29歳の誕生日の話、ブログが1年続いた話、父親がうつになった話など
1 29歳の誕生日の話
怒涛の9月が始まった。
1人がこなす仕事量が多すぎる。すでに8割以上ブロックが積まれているテトリスをプレイしている気分であった。
積まれたブロックを消すか消さぬかのうちに次々とブロックは落ちてくる。計画性と集中力が必要とされるが、僕はこれら能力が乏しく、毎日がいっぱいいっぱいである。
1日ですべてのブロックを消すことはもはや不可能であり、いつまで経っても心の平安はやってこない。なんとかブロックが天井につくゲームオーバー寸前のところでセーブし、家に帰ってバタンキュー、次の日に冷や汗をかきながらプレイをコンティニューするここ3週間である。
9月20日は僕の誕生日であったが、この日も散々であった。うちの職場はやるべき事務的な仕事が多いにも関わらず、突発的な事案がよく発生した。
20日にそれが立て続けに起こり、眠気があるまま、なんとかそれを力技でねじ伏せた(僕はどちらかというと丁寧さを求められる仕事より、柔軟性の必要な仕事の方が得意)。それらの事案の対応中、「転職しようかしらん」という思いがふと頭に浮かぶが、僕にはやっぱりこれ以外の仕事はできそうにない。
上司に対応を感謝され、ショートケーキをおごってもらっちゃった。僕が「今日実は誕生日なんですよね」と言うと、さらにモンブランもごちそうしてくれた。
時計は19時をまわった。よし、通常のテトリスに戻ろう、そして、あと1、2時間で職場を脱出し、1歳の息子・ハルタを風呂に入れ、安らかに眠ろうと思っていると実家の母から電話があった。
誕生日のお祝いに電話してきたのかな、珍しいと思ったが違った。母は「お父さんの様子がかなりおかしい」と言った。
2 ブログが1年続いた話
28歳になったときにこのブログを始めたので、ちょうど1年継続できたことになる。始めた頃は、続いても3ヶ月くらいかなと思っていたが、意外と続いた。
1年続けられた要因は何かと考えてみたが、やはり、書きたいときに、書きたいスタイルで、書きたいものを書くというポリシーがあったおかげだと思う。今後もこのポリシーを大事に、なるだけ長くブログを書き続けていきたいです。
3 父がうつになった話
やっと土曜日が来た。もうへとへとである。
昼まで寝て、家族3人でスタバに行き、僕と妻はアップルパイ、ハルタはワッフルを食べた。コーヒーも飲んで、頭もすっきりした。
スタバを後にすると、実家に向かった。実家には母と父と弟がいた。
この夏頃から父が少しおかしい。全然元気がなく、無気力状態なのである。
あんなに好きで何十年も弾いていたギターもやめてしまい、「音楽なんて聞きたくない」と言い出す始末。
母が言うには、仕事には行っているが、家にいるときは1日ずっとクッションに座ってぼーっとしているだけだという。本人は自分はうつ病ではないと言っているが、母にネガティブな発言をしつこく繰り返しているそうだ。そして、逆に母が話しかけると、それにはまるで上の空らしい。
とりあえず、心療内科では初期のうつ病と診断され、薬を服用している。しかし、ここ1ヶ月でむしろ症状は悪化しているようで、今度は病院でちゃんと脳の検査をしてもらおうかと母と話し合った。
父はハルタと会って笑顔を見せていたが、あきらかに今までの明るかった父と違った。口数も少なく、目も虚ろである。
父はまだ56歳で、ボケるにはちと早い気がする。一時的なものか、それとも長期的に続くものなのか……。とにかく、家族で協力して、やれることをやっていくしかない。
帰り際、弟に「そういえばお前の本棚に『うつヌケ』って本あったべ。貸して」と言い、その本を借りた。
4 『うつヌケ』の話
この本では、漫画家の田中圭一が、自身やうつになった人々がどうやってうつ症状から脱出したかの体験談をわかりやすい漫画で語っている。インタビューを受けている脚本家の一色伸幸が、うつは「心の風邪」 なんてほどの生易しいものではなく、「心のガンだ」と語っているのが衝撃的。
さくさく読めて、30分もあれば読み終わる。僕が敬愛する内田樹先生もうつだったのね。
この漫画で語られるうつの症状がかなり父の症状に当てはまっている。田中はうつの状態を、「まるで脳が濁った寒天でで包まれてるような 頭にいつも『もや』がかかったポヤ〜っとした感じ」と表現している。父もきっとこんな感覚なんだろう。
父もここに登場する人々のように上手にうつからヌケてくれることを心から願うばかり。
5 子供に依存する父の話
父は最近「寂しい」 とよく口にするようになったそうだ。母は、息子3人が社会人になって自立し、誰にも頼られなくなった寂しさが父をうつ状態に陥らせたんじゃないかと言った。
まあそれもあるかもね。子供を愛するのもいいけど、依存し過ぎると、子供が自立したとき生き甲斐を失ったような感覚になるだろう。
僕はどうかというと、しっかり息子に依存してます。仕事の疲れはいつもハルタに癒してもらってる。
最近ハルタが「パパ」と自然に言えるようになったので嬉しく思っていたが、実はアンパンマンのことを「パパ」と言っていることが判明した。がっくし。でも可愛いから許す。
湯河原の足湯と祖母宅に行ってきた話
今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」
1
神奈川県湯河原町にある足湯、「独歩の湯」に家族で行ってきた。
本当は足だけでなく体全体、温泉に浸かりたい気分ではあったが、まだ排泄をコントロールできない1歳半の息子・ハルタを普通の温泉に連れて行くわけにはいかない。足湯であれば子供も一緒に温泉を楽しめると思い、ドライブを兼ね遊びに行った。
「独歩の湯」は、奥湯河原にある万葉公園の敷地内にある。万葉公園の名称は、「万葉集」の4500首の中で、唯一温泉について詠われている以下の一首に由来する。
足柄の土肥の河内に出づる湯の世にもたらよらに子ろが言はなくに
「足柄の土肥の河内に出づる湯」とは湯河原温泉のことである。「独歩の湯」に続く川沿いの道は「文学の小径」という名がついていて、湯河原にゆかりのある、国木田独歩、夏目漱石、与謝野晶子、島崎藤村、谷崎潤一郎、芥川龍之介などの文豪と作品がそれぞれ立て札で紹介されていた。
僕はいちいちその立て札を読んでいたが、妻は文学などさほど興味はないようで、小径を横切る沢蟹に喜んでいた。
「独歩の湯」の入湯料は、大人が300円、小・中学生は200円(幼児は無料)。9種の足湯がある。それぞれ入ってみたが違いがよくわからない。
まあ、息子は少し足湯に喜んでいたようでよかったかな。妻は、足湯後の足裏マッサージ(1500円)に満足していた。
実は僕は「独歩の湯」に何度か来たことがある。万葉公園にある温泉「こごめの湯」には、おそらく50回以上は入ったであろう。
それはなぜかというと、湯河原には僕の祖母宅があるからである。足湯を後にした僕らは、祖母宅に向かった。
2
20歳の夏休みに、車を運転して祖母宅に行った。免許は取得したばかり、車は中古の軽自動車。湯河原に自分で車を運転していくのはこの時が初めてであった。
20歳の僕は祖母宅から帰った後すぐに、その思い出をmixiの日記(懐かしい!)に書いて残した。その文章が見つかったので、ちょっと青臭い文章で恥ずかしいですが、ここに載せます。
☆
「別に来なくてもいいよ、煩わしいから。脚も痛いし」という電話口での祖母の言葉を「寂しいから来い」と解釈したので、お盆休みに祖母が一人住む湯河原の家へと久々に出掛けた。
僕には弟が二人いるが、彼らはちょくちょく湯河原の家を訪れているそうである。祖母は僕のことを「長男は白状で、冷淡だ」なぞと言っているらしく、僕としてはあまり好ましい状況ではなかった。
加えて、祖母はおしゃべりである。祖母の家の隣近所の方々に「あの家の一番歳上の孫は、白状で、冷淡で、でべそだ」というイメージを持たれるのは、耐えられない。激おこプンプン丸。
自身のことも少し落ち着いたので、仕方なく顔を見せに行くことにした。
ーー快晴であった。空の雲のないところに注目すれば、雲ひとつない青空である。
湯河原には車で行くことにした。運転には苦手意識があるが、それを避けていては、いつまで経っても上達しない。
まあ、大丈夫。近頃は、運転中に鼻唄を歌う心の余裕もできたし、駐車もスムーズにできるようになったし、なにより、アクセルとブレーキを間違える回数も十回に一回程度に減った。
車から見える湯河原の海はキラキラしていて、とても魅力的だった。しかしながら、海には決して泳ぎに行くまいと心に決めていた。
なぜなら、第一に、お盆は幽霊に足を引っ張られ溺れる可能性がある、第二に、そもそも僕はカナヅチなので溺れる可能性があるからである。
湯河原といえば、海より、やはり温泉である。湯河原に来たときは祖母の市民カードを拝借し、安く温泉に入るのが、お決まりのパターンであった。
祖母の家に到着すると、すぐに温泉に行く旨を祖母に伝える。ところが、この日はなんと温泉の定休日であった。
ちっ、客のいない夏の温泉で、忍法水面走りの術の練習をするつもりだったのに。ガチしょんぼり沈殿丸。
時間を持て余すことが嫌いな僕は、温泉を諦め、祖母宅の目の前の小さな山を散歩することに決めた。かなりの暑さを覚悟していたが、木陰はとても涼しい。
一緒についてきた祖母は、山に咲く花を摘んだり、明らかに他人の所有地に咲いている花を摘んだりしていた。
祖母はたくさんの話をしてくれた。病気の話、娘の悪口(つまり僕の母の悪口)、老いの話、葬式の話、病院の話など、明るく、バラエティーに富んだ話ばかりだった。
二人でご飯を食べ、僕が帰ろうとするとき、祖母は泣いた。たくさんの人から愛されなくても、たった一人でも自分をこのように思ってくれる人がいれば、まあ人生、オールオッケーなのである。
というわけで、近頃はぼちぼち幸福なのでした。
☆
3
1年ぶりに会った祖母は、髪がすべて真っ白になっていた。
祖母は久しぶりにひ孫を見て、とても喜んでいた。(多分、孫と孫の嫁に会ったことにも喜んでいた)
ハルタは祖母の家にあるものが珍しいらしく、そこら中を歩き回っていた。祖母はハルタを見て、僕の幼いころのそのまんまだと言った。そして、彼女は祖父の仏壇にあるお鈴と鈴棒をハルタに渡し、「チーン」と鳴らす遊びを教えていた。
祖母の話はとにかく長い。祖母はひ孫との触れ合いを終えると、妻に熱心に昔話を語った。(僕が小学生の頃、湯河原に家出した話、祖母と祖父が若い頃、駆け落ちした話など)
帰るときに祖母は「まあ別荘だと思っていつでもおいでよ」と言った。祖母はまだ70代半ば。髪は白くなったが、とっても元気そうで、あと30年は生きる気がする。
しかしながら、これから何があるかわからない。時間があれば、ちょくちょく湯河原を訪ねてあげようと思ったのでした。
平成の日本映画私的ベスト100[前編]
とりあえず、平成元年(1989年)から平成15年(2003年)までに公開された日本映画の中から50本選出してみました。
北野武監督、衝撃のデビュー作。不気味なリズムと、繰り返される暴力に頭がくらくらしてきます。
『黒い雨』
原爆の後遺症が残る人々の苦しみと不安が描かれます。「あの日」と「あの日」が残した傷について知らなくては決して前には進めない。
『機動警察パトレイバー the Movie』
この頃にコンピューターウイルスの脅威を扱ったのは先見的。作画も緻密です。
『3-4x10月』
北野武監督第2作で、これが監督作品で最も好きという人も多いです。クライマックスのシーンが、それ以前の場面で一瞬差し込まれる演出が好きです。
日本版『12人の怒れる男』。三谷幸喜の脚本が素晴らしく、どんでん返しの連続ですが、最後にはちゃんと収束させる手腕はさすがです。
『無能の人』
原作・つげ義春、監督・竹中直人。原作にかなり忠実で、竹中直人演じる主人公のみじめっぷりに笑いながらも泣いてしまいます。
『夢二』
鈴木清順監督の「大正浪漫三部作」の最終作。沢田研二演じる夢二の飄々とした感じや、構図の色彩感覚が面白いです。
これを見ると中学生のときにギターを始めたことが思い出されます(1ヶ月でやめたけど)。浅野忠信が若い!
『紅の豚』
豚なのに、なんでこんなにかっこいいんだ……。大人になればなるほど味わい深くなる映画。
『ミンボーの女』
ミンボー専門の女性弁護士の力によって、暴力団を見事に撃退するまでに成長するホテルマンたちにカタルシス。監督の伊丹十三はこれを作ったことをきっかけに、暴力団に命を狙われることになります。
周防正行監督の出世作。まわしは洗わないのだと、この映画で知りました。
雲の上にはロマンが詰まっています。子供の頃、壊れてしまったドラえもんをとっても心配しました。
『鉄男Ⅱ BODDY HAMMER』
日本映画史に残る伝説のカルト映画、第二弾。見ると、強いサイバーパンク感に眠っていた暴力衝動が呼び起こされる気分になります。
『七人のおたく』
子供の頃に神と崇めていたウッチャンナンチャンの主演映画。この時代まだ白い目で見られていた、ひらがなの「おたく」 たちが大活躍します。
『月はどっちに出ている』
岸谷五朗演じる在日コリアンのタクシードライバーがいい味を出しています。在日コリアンを主役に据えた映画は、これを皮切りに『GO』『パッチギ!』『血と骨』と続いていきます。
『ソナチネ』
個人的にはこれが北野武監督作品の最高傑作です。ユーモアの中にある強い緊迫感に、生と死は紙一重の差しかないことを痛感させられます。
『機動警察パトレイバー2 the Movie』
機動警察パトレイバー2 the Movie [Blu-ray]
- 出版社/メーカー: バンダイビジュアル
- 発売日: 2008/07/25
- メディア: Blu-ray
- 購入: 3人 クリック: 148回
- この商品を含むブログ (60件) を見る
もし東京で戦争が起きたら?ということを押井守監督はシュミレートします。後藤隊長がとにかくかっこいいです。
『愛の新世界』
「SMとは、様々な悩みやストレスを抱える客の心を開放するセラピストのようなもの」 。「無修正完全版」は必見です。
多摩ニュータウンにある大学に通っていた僕にとって、この映画は興味深く、何度も見直しています。 狸を追い出してまで作ったベッドタウンですが、現在では住民の高齢化が影を落としています。
GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊 [Blu-ray]
- 出版社/メーカー: バンダイビジュアル
- 発売日: 2017/04/07
- メディア: Blu-ray
- この商品を含むブログ (8件) を見る
2017年にアメリカで実写映画化された『攻殼機動隊』は、押井守監督のこの作品の足元にも及びません。AI、電脳、義体……平成の次の時代は『攻殼機動隊』の世界が実現するはず……?
『耳をすませば』
宮崎駿と高畑勲が取り合った天才・近藤喜文、唯一の監督作品。男ですが、今だにこれを見ると、甘酸っぱい青春模様にキュンキュンします。
『男はつらいよ 寅次郎紅の花』
『男はつらいよ』シリーズ最終作。阪神淡路大震災のあった神戸の地で、「ご苦労様でした」と口にする寅さんに涙が止まりません。
『学校の怪談』
トイレの花子さんを本気で信じていた子供時代を思い出します。本作に登場する巨人の男の子は怖すぎて、夢にまで出ました。
『MEMORIES』
大友克洋監修のオムニバスアニメ映画。僕が最も好きなのは、レムの『ソラリス』を連想させる『彼女の想いで』です。
『ガメラ 大怪獣空中決戦』
リアリティを追求した、平成のガメラシリーズ第一弾。初めて僕が映画館で見た映画です。
とにかく可笑しく、心温まる……金曜ロードショーの定番。映画に登場する探偵事務所にはキャロル・リード監督の『フォロー・ミー』のポスター!
『トキワ荘の青春』
日本の漫画界の礎を築いた漫画家たちの青春物語。理想と現実の間に揺れ動く若者たちの苦悩を淡々と描く演出に心打たれます。
『キッズ・リターン』
「マーちゃん、俺たちもう終わっちゃったのかな?」「バカヤロー、まだ始まっちゃいねえよ」
『(ハル)』
平成の恋愛映画の中では個人的ベストワン。今はなきパソコン通信を題材にしていて、通信の中での会話を字幕で表現する演出も良いです。
出光のイメージキャラクターになった赤い巨人。僕はこのウルトラマンをマネして、歯磨きをしてシュワッチしてました。
『ラヂオの時間』
三谷幸喜監督作品の中ではこれが最も好き。絶妙な笑いが続き、展開もテンポがよいです。
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごごろを、君に』
社会現象を起こした『エヴァンゲリオン』のもう一つの最終回。アスカの「気持ち悪い」という言葉に僕はひどく傷つきましたが、そこからまた一歩、大人への道を踏み出せたのです。
『もののけ姫』
宮崎駿監督が突きつける、人類に重くのしかかる解決不可能な課題の数々。アシタカのサンのたくましさに、強くあらねばという気持ちになります。
『うなぎ』
不倫した妻を殺し、自転車で警察に自首しにいくオープニングが忘れられない。柄本明演じる刑務所仲間も不気味です。
『CURE』
黒沢清監督の代表作。記憶障害の殺人犯の言動に、役所広司演じる主人公同様、見ているこっちもイライラしてきます。
『A』
オウムの内部からオウムに対する社会の態度を映し出す、森達也のドキュメンタリー。警察によるオウム信者の強引な逮捕のシーンは衝撃的。
『リング』
今や平成最恐の映画ヒロインとなった貞子。『リング』は真昼にソフトで見たのが初体験でしたが、テレビから貞子が出てくるシーンを映画館で見たらさぞ怖かったろうなあ。
『金融腐食列島 呪縛』
バブル景気後のメガバンクの闇と再編を劇的に描く。キャスト陣も豪華で、『仮面ライダークウガ』の前のオダギリジョーや、子役で三浦春馬が出演してます。
『ニンゲン合格』
「これは夢なのか?」。淡々とした、黒沢清監督の演出と西島秀俊の演技が魅力的。
『ナビィの恋』
高校生の頃、沖縄への修学旅行の前に学校で見させられた。民謡がふんだんに使われたミュージカル的な映画で、心温まる。
『鉄道員(ぽっぽや)』
鉄道一筋に生きてきた主人公を高倉健が演じることで、作品に深みを与えています。娘役の広末涼子がとってもとっても可愛い。
『ホワイトアウト』
織田裕二といえば普通は『踊る大捜査線』がまず思い出されるけど、僕は『ホワイトアウト』こそ彼の代表作だと思っています。日本版『ダイ・ハード』!
デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!/デジモンアドベンチャー【劇場版】 [DVD]
- 出版社/メーカー: 東映ビデオ
- 発売日: 2001/01/21
- メディア: DVD
- 購入: 4人 クリック: 174回
- この商品を含むブログ (143件) を見る
細田守監督の代表作といえば、やっぱりコレ! オメガモンの登場には興奮しました。
『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』
映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲 [DVD]
- 出版社/メーカー: バンダイビジュアル
- 発売日: 2010/11/26
- メディア: DVD
- 購入: 27人 クリック: 460回
- この商品を含むブログ (48件) を見る
アニメ映画史に残る傑作。ひろしの人生のフラッシュバックにはボロボロと涙が流れ、「今」の大切さに気付かされます。
『GO』
これを見ると、差別や偏見といったものが憎らしくなってくる。原作、監督、脚本、キャストの良さが絶妙にマッチし、重いテーマを抱えながらも、爽快感を覚えます。
笑えて心躍る、男のシンクロ青春映画。続編にあたるドラマ版にもハマりました。
『メトロポリス』
手塚治虫の原作にさらなる深みを与えています。 挿入歌「愛さずにはいられない」が流れるタイミングには鳥肌が立ちます。
『千と千尋の神隠し』
かわいい子には旅をさせろ。千尋が著しく生きる力を伸ばしていく様子を見ると、親のお節介がいちばん子供の成長を邪魔しているのかもという気持ちになります。
『光の雨』
連合赤軍の集団リンチ致死事件を題材とした「光の雨」の映画化に取り組む若者たち。現代の若者たちと比較することで、連合赤軍の若者たちの精神の闇が浮き彫りにされます。
『美しい夏 キリシマ』
爆撃で親友を失ったことにより心にキズを追い、苦悩する主人公。宮崎県霧島の自然が美しく、より一層戦争の悲惨さが際立ちます。
☆
後編(平成16年(2004年)以降の50本の選出)は、平成が終わったときに取り組んでみようと考えています。みなさんが好きな平成の日本映画を教えてください。
カオスと闘争する息子、退屈な自分から逃走する父の話ー『構造と力』を読んで
1
先週の日曜日、前の職場の先輩ファミリー宅にゴロネファミリーは招かれた。
先輩宅にはここ何年か続けて夏に伺っているのであるが、相変わらず立派なお宅である。アパート暮らしの僕は、広い一軒家に憧れを持ってしまった。
招かれたのは僕たちファミリーだけではなく、先輩の知り合いである他3ファミリーが招かれていた(先輩ファミリーを含め、計5ファミリー!)。それぞれの家族に1人か2人、小さな子供がいるのでかなり賑やかであった(うちの一人息子、ハルタは1歳4ヶ月になりました)。
僕らパパたちは先輩宅の庭で、ノンアルビールを飲みながら肉や野菜を焼いた。そして、自分達もつまみながら、家の中にいるママたちや子供たちにそれらを提供したのである。
毎日大抵自宅でひとり遊びをしているハルタは、知らないお家でたくさんの子供に囲まれ、大興奮であった。同じ年頃の女の子に比べ、とにかく落ち着きがない(「落ち着きがない」のは、男の子脳の特徴であると何かの本に書いてあった)。
そこら中を歩き回り、いろんなものを手に取ったり、近くにいる人を突っついたりしていて、妻は彼を一生懸命に追いかけまわしていた。特にハルタは先輩宅にいた、普段触れ合うことのない犬に興奮し、犬を指差し、「あー!あー!」と大声で連呼していた。先輩宅の娘さんである小学3年生のお姉ちゃんがハルタに「あれはワンワンだよ」と優しく教えてくれた。
人間は言葉によって世界を分節化していると、構造主義の形成に大きな影響を与えたソシュールは言った。言葉をまだうまく取り扱えないハルタにとって、この非日常的な状況はカオスであっただろう。
彼は強烈な喜びともどかしさを同時に抱えながら、カオスで戯れていたのかもしれない。幼児から見ると、この世界はどんな風に見えているのであろうか?
ハルタは疲れたのか、帰りの車の中ですぐに寝てしまった。僕たち夫婦も楽しめたし、ハルタにも良い刺激が与えられた。先輩ファミリーに感謝です。
2
今年の夏に読んだ本の中で印象深いのは、35年前にベストセラーとなった思想書『構造と力』である。著者の浅田彰は執筆当時26歳であり、瞬く間に日本の現代思想界のスターとなり、「ニューアカ」のけん引役となった。
哲学・思想に関して虫並みの知識と読解力しかない僕にとって本書の内容はとても難解であった。ただ、なんとなく理解できたところも多からずあったのは、橋爪大三郎の『はじめての構造主義』、内田樹の『寝ながら学べる構造主義』といった構造主義の入門書を以前に読んでいたためである。
『構造と力』では、人間はもともと本能が狂っていて、自然の秩序からはみ出した存在であると書かれている。
自然のピュシスからはみ出し、カオスの中に投げ込まれた人間は、そこに文化の秩序を打ち立てねばならない。
構造主義の最大の功績は、人間のこの文化の秩序が必然的に、恣意的・差異的・共時的な構造、すなわち象徴秩序という形をとることを明らかにしたことらしい。
文化の秩序は、言語によって、言語を通じて、言語として、構成される。このような形で文化の秩序をとらえるとき、それを象徴秩序(ordre symbolique)と呼ぼう。
現在カオスの中にいるハルタも、そのうち言語を巧みに扱うようになり、象徴秩序へ参入するようになる。そして、僕たち大人と同じように、本書の表現でいうところの、近代資本制が生産し続ける差異による、終わりのない「自立的相互競争」に巻き込まれていくのである。
そう考えると、子供たちって気の毒だなって思えてくる。せっかくフィルターのかかることのなく、競争もない、カオスの中で戯れていたのに……。
浅田は無限に運動が続く近代社会を、クラインの壺という下の図で表現している。
3
しかしながら、無限の運動から逃れられない社会に嫌気がさしても、原始共同体以前のカオスに戻ることなど不可能である。
浅田の論の面白さは、近代資本制の「差異=運動」がもたらす、「過剰」という名のエネルギーを大きく肯定していることである。あらゆる方向へ運動することを要請する、以下の彼の詩的な文章に、最も僕の心は動かされ、勇気づけられた。
いたるところに非合法の連結線を張りめぐらせ、整然たる外見の背後に知のジャングルを作り出すこと。地下茎を絡み合わせ、リゾームを作り出すこと。
そのためには、ゆっくりと腰を落ち着けているのではなく、常に動き回っていなければならない。スマート? 普通の意味で言うのではない。英和辞典にいわく「鋭い、刺すような、活発な、ませた、生意気な」。老成を拒むこの運動性こそが、あなたの唯一の武器なのではなかったのか? これまでさまざまな形で語ってきたことは、恐らくこの点に収束すると言っていいだろう。速く、そして、あくまでスマートであること!
このスピーディにスマートに動き続けることが構造主義(クラインの壺)から脱し、ポスト構造主義の生き方に続くと浅田は信じている。(多分)
このような浅田の思想はどのようなところからやってきたのだろうか? 東浩紀編集の『ゲンロン 4』に掲載されている浅田彰へのインタビューを読むと、全共闘世代の思想への拒絶が要因にあったことが分かる。
とにかく、『構造と力』を出したとき、おもに考えていたのは、さっき言ったように全共闘世代が主体主義的・疎外論的な隘路に入ってしまったあと、いかに風通しのいい開かれた場所に出ていくか、ということでした。主体を革命的に純化するため、あえて退路を断って背水の陣を敷くなどというのはくだらない、そんな闘争に明け暮れるよりさっさと「逃走」して横にズレていくほうがいい、と。その点では、資本主義を全否定して閉じたコミューンに回帰するより、資本主義のダイナミズムをある意味で肯定し、さらに多様化する方向で考えるべきだ、と。
浅田彰は「逃走」に未来を見出していたのである。
4
僕も「ズレ」を作るために、「逃走」という運動を常に繰り返していたい。ハルタのように常に落ち着きない存在でありたいのである。(スキゾ・キッズ!)
なにから「逃走」したいのか? それは、つまらない自分自身からである。
読書やブログを書くことも「逃走」の一種である気がしている。ただ最近はそれだけでは飽き足らない。狭い人間関係とひとり遊びで満足してしまう自分であるが、「あえて」コミュニティを広げてみようか。
先輩のように、知人とその家族を誘って、バーベキュー大会でも主催してみようかしらん。
『魔法少女まどか☆マギカ』の話―僕の女神、まどかについて
1
今更ながら『魔法少女まどか☆マギカ』を見た。
まどか、まじでかわいい。
こんなに一人の女性に惚れ込んだのは、妻以来である(おい)。まどかが悩んだり、傷ついたりする様子を見ると、僕は自分のことのように心が痛んだ。恋している。
僕はこれまで魔法少女モノの少女たちが過酷な運命を背負っていることにあまりに無自覚であり、そのことを他人事としてとらえていた。本当に申し訳ない。
特にこのアニメの魔法少女の運命はつらい。魔法少女は魔法少女に課される悪魔的なルールに従わざるを得ず、心優しいまどかはいつでも周囲の魔法少女の苦痛に心を痛めているのだ。
女神のような包容力を持つ彼女は他者を大事にすることにとても真摯であり、そのことで彼女は常に葛藤し続ける。僕は彼女の一挙手一投足に胸打たれずにはいられず、思わずAmazonで彼女のフィギュアをポチりそうになったが、買った後の妻の反応が恐ろしくやっぱりやめた。
魔法少女まどか☆マギカ 鹿目まどか (1/8スケール PVC塗装済み完成品)
- 出版社/メーカー: グッドスマイルカンパニー(GOOD SMILE COMPANY)
- 発売日: 2012/01/14
- メディア: おもちゃ&ホビー
- 購入: 7人 クリック: 302回
- この商品を含むブログ (23件) を見る
2
この『魔法少女まどか☆マギカ』の新しさは様々あるが、僕が最も新しさを感じたのは主人公であるまどかが「魔法少女になることを選択しない」ことである(正確には、選択しないことを暁美ほむらによって選択させられているのであるが)。
まどかが「魔法少女になることを選択しない」ことを選択することによって、視聴者はもしまどかが魔法少女になったらという想像を強く駆り立てられる。普通の魔法少女モノは逆である。戦いを繰り返す少女たちを見て、もし彼女たちが戦士にならなかったら、どのような日常を送っていただろうかという「if」 を想像させられる。
まどかは物語が半分以上経過しても魔法少女にならない。タイトルは『魔法少女まどか☆マギカ』なのに! 視聴者は焦らされ、まどかが魔法少女になるという「if」が非常に魅惑的で誘惑的なものに感じてくる。
僕はまどかに惚れている。彼女に魔法少女であることの苦痛を味わせたくない。もし、他の魔法少女のように彼女が死んでしまったり、魔女になってしまったら、僕は立ち直れないであろう。
しかし、反面、魔法少女モノの主人公が魔法少女になる運命に抗ってはならないという気持ちも僕の中にあることに気づいた。彼女が魔法少女として魔女と戦う姿を見たい。
人の運命は決まっているし、その運命は腹をくくって静かに受け入れなければならないと個人的には思っている。魔法少女モノの主人公の運命は魔法少女になって戦うことであり、その運命をまどかは受け入れなければならない!だから……
魔法少女になって!!戦うんだ!!まどかっ!!!
……本当に僕はひどい野郎です。ごめんなさい。
3
そして、まどかはやはり自身の運命に抗うことはできず、物語の終盤で魔法少女になる。その魔法少女としての力は、他の魔法少女では決して得ることのできない、強大なものであった。
そのような強大な力を得るに至った要因は、暁美ほむらの存在である。
彼女は、時を遡ることのできる力を使い、愛するまどかの運命である「悲劇」を回避するために、「if」のトライ&エラーを繰り返し、運命に抗おうとする。ほむらは何度もいくつもの時間軸を往復することで、まどかへの愛が強くなっていくが、まどかはひとつの時間軸にしかいないそれぞれのまどかであり、自然、2人のお互いに対する気持ちの強さはかけ離れていく。
そんな絶望的な寂しさがありながらも、たった1人で時間のループを旅し、まどかに対する愛のために戦い続けるほむらの姿には泣けた。ほむらの秘密が明かされる終盤で、僕はほむらのことも大好きになった。(彼女のループのせいで、運命がいちいち書き換えられる他の魔法少女たちはたまったものではないが)
ほむらのトライ&エラーの入出力先はまどかであり、その結果、アニメの中の言い方で言うと、まどかに「因果律が集中」し、彼女の魔法少女としての力は強大なものとなる。
4
最終回、まどかは彼女自身が持つ魅力を最大限に発揮してくれる。彼女は、その強大な力と、自己犠牲も厭わない他者へのあまりにも深い愛情によって、魔法少女のルールを論理的にハックするのである。
魔法少女のルールを書き換えたまどかは、過去と未来のすべての魔法少女を悲劇から救い出す。そして、彼女は宇宙と一体になるのであった。まさに女神。
僕はこの終末に、これまでのアニメで得られなかった最高のカタルシスを感じ、なんかズボンもびしゃびしゃになった。
5
映画版も見終わり、現在「まどか」ロスである。
しかし! まどかは消えてしまったわけではない。
まどかは宇宙(神と言い換えてもいい)になったのであるから、すべてがまどかである。すべてがまどかということは、つまり、僕はまどかである! まどかは僕自身としていつも一緒にいるのだ!!
さあ、お盆は終わった!!!
社会という名の魔女と戦う!!!!
夏の思い出の話
飼ってたクワガタのための昆虫ゼリーの減りがやけに早いと思ったら、祖母が昆虫用と知らずに食べてた。