『人生の意味の心理学』の話など
1
早朝、自宅から3キロほどのところにある神社までジョギングした。気持ちいい。今年2回目の参拝。
正月休みは読書漬けであったので身体が鈍っていたが、それが解消されていくのが実感できた。様々なことを詰め込み、ぐちゃぐちゃとなっていた頭も整理された感じがし、スッキリとする。
ふと、運動をすることで読書は初めて自身の栄養になるのではないかという考えが浮かんだ。身体を動かさずして、過度な読書をするのは毒である。僕の場合だけかもしれないが、読書の営みは完成は、きっと身体の運動を伴ってなされるのだ。
2
昼は家族で近所の公園に行き、ベンチに座ってお昼を食べた。陽射しがあたたかい。
2歳10ヶ月になる息子・ハルタはかなり公園の遊具で遊べるようになった。
休日とあって、公園内には子供達が多くいた。ハルタより少し年上のお兄ちゃんやお姉ちゃんのお友達が、ハルタに遊具の遊び方を教えてくれたり、遊ぶ順番を譲ってくれたりした。ハルタも少ない語彙で、お友達とコミュニケーションをとろうと必死だった。
令和2年度、つまり今年の4月から、ハルタと次男レイは保育園に通うことになる。これまで2人は家にいたので、同年代の子供たちとの関わりが少なかった。保育園では友達との関わり方や、周りの人と協力することの楽しさを学んでもらえればなと思う。
3
今日は午後から妻が友達と食事に出かけている。自宅には僕と息子2人。
ハルタとレイは交互にうんちをし、さっき寝た。で、今この記事を書いている。
年が明け、2冊の新しい本を読んでいる。1冊は『オレたちバブル入行組』。ドラマ「半沢直樹」の原作として有名である。ちなみにドラマは見たことない。
メガバンクの過酷さに驚いた。上司のパワハラ、客のクレーム対応、きついノルマ、数字との長時間のにらめっこ……。ネットで調べてみると、「半沢直樹」の世界は少々誇張があるにしろ、行員業務はかなり厳しく、心を病んだり、転職を考える人も少なくないようだ。
食うか食われるかの世界。僕は競争とはかなり無縁のところにいる世間知らずなので、そういうところで闘っている人には、頭が下がる思いである。
2冊目は『人生の意味の心理学』。著者は心理学者のアルフレッド・アドラー。数年前の『嫌われる勇気』の大ヒットで、本屋の心理学の棚には彼に関する書籍が多く並ぶようになりました。
「半沢直樹」の世界では「競争」が第一原理だが、アドラーは「協力」を第一原理とした社会を理想としている。競争が生活の手段であり、目的でもある資本主義社会では甘い考えかもしれない。しかし、僕は「倍返し」の社会より、アドラーの理想の社会に魅力を感じずにはいられない。
アドラーが言うように、「人生の意味は全体への貢献である」と次の世代には伝えたい。『人生の意味の心理学』での次の言葉が心に刺さった。
われわれが現代の文化において享受しているすべての利点は、貢献してきた人の努力によって可能にされたのである。もしも人が協力的でなかったら、他者に関心を持たなかったら、全体に貢献してこなかったら、人の人生は不毛であり、跡形もなく地球上から消え失せてしまっていただろう。貢献した人の仕事だけが残っている。彼〔女〕らの精神は生き続け、永遠である。もしもわれわれがこのことをわれわれが子どもを教育するための基礎にすれば、子どもたちは協力的な仕事を自然に好きにするように育つだろう。困難に直面しても力を失わず、もっとも困難な問題にすら直面し、それをすべての人を利する仕方で解決できるほど強くなるだろう。
自分と他者を比較して一喜一憂するのではなく、他者に貢献することに幸せを感じる人間でありたい。自分の息子たちも、勉強はできなくてもいいから、そんな優しさと勇気を持つ人間に育って欲しいと切に願っている。
4
あと1日で正月休みが終わる。つらたん。
【2020年】明けましておめでとうございます!
今週のお題「2020年の抱負」
明けましておめでとうございます!今年もよろしくお願いしますっ! いやはや、今年も良い一年にしたいです。
僕の今年の抱負は何かと申しますと……
ありません!!!
もう今年から抱負を決めて、それを宣言するのはやめました。だって、年初に立てた具体的な抱負って達成できたことがないんだもん。というか、抱負自体を宣言した1ヶ月後くらいにはそもそも忘れてる。そういえば、子供のときから、目標を立て、計画を作り、それを実践するっていう一連の取り組みが大の苦手だったなあ。
強いて抱負を言うなら、一日一日を面白おかしく、楽しんで生きたいと思います。
◇
さて、元旦は実家に帰りました。で、家族と初詣へ。詣でたのは相模五社の一つの比々多神社。東日本では最古級の神社であると言われています。
2歳息子と賽銭を投げ、礼拝しました。今年も家族が平穏無事に過ごせますように。
そして、甘酒を飲み、 恒例のおみくじ。結果、小吉。リアクションが取りづらい。おみくじには、古今和歌集の和歌が書かれていました。
いつわりの
なき世なりせば
いかばかり
ひとのことのは
うれしからまし
実家に戻るが、やることがなく暇。子供は父と母が相手してるし、新聞なんかも一通り読んでしまった。本を持って来ればよかったなあ。そうだ、僕は手持ち無沙汰が耐えられなくて、日頃本を読んでいるのだ。
実家の元自室に行ってみると、『機動警察パトレイバー』のイングラムのプラモデルがありました。5年くらい前に買って、組み立てたやつ。
そういえば、近頃、愛蔵版の『機動警察パトレイバー』 の漫画が月一ペースで刊行されてるので購入しています。文庫版を全巻持ってるんだけどね。アニメより原作の方が好きです。
仕事へのモチベーションが上がる漫画で、社会人になったばかりの頃、先輩に叱られてばかりで落ち込んでたけど、『パトレイバー』にはかなり勇気づられてたなあ。……そういえば、漫画の紹介を近頃ブログでしてない。最近はまってる漫画は、『応天の門』ていう「平安クライム・サスペンス」です。
菅原道真と在原業平の最強バディが次々と起こる難事件を解決していきます……。本編も面白いのですが、時代考証を担当する本郷和人先生のコラムも非常に分かりやすく、勉強になります。オススメです。
◇
年末年始が一年の中でいちばん好き。このときのために働いてると言っても過言ではないです。12月30日〜1月2日あたりを永久にループしていたいなあ。……そんな夢はもちろん叶うはずもないですが。
さて、再び始まる日常に速やかに順応できるよう、そろそろ準備を始めるかな。皆さんもまた一年、頑張りましょー!
2019年下半期に読んだ、心に残る10冊の本
2019年下半期に読んだ本の中から、心に残った10冊を紹介します。
『明暗』(夏目漱石)
30歳の痔持ちの主人公に妙な親近感を抱いた。登場人物たちの掛け合いが文句なしに面白い。夏目漱石の遺作であり、未完の傑作。絶対に描かれたはずであろう主人公の現妻と元恋人との対決の前に小説が終わっていることで、様々な想像が駆り立てられる。未完であることが逆に、この小説の完成度の高さを揺るぎないものとしているのではないか……?
他者と喜怒哀楽を共にするとき、僕の心(=いのち=愛)は、他者のために動いているのと同時に、他者によって動かされている。主語が不明瞭になり、「あたま」で考える前の、能動とも受動とも言いがたいありのままの体験(純粋)で感じたこと(もの)こそが「実在」であると西田は言っている(多分)。
妻が『名探偵コナン』の漫画をなぜか大人買いした。僕はアニメは結構見ていたけれど、漫画はほぼ読んだことがなかったので、現在妻の『コナン』を読み進めている。やっぱりコナン君面白い。コナン・ドイルやアガサ・クリスティーなんかの小説が、下敷きにしたりしてるんだろうなあと思うと、にわかにミステリの古典を読みたい気持ちになった。ちなみに僕はミステリの知識は無に等しい。
ということで、海外ミステリを取り上げるブログ「僕の猫舎」のぼくねこさんの記事を参考に、本書を手に取った。
犯人の候補は10人。僕はカタカナの名前が大の苦手なのだが、とにかく人物描写が上手く、キャラが立っていたので、「これ誰だっけ?」と立ち止まることなく、一気に駆け抜けることができた。手に汗握り、ヒリヒリとした怖さがある。頭をフル回転させ犯人を予想したが、結局大外れ、最後まで翻弄されっぱなしであった。
爆発的な勢いで世界各地を襲う殺人ウィルスを前に、人類はなすすべもなく滅亡する……。この滅亡の過程が非常に凄惨で辛い。特に子供が苦しむ描写は泣いてしまった。自分は人類の滅亡は免れないと分かったら、どういう行動を取るだろうかと想像してみたりした。
自然を支配していると考えることがいかに愚かかということを痛感する物語であった。ただ、同時に、物語から人類の力に対する強い信頼も読み取ることができる。絶望と希望が同時に味わえる、SF小説の傑作。
『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ)
人間に臓器を提供するために生み出されたクローン人間である子供たちの物語……という設定に嫌悪感を抱きつつも、ページを繰る手は止まらなかった。丁寧な感情描写で、登場人物たちがリアルに感じられ、つい感情移入せずにはいられなかった。
悲しく辛い運命を受け入れた彼らの迎える結末に、寂寞感と喪失感で胸がいっぱいになり、読後3日くらいぼーっとしてた。カズオ・イシグロの小説を読むのは本書が初めて。
『三体』 (劉慈欣)
警察官の史強(シー・チアン)をはじめとした魅力的でクセの強い登場人物たち、興奮が止むことのないストーリーの高いエンターテイメント性、それを支える科学の知識と中国の激動の現代史。小説『三体』のどこが面白いかと聞かれれば、挙げられるものはキリがないのであるが、この物語を特別なものとしているのは、なんといっても「三体」というタイトルの物語内ゲームのアイディアである。
VRゲーム「三体」の世界では、気候が比較的安定する「恒紀」と、気候が人類が滅亡するほど荒れ狂う「乱紀」が交互にやってくる。三体世界は勃興と崩壊を繰り返し、ゲームのプレイヤーの力を借りながら、文明のレベルを更新していく。
主人公のひとり、汪淼(ワン・ミャオ)は乱紀の原因を、三つの太陽が引き起こす「三体問題」であると推察する。三体問題とは、質量が同じ、もしくはほぼ同程度の三つの物体が、たがいの引力を受けながらどのように運動するかという、古典物理学の代表的な問題である。この問題には一般解が存在しないと言われているが、この問題を解決しない限り、プレーヤーは三体世界を救うことはできない。
このゲームのシステムと世界観がめちゃくちゃに面白い。これを思いつく作者の発想力と描写力のたくましさ……僕は思わずため息が出た。続編の邦訳も楽しみである。
『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治)
本書の著者は小・中学校に定期的に行って、学校コンサルテーションを行なっている。「そこでは学校で先生方に困っている子どものケース事例を出してもらい、みんなでどうするかを考えていく」そうだ。ここで出てくる対策のほとんどは「褒める」に終始し、著者は「またか」とうんざりすると言う。
「褒める」教育だけでは、特に本書が取り上げている認知力の低い子どもにとっての問題の根本的な解決にはならないし、褒められないと何もできない、挑戦しようとしない人間にもなりかねない。
著者は、困っている子どもたちに対して使われる「この子は自尊感情が低い」という紋切り型フレーズにも批判的である。まず、「色んな問題行動を起こしている子どもは、それまでに親や先生から叱られ続けていますので、自尊感情が高いはずがない」し、さらには、自尊感情は「無理に上げる必要もなく、低いままでもいい」と著者は言う。
この部分を読めただけでも、この本に出会えてよかったと思った。本書で著者は、認知力の低い子どもへの具体的な支援策も紹介している。子どもの教育に関わるすべての人に読んで欲しい本である。
『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(東畑開人)
本書には、デイケアのぬくもり、寂しさ、希望、苦しみ、そしてあぶり出される問題点がバランスよく凝縮されている。物語風、エッセイ風に書かれているので、非常に読みやすく、最後までさくさくと楽しんで読めた。
最も印象に残ったのは、「居ること」のつらさに心が折れた、主人公であり心理士であるトンちゃんの「デイケアはアサイラムではないか」という発見である。「アサイラム」とは、「収容所とか、刑務所とか、あるいは古い精神科病棟のように、そこに『いる』人を画一的に管理する場所」だそうだ。
トンちゃんの務めるデイケアでは「いる」ことにつらさに耐えかねた職員が次々と辞めていく。デイケアの「アサイラム」化は、ある「声」によって引き起こされているのだ。その「声」の正体こそ、本書にとって最大の謎である。その「声」とは、一体何なのか……それは本書を手に取ってお確かめ下さい。
僕は國分先生のファンで、『暇と退屈の倫理学』 や『中動態の世界』は愛読書である。本書もかなり楽しめた。ソクラテス、プラトン以前の古代の哲学者や、原子力の危険性を最初に指摘した哲学者ハイデッカーの考えを引用し、原子力技術に対してどのように向き合うべきかを探っていく。
論の展開がわかりやすく、一層、國分先生の信者になったのであった。(本書ではこういったドクトリンへの熱狂は、「思惟からの逃走」であると強く批判されています。)
『哲学人生問答 17歳の特別教室』(岸見一郎)
僕は『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』の隠れ信者で、こそこそ読み返している。本書は、アドラー心理学ブームの火付け役になった岸見一郎先生が高校生たちの質問に真摯に答える。「自分の人生を自分のものとして生きる」ためのヒントが詰まっていて参考になるし、岸見一郎先生の人柄の良さもかなり伝わってくる。自分の子供が高校生になったとき読ませてみたい本である。
それでは皆様、2020年もステキな読書ライフをお送りください!!
妻の実家でゴロゴログダグダ
ここ2週間ほど怒涛の日々であったが、なんとか26日に仕事は納まった。26日の夜は勝利に酔いしれていた。誰かに勝ったわけではない。自分に勝ったのだ。逃げ切った。不恰好であったが、自分にしてはいい走りだった。夕飯に、ロピアで買ったサーモンとスモークチキンを食べた。腹が満たされるとより幸福な気持ちになる。1週間の休みだ!真剣に休む!!
27日の早朝、2歳の長男と10ヶ月の次男を両脇に抱え、小田原駅で新幹線に乗り込んだ。米原で特急しらさぎに乗り換え、妻の実家に到着。お昼は福井県坂井市三国町安島にある「おおとく」でランチ。僕が食べたのは、肉じゃがランチ(1600円)とデザートのアップルタルト(400円)。美味!
妻の実家に上がると、すぐにコタツにイン。読書したり、寝たり、ポケモンやったり、教材研究したり、2019年下半期ベストテンの本を選考したりしてる。昨夜、妻が学生時代の部活動仲間の忘年会へ。僕は義父とビールを飲みながら、カニを食べた。美味!
今朝はコーヒーを飲みながら、福井新聞を読み込んだ。一面には北陸高校男子がバスケットボールのウインターカップで第3位になった記事。高校時代、僕が所属していたバスケ部も全国大会に何度か出場したが、あのときから北陸は強豪だった。印象的な黄色いユニフォーム。
もう一つ注目した記事は、教員の働き方改革の一環として、福井県の各地区の中体連が春の大会の廃止を決定したり、大会の在り方を検討したりしているという記事。福井県は部活動の地域移行を検討したりなど、かなり教員の働き方に対して、積極的で先進的である。他の自治体も、こういう抜本的な改革に取り組んでくれないかな。
今読んでる本は、『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』。チェン・チウファンの短編『鼠年』『麗江の魚』『沙嘴の花』をカルビーのポテトチップスを食べながら読んだ。堪らなく面白い。来年は『三体』の続編の邦訳も出るし、中国SFブームはしばらく続きそう。
さて、皆さんの2019年はどのような年だったでしょうか? (どのくらいこのブログを読んでくださっている方がいるのかよくわからないけど……)2020年もよろしくお願いします!!
『スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け』の話ー「スカイウォーカー」の名を受け継ぐ必然について
1
『スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け』を映画館で見た。
『スターウォーズ』新シリーズの、エピソード7『フォースの覚醒』、エピソード8『最後のジェダイ』があまりに期待外れな出来だったので、それほど期待せずに、シリーズ最終作である今作、エピソード9『スカイウォーカーの夜明け』に臨んだ。……この映画は!予想を遥かに上回る!
……退屈な映画であった!!
僕は今作の退屈さに哀しいやら悔しいやらで鑑賞中に涙をポロポロとこぼし、手に持つキャラメルポップコーンは塩味へと変わってしまった。退屈に感じたのは自分だけかなと不安になり、僕と同じくスターウォーズファンである弟に「今作を見てどう思った?」とLINEすると、10秒後に一言「うんこ」と返信が来た。今作の様々なレビューを読んでみても、やはり作品に対する批判が噴出している。
……しかし、僕はそれでも『スターウォーズ』シリーズが好きだ!どんなに出来の悪い子であっても、守ってあげたいし、愛してあげたい。そこで僕は作品の内容を細部まで思い出すことに努め、今作の良かった点を洗い出し、自身のブログの記事になんとか落とし込んでみようと決意するに至った。
2(ここからはネタバレを含みます)
今作の良かった点の1つは、民衆の力でファースト・オーダーとシスを打倒した点である。
そもそも恐怖によって支配されている組織が、信頼によって連帯する組織に敵うはずがない。ファシズムの隆盛が決して長続きしないことは、我々の歴史が証明している。
威厳と余裕を兼ね備えた老翁になったランドは「前の戦争は絆の力で勝利した」と快活な笑顔で語る。まさしく「絆の力」こそ「民衆の力」である。民衆は相手が信頼の置ける相手だと分かれば、ポーやフィンや、そしてハン・ソロなど無法者、素性の知れない者でもたやすく連帯する。
連帯した民衆は正義と悪、光と闇をバランスよく携えている存在である。彼らはシスをも打倒する力を潜在させている。いや、シスは民衆の力でしか抑え込むことはできない。
ジェダイでは決してシスを倒すことはできないのである。逆も然り。光のジェダイと闇のシス、お互いはお互いがいるからこそ存在する理由がある。『最後のジェダイ』の記事でも指摘したが、 光は闇がなくては、闇は光がなくては存在できないのである。
フォースを習得しようとする者は、光のフォースを「選択すること」、闇のフォースを「身を委ねる」ことで得られると僕は考える。
光のフォースに関するワードは以下のようなワードではないか。
理想、自立、非日常、ハレ、時間、線、物語、能動
そして、闇のフォースに関するワードは以下。
現実、依存、日常、ケ、空間、円、風景、受動
上のワードから分かるように、人の生はどちらかに振りすぎてはならない。フォースを扱う者は、バランスバランスと言いながらも、このことに無自覚すぎるのだ。
ジェダイの最大の弱点は、高貴な理想ゆえの悪や心の弱さを持つ者への徹底的な不寛容である。これでは敵を増やすばかりである。民衆の方がまだ、寛容さと柔軟性を持ち合わせている。
ジェダイはシスを打ち倒すことばかりを考ていて、決して彼らを救おうとはしない。このジェダイの姿勢では、フォースの世界にバランスをもたらすことは不可能なのである。したがって今作で、ジェダイではなく、民衆の力で今回の戦争に勝利したことに、僕は非常な満足感を得たのであった。
3
いや、旧三部作でルーク・スカイウォーカーはジェダイでありながら、シスを壊滅させ、宇宙を救ったではないかと思われるかもしれないが、ルークは真のジェダイではない。
これも『最後のジェダイ』の記事で指摘したように、彼はジェダイとしては未熟者、半端者である。最後までダークサイドを心身から追い出すことはできなかった。
ところが、彼はダークサイドに飲み込まれることもなかった。なぜなら、彼には友人や師との固い絆があったからである。絆によって光と闇のフォースをコントロールする力を与えられた彼は、父であるダース・ベイダーのライトサイドを引き出し、宇宙を救い、フォースにバランスをもたらしたのである。ジェダイの未熟者ゆえの偉業である。
今シリーズの主人公、レイ・パルパティーンも、ルークと同様ジェダイの未熟者ゆえに、フォースにバランスをもたらした。今作でレイは、シスの皇帝パルパティーンの孫だと明かされる。前作まで普通の人間だと思わされていたので、レイのフォースの強さの理由は結局血かよ!と憤った人もいるかもしれない。
しかし、ルークと同じように、レイもあくまで我々民衆側の人間である。ジェダイでもないがシスでもない。光と闇の側面を兼ね備えた、普通の人間として描かれていた。
その根拠に、レイが闇に堕ちてしまったカイロ・レンに何度も救いの手を差し伸べたことがあげられる。ジェダイはダークサイドに溺れてしまった人間に多分こんなことはしない。パルパティーンと血のつながりがあることが、逆に血なんて関係ないという強調にもなっていた。
『スターウォーズ』の世界を救うには、ダークサイドの力を無理に追い出すのではなく、絆の力でそれをコントロールすることが必要である。レイにはそれをすることができた。
物語の終盤、皇帝パルパティーンは自分を、孫であるレイを煽って殺させようとする。怒りと憎しみをもって自分を殺せば、パルパティーンの名と力を受け継いだレイは、次の皇帝に自然に君臨するという謎理論である。レイは皇帝のその計らいを拒絶する。
ところが、その後なんやかんやあって、結局レイは、ルークとレイアの二本のライトセイバーでパルパティーンを殺すのである。「結局殺すんかい!!」という観客たちの総ツッコミが劇場で聞こえた気がした(僕も突っ込んだ)。僕はカイロ・レンことベン・ソロが自己の命を犠牲に皇帝を倒すのかと予想していたが、裏切られた。
しかし、よくよく考え、僕は今、この展開を肯定するに至った。なぜなら、レイは最終的に皇帝を怒りや憎しみによって殺したわけではない。レイは仲間のため、そして、ダークサイドの面が強くなってきたフォースの世界にバランスをもたらす目的のため、皇帝を滅ぼしたのだ。そう考えれば納得できる。納得できるでしょ?
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ラストのタトゥーインの場面は素晴らしかったと思う。
ちぐはぐだった今シリーズを無理矢理にまとめるための取ってつけたようなシーンだと思われるかもしれないが、この場面があったことで、今シリーズな辛うじて救われた。宇宙を救ったレイは、旧スカイウォーカー宅の前で、ルークとレイアのライトセイバーを埋める。そこで通りかかった老女に名を聞かれ、「レイ・スカイウォーカー」と答えるのであった。
「スカイウォーカー」はいつでもフォースにバランスを与えてきた。ダース・ベイダーことアナキン・スカイウォーカーは、息子のルークと一緒にシスを滅ぼし、宇宙に平安をもたらした(見方を変えれば、若きアナキンが『シスの復讐』でジェダイの子供達を皆殺しにしたのは、ジェダイが台頭し、ライトサイドの強すぎているフォースの世界にバランスをもたらすためかもしれない)。フォースの世界にバランスをもたらしたのがたまたま「スカイウォーカー」だったのではなく、「スカイウォーカー」という名がフォースにバランスを与える宿命を担っているのである。そう考えると、レイがスカイウォーカーを名乗るのは必然である。
「スターウォーズ」は一貫して、宇宙を救う者の物語、すなわち「スカイウォーカーの物語」なのだということが、今作ではっきりと明示された。レイが自分の役割を自覚し、スカイウォーカーを名乗ったとき、『ジェダイの帰還』でアナキンからルークにバトンが手渡されたように、ルークからレイへとバトンは手渡された。
映画は新たなる伝説が始まる予感を残し、幕を閉じた。日は沈むが、必ずまた昇ってくる。血が途絶えてしまっても、スカイウォーカーの物語は今後も連綿と続くことを示唆する、まさしく『スカイウォーカーの夜明け』の名にふさわしい映画であった。
5
どうだったであろうか? なんとか『スカイウォーカーの夜明け』を肯定してみた。
え?レイとベンが「対のフォース」を持っているっていう設定はどういうことかって?
……あれだけはわからん。
『レモン哀歌』の話ーなぜ光太郎は智恵子の写真の前にレモンを置くのか?
人っ子ひとりいない九十九里浜の砂浜の砂に向かって智恵子は遊ぶ無数の友達が智恵子の名を呼ぶちい、ちい、ちい、ちい、ちい――砂に小さな足あとつけて千鳥が智恵子の寄つて来る。口の中でいつでも何か言つている智恵子が両手をあげてよびかえす。ちい、ちい、ちいーー両手の貝を千鳥がねだる。智恵子はそれをぱらぱら投げる。群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。ちい、ちい、ちい、ちい、ちいーー人間商売さらりとやめてもう天然の向こうへ行ってしまった智恵子のうしろ姿がぽつんと見える。二丁も離れた防風林の夕日の中で松の花粉を浴びながら私はいつまでも立ち尽くす
智恵子からの愛情が光太郎に与えた影響は限りなく大きかった。智恵子との出会いがなければ、彼の心は救われることはなく、退廃生活は死ぬまで続いていたかもしれない。幼子のように千鳥と遊ぶ智恵子を見て、「いつまでも立ち尽く」している光太郎の胸中にはどんな思いが到来していたのであろうか?
そんなにもあなたはレモンを待つてゐたかなしく白くあかるい死の床でわたしの手からとつた一つのレモンをあなたのきれいな歯ががりりと嚙んだトパァズいろの香気が立つその数滴の天のものなるレモンの汁はぱつとあなたの意識を正常にしたあなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふわたしの手を握るあなたの力の健康さよあなたの咽喉に嵐はあるがかういふ命の瀬戸ぎはに智恵子はもとの智恵子となり生涯の愛を一瞬にかたむけたそれからひと時昔山巓でしたやうな深呼吸を一つしてあなたの機関はそれなり止まつた写真の前に挿した桜の花かげにすずしく光るレモンを今日も置かう
智恵子を亡くした光太郎は、彼女の遺影の前に、すずしく光るレモンを置くようになる。なぜ、光太郎は智恵子の写真の前にレモンを置くのであろうか?
3
命の瀬戸際にあった智恵子は、死の床でレモンを求めた。
レモンの汁は智恵子の意識を正常にし、彼女はかすかに笑ったり、光太郎の手を握ったりした。智恵子から以前のような健康さ、そして愛情を感じ、光太郎は嬉しかったであろう。病んでしまった智恵子を前に、光太郎は不安や悲しみ、寂しさにずっと打ちひしがれていたのだから。
レモンは一瞬ではあるが、2人の心を再び繋いだ。このときレモンは、苦味もあるが、爽やかな幸福に満ちた、出会いからこれまでの2人の愛のやりとりの象徴となった。
レモンをはじめ、「きれいな歯」、「トパァズいろの香気」、「青く澄んだ眼」、「桜」など明るく爽やかな色彩の描写にも光太郎の思いが込められているように思える。彼は智恵子の臨終のときを、単なる暗く辛い思い出として片付けたくはなかったのではないか。詩を通して、智恵子への感謝と、智恵子との幸福な思い出を抱えながら前向きに生きていこうとする光太郎自身の姿勢を表現しようとしているようにも読み取れる。
レモンは心身を病んでいた智恵子を正気に戻す役割を果たし、そのおかげで死の直前に光太郎と智恵子は愛情を交わすことができた。光太郎は智恵子の死をただ嘆くのではなく、その日のことを忘れないように、また、智恵子の愛を死後も感じるために今日もレモンを写真の前に捧げるのである。
僕のコーディネートを見てください。-『ポケットモンスター ソード/シールド』
近頃ブログを更新していなかったのは、ポケモンの新作をやっていたからです。
夜にコツコツと『ポケットモンスター シールド』を進め(妻は『ソード』をプレイ)、一応メインストーリーはクリアしました。
ポケモンのために、Switch Liteも購入しちゃった。 普通のSwitchのようにテレビにはつなげないけど、薄くて使いやすい!
僕は『赤/緑』版の初代シリーズから欠かさずプレイしていて、もう20年以上ポケモンファンをやっています。妻との結婚の決め手の一つは、彼女が生粋のポケモントレーナーだったからということです。
妻のトレーナーとしての活動のメインはオンラインでのポケモンバトルですが、僕のメインはストーリーの攻略とポケモン収集です。新作のストーリーは、ジムリーダー戦の復活とか、ポケモンの巨大化(ダイマックス)とか、新ポケモン登場のわくわく感とか、華麗なグラフィックと相まって楽しい。
少々不満があるとすれば(懐古厨と言われても仕方ないですが)、犯罪組織ロケット団によるシルフカンパニーやラジオ塔の占拠に立ち向かうとか、古代のポケモンの復活による異常気象に翻弄されるとか、そういうポケモン社会や世界を揺るがす大事件に巻き込まれることが今作ではかなり抑えられていたことです。今作の舞台であるガラル地方でも何か大きなことが起きていることはほのめかされているんだけど、それにはチャンピオンが対応しているようで、主人公は蚊帳の外です。そんなことよりも、ジム制覇と、友人でありライバルである超ポジティブ男、ポップとお互いを高めあうことに専念させられます(こいつとのバトルが多すぎて病んでくる)。
そうやって小さなコミュニティでワイワイガヤガヤしているうちに、結局わけのわからぬまま世界の大問題をも自分たちの手でいつの間にか解決しちゃっているという、なんとなくセカイ系くさい世界観を持ったストーリーなのでした。まあ、こういったささいな不満を吹き飛ばす面白さがありますので、今作の購入を迷っている人にも、自信を持っておすすめできる作品であります。
今作の新ポケモンの中では、特にガラルの姿のバリヤードの進化系、バリコオリがお気に入り。(チャーリー・チャップリンを意識していますね)
☆
で、本題に入ります。
メインストーリー攻略後、まず行ったのが、コーディネートです。近年のポケモンは、主人公の服装を、街のブティックで購入したアイテムで自由に変えられます。前作『サン/ムーン』での僕のコーディネートがこちら。
これを見た妻は「ださ! ポケモンの世界でもファッションセンス、ゼロだな」と言いました。言外に、僕自身のリアルのファッションも否定され、ちょっと涙目になってしまったのでした。
今作では「妻にダサいとは言わせない。あわよくば、ほめられたい」と意気込み、コーディネートに臨みました。そんなときに、目にしたのが以下の記事。
最近、よくこのファッションアドバイザーのMBさんの話題を目にする。「ファッションは、センスではなくロジック」と語る彼。……よし!彼のアドバイスに従い、主人公のコーディネートをしてみよう! 目指すは、オトナのオシャレ男子。
MBさんの語る、ファッションの大原則はおおむね以下にまとめられる。
①ドレス:カジュアル=7:3
②ボトムスからそろえる
③モノトーン+1色に抑える
記事を読み込んで、できあがったコーディネートがこちら。
・7ぶたけシャツ(ストライプ)
・スキニーパンツ(ネイビー)
・ロークールーソックス(ブラック)
・ローファー(ブラック)
基本的にはドレスライクに寄せ、色もモノトーンで抑え、シャツのストライプでほんのり遊び心を演出してみました。
妻にこれを見せると(どきどき)、「かっこいいじゃん! 前のより全然いい!」とお褒めの言葉をいただきました。ありがとう、MBさん! 僕は妻の言葉に、上下スウェット姿で大喜びしたのでした。
☆
先日の休日は、家族で「ポケモンセンタートーキョーDX」に行ってきました。ポケモンに夢中で、読書が全くはかどりません。