ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

幸せについて本気出して考えてみたこの頃の話ー『幸福とは何か』を読んで

 
ジョギングしているとき、ふと先日の「絆の力があれば、目に見えないウイルスへの恐怖や不安な気持ちに必ず打ち勝つことができる」という総理大臣の会見の言葉を思い出した。絶望的な台詞である。
 
「絆」という言葉は、精神論で状況を打開しようとする人に乱用されまくったおかげで、ここ何年かですっかり安っぽい、空虚な言葉に成り下がってしまった。恐怖、不安、困難といったものと戦うのに「絆」を声高に叫ぶのは、「実はもうお手上げなんです」と言っていることの証明にすら感じられてしまう。学校の先生が言うならまだしも、国のトップが具体的なデータや戦略を示さずに「絆」の言葉に頼ってしまうのは、「これもうだめかも」と思わざるを得なかった。
 
「絆」の言葉に希望を抱いてしまうのは、ソーシャル・セーフティネットが脆弱である現状をどこかで理解していることの裏返しであろう。今更かもしれないが、政治に過剰に期待してはいけないという危機感を持った。いざというときは誰も助けてくれないかもしれないし、外からやってくる「幸福」の約束や保証はあまりに頼りない。加えて、社会の未来像がよりいっそう不明瞭になったという不安もある。
 
さてさて、こういう状況で自分はどのようなスタンスで、心持ちでいるべきか、そして、どのような行動を取るべきか……などなど考えてしまった。どうすれば自身の「幸福」は維持できるのか? 
 
とりあえず、ジョギングは健康も増進されるし、「幸福」寄りの行動であることは間違いないだろうという結論に至り、ひたひたと走った。
 
 
 
近頃時間を持てあましているので、幸せについて本気出して考えている。「幸福」についての本も何冊か読んでいる。
 
アラン、ラッセルの『幸福論』に続き、中公新書の『幸福とは何か』を読んだ。
本書の中で筆者である長谷川宏先生は、「幸福は何か」という問いに哲学者たちがどのように向き合ってきたのかをたどることを通して、幸福の本質をとらえようとしている。筆者は、あくびや眠りや微笑に生きる力の自然な発露に重きを置いたアランや、常識を価値あるものと認め、大地の豊かさを強調するラッセルの思想のように、人々が日々の暮らしで手にする地味な、身近な幸福を価値ある幸福と見なしている。それは、穏やかさ、安らかさ、ゆるやかさを基調とする幸福である。
 
しかしながら、現代は幸福の基調である穏やかさ、安らかさ、ゆるやかさを揺るがす競争、緊張、労苦、不安などといった脅威にあふれている。筆者はその脅威の抵抗の手段として「努力と忍耐」を用いることをよしとしない。「努力と忍耐が度を越せば、望まれる幸福も緩やかな平穏さにそぐわぬ熱を帯びてしまう」からだそうだ。
 
幸福を手放すまいとする抵抗は、「穏やかな抵抗」でなければならないと本書は提案する。「穏やかな抵抗」とは、落ち着きやゆとりを備えながら身近な幸せを冷静に見つめ、それを追求していく営みである。
 
……そのような「穏やかな抵抗」が果たして僕にできるであろうか? そもそも「身近な幸せ」って?
 
 
 
今朝、3歳の息子がベランダで育てているトマトとピーマンに水をやっていた。野菜がなるのを楽しみしているようだ。
 

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コーヒーを飲みながら、息子がうれしそうに水をやる姿を眺めて、「あっ、こういうのが身近な幸せだわ」と気づいた。あまりにささやかで地味な幸せなのでスルーしてしまいそうになる。しかしながら、幸せは歩いてこない。だから歩いてゆき、自分で見つけていくしかない。
 
にやにやしながら、今この瞬間に身近にあるこういう幸福を自覚的に少しでもすくい上げていきたい。これが社会の頼りなさや、不明瞭な未来への不安、そして現状の困難の中で心を平穏に保つ手段にもなり得る、多分。
 
その内立ちゆかなくなるかもしれないが、身近にささやかな幸福がごろごろと転がっていることを楽観的に信じて、しばらくは「穏やかな抵抗」を続けてみようと思う。