『14歳からの読解力教室』を読んでー方略を取り入れた「読み」をしよう!
昨今、日本の子供達の読解力の低下が話題になることが少なくないが、「読解力はなぜ必要なのか?」、「読解力を高めるにはどうすればいいのか?」、「そもそも読解力とは何か?」といった疑問に簡潔に分かりやすく答えてくれるのが、『生きる力を身につける 14歳からの読解力教室』である。
【本書の目次】
はじめに
I 「読む」とはどういうことか
第1章 読解力は必要か
第2章 なんで「読めない」の?
第3章 暗記と理解はどう違う?
第4章 忘れてしまうのはなぜ?
II 読解力を高めよう
第5章 読解力向上のためには「たくさん本を読む」しかないの?
第6章 マンガはやっぱりダメですか?
第7章 図とかイラストを増やしてほしい?
第8章 読解力は一人で鍛えるモノ?
III 「読む」だけが読解じゃない
第9章 書いてあることは本当?
第10章 先入観はなくせる?
第11章 主観は排して読まねばならない⁉︎
第12章 結局のところ読解力ってなに?
どんなにAIが発達したり、分かりやすい説明がある動画が配信されたりしても、それらは「自分が読むことの代わりにはならない」と本書の筆者である犬塚美輪先生は言う。情報があふれる現代では「読む」行為から逃げることはできず、読解力はそのまま「生きる力」に直結する。
本書は案内役の犬塚先生と、読むことに苦手意識や疑問を感じている3人の中学生との対話を通して読解力について学んでいく形式になっている。イラストや図も充実していて、幅広い層にとって読みやすい本だろう。
○大事なのは読む「量」ではなく「質」
本を読むのは好きではないという人でも、読解力を上げたいという人は多いだろう。残念ながら、文字を読むことを避けて読解力を向上させることはやはりできない。
本書の第5章にあるが、実は「読んだ本の量」と読解力の関連ははっきりしていないそうだ。ただ、「熱中して読書する」ことが、読解力を向上させることは国際的な調査である「PISA(ピザ)」の報告からわかっている。スポーツの練習と一緒で、「量」より「質」が大事だということである。
「いやいや、読解力がないから、読書が熱中できない(楽しめない)んです」という反論もあるだろう。たしかにその通りで、僕も子供の頃は文字だらけの本を読んでもあまり内容が理解できず、読書は苦痛であった。読解力が向上すれば読書に熱中でき、読書に熱中できれば読解力が向上するという好循環になる……はずである。
では、読解力を向上させるには具体的にどうすればよいのだろうか? 本書では読解力を向上させるための以下の方略が紹介されている。
よく考えると、これらの方略はすべてでないにしろ、学校の国語の授業で学んできたものである。国語の授業ではその読み物の内容を学んでいたのはなく、「読みの方略」を学んでいたのである。上のような読みの方略を個人的な読書でも試してみれば、読書の「質」はきっと上がるはずだ。
○「方略」を意識した読書が読解力を向上させる
テキストの「説明」は「理解を促進するための方略」であると本書は言う。他者を意識し、筋の通った説明を試みることで自分の「理解度」を確認できる。「説明」は読解力を向上させる手段の一つなのだ。
友人や家族と同じ本を読んで、それについて説明したり指摘したり感想を交流しあったりするのも読解力を向上させることにつながるだろう。僕はここ何年か読んだ本の内容や感想をノートやブログにまとめるようにしているが、以前よりも内容を説明することや要点を把握することがぐっとスムーズになったと実感している。
よく「読解力を向上させるにはどうすればいいか?」という質問に、「とにかく本を読みなさい」という大人がいるが、本書が丁寧に解説するように、単に本を読むだけでは読解力の向上は見込めないのである。
「受け身」の読書でなく、読書の「質」を高めるための「攻め」の読書の必要性が本書を読んだことでより深く、体系的に理解できた。
居酒屋で3歳息子とサシ飲みした休日の話
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以前ならば仕事柄、土日祝日関係なく働いていたが、密状態を避ける状況下になったことでちゃんと休日が休日として休めるようになった。不要不急の外出は避けなければならないものの、やっぱり嬉しい。
休みなのであるからいつまでも朝寝坊しても許されるのであるが、どんなに夜更かししても習慣で早朝に目覚めてしまう(おじいちゃん)。子供たちがまだ眠っている静かな朝の時間は基本的に読書をしている。近頃読んでいるのは、司馬遼太郎の『国盗り物語』。
あまりに有名な小説なので作品の解説はいらないだろう。今年の大河ドラマ『麒麟がくる』の視聴をきっかけに読み始めた。
『麒麟がくる』、少しずつ面白くなってきたところなのに放送回が削減されてしまうことになってしまったのは残念である。沢尻エリカの件といい、なんてツキのない作品だろう。
打ち切りの週刊漫画のように最終回は、「敵は本能寺にあり!」という明智光秀のセリフと共に「来年の大河ドラマにもご期待ください」とテロップが流れて尻切れトンボに終了するのも悪くないかもしれない。
さて、『国盗り物語』を読んで、すっかり斎藤道三(庄九郎)に惚れてしまった。まあ物語的な脚色があるのは分かっているけど、その合理主義の考え方と豪胆さはカッコいい。
「蝮」の異名を持つ道三。単に攻めに攻めまくる男ではない。
気運とはおそろしい。庄九郎の信ずるところでは、「気運が来るまでのあいだ、気長く待ち、あらゆる下準備をととのえてゆく者が智者である」といい、「その気運がくるや、それをつかんでひと息に駆けあがる者を英雄」という。
待つ場面と攻めどころを弁えているのが英雄である。英雄は気運(しお)を的確につかむ。
……物語に没入しかけたところで、大抵子供達が起きて、朝ごはんを要求してくる。まあしょうがない。次の読書タイムは子供達のお昼寝のときまでお預けである。
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先日の土曜日の話。
お昼寝から起きた3歳息子のハルタと駅前の商店街に出かけた。休日だというのに人出はまばらである。僕が住む神奈川県はまだ休業要請が解除されていない。飲食店などはつらいだろう。
現代は「リスク社会」とも呼ばれる。グローバル化の拡がりと社会構造の複雑化などによって、多くの突発的なリスクにさらされやすくなっている。感染症の世界規模の急激な広がりや、それが社会に与える複雑なダメージはリスクの1つだと言えるだろう。リスク社会では、リスクにその都度柔軟に対応していく力が求められる。
駅前の商店街の飲食店は「テイクアウト大作戦」というのを協力して行なっていた。夕飯のおかずをテイクアウトしようと思いつき、ハルタと一軒の居酒屋に入った。
店内はやはりガラガラ。注文したテイクアウトの「厚木シロコロホルモン焼き鳥」などが出来上がるのを待つ間、図らずもソフトドリンクで3歳児とサシ飲みすることになった。
こんな先行きの見えない時代に生まれた子供たちも大変だなあとオレンジジュースを無邪気に飲む息子を見て思った。しかし、親のしてやれることなぞあまりに少なく、結局は自分で未来を切り開いてもらうしかない。
荘子は「窮するもまた楽しみ、通ずるもまた楽しむ。楽しむところは窮通に非るなり。」と言った。どんな状況でも楽しめる心をなんとか育んであげたいとは思う。
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自宅で夕飯を食べた後、息子たちとDVDで『クレヨンしんちゃん アクション仮面vsハイグレ魔王』(1993年公開)を見た。『クレヨンしんちゃん』の劇場版第1作。興行収入は22.2億円もあったそうだ。
僕も幼いとき、今の息子たちのように『クレヨンしんちゃん』を熱心に見ていたわけだけど、劇場版のストーリーには結構恐ろしさを感じていた思い出がある。前半場面の家族や友達とののほほんとした穏やかな日常が、突然壊されたり混乱に陥ったりする展開がこわかった。
今『クレヨンしんちゃん』を見て思うのは、しんちゃんは本当に強いということである。どんな状況でも全く動じず、我が道を行き、それを楽しんでさえいる。そして気運を無意識のうちに見つけ、状況を好転させる。
「親が子供に見せたくないテレビ番組」ワースト1位になったこともある『クレヨンしんちゃん』であるけど、現代人に求められているのは野原しんのすけのメンタリティだよなあとか思ったりしたのであった。
幸せについて本気出して考えてみたこの頃の話ー『幸福とは何か』を読んで
「おうち時間」に全然退屈を感じないという話
お題「#おうち時間」
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元々インドア派なので、この外出自粛の状況でも全く鬱々とした気分にはならず、「おうち時間」をかなり楽しんでいる。
確かに少々は不安なこと、困っていることがないわけでもないが、心の状態はいつになく平穏である。仕事をしている時間が相対的に減ったことも関係しているだろう。コロナ禍以前は当たり前にあった休日出勤もなくなり、休日にちゃんと休むことの大切さを噛みしめている。会社の飲み会がなくなったのも嬉しい。
大幅に増えた「おうち時間」で、家事、育児、仕事のための自己研鑽、趣味活動に精を出している。趣味活動はやっぱり読書が中心である。積み本が順調に減っている。
読書は隙間時間に分割してできるからいい。独身のときは映画漬けの生活だったので、本当は家で映画を視聴したいのだけど、それは諦めている。元気いっぱいの幼児が家に2人いるので、約2時間を集中して見ることは難しい。
あと久しぶりにゲームをやっている。Switch版の『三國志13』。同じコーエーが制作する『信長の野望』はプレイしたことはあるけど、『三國志』シリーズのプレイは初めて。
現在「三国志」を勉強中で、勉強を兼ねてこのゲームを購入しようかどうかを考えていたところ、先日24日、コーエーが京都市に3000万円を寄付したというニュースを見てちょっぴり感動し、購入してしまった。
ゲームのシステムを段々と理解し、面白くなってきた。子供が寝静まったあと、夜な夜なプレイをしている。関羽好き。
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今から10年ほど前の大学生のときは、現在よりもっと時間と自由があってインドア活動に励んでいたが、正直心から楽しめてはいなかった。恵まれた環境にいる人間の贅沢な悩みかもしれないが、日常があまりに平凡で、とにかく退屈を感じずにはいられなかった。好きなことをやっていても、暇つぶしに取り組んでるような気がしてならないのである。
近頃ラッセルの『幸福論』を読んでいる。『幸福論』は退屈の正体を的確につかんでいる。
退屈は、本質的には、事件を望む気持ちのくじかれたものだ。事件といっても、必ずしも愉快なものでなくてもいい。要は、倦怠の犠牲者にとって、きょうと、きのうを区別してくれるような事件であればいいのだ。ひと言で言えば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮である。
まさしくこれである。学生時代の僕は自身の退屈をくじく「事件」を心待ちにしていた。しかしながら、かといって「事件」に遭遇するために外の世界に関わっていこうとする積極性と勇気を持ち合わせておらず、棚ぼた的に「事件」がやってこないないかなあと口をぱくぱくしながら待っている、まあ本当にどうしようもない人間であった。
そういう人間にとって退屈はより一層つらい。退屈は自身の興味を内側に向かわせがちである。自分とはどういう人間なのか? 自分が本当に望んでいることは何なのか? 自分の生の価値とは? ……こんなことばかり一人で考えていた。こんなこと考えたって「自分」なぞ見つかるはずもなく、むしろ「自分」を見失うに過ぎず、不安しか生まない。
もちろん誰かに貢献しているなんて感覚もなかった。不安で自分に自信がなく、新しいコミュニティに飛び込もうとか関わろうとかせず、「孤独を楽しむおれ」を演じてみる。ところが、自分ばかりを見つめ、他者には何も与えようとしないくせに、心の内では他者からの承認を実は何よりも求めているというこじらせっぷりであった。これで日常が楽しくなるはずがない。
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大人になってからの日常のほうが断然楽しい。それは働き始めたことや、家庭を作ったことで、自分の社会的な役割を実感できるようにようになったことが大きく関係しているように思える。会社では会社を動かす社員の一人であり、家庭では夫、父親の役割をになっている。
社会的な役割があると、興味は外に向きがちである。例えば、育児をする中で子供はよく熱を出すが、そんなときは親として心配になり、必死に看病する。無心で役割を実行しているときに「自分とは何か?」なんて考える暇はない。
ラッセルは「私たちの情熱と興味が内でなく、外へ向けられているかぎり、幸福をつかむことができる」と説く。僕は社会的な役割ができ、興味が外に向かったことで、初めて自分の価値観がわかり、自分自身で自分を承認できるようになった気がする。それは確かに幸福なことだ。「自分とは何か?」といった問いの答えは自分の中をいくら探してもなく、社会との、他者との関係性の中に見つけることができるのである。
ありのままの自分を認められるようになることが、すなわち大人になることなのかもしれない。この自己承認の安心感があると、「事件」がない平凡な日常も十分楽しめ、強い興奮も求めなくなる。
社会的な役割がある生活の中でたまにやってくる自分だけの時間は最高である。その時間では、自分は何をしたいのか、何をすべきなのかというのがすぐに見つけることができるし、退屈を感じずにその取り組みに没頭できるようになった。
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くだらない自分語りが長くなってしまったが、要するに、興味が内側ばかりでなく、外側に向くようになったことで、やっと自分の価値観が分かり、心が求める声がクリアに聞こえるようになったということである。
心の声は「おうち時間、最高!」と今のところ言っています。
『段落論』を読んでー奥深き「段落」の世界
本屋の新書コーナーで『段落論』(光文社新書)を見つけ、手に取った。書名の元ネタは、坂口安吾の『堕落論』か……。一旦、本書を棚に戻し、他の棚の前もうろついたが、『段落論』というタイトルがどうも頭から離れない。
新書はタイトルのつけ方がうまい。結局、新書の棚に戻り、本書を購入してしまった。
本書の筆者である石黒圭先生の『文章は接続詞で決まる』(同じく光文社新書)を僕は持っているが、今でも読み返すことのあるお気に入りの新書である。接続詞の機能と意義がわかりやすくまとめられている。
今作『段落論』には、ただただ「段落」に関する話題のみが一冊の本にまとめられている。なかなかこういう本はなかったであろう。本書の目次は以下。
はじめに
第一部…段落の原理
第一章:箱としての段落
・段落とは何か
・段落は箱である
・段落を箱と考えると第二章:まとまりとしての段落
・話題による段落分け
・段落の内部構造
・中心文の統括力
・パラグラフ・ライティングの限界第三章:切れ目としての段落
・一段落つく
・文間の距離
・動的な過程としての段落
・段落の開始部の文の特徴
・段落の開始部の接続詞
・段落の終了部の文の特徴第四章:つながりとしての段落
・段落分けのない文章とある文章
・跳躍伝導を可能にする段落
・アウトラインの把握を助ける第五章:フォルダとしての段落
・引き出しとしての段落
・階層フォルダとしての段落
・フォルダのしくみ
・「流れ」と「構え」の出会いの場第二部…段落の種類
第六章:形式段落と意味段落
・形式段落と意味段落の区別の是非
・「段」設定の意義第七章:絶対段落と相対段落
・「段落連合」と「文塊」
・「書くための段落」と「読むための段落」
・「構造段落」と「展開段落」第八章:伝統的段落と先進的段落
・「黒地に白」と「白地に黒」
・段落の外部的制約
・段落の内部的制約
・囲み枠の段落第三部…段落とコミュニケーション
第九章:読むための段落
・文談を意識する
・段落に区切る
・段落と接続詞第十章:書くための段落
・段落を作る
・段落をつなぐ
・小見出しを活用する第十一章:聞くための段落
・話し言葉の段落の目印
・話し言葉の段落の階層性第十二章:話すための段落
・思考の橋渡しとしての段落
・上手なプレゼンテーションの方法
・教室の対話の段落
・伝言の対話の段落第十三章:段落の未来
・変容する段落
・リンクと段落
・文字の段落から画像の段落へおわりに
この目次に目を通しただけでも「段落」の奥深さが分かる。「聞くための段落」、「話すための段落」というのもあるのか……。
本書の帯には「段落を上手に使いこなせば、コミュニケーションの質があがる」とある。確かに本書を順に読みすすめていくと、「段落」は人と人との関係をスムーズにつなげるのにかなり有効なツールであることを実感することができる。
また、「段落」の概念や特性を十分に活用しながら本書が構成されているので、メタ的に「段落」が学習できるというのも本書の大きな特徴である。
〇段落の構造ー「構え」と「流れ」
筆者は「段落」を、情報を整理し、伝達するための「箱」にたとえる。
文章を書くことは、書き手の頭のなかにある情報を、文章をつうじて読み手の頭のなかに移動させる、いわば情報の引っ越しです。文章の場合、情報という小物は文に入っています。引っ越しのときと同じように、文一つひとつをばらばらに伝えてしまうと、情報の整理もつきませんし、そもそも情報伝達の効率が下がってしまいます。引っ越しの小物を段ボール箱に入れて積みこむように、文もまた段落という箱に入れて読み手の頭に積み込む必要があるわけです。段落がしっかりした構成でわかりやすく文章の内容を伝えられる理由が、ここにあります。
段落内の内容は、パラグラフ・ライティングの型に基づくと、小主張文ー支持文ー小結論文で構成される。小主張文はその段落で言いたいことを端的にまとめた文、支持文は小主張文の内容を支え、段落の具体的な内容を詳しく語る文、小結論文は段落全体の内容をまとめる文である。
しかしながら、あくまでパラグラフ・ライティングは英語圏の文章の型であると本書はいう。段落に注目して文章を要約しようするときなどに気づくが、日本語の文章は、小主張文や小結論文のような段落の内容を端的にまとめた中心文が見つかりにくかったり、あるいは段落内に中心文の候補が複数見つかったりするのである。
この日本語の段落の特徴が、改行一字下げで表される形式段落と別に、内容上のまとまりを示す意味段落という概念を生むこととなる。その意味段落を巡って、その存在意義を認めない研究者と積極的に認める研究者の間で論争があったそうだ。そんなことで論争しなくても……。
筆者は、日本語の文章にパラグラフ・ライティングが受け入れられていない原因の一つとして、国語教育が、アウトラインをしっかりと立て、それにしたがって文章を書くトップダウン式の活動=「構え」よりも、その場の文脈に合わせて即興的に考えながら文を継ぎ足していくボトムアップ式の活動=「流れ」に力を注いできたからではないかと考えている。
〇段落から見えてくる日本語の特徴
そういえば、小中学校の教科書で扱う説明的な文章は教科書のための書下ろしが多い。その文章は段落と段落の関係が明確で、段落の内容も整理されていて、あまりに「教育的」である。
しかし、世にある文章はそれほど整った構造をしているわけではない。読み手は、形式段落にとらわれすぎず、意味のまとまりを読み取り、文章の構成をつかんでいかなくてはならない。
本書は、英語教育に由来する小主題文ー支持文ー小結論文のような固定的な構造を持つ「パラグラフ」を「絶対段落」、国語教育で定着している可変的な段落を「相対段落」と呼ぶ。絶対段落は「構え」の意識が強く、相対段落は「流れ」の意識が強い。前者が論理的で、後者が非論理的であるという短絡的な発想は避けるのが賢明であると筆者は強調する。日本語には日本語の論理がある。
「相対段落」は、書き手(話し手)の言いたいことがまとまりの最後にくることが多い。逆に言うと、まとまりを終わりまで読み進めないと言いたいことはわからないということである。
僕が思うに、この特徴は文レベルにも共通している。英語などの文は主語の直後に述語が置かれる演繹的な構造であるが、日本語は述語が文末にやってくる帰納的な構造である。なにをするのか、どのような状態なのかは文末までわからない。また、日本語が段落のはじめにトピック・センテンス(小主題文)がない場合が多いというのも、文の主語がない、あるいは主語が曖昧という特徴が関係しているように思えてならない。
日本型組織は責任の所在が曖昧になりがちになってしまうというのは、こういった「最後まで言いたいことがわからない」、「主語の存在感が薄い」といった言葉の構造も影響を与えているのではないかなと『段落論』を読んで勝手に推測してみたりした。
〇段落の変化、そして未来
本書の第三部では、読むための段落、書くための段落、聞くための段落、話すための段落について詳しく説明したあと、段落の未来が語られる。段落は現在進行中で変化している。
筆者は「文章を閲覧する媒体が、従来の紙から、パソコンの画面やタッチパット、スマホなどの電子媒体に変わることで、段落の姿は大きく変わってき」ていると言う。このブログの記事もそうだが、電子媒体では一字下げのない一行空けで段落が表されるようになった。電子媒体なので空白がもったいないものではなくなったことや、スライドに合わせた「見やすさ」や「読みやすさ」が重視された結果である。また、段落の変化がインターネット時代の人間の思考に影響を与えているという筆者の考察も非常に勉強になった。
☆
「段落」の奥深さ知れると同時に、「段落」の実践的な活用法を学べる良書である。おすすめです。
※今回の記事は『段落論』で得た学びをなるべく構成に生かして書いてみました。
井上ひさし『握手』を読んでー身体が語るもの
1
井上ひさしの短編集『ナイン』の中にある『握手』を読んだ。『握手』は作者の経験を元に作られた小説。読んでなんだか胸がいっぱいになっちゃったなあ。
恥ずかしながら、本書を手に取るまで、井上ひさしの小説や戯曲などの作品にはほとんど接した経験がない。幼い頃、NHKで『ひょっこりひょうたん島』のリメイクを見ていた程度。親がカラオケ好きで、一緒に連れて行かれると僕は『ひょっこりひょうたん島』のテーマ曲ばかり歌っていた記憶がある。
まるい地球の 水平線に
なにかがきっと まっている
くるしいことも あるだろさ
かなしいことも あるだろさ
だけど ぼくらはくじけない
泣くのはいやだ 笑っちゃお 進め
泣くのはいやだ! 笑っちゃお♪
2
桜の花はもうとうに散って、葉桜にはまだ間がある季節、大人になった「私」のところに「ルロイ修道士」が訪ねてくる。ルロイ修道士は、故郷のカナダに帰ることになり、かつての教え子にさよならを言って回っていると言う。中学3年生の秋から高校卒業までの期間、児童養護施設「光ヶ丘天使園」で過ごした「私」にとって、園長のルロイ修道士は育ての親といえる存在である。気の毒なくらい空いている西洋料理店で再会した「私」とルロイ修道士は思い出を語り合う……というのが『握手』のあらすじ。
本作のタイトルでもある「握手」は、一般的にどのような場面でなされる行為であろうか? 出会いのとき、別れのとき、友情や合意を確認するとき……。本作では、「私」とルロイ修道士が何回か握手をするが、その握手から読み取れる思いや込められている思いは、それぞれの握手で異なっている。
最初の握手は、「私」が天使園に収容される日。ルロイ修道士は、「ただいまからここがあなたの家です。もうなんの心配もいりませんよ」と言い、「私」の腕がしびれるほどの強さで手を握る。ルロイ修道士は、少年だった「私」の腕がしびれるほどの強さで手を握る。「私」はその握手に大きな安心感を抱いたはずである。
2回目の握手は、大人になった「私」とルロイ修道士が再会したとき。そのときのルロイ修道士の握手は力が弱く、身体の衰えを感じさせる。さらに、ルロイ修道士は、「おいしいですね、このオムレツは」と言うが、店のオムレツをちっとも口に運んでいない。これらのことから、「私」は悪い予感がせずにはいられない。
3回目の握手は、「私」とルロイ修道士が駅でお別れをするとき。これは「私」からする握手である。「私」は、「死ねば何もないただむやみに寂しいところへ行くと思うよりも、にぎやかな天国へ行くと思うほうがよほど楽しい。そのためにこの何十年間、神様を信じてきたのです。」と死生観を別れ際に語ったルロイ修道士に、彼が痛がるほど強い握手をする。この握手には、戦争中から戦後、そして現在に至るまで長く日本で暮らし、子どものために尽くしたルロイ修道士の人生に対する深い尊敬の思いが込められているのだろう。
「手を握る」という身体的なつながりが、二人の心の深いところでの温かな交流を象徴している。
3
突然だが、僕は昔から電話が苦手である。自分自身の会話能力に自信がないという理由もあるが、どうやら僕はかなり身体的コミュニケーション(身振りや表情)に依存しているようで、言葉が意味するそのもの以外のことが十分に伝えられなかったり受け取れなかったりすることに不安を感じやすい。
2020年4月現在、コロナ禍で他人との接触を積極的に避けているこの頃、身体的なコミュニケーションの大切さをひしひしと感じている。直接人会って話せないのは何かモヤモヤするし、テレワークにも辛さがある。身体の動きが伝えることのできり情報や感情や思いの量は、言葉が伝えることのできるそれを圧倒しているように思う。
『握手』は、身体の様子や動きが多くの大切なことを語る小説である。手を握ること以外の印象的な動作は、ルロイ修道士の指言葉だ。右の親指をピンと立てるのは「わかった。」「よし。」「最高だ。」、人差し指をピンと立てるのは「よく聞きなさい。」、両手の人差し指をせわしく交差し、打ちつけるのは「おまえは悪い子だ。」ということを意味する。
「私」は握手やその指言葉やの様子から、再会したルロイ修道士の状態を察する。例えば、「よく聞きなさい」とピンと立てた人差し指はぶるぶるとふるえている。さらに、「私」がルロイ修道士に大きな心配をかけたときの思い出を語ると、懐かしい思い出をかみしめているかのように、修道士は笑いながら人差し指を交差させ、せわしく打ちつける。ルロイ修道士の動作や表情の様子から、故郷に帰るからというのは建前で、彼は本当は何かの病にかかっていて、この世のいとまごいをするためにかつての教え子に会ってるのではないかと「私」は勘ぐるのである。
「私」の予感は的中し、ルロイ修道士の訃報が届く。「私」はルロイ修道士の葬式で、かつての教え子である「私」たちに会っていた頃の彼は、身体中が悪い腫瘍の巣になっていたと聞かされる。それに動揺した「私」による動作の描写の一文で、小説は締めくくられる。
葬式でそのことを聞いたとき、私は知らぬ間に、両手の人さし指を交差させ、せわしく打ちつけていた。
どうして「私」は両手の人さし指を交差させ、せわしく打ちつけたのか……理由は書かれていない。書かれていないが、その動作から「私」の思いがひしひしと伝わってくる。
「私」はルロイ修道士を叱っている。そして、自分自身をも叱っている。「病に冒されているのに、大人になった私を心配している場合じゃなかったじゃないですか、先生。なぜ先生はそれほど人に尽くせるのですか。私は先生に大変に世話になり、それを嬉しく思い、甘えるばかりで、先生に何も恩返しをすることができなかった」と思ったのではないだろうか。
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『握手』は現在と過去が行き来する形式になっているが、身体の様子や動作が現在と過去の時間を結びつける役割をも担っている。
ルロイ修道士のおかしなかたちにゆがんでいる左手の人さし指と爪は、修道士の悲惨な過去を呼び起こすことになる。戦争中にはすでに来日していた彼は、強制労働の監督官にさからう結果になったために、目せしめに指を木づちでたたき潰されてしまったのである。「私」が日本人の過ちについて謝罪すると、ルロイ修道士は、右の人さし指をぴんと立てて、怒りをあらわし、以下のセリフを言う。
「総理大臣のようなことを言ってはいけませんよ。だいたい日本人を代表してものを言ったりするのは傲慢です。それに日本人とかカナダ人とかアメリカ人といったようなものがあると信じてはなりません。一人一人の人間がいる、それだけのことですから。」
これは「国家と個人」という問題の核心をつく大切な言葉である。とかく僕らは「日本人は〜」などと大きな主語でものを語りがちだが、ルロイ修道士がいうように、だだ一人一人の人間がいて、その個人と向き合わなくてはならないのだということを忘れてはいけない。
短い小説であるが、ルロイ修道士はその身体を通して、いくつも大切なことを教えてくれるのである。
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最近、家の外での他人との接触は極端に減ったのであるが、逆に家族とのコミュニケーションはかなり密になった。
在宅ワークをしていると、子供が「抱っこして」とか「肩車して」とかずっと求めてくるので、身体的に疲れている。まあ子供たちも外に出られず、退屈なんだろう。
ということで、先日、お家でものびのび遊べるように滑り台とブランコがついたお部屋用ジャングルジムを買ってやった。2万円もしました、ぐはっ。
『13歳からのアート思考』を読んでー「アート思考」で「自分だけの答え」を見つけよう!
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近頃体調が優れず、自宅の部屋に引き持っていた(ただの風邪でした、多分)。その間、何冊か本を読んだが、その中で最も強く紹介したいのは、今年の2月にダイヤモンド社から出版された『13歳からのアート思考』である。
あーーーーー、これはたまらなく面白かった!!! 面白過ぎて、読んでいる間は具合の悪さが吹っ飛んだし、半日で一気に読み終えてしまった。しょうがなく巣ごもり状態が続き、読書でもしようかなと思っている人は、是非これを読んでください!!!(べた褒め)
本書を読み終えたとき、きっと「アート思考」の一端が身についている……はず!
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本書の筆者である末永幸歩さんは、東京学芸大学で個人研究員として美術教育の研究に励む一方、中学・高校の美術教師として教壇に立っているそうだ。筆者によると、小学校で「図工」は生徒の人気科目であるが、中学校の「美術」になるとその人気は途端に急落してしまうらしい。
僕自身はというと、中学時代、美術科は大好きな教科であった。美術の時間に描いた水彩の風景画が、市の公民館に展示されたときは本当に嬉しかったなあ。しがしながら、中学生になると作品に評価がつく。楽しさを感じていた一方、納得できない評定がついたり、教師の評価の基準が不明瞭であったりすることに戸惑いや憤りを感じたりもしていた。
本書では、学び方がよく分からない、将来なんの役に立つのかよく分からないと言われてしまう美術の魅力とその価値を存分に教えてくれる。筆者曰く、タイトルでもある「アート思考」とは、「『自分だけの視点』で物事を見て、『自分なりの答え』をつくりだすための作法」である。
「自分なりの答え」をつくる「アート思考」は、これからの「VUCAワールド(あらゆる変化の幅も速さも方向もバラバラで、世界の見通しがきかなくなった世界)」、そして「人生100年時代」を生き抜く上で欠かすことのできない武器になる。一人ひとりが、ある意味でのアーティストであることが求められるのだ。
ビジネスだろうと学問だろうと人生だろうと、こうして「自分のものの見方」を持てる人こそが、結果を出したり、幸せを手にしたりしているのではないでしょうか? じっと動かない一枚の絵画を前にしてすら「自分なりの答え」をつくれない人が、激動する複雑な現実世界のなかで、果たしてなにかを生み出したりできるでしょうか?
興味や好奇心や疑問といった「興味のタネ」を自分のなかに見つけ、「探求の根」をじっくりと伸ばし、あるときに独自の「表現の花」を咲かせる人こそ、正真正銘のアーティストである筆者は言うのである。
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本書は「6つのクラス(=授業)」に分かれていて、それぞれのクラスではピカソなど20世紀の作品を年代順に1点ずつ扱い、各クラスの「問い」について考えを巡らせることで、「アート思考」が磨かれるという構成になっている。それぞれのクラスでは段階的に、アートを鑑賞する際の手立てが紹介される。その手立ての1つである「アウトプット鑑賞」は、「考える」前にある「観る」の大切さを教えてくれる。
「アウトプット鑑賞」とは、「作品を見て、気がついたことを声に出したり、紙に書き出したりして『アウトプット』す」る鑑賞方法である。「アート思考」の入り口となる手法でもある。
本書の「アウトプット鑑賞」の実践例では、見えるものを見えたままに口に出して鑑賞しているが、これは非常に大事な行為で、文学読解や映画鑑賞にも有効だと思えた。「『観る』がなければ『考える』もない」と本書の帯にコメントがある。まさしくその通りで、映画批評家の大家、蓮實重彦は「映画に何が映っていたか?」という問いにとにかくこだわっている。
見えているものを情報として素直に受け入れる行為は、真の鑑賞に欠かせない。受動的に「見る」ことから脱し、能動的に「観る」ことに挑戦したときに初めて、自身の「アート思考」は発展していくのである。
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本書の各クラスで紹介されるアートは、「アートの常識」を壊してきたそれだ。CLASS4で紹介されるのは、マルセル・デュシャンの『泉』である。
この作品を目にしたことがある人は少なくないだろう。2004年にイギリスで行われた専門家500人による投票では「(アート界に)最も影響を与えた20世紀のアート作品」の第1位に選ばれたそうだ。
僕は中学時代に、この『泉』を美術の資料集で初めて見たとき、「ただの便器じゃん! 汚なっ! なぜこれがアート? 」とツッコミを入れたことを覚えている。しかし、鑑賞者にこの自然のツッコミを入れさせることこそ、デュシャンの狙いなのである。
本書の筆者も『泉』を鑑賞したときに、
◻︎アートは美を追求するべきか?
◻︎作品は作者自身の手でつくられるべきか?
◻︎すぐれた作品をつくるにはすぐれた技術が必要か?
◻︎すぐれた作品には手間暇がかけられているべきか?
◻︎アート作品は「視覚」で味わえるものであるべきか?
といった問いが「頭」の中に浮かんできたそうだ。デュシャン以前のアートは、「視覚で愛でることができる表現」に落とし込まれるべきだという前提があった。その前提をデュシャンは打ち破ったと筆者は言う。
デュシャンは《泉》によって、それまで誰も疑うことがなかった「アート作品=目で見て美しいもの」というあまりにも根本的な常識を打ち破り、アートを「思考」の領域に移したのです。
デュシャンは、アートを「視覚」の領域から「思考」の領域へと移行させたのである。彼の行ったこそ「アート思考」であり、「自分なりの答え」を出す創造的行為である。
本書はデュシャンの他にも5人のアーティストが紹介されているが、これまでの「アートの常識」を打ち破り、新しい価値を創造していく彼らとそのアートに、美術の奥深さ、「アート思考」の重要さを感じずにはいられなかった。
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そういえば先日、うちの長男は3歳の誕生日を迎えた。人生100年時代……、100歳まで生きたら、息子は22世紀を生きることになる。繰り返すが、変化が常態になる時代に「アート思考」は必須であろう。
末永幸歩さんは、「なにも具体的な表現活動を行なっていなくても」、「『自分の好奇心』や『内発的な関心』からスタートして価値創出をしている人」は、「真のアーティスト」であると言っている。
未来を生きる子どもの「興味のタネ」を否定せず、「探求の根」が伸びるよう、そして「真のアーティスト」に近づけるよう支えてあげられる大人でありたいと『13歳からのアート思考』を読んで強く思った。