王はメロスの鏡像であるという話ー『走れメロス』再々読のすすめ
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中学生と『走れメロス』を学ぶ季節がやってきた。2,3年に一度のペースで、このお仕事がやってくる。
僕はこの時期、自身のやる気を高ぶらせるため、太宰治の小説を手に取るようにしている。今年は、『お伽草子』を読んだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
さらに、カラオケに一人で行き、『走れメロス』の朗読の練習をした(家でやると家族に迷惑だからね)。これは燃える。短文の連続、語句の反復、漢語の活用、助詞の省略などにより、リズム感と引き締まった響きがある。朗読が非常に心地よい。
今まで幾度も読んだ小説であるが、メロスが身体の疲労による諦めから復活し、親友セリヌンティウスの待つ刑場に疾走する場面では胸が熱くなり、ついマイクを強く握りしめ、声を張り上げ朗読してしまった。
「メロスは……!今は…!ほとんど全裸体であった……!!」
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今年は生徒に、メロスとディオニス王のプロフィールを作らせてみた。プロフィールには、職業、人間関係、性格とその性格が分かるエピソードなどを記す。
プロフィールを並べると分かりやすいが、メロスと王のキャラクターは対照的である。メロスは「他人を信じる」男であり、友人や妹や村人たちとの温かく強い絆があるのに対し、王は「他人を疑う」男であり、孤独である。王は自分の親類を皆殺しにしてしまった。乱心していたわけではない。「疑うのが、正当な心構えだ」と固く信じ、殺してしまうのだ。
僕はなんとなしに「王ってメロスが見る鏡に映る像のようだね」と言ったが、自分で口にした「メロスと王は鏡の関係」という考えを、自分で気に入ってしまった。鏡に映った像は、左右反転する。しかし、見かけは反転しても、本質、魂といったものまでも反転してしまうだろうか?
生徒の一人が「王は『平和を望んでいる』と言っているから、本当は悪い人ではない」と発言した。そうだ、メロスと王は「平和を望んでいる」という本質のところでは共通している。ただ、平和を実現するための手段が反転しているのである。
メロスは人を最後まで信じ切ることで、周囲との信頼関係を築き、自身のコミュニティの平和を保っている。王は、逆説的ではあるが、平和を望んでいるがゆえに、人を疑っているのである。
王には、私欲を持った人間に大きく裏切られたトラウマがあるのだろう。王は「人間は、もともと私欲のかたまり」と決めつけ、周囲のすべての人間に疑いの目を向ける。疑いの目を向けて人に接すれば、その人間が疑わしく思えてくるのは当然だろう。
私欲を持つ疑わしい人間は、平和を乱す人間である。だから、王である私が平和を乱す彼らを処す必要があるという論理で王は動いているのである。
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しかし、いくら平和を望んでいるといっても、その「疑う」という手段は間違っていると言わざるを得ない。
裏切られるかもしれないという怖さがあっても、まずは自分から「信じる」ということに勇気を持って踏み出さないと、人との関係は作れず、その孤独は深まるばかり。もちろん平和の実現は遠のく。
『スター・ウォーズ』の用語を借りるのであれば、王はダークサイドに墜ちてしまったのだと言える。メロスも刑場へ向かう途中、身体の疲労から、裏切りを肯定し、ダークサイドに墜ちそうになる。『走れメロス』は、メロスのライトサイドと王のダークサイドのせめぎ合いの物語である。
ご存知の通り、このせめぎ合いにメロスは最終的に勝利し、王はメロス(ライトサイド)側の人間になる。人間の信実の存在を証明したメロスを目の当たりにした王は、人を信じることができるようになるのである。以前、自身の記事でも書いたように、その変化は、二人と二人の価値観を象徴する「色」からもはっきりしている。
メロスは王の一部であり、王はメロスの一部である。メロスは王のような、王はメロスのような価値観を持つ可能性を秘めていた。
なんとかライトサイドに踏みとどまったメロスと、ダークサイドからライトサイドへと飛び移った王。変化の振れ幅は王のほうが大きい。このことから、『走れメロス』の主人公は、王であるとも言うことができるだろう。
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太宰治の小説は、ダークサイドの世界が前面に出た作品が多い。その中で、信実や愛や正義の美しさを謳った『走れメロス』はやっぱり異質だよなと思う。
一人の少女が、緋のマントをメロスにささげた。メロスは、まごついた。よき友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、きみは、真っ裸じゃないか。早くそのマントを着るがいい。このかわいい娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく悔しいのだ。」
勇者は、ひどく赤面した。
物語の最後に赤面するメロスに、「こんなん書いちゃった。てへぺろ」と照れ隠しをする太宰治の姿が重なる。