ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

『破戒』の話ー「公」と「私」の葛藤から見えてくる「近代」について

 

「近代」とは、目覚めた「私」を押さえつける封建的な「公」との格闘の時代である。文学はこの時代をどのように見つめたのであろうか。島崎藤村の小説『破戒』を通して、「公」と「私」の葛藤から見えてくる「近代」について考えてみたい。

 

破戒 (新潮文庫)

破戒 (新潮文庫)

 

 

 


幕藩体制の時代が終わり、天皇親政体制への転換を図った日本は、西洋的な近代国民国家への道を押し進んだ。明治の歴史を概観すればわかるように、その近代化の勢いは凄まじいものである。日清・日露戦争の勝利によって世界の一等国の仲間入りを一応果たした日本は、その近代化を成功させたといえるだろう。

 

しかし、たった40年ほどでは、近代化できていたのはあくまで表面的なものであり、前近代を象徴づける封建的なものは日本人の精神に根強く残っていた。西洋の文化を積極的に取り入れる明治の改革は、個人に近代的な「私」を自覚させたが、人々の生活にこびりつく前近代的なものは、そう簡単には拭えるものではなかったのである。明治39年に発表された小説『破戒』は、被差別部落民である瀬川丑松という青年の目線から、その矛盾を糾弾している。

 

明治4年の解放令によって、制度的には部落民という階級はなくなっていたが、小説の中での“賤民”“新平民”という呼び方でもわかるように、部落民への社会的な偏見、差別はまだまだ根強かった。その差別に不安と恐怖を抱く小学校教員の丑松にとって、父の「素性を隠せ」という戒めを守ることは、生きる道であった。しかし、部落民から身を起こした社会思想家であり運動家である猪子蓮太郎を敬愛する丑松は、素性を隠すことへの後ろめたさを感じ、苦悩する。

 

蓮太郎の死をきっかけに、遂に丑松は父の戒めを破り、自身の生徒を前に「私は穢多です」と告白するのであった。

 

 

3

 

不合理が渦巻く新たなる時代に、目覚めた「私」をどのように位置づけるかが“近代人”の課題であったであろう。封建的な旧家の大家族の末弟である藤村は自身と丑松を重ねたのではないか。藤村は外からの圧迫との戦い、自我との内心の戦いを、この小説を書くことによって行ったという見方ができる。

 

f:id:gorone89:20190817184254j:plain

島崎藤村

「個の尊重」という価値観が時代の主流になりつつあったが、部落出身で、しかも遅れた農村部で生活する丑松がその流れに乗ることは大きな勇気が必要であったのである。前近代の封建的なものを残す「公」に向かって、部落民という「私」をさらけ出すことは、社会からはじき出される危険性を伴っていた。この部落民の苦悩を中心に、教育界、宗教界、政界などのさまざまな不合理を小説の中で炙り出すことによって、藤村は見事に「近代」を表したのである。


前近代との戦いが「近代」を生み出すとすれば、「我は穢多なり」と公言し、社会の不合理との戦う運動を続ける蓮太郎はまさしく“近代人”であるといえるだろう。ここで、主人公の丑松は本当の意味での“近代人”であったのかという疑問が起こる。一応自身の生徒の目の前で素性の告白をするが、涙ながらに「不浄な人間です」と自分を貶め、その告白後いかに社会と戦っていくかの具体的な行動は描かれておらず、最後はアメリカのテキサスへと移民してしまう。これは社会小説ではなく、ただの告白小説ではないかという見方もできてしまうのである。

 

しかし、その時代の強烈な差別意識を考えれば、自身の矛盾に“誠実”に向き合うこと自体が、それだけで大きな戦いであったと僕は考える。蓮太郎のような例はまだまだ特別な時代であり、普通の部落民である丑松の、同族のために実際に行動を起こす過程まで描いてしまえば、リアリズムから乖離してしまい、読者の大きな関心、共感を得ることができなかったのではないか。蓮太郎のように大勢の人々を感化させるには至らないが、丑松の誠実さは、同じく辛い境遇にあるお志保の心と、部落民差別意識を持っていた銀之助の心を動かした。

 

『破戒』の読者は、丑松の苦痛に同情し、いわれのない差別をする社会に強い怒りを覚えたことであろう。丑松の「私」の葛藤は、確かに“近代人”としての戦いだったのである。

 

 


『破戒』だけでなく、この時代の代表的な文学作品を見渡すと、近代が多様な形で表現されていることがわかる。文字メディアが教養と娯楽の中心であったこの時代、その文学作品の思想が人々に及ぼす影響はとても大きなものであったはずだ。この『破戒』が(藤村の意図がどうであったかは別として)、後の全国水平社による部落解放運動に少なからず影響を与えたことは否定できないであろう。

 

急速に変化する時代の先を見つめ、「私」をどこまでも探求していく姿勢が近代小説の特徴でもある。その「私」を探求する際に障害となる封建的な前近代に立ち向かい、新たな価値観を創造しようとする戦いが、「近代」を生み出したのである。