本屋に出かけた日曜日と『コロナの時代の僕ら』の話
1
またすぐ感染の第2波はやって来るかもしれないが、とりあえず我が家の外出自粛も終わりを迎えようとしている。6月になったら夫婦ともに本格的に出勤が始まり、2人の息子は毎日保育園に預けることになる。
「この期間、子供がいたからかろうじて生活リズムがつくれてたよね」と妻が笑って言った。「私たち2人だけだったら、ご飯食べる時間とか寝る時間起きる時間もきっと適当で生活が乱れに乱れてただろうね」
……まあ確かに。付き合い始めた頃は、お菓子を頬張りながら深夜まで2人でゲームをすることとかしょっちゅうあった。懐かしい。
2
先日の日曜日、にわかに外出がしたい気持ちになった。というか本屋に行きたい。しばらく行ってない。
隣の市にある大型書店に電車に乗って行くことにした。電車で本屋で行くのは不要不急かもしれないけど、地域の感染者もほぼいなくなったので勘弁してください。3歳息子が「つれてって」とせがむので一緒に連れて行った。
電車には久しぶりに乗った。ガラガラである。息子は喜んでいた。天気も良いし、素敵な日曜日。
やっぱり本屋はいい。たとえ購入しなくても本棚を眺めているだけで心踊る。Amazonで買った積み本が増えているので購入は3冊だけにした。
『コロナ時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ)、『タイタン』(野﨑まど)、『世界哲学史2』。連れてきた3歳息子には「おしり探偵」のパズル、妻と一緒に家にいる1歳息子には絵本を買ってやった。
本屋から出ると、ガストに入り息子とハンバーグを食べ、手を繋いでまた電車に乗って帰った。短い時間だが楽しかった。外出はいい。
3
まずは『コロナの時代の僕ら』を読んだ。本書は新型コロナによる非常事態下のローマで、イタリア人作家パオロ・ジョルダーノが綴ったエッセイである。
今、僕たちが体験している現実の前では、どんなアイデンティティも文化も意味をなさない。今回の新型ウイルス流行は、この世界が今やどれほどグローバル化され、相互につながり、からみ合っているかを示すものさしなのだ。
この非常事態下で私たちが感じているモヤモヤとした不安や違和感を筆者は上手に言葉にしてくれている。例えば、この非常事態下で行政と専門家と市民の信頼関係が崩れていっていることをこんな風に語っている。
行政は専門家を信頼するが、僕ら市民を信じようとはしない。市民はすぐに興奮するとして、不信感を持っているからだ。専門家にしても市民をろくに信用していないため、いつもあまりに単純な説明しかせず、それが僕らの不信を呼ぶ。僕たちのほうも行政には以前から不信感を抱いており、これはこの先もけっして変わらないだろう。そこで市民は専門家のところに戻ろうとするが、肝心の彼らの意見がはっきりせず頼りない。結局、僕らは何を信じてよいのかわからぬまま、余計にいい加減な行動を取って、またしても信頼を失うことになる。
新型ウイルスはそんな悪循環を明るみに出した。
日本も同じような状況であると言えるだろう。行政は僕らを「気分」で動くと不信感を持ってるし、僕らの方も行政の政策の遅さを見て優柔不断さを感じ、イライラが募る。そこでメディアに登場するたくさんの専門家たちの意見に耳を傾けてみるが、専門家たちがそれぞれ違うことを言うことに惑わされ、僕たちは深く思慮しないまま自分の「気分」にあった専門家の意見に飛びつき、誰かの信頼を失うような軽率な行動を取ってしまう……。
筆者は「パニックはこの手の悪循環から発生する」と言う。感染の第2波、第3波に備え、覚えておきたい教訓である。
僕らは戦争をしているわけではない。まもなく社会・経済的な緊急事態も訪れるだろう。今度の緊急事態は戦争と同じくらい劇的だが、戦争とは本質的にことなっており、あくまで別物として対処すべき危機だ。今、戦争を語るのは、恣意的な言葉選びを利用した詐欺だ。(中略)感染症流行時は、もっと慎重で、厳しいくらいの言葉選びが必要不可欠だ。なぜなら言葉は人々の行動を条件付け、不正確な言葉は行動を歪めてしまう危険があるからだ。
この批判は本書の中でも最も大事だと思ったし、賛同するところであった。僕は「コロナに打ち勝つ」という言葉にさえ違和感を以前から抱いていた。勝つとか負けるとかいった言葉は戦いや競争と強烈に結びつく。