ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

『エチカ』を読んでースピノザ的自由の話

 

 

スピノザの説くあり方の神であれば、なんとか信じることができた。

 

すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられない。(『エチカ』第一部定理一五)

 

17世紀オランダの哲学者スピノザは、世界のあらゆるものは神の持つ性質のあらわれだと考える「汎神論」を説いた。この考えは、自然は神の創造物だとするキリスト教とは相慣れないものであり、教会側から強いバッシングを受けたそうだ。

 

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ベネディクトゥス・デ・スピノザ(1632〜77)

精神と身体は別々に存在しているとする、デカルトの説く心身二元論スピノザは疑問を抱いていた。私たちが経験から知っているように、精神と身体は密に結びついている。心身二元論では精神と身体が連動することの説明ができない。

 

心身二元論は精神を至高のものとし、身体をただの物体の地位に格下げもしたが、身体は精神が操縦するロボットのようなものではない。無意識のうちに身体が動くなんてことは日常生活でざらにあることだからだ。

 

スピノザは人間の精神も身体も含めた自然はすべて神の一部であると考えることで、心身二元論を乗り越えようとした。この汎神論であれば、精神も身体も神の性質のあらわれに過ぎないので、これらが密につながり、連動する事実は当然のことと捉えることができるようになる。

 

神の一部である人間は神の考えの下に動いている。スピノザは人間の行動は人間の意志によるものではないとし、自由意志の存在を否定する。ちなみに、自由意志の存在は最新の脳科学でも否定されていて、意識は行動よりも後に現れるというのが定説である。人は自分の行動があたかも自分の意思の結果であると錯覚しているだけなのである。

 

私たちの無意識は常に外部からの作用や影響にさらされていて、そこで起きていることすべてを意識することは到底できない。自分の意志ではどうにもならない(「運命」とも言い換えられる)ことを「神」と呼ぶのであれば、たしかに神は存在していると思うのである。

 

 

 

先日やっと、スピノザの『エチカ』を読み終えた。半年くらい時間をかけて、ちびりちびりと読み進めていた。難解なので、最初の5ページくらいで挫折しそうになったが、『100分de名著』での國分功一郎先生の解説に縋ることで理解へのモチベーションを保つことができた。

 

エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

  • 作者:スピノザ
  • 発売日: 1951/09/05
  • メディア: 文庫
 
スピノザ エチカ 下 (岩波文庫)

スピノザ エチカ 下 (岩波文庫)

 

 

スピノザの哲学について最も魅力を感じたところは、「自由」についての考え方である。

 

「自由」を辞書で引くと、「他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまうこと」とあり、これは当然私たちがイメージする「自由」の状態と一致している。しかしながら、全く束縛のない、制限のない状態などあり得ないし、ましてやそれらを超え出ることなど人にはできないとスピノザは考える。人は神の考えの下で動いているからだ。

 

では、スピノザはどのような状態を「自由」と捉えているのだろうか?

 

スピノザ『エチカ』 2018年12月 (100分 de 名著)

スピノザ『エチカ』 2018年12月 (100分 de 名著)

  • 発売日: 2018/11/24
  • メディア: ムック
 

 

   与えられている条件のもとで、その条件にしたがって、自分の力をうまく発揮できること。それこそがスピノザの考える自由の状態です。(『100分de名著 スピノザ エチカ』)

 

 と國分先生は言う。『エチカ』では「自由」を以下のように定義している。

 

自己の本性の必然性のみによって存在し・自己保身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。(『エチカ』第一部定義七)

 

スピノザは、自らの必然性に従って存在したり、行為をしたりすることが自由であるのだと言っている。自由の度合いは、水の中で泳ぎ回る魚のように、必然的な法則の中で自らを充分に生かせているかどうかで決まるのである。

 

自由であるということは、すなわち「能動」の状態であるとスピノザは言う。

 

  ふつう能動と受動は、行為の方向、行為の矢印の向きで理解されています。行為の矢印が、私たちから外に向かっていれば能動であり、矢印が私に向かっていれば受動というわけです。

    しかしスピノザはそのような単純な仕方ではこれらを定義しませんでした。スピノザは、私が行為の原因になっている時ーーつまり、私の外や内で、私を原因にする何事かが起こる時ーー私は能動なのだと言いました。(『100分de名著 スピノザ エチカ』)

 

仕事でたとえるが、心からワクワクする自発的にとりくむことができる仕事もあれば、外部から与えられた恐ろしくつまらなくやる気の起きない仕事もある。社会人の責任としてどちらの仕事もこなすし、行為の方向だけ見れば、前者も後者も「私がその仕事をする」ので「能動」である。ところが、スピノザの哲学においては、後者の仕事は他人の力をより多く表現している行動、つまり外部によって強制されているそれなので「受動」と呼ばれる状態に当たるのである。

 

先にも触れたように、私たちは常に外部から何らかの制限や影響を受けているので、完全な能動、完全な自由は存在しない。國分先生はそれつについてこのように説明する。

 

    ただ、完全に能動にはなれない私たちも受動の部分を減らして、能動の部分を増やすことはできます。スピノザはいつも度合いで考えるのです。自由も同じです。完全な自由はありえません。しかし、これまでよりすこし自由になることはできる。自由の度合いをすこしずつ高めていくことはできる。(『100分de名著 スピノザ エチカ』)

 

スピノザは100%の能動の状態あるいは100%の受動の状態のどちらかがあると考えるのではなく、ある状態には能動と受動が入り混ざっていると考える。受動をゼロにすることはできない。しかし、能動50%を60%にすることはできる。そうすることで自由の度合いも広がっていくのだ。

 

図にすると以下のような感じ。

 

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お盆は毎年、妻の実家にある福井の田舎に行くのだけど、コロナ禍なので断念した。今年のお盆は外も暑いし、家に引きこもっている。といっても、元々お家大好きなので、かなり楽しんでるし、自由を感じている。

 

心身のおもむくままにゴロゴロし、何か食べたいものが思い浮かんだら、外に食事に出かける。昨日は家族でかき氷を食べに行った。

 

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近頃、仕事でスピノザ的な受動の状態が続いていたので、現在そこからの解放感に浸っている。しかしながら、受動の状態にうんざりしているだけじゃあダメな気もする。現在の自身の状態をできるだけ客観視し、いかにして外部からの強制を自発に置き換える工夫ができるかっていうのが今の自分の課題なんだよなあと『エチカ』を勉強して思ったのであった。