ゴロネ読書退屈日記

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なぜ秀吉はバテレン追放令を発布したのか

 

戦国期、庶民の信仰の主導権は、領主や家長など、所属する共同体のリーダーに掌握されていたとする清水有子の論を興味深く読んだ。キリシタン大名が、神仏を媒介とした領民との関係を保ち続けるために、領民をキリスト教に集団改宗させたという戦国期の宗教事情に面白さを感じると同時に、ある疑問も生じた。清水は、「天下人の豊臣秀吉天正十四年(一五八六)に発給した宣教保護状が各大名領の集団改宗に拍車をかけた」とするが、秀吉は宣教保護状を発布した翌年の1587年に、バテレン追放令を発布している。全く逆方向の政策が、この短い間になされているのである。なぜ秀吉はバテレン追放令を発布したのか。


バテレン追放令が発布された理由は諸説あるようだが、秀吉が全国平定に執着していたこと、そして、キリスト教の宣教の影響力がその全国平定を揺るがすほどのものであったことが最も大きな理由ではないかと僕は考える。


清水克之は中世を「自分の身は自分で守る」、「自力救済の時代」と論じているが、 この無秩序に、上からの一定の秩序を与えることが天下人の務めであると秀吉は考えていたのではないか。それは、天下人となった秀吉が、太閤検地、刀狩りと矢継ぎ早に全国に秩序を与える政策を打ち出していったことからもうかがえる。その秩序を破壊する可能性のある懸念材料が、宣教師とその影響を受けたキリシタン門徒たちであった。天下人となった秀吉は当初、南蛮貿易の利益もあることから、織田信長キリスト教の保護政策を踏襲していた。だからこその宣教保護状だろう。しかし、秀吉はすぐに宣教師とその影響受けたキリシタン大名とその領民たちの孕む暴力性に気付き、恐れを抱いたのであろう。


バテレン追放令では、宣教師の追放を決めた理由の一つとして、宣教師やキリシタン大名門徒に寺社の破壊をさせていることを挙げている。バテレン追放令に踏み切ったきっかけは、このキリシタン門徒による伝統宗教への攻撃であると僕は考える。宣教保護状を発布からしばらくして、秀吉はキリシタン大名の領地で寺社の破壊が繰り返されているとい うことを伝え聞いている。三浦は、「平和構築」を目指す秀吉像を示し、秀吉が「大名間のみならず、民衆同士の紛争も、中央政府の裁定によって解決することを目指していた。」とし、「その中には、宗教対立も含まれていた」と論じている。僕もこの考えを支持したい。宗教対立を伝え聞いた秀吉は、これが全国平定の秩序を揺るがす火種となると危険視したのである。

 

キリシタン門徒の忠誠心の強さも、秀吉にとってキリシタンの活動を看過できない理由の一つであっただろう。キリスト教への忠誠心は、日本社会に根付いた伝統宗教への攻撃に向かわせるほどのそれである。ルイス・フロイスの『日本史』には、キリシタン門徒が「その宗門に徹底的に服従している」など、仏教門徒以上の忠誠心に警戒を抱く秀吉の言葉がいくつも残っている。安定した秩序づくりは豊臣家への忠誠心がなくてはなし得ない。民が秀吉よりキリスト教を上位のものとして認識することは許し難いことであっただろう。安野は、キリシタン大名には「秀吉に対する忠誠とデウスに対する忠誠のいずれを摂るかという原理的な問題が存在していたはず」と論じている。バテレン追放令の発令後、豊臣政権を担うキリシタン大名高山右近は棄教を迫られたが、それを拒否している。秀吉は以前にも増して、キリスト教への忠誠心の強固さに驚き、恐れを抱いただろう。 秀吉は、強い忠誠心を持ったキリシタン門徒が、いずれ一向一揆以上の騒乱を巻き起こすかもしれないと危惧したはずである。


キリシタンの強い影響力は、いわば、秀吉の全国平定のグランドデザインを破壊しかねない「爆弾」であった。それに気づいた秀吉は慌てて、キリスト教の宣教師の排除を政策の優先順位のトップに据えた(南蛮貿易の保護は継続したため、結局バテレン追放令は宣教師にとって「甘い」政策となってしまったが)。これが宣教師の保護からバテレン追放令の発布へと政策が急な方向転換をした実情ではないかと考えた。