことをイメージして泳いだ。空っぽになりたい。体のほうも強い日差しでどろどろと溶け出しそうであった。

 

 

 

バターのようになってしまった心身は、この猛暑で同じくどろどろになった他の心身を追い求めた。最終的に、群体は混ざり合って一緒くたになり、一つの普遍的な単体生命体に進化するのであった……。

 

そこまでイメージしたところで吐き気がしてきた。これじゃ『エヴァンゲリオン』の人類補完計画である。

 

近代的自我は孤独という深刻な病をもたらしたが、だからといって、個と個の壁を取り払ってみんなで一緒になりましょうという思想にはやっぱり嫌悪感がある。自分という個性への執着はなかなか捨てがたいよなあ。

 

プールからあがり、昼食にセブンイレブンで買っておいた焼きそばパンを食べた。

 

 

 

個性なんてものに価値はないとおっしゃるのは養老孟司先生。帰宅し、クーラーの効いた部屋でごろ寝しながら、先生の『無思想の発見』をぱらぱらと読んだ。

 

無思想の発見 (ちくま新書)

無思想の発見 (ちくま新書)

  • 作者:養老 孟司
  • 発売日: 2005/12/06
  • メディア: 新書
 

 

「意識に個性はあるか」という問いに対して、そんなものはないと先生は言う。意識内容……心に個性があったら、互いに了解ができない。「個性的な心」とは「他人には理解できない心」なので、現代人の「心にこそ個性がある」という考えは徹底的な間違いである。

 

よく使われる日本語で表現するなら、ほとんどの人は「我がまま」つまり「個性的である自分のまま」だから、普遍的な思想に到達しない。その個性とは、偶然である外的条件、家族、地域、友人、周囲の自然環境などに左右されて生じたものである。そうした条件は、人によって当然異なる。そこで通用する自分を自分だと信じているから、個性的で独創的になってしまう。世界中どこに行っても通用し、百年経っても通用する、そんなことを、考えることができないのである。

 

個性なんてその程度のものでしかない。ただの偶然の外的条件でしか通用しないものである。それは分かっているんだけど……。

 

読みながら寝落ちした。

 

 

 

健康診断に行ったが、体重が昨年に比べて6キロ落ちていた。

 

大好きだったお米を、朝昼は我慢して、夕飯時だけ摂る食生活に変更したことが功を奏したようですね。

 

慌ただしかった自粛明けの日々の話

 

パンツも乾かなかった。

 

やっと夏が来たが、今年の梅雨のしつこさには本当に辟易した。内臓にカビが生えるかと思った。洗濯物もなかなか乾かず、たまる一方であった。

 

ある日、風呂から上がると、乾いたパンツが一つも残っていなかった。妻にそれを裸で言うと、「コンビニで買ってくれば」と冷たい返事。「ノーパンで買いに行けってこと?」と僕が言うと、妻は無言でこちらをぎろりとにらみつけた。22時、ノーパンの上にダイレクトにズボンを履いて、雨の降る外に繰り出し、ローソンでパンツを2枚購入した。

 

文明の利器はどんどん活用すべきだと今更気づいた。7月の中旬に定額給付金で新しいエアコンを買った。以前まで使っていたエアコンは、妻が独身時代から使っていたものであったが、昨年の冬から壊れていたのである。

 

「ドライ」の偉大さよ。部屋干しで洗濯物が乾くスピードが格段に上がった。

 

 

 

自粛が明けてここ2か月の仕事の忙しさは目が回るようであった。

 

感染症対策をしながらの業務は一層気を遣うし、消毒作業に本来の業務の時間が圧迫された。加えて、マスクによって体力が奪われた。主にしゃべることが仕事なので、マスクで息苦しくなり、午後になると意識が朦朧とさえするのであった。

 

大きなミスもした。自分はもう一人前なんだという慢心が招いたミスでもあったと思う。多くの人に迷惑をかけ、かなり落ち込んだ。同僚の優しい声かけに助けられた。今回のことを忘れず、同じ失敗を二度と繰り返さないようにしたい。

 

仕事のしんどさも増したが、生活の慌ただしさの主たる要因は、何と言っても3歳と1歳、2人の息子の育児であろう。

 

 

 

育児休暇を終えた妻が今年度から職場復帰をしたので、以前のように育児を妻ばかりに頼ることができなくなった。

 

朝は夫婦で5時半に起き、6時に息子たちを起こす。6時に起こされる息子たちもたまったものではないだろう。てか、なかなか起きない。仕事の準備をしつつ、保育園の準備をを分担して行い、眠気まなこの息子たちを7時には保育園に預ける。大抵、息子たちが保育園の一番乗りである。

 

1分1秒を無駄にしないよう、効率を意識して仕事をこなし、17時には職場を出られるようにする。基本的に息子たちの迎えは、車の運転ができる僕の役割である。なかなか17時には仕事が終えられず、保育園に残っている幼児が息子たちで最後ということがよくある。保育園に早朝から晩までいさせてしまってごめんよ。

 

息子たちと帰宅すると、そこから洗い物、料理、洗濯を一気にし、息子たちを風呂に入れる。一段落するころには時計は22時をまわっている。そこから持ち帰りの仕事をし、いつのまにか電池が切れてバタンキュー……でふりだしに戻るを繰り返す毎日である。

 

6月下旬、次男が熱を出した時期は大変であった。妻と交代で半休を取ったりして、看病にあたった。夫婦ともにストレスがたまり、仲が険悪になることもあった。なんとか夏季休暇のある8月までたどり着いた。給水地点である。

 

またこの慌ただしい日々が9月から再開するのか……。夫婦共働きで、子供を立派に育て上げられた諸先輩方、まじリスペクト。

 

 

 

ということで、ここ2か月は趣味である読書が捗らなかった。読んだのは『三体』の続編、『三体Ⅱ』の上下巻くらい。

 

三体Ⅱ 黒暗森林(上)

三体Ⅱ 黒暗森林(上)

 
三体Ⅱ 黒暗森林(下)

三体Ⅱ 黒暗森林(下)

 

 

内容の紹介は省略するけど、前作をはるかに超える興奮があった。疲れも忘れる面白さがある。下は前作の紹介記事。

 

gorone89.hatenablog.com

 

 

精神的なしんどさがあったこの2か月であったが、それを大きく救ってくれたのはやはり息子たちの笑顔であった。彼らがいるから、前向きに頑張ろうと思えた。

 

今年の夏休みは何して息子たちと遊ぼうかしら。

大胆さと繊細さが絶妙にマッチしたSFお仕事小説『タイタン』の話

 

 

就職してからこれまで、怠け者の僕は仕事の過酷さに苦しんできた。

 

生きるためとはいえ、なんでこんなに仕事ばかりしなきゃならんのだ。仕事などどこかに放り捨てて、一生ぐうたらして過ごしたい!と毎日のように思っていた。

 

……ところ、このコロナ禍で自身の仕事が一時停止し、ぐうたらできる時間が一気に増えた。望んでいた時間を得て最初は幸福な気分であったが、この生活が数ヶ月続き、どうも近頃生活に「ハリ」が感じられないようになり苦しんでいる。

 

あんなに嫌だった仕事に恋しささえ抱くようになっているのである。……働きたい。働いて社会の、誰かの役に立ち、自己有用感を得たい。

 

時には苦しみを、時には喜びを人に与えるこの「仕事」とは一体何なのか……? この問いを抱く現代人は少なくないだろう。

 

SF小説という形で読み手の想像力を大いに刺激しながら、この哲学的とも言える深遠な問いに共に挑んでくれるのが、鬼才・野﨑まどが描く『タイタン』である。

 

 

 

タイタン

タイタン

 

 

物語の舞台は、社会の平和が保たれた未来の世界。人類は「仕事」から解放され自由を謳歌している。この平和と自由は何もかも至高のAIである「タイタン」による恩恵である。

 

   『タイタン』

   人間の代わりに仕事を行うもの。

   人間の暮らしをサポートするもの。

   それらを自律的に行うもの。

   産業機械、建築機械、輸送機械、掃除機械、センサー、ネットワークで繋がるもの、総合処理AI、それら個々の呼称であると同時に、それら全ての総称。

 

この世界では、人間がかつて行なっていた「仕事」をタイタンがほとんど全て代替している。家を建てることも、物を運ぶことも、何かを調べることも、掃除をすることも、マッチング率の高いパートナーを探してくれることだって、タイタンは効率よく行なってくれる。読み手によっては「なんて素晴らしい世界なんだろう!」と、この小説に理想の世界像を見出すことだろう。

 

主人公の内匠成果(ないしょうせいか)は心理学を「趣味」にしている。心理学に関する講演会を「趣味」で行なったりもする。

 

そんな彼女の元に突然「仕事」が舞い降りる。世界でほんの一握りしかいない「就労者」のナイロンが、心理学に通じた内匠にしかできない「仕事」を彼女に依頼するのである。彼女に託された「仕事」とは、突如として機能不全に陥ったタイタンのカウセリングであった……。

 

ここまでが序章にあたる「就労」のあらすじ。最高のつかみである。この時点で僕はこの小説は絶対に面白いと確信し、安心して読み進めることができた。

 

期待は裏切らず、しかし予想は大胆に裏切りながら、抜群の面白さを保ちつつ物語は展開していく。

 

 

 

十二あるタイタンの中で機能不全に陥ったのは、第二知能拠点、通称「コイオス」である。機能不全の理由は一切不明。タイタン管理者のナイレン、エンジニアの雷(レイ)、AI研究者のベックマン博士のサポートを受けながら、内匠は心理学の知識を生かして、人格化されたコイオスとの対話を試みる。


「心」という非常に繊細なものをテーマに扱いながらも、話の展開は大胆でスケールが大きい。コイオスの心を救えなければ、タイタンに支えられている世界の機能は停止してしまう。「仕事」の経験を持たない内匠と、「仕事」をすることに一切の疑問を持ってこなかったコイオスは「仕事とは何か?」という問いを中心にしながら、心の交流を重ねていく。


とある理由で、内匠とコイオスは第二知能拠点があった北海道からシリコン・ヴァレーまでを旅することとなる。全世界の人間の生活を支えるAIの意識の深層を探る営みと、大陸間の移動を並行させるダイナミズム……。読んでいてわくわくが止まらない。


さらに、クライマックスにおける、高度なAIでしか成り立たないタイタン同士のコミュニケーションの場面といったら! 想像の斜め上を行き、度肝を抜かれずにはいられなかった。

 

 

 

カウセリングが物語の中核にあるのだから当たり前なのかもしれないが、物語の底流にずっと「優しさ」があったことに個人的にはとても好感が持てた。

 

AIにコントロールされた社会という世界観だと、古典的SFの世界に慣れている人であれば、ついAI対人間という展開を予想しがちである。しかしながら、この物語に登場するAIは人間に対して徹頭徹尾優しく、決して敵対などしない。僕はこの小説の内匠の以下にある語りの部分に線を引いた。

 

昔見た古典のSF映画を思い出す。機械に管理された世界がアンチ・ユートピアとして描かれていた。そして私達は今そんな世界に生きている。映画と違うのは、機械が心の底から人間の幸福を願っているということ。そして私達もまた管理してもらう幸福を選択してきたていうこと。

 

現代の先進国では、自分たちの安全や快適さや利益のために、自ら進んで個人情報をビックデータに提供する光景は珍しくない。管理してもらう幸福を選択しているのだ。古典的なディストピア社会より、この『タイタン』の世界のような未来像の方がリアリティがあるかもしれない。

 

コイオスと内匠の温かな心の交流も、(少々セカイ系チックではあるが)丁寧に描かれていて良い。最初はコミュニケーションに失敗しながらも、内匠の努力によってコイオスは少しずつ心を開き、「大人」になっていく。

 

それと同時に「仕事とは何か?」という問いに対しても答えを曖昧にすることなく、コイオスと内匠の段階的な対話の内容をヒントにしながら、しっかりと単純明快な答えに着陸させている。思わず「お見事!」と唸ってしまったのであった。

 

 

 

今日から本格的に僕の「仕事」も始まった。

 

コイオスと内匠の「仕事」を巡る心の旅に付き合った影響だと思うが、今のところ「仕事」に対するやる気はマンマンである。

 

消えない煩悩の話

お題「#おうち時間

 

 

この数か月、気分はもう専業主夫であった。

 

妻は基本出勤、僕は基本在宅勤務である。保育園の「なるべく登園自粛をお願いしたい」という方針を生真面目に守り、自然、自宅にいる僕が息子2人の面倒を見ることになった。育児休暇を取得したいと思っていた頃があったが、図らずも数ヶ月の育児休暇みたいなものを得ることとなった。

 

朝、妻を見送る。朝食を作り、洗濯をし、掃除をする。家事が一段落ついたら、一歳息子を抱っこヒモでおぶり、三歳息子の手をつなぎ買い物に行く。近頃は地域貢献も兼ね、近くの商店街の飲食店で昼食をテイクアウトすることを続けていた。

 

下はテイクアウトで購入したステーキ丼。一日六食限定の弁当であった。当然うまい。

 

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息子2人がテレビに夢中になっている間やお昼寝をしたりしている間に読書をしたり勉強をしたりちょこちょこと仕事をしたりしている。

 

最近、読む本にはブックカバーをしている。

 

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妻が作ってくれた。息子のマスクを作るため彼女はなんと3万のミシンを購入し、そこから裁縫に目覚め、勢いで僕のブックカバーまで作ってくれたのである。ありがとう。

 

ここ数週間読書に並行して、人気の「えんぴつで」シリーズの一つ、『えんぴつで般若心経』に美文字を目指して取り組んでいる。

 

えんぴつで般若心経 (「えんぴつで」シリーズ)

えんぴつで般若心経 (「えんぴつで」シリーズ)

  • 発売日: 2015/12/07
  • メディア: 単行本
 

 

摩訶般若波羅密多心経観自在菩薩。行深般若波羅密多時。照見五薀皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。……

 

仏教がなぜかマイブームであり、音読しながら毎日少しずつなぞり書きしている。なんとなくこれをすることで「煩悩」が消え去り、「悟り」の境地とかいったものに近づくことができる……かと思ったが、むしろなぞり書きをしているときほど様々なことを考えてしまい「煩悩」が際限なく膨らむのであった。以下は『えんぴつで般若心経』にある、「般若心経」の解説。

 

この般若心経で、一貫して示される教えが、「空」という考え方です。私たちを取り巻くこの世界の、あらゆる現象や物質、人間の価値観、思考といったものごとに実体はなく、相互に変化しながら常に変化している。だから、何事にもこだわり、とらわれることには意味がない。むしろ、そうしたこだわりを捨て去ることで、本当の安らぎが得られると教えています。

 

こだわりを捨て去ると言ってもねえ……そんなに簡単なことではない。たびたび心の平安は煩悩によって乱れ、迷ってしまう。鎌倉時代曹洞宗を開いた道元は『正法眼蔵』の中で、迷いについてこのように語っている。

 

正法眼蔵〈1〉 (岩波文庫)

正法眼蔵〈1〉 (岩波文庫)

  • 作者:道元
  • 発売日: 1990/01/16
  • メディア: ペーパーバック
 

 

ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。

 

「生死」とは迷いのこと、「涅槃(ねはん)」とは悟りのことである。迷いはそのまま悟りであると捉える。迷いの中に悟りがあれば迷わないし、悟りを求めてあくせくしなければ迷わない。つまり、迷いを悟りとはかけ離れたものとして忌避するのではなく、迷う自分を「迷ってもいいんだ」と受け入れることで、自ずから悟りはやってくると言っているのである。

 

とりあえず、道元様のお言葉に従って、煩悩だらけで迷う自分を受け入れてみよう。

 

 

 

今、僕の煩悩の大半を占めるのが食欲である。自粛生活で順調に体重が増えていて食事の量を減らさなくてはならないのだが、食欲はますます増大している。下の写真は外出自粛要請解除の後、さっそく家族と行ったラーメン屋で食べた「角煮ラーメン」。

 

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腹八分目にするか腹一杯食べるか……。迷う自分を素直に受け入れ、大盛で注文し、ライスとともにペロリ。

 

煩悩が消え去り、悟りの境地がやってくる日は一体いつになるのであろうか……。

 

本屋に出かけた日曜日と『コロナの時代の僕ら』の話

 

 

またすぐ感染の第2波はやって来るかもしれないが、とりあえず我が家の外出自粛も終わりを迎えようとしている。6月になったら夫婦ともに本格的に出勤が始まり、2人の息子は毎日保育園に預けることになる。

 

「この期間、子供がいたからかろうじて生活リズムがつくれてたよね」と妻が笑って言った。「私たち2人だけだったら、ご飯食べる時間とか寝る時間起きる時間もきっと適当で生活が乱れに乱れてただろうね」

 

……まあ確かに。付き合い始めた頃は、お菓子を頬張りながら深夜まで2人でゲームをすることとかしょっちゅうあった。懐かしい。

 

 

 

先日の日曜日、にわかに外出がしたい気持ちになった。というか本屋に行きたい。しばらく行ってない。

 

隣の市にある大型書店に電車に乗って行くことにした。電車で本屋で行くのは不要不急かもしれないけど、地域の感染者もほぼいなくなったので勘弁してください。3歳息子が「つれてって」とせがむので一緒に連れて行った。

 

電車には久しぶりに乗った。ガラガラである。息子は喜んでいた。天気も良いし、素敵な日曜日。

 

やっぱり本屋はいい。たとえ購入しなくても本棚を眺めているだけで心踊る。Amazonで買った積み本が増えているので購入は3冊だけにした。

 

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『コロナ時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ)、『タイタン』(野﨑まど)、『世界哲学史2』。連れてきた3歳息子には「おしり探偵」のパズル、妻と一緒に家にいる1歳息子には絵本を買ってやった。

 

本屋から出ると、ガストに入り息子とハンバーグを食べ、手を繋いでまた電車に乗って帰った。短い時間だが楽しかった。外出はいい。

 

 

 

まずは『コロナの時代の僕ら』を読んだ。本書は新型コロナによる非常事態下のローマで、イタリア人作家パオロ・ジョルダーノが綴ったエッセイである。

 

コロナの時代の僕ら

コロナの時代の僕ら

 

 

今、僕たちが体験している現実の前では、どんなアイデンティティも文化も意味をなさない。今回の新型ウイルス流行は、この世界が今やどれほどグローバル化され、相互につながり、からみ合っているかを示すものさしなのだ。

 

この非常事態下で私たちが感じているモヤモヤとした不安や違和感を筆者は上手に言葉にしてくれている。例えば、この非常事態下で行政と専門家と市民の信頼関係が崩れていっていることをこんな風に語っている。

 

   行政は専門家を信頼するが、僕ら市民を信じようとはしない。市民はすぐに興奮するとして、不信感を持っているからだ。専門家にしても市民をろくに信用していないため、いつもあまりに単純な説明しかせず、それが僕らの不信を呼ぶ。僕たちのほうも行政には以前から不信感を抱いており、これはこの先もけっして変わらないだろう。そこで市民は専門家のところに戻ろうとするが、肝心の彼らの意見がはっきりせず頼りない。結局、僕らは何を信じてよいのかわからぬまま、余計にいい加減な行動を取って、またしても信頼を失うことになる。

   新型ウイルスはそんな悪循環を明るみに出した。

 

日本も同じような状況であると言えるだろう。行政は僕らを「気分」で動くと不信感を持ってるし、僕らの方も行政の政策の遅さを見て優柔不断さを感じ、イライラが募る。そこでメディアに登場するたくさんの専門家たちの意見に耳を傾けてみるが、専門家たちがそれぞれ違うことを言うことに惑わされ、僕たちは深く思慮しないまま自分の「気分」にあった専門家の意見に飛びつき、誰かの信頼を失うような軽率な行動を取ってしまう……。

 

筆者は「パニックはこの手の悪循環から発生する」と言う。感染の第2波、第3波に備え、覚えておきたい教訓である。

 

 

4
 
筆者は今の非常事態を「戦争」という言葉で表現することについて批判している。
 
僕らは戦争をしているわけではない。まもなく社会・経済的な緊急事態も訪れるだろう。今度の緊急事態は戦争と同じくらい劇的だが、戦争とは本質的にことなっており、あくまで別物として対処すべき危機だ。
 今、戦争を語るのは、恣意的な言葉選びを利用した詐欺だ。
(中略)
感染症流行時は、もっと慎重で、厳しいくらいの言葉選びが必要不可欠だ。なぜなら言葉は人々の行動を条件付け、不正確な言葉は行動を歪めてしまう危険があるからだ。

 

この批判は本書の中でも最も大事だと思ったし、賛同するところであった。僕は「コロナに打ち勝つ」という言葉にさえ違和感を以前から抱いていた。勝つとか負けるとかいった言葉は戦いや競争と強烈に結びつく。

 
大体、勝ち負けでいったらもうすでに大分負けている気がする。今までの生活様式は変更を余儀なくされたし、社会の分断はあらゆるところで明るみになったし、何より人が亡くなった。
 
感染症に対する姿勢を「勝ち負け」で決定することは危険ではないだろうか。「みんなで一丸となってコロナに打ち勝とう」という姿勢が、画一的な行動と相互監視を強制させ、過激な自粛警察を生んだりもする。
 
ウイルスを完全に封じ込めることはしばらくは無理であるのだから、「勝ち負け」の視座から離れることが大切だと思う。ウイルスがいつでもそこにあることを受け入れ、それぞれが想像力を働かせ言葉と行動を慎重に選び、ウイルスと上手に付き合っていかなくてはならないと考える。
 
 
 
イタリアでは外出制限が少しずつ緩和され始めたというニュースを聞いた。
 
『コロナの時代の僕ら』は非常事態のまっただ中で書かれたエッセイで、筆者はその中で「僕は忘れたくない」と繰り返しているが、この言葉は心に染みた。日本も緊急事態宣言が解除され始め収束ムードであるが、僕もこの何ヶ月のことは忘れたくないなあと思う。とかく僕らは「のど元過ぎれば熱さを忘れる」で、不安だったことや我慢したことや苦労したことなど忘れがちである。
 
まあこうやって日々あったことや考えたことをどこかに書き付けておいてたまに振り返ることは、「忘れない」ためにけっこう大事なことではないかなと思ったりもする。