息子が立った話と『新・日本の階級社会』と『故郷』の話
1
近頃、鼻の左穴から鼻血が出やすい。数日前にハナクソを深追いしたことが原因だと考えられる。
それはさておき、もうすぐ一歳になる息子のハルタが立った。
1ヶ月ほど前から、何にも掴まらず立っている姿をちょくちょく見かけていたのであるが、最初の頃は10秒も経たずに倒れてしまった。現在では30秒ほど持続できるようになったので、「立っている」と表現して間違いではないだろう。
つたい歩きをしているハルタに、「たっち!」と声をかけると、「おお〜」とか言いながら掴まっていたものから手を離し、直立するのである。
「立つ」という行為がこれほど感動的であるだなんて! ハルタが直立して倒れるまでの間には、全米が泣くほどのドラマ性があった。
さらに、近頃ハルタは歩行にも挑戦している。しかし、まだ一歩目を踏み出すと倒れ込んでしまう。
がんばれ。これが二歩、三歩と歩けるようになったら、彼を泣きながら抱きしめてしまうかもしれないと、僕はハナクソをほじりながら思った。
2
講談社現代新書の新刊『新・日本の階級社会』を読んだ。
現代の日本社会が「階級社会」に変貌してしまった現実を、様々な社会調査データを基にして暴いていくといった内容である。
階級格差は加速しており、特に非正規労働者から成る階級以下の階級(アンダークラス)の貧困が甚だしい。しかも、階級は世襲として固定化しやすく、親の階級以上の階級に転じることは難しくなっている(逆に「階級転落」の可能性は高い)。
僕は大学卒業後、4年間の非正規労働者を経て、正規になったけれども、雇用形態による待遇の違いの大きさを実感した。正規でない頃は、「まだ若いからなんとかなるべ」という楽観と、金銭面などでの余裕のなさからやってくる「なんとかならないかも」という不安な気持ちが交互にやってきていた思い出がある。
この本では、格差拡大が社会全体にもたらす弊害が具体的に述べられて、読後、現代社会に対する危機感をちょっぴり持ったのでした。
3
なんらかの社会貢献を無理のない範囲でしてみたいという気持ちがにわかにわいてきた。
ほんの少し前まで社会に貢献したいなんて気持ちは一切なかったのであるが、子どもが生まれたことで社会に対する思いが少し変わった。『新・日本の階級社会』に書かれていることなどの様々な社会問題によって、子どもたち世代を苦しませたくない。
「格差社会」や「次世代での社会の変革への願い」といった言葉で、最初に僕が思い浮かべるお話は、近代中国の文豪である魯迅の『故郷』である。
魯迅(1881〜1936)は、清が辛亥革命を経て中華民国に変わった激動の時代に生きた文豪で、無政府状態により民が苦しむ国の状況に失望し、文学によって中国人の精神改造を図ろうとした。
『故郷』 は、魯迅自身をモデルとした「私」が、20年ぶりに帰郷するところから始まる。「私」は、貧困に苦しむ故郷の人々の暗く絶望的な現実に打ちのめされる。「私」の家の雇い人の息子で、少年時代の親友である「閏土(ルントー)」も、子どものときの快活さとは打って変わり、暗い影を落とす大人へと変貌していた。
子だくさん、凶作、重い税金、兵隊、匪賊、役人、地主、みんなよってたかってかれをいじめて、デクノボーみたいな人間にしてしまったのだ。
大人になった「閏土」と対面して胸がいっぱいになっている「私」に対し、「閏土」は開口一番、「旦那さま!」とうやうやしい態度で言う。「私」は「閏土」との間に「悲しむべき厚い壁」が隔てられてしまったことを感じ、絶望する。
「閏土」の息子と彼を慕う自分のおいのことを「私」が思い、彼らには「新しい生活」をしてもらいたいと願う最後の語りが印象に残る。
思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
「道」とは希望のことだ。つまり、社会を変えるには、人々の希望を結集し、行動に移さなくてはならないということだろう。
4
息子よ、時間がかかってもいい、何度倒れても立ち上がるのだ。そして、自分の人生を自分のものとしてたくましく生きてもらいたいと、僕はハナクソをほじりながら願うのでした。
【ブログ開設6ヶ月】『暇と退屈の倫理学』とトイザらスの衰退とアイロンビーズへの没入の話
◆
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おろかなる人間は、退屈にたえられないから気晴らしをもとめているにすぎないというのに、自分が追いもとめるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる、とパスカルは言うのである。(『暇と退屈の倫理学』p35)
◇
ここ最近取り掛かっていた大きな仕事がようやく片付き、すかさず、1日有休を取得した。
休日の朝、妻は「トイザらスに連れて行って」と言った。アラサーとなった今でも、僕らはトイザらスキッズであった。
トイザらスに向かう車では、桑田佳祐のCDなぞ流し、休日感を演出。僕は運転しながら、「波乗りジョニー」を熱唱した。妻は笑いながら、「まじでうるせえな」と言った。
トイザらスにやってくると、いつでも子供心を思い出し、ワクワク感が止まらない。棚の隅から隅へと積まれるおもちゃ。いつまで見ていても飽きない。
そういえば、アメリカのトイザラスが経営破綻して、アメリカの全店舗が閉店もしくは売却する方針であるというニュースを聞いた。経営破綻の原因のひとつは、玩具のネット通販の台頭だそうな。日本トイザらスは、「通常通り営業を継続する」と言っているが、アメリカと同じようなことが、いつか日本でも起こりかねない。
ネット通販も便利だけど、玩具店でのワクワク感が失われてしまうのは寂しい。
◆
退屈とは何か? ラッセルの答えはこうだ。退屈とは、事件が起こることをのぞむ気持ちがくじかれたものである。
(中略)
ここに言われる「事件」とは、今日を昨日から区別してくれるもののことである。(『暇と退屈の倫理学』p53)
◇
トイザらスでは、カワダの「nanobeads」というアイロンビーズを購入した。
こんにちは。ナノビーズです。ナノビーズはパーラービーズが小さくなった、ミニサイズのアイロンビーズです。絵を描くように表現できる、オトナが楽しめるビーズアート。自分だけの“かわいい”を作ってください。
いくつかセットを購入し、帰宅後さっそく妻と作成に取り掛かった。
図案の上にプラスチックの土台を置き、その上にピンセットでビーズを敷き詰めていく。
全部置けた!ふー。
敷き詰めたビーズの上から、アイロンを押し当てるとピカチュウの完成である。
細かい作業が得意な妻も次々と以下のような作品を作成。
『スーパーマリオブラザーズ3』のしっぽマリオ。
『星のカービィ2』のクー&カービィ。(ネットに載っていた図案を参考に作成)
◆
労働が消費されるようになると、今度は労働外の時間、つまり余暇も消費の対象となる。自分が余暇においてまっとうな意味や観念を消費していることを示さなければならないのである。「自分は生産的労働に拘束されてなんかないぞ」。「余暇を自由にできるのだぞ」。そういった証拠を提示することをだれもが催促されている。
だから余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ。(『暇と退屈の倫理学』p152)
◇
アイロンビーズで初めて遊んだが、かなり楽しい。シンプルな作業ゆえか、没入できる。
一つひとつのビーズを置くたびに、散らかった心の中が整理されていく心持ちになった。
そうだ……!僕は休日に「没入」を求めていたのだ!!
さらに没入感を高めるため、アイロンビーズの作成中、stillichimiyaをBGMとして流した。
◆
気晴らしをしているとき、私たちは何かやるべきことを探している。やるべき仕事を探している。街道を歩く。木々の数を数える。座り込んで地面に絵を描く。何かやるべきことを探し、その仕事に従事しようとする。
やるべき仕事といっても、その際、その仕事と内容はどうでもいい。どんな仕事につくかは問題ではない。ここで関心の的になっているのは、やるべき何かをもつことであって、どんなことをやるべきかでない。(『暇と退屈の倫理学』p209)
◇
悲しき哉、休日を上手に休むことができない。ぽっかり空いた暇を、どのような手段で埋めようかということばかりを考えてしまう。
自分の中から「退屈だなあ」という声が聞こえるのが怖い。退屈を抑え込み、没入できる「気晴らし」をいつでも求めている。
ブログを始めて、もうすぐ6ヶ月。何のためにブログを続けているのかと考え、いろいろと理由が思い浮かんだが、最終的には「退屈しのぎのため」というたった一つの理由に行き着くのでした。
平成スーパー戦隊シリーズOP曲私的ベストテン
スーパー戦隊シリーズ最新作、『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』 が面白い。
タイトルからわかるように、今作では戦隊同士が戦うのである(長いタイトルですね)。戦隊同士が戦う「VS」シリーズは、オリジナルビデオや劇場版でこれまでもあったけど、テレビシリーズで「VS」要素を前面に押し出すのは今作が初めて。
「君はどっちのヒーローを応援する?」といったキャッチコピーを使い、ファンの子供たちの間にも「VS」の構造を持ち込ませようとしているところも面白い(僕は「ルパンレンジャー」を応援しています)。いずれは悪の組織に対して共闘するようになるのだろうけど、彼らがどのように争い、どのように力を合わせていくのか、今後の展開が楽しみである。
オープニングテーマ「ルパンレンジャーVSパトレンジャー」も、「VS」を意識したデュエット曲になっていて興味深い。
【早期購入特典あり】快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー 主題歌(アクリルミニチャーム付)
- アーティスト: Project.R
- 出版社/メーカー: 日本コロムビア
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男性ボーカル(吉田達彦)が「ルパンレンジャー、ダイヤルをまわせ」を歌い、女性ボーカル(吉田仁美)が「Chase You Up! パトレンジャー」を歌い、それがかけ合いとして「合体」し、ひとつの曲になっているのである。
☆
そういえば、平成のスーパー戦隊は今作で最後かあ(厳密に言うと、次のスーパー戦隊の最初の2ヶ月くらいは平成だけど) 。
『高速戦隊ターボレンジャー』(平成元〜2年)から今作まで数えると30作品。どれも個性的な作品ばかりである(僕は平成元年生まれで、リアルタイムで見ているのは、『鳥人戦隊ジェットマン』(平成3〜4年)から)。
平成の思い出を振り返る自己満足企画の一つとして、「平成スーパー戦隊シリーズOP曲私的ベストテン」という記事を書くことを思い立った。
平成スーパー戦隊シリーズOP曲私的ベストテン
第10位
「シークレットカクレンジャー」(トゥー・チー・チュン)/『忍者戦隊カクレンジャー』(平成6~7年)
「あれは、なんなんじゃ、ニンジャ、ニンジャ~♪」。「ハリケンジャー」より「ニンニンジャー」より、やっぱり「カクレンジャー」です。
第9位
「海賊戦隊ゴーカイジャー」(松原剛志)/『海賊戦隊ゴーカイジャー』(平成23~24年)
ゴーカイジャーは、ゴーカイジャー以前の全ての戦隊に変身できる。毎回何の戦隊に変身するか楽しみにしていたのを思い出します。
第8位
「魔法戦隊マジレンジャー」(岩崎貴文)/『魔法戦隊マジレンジャー』(平成17~18年)
「勇気という名の魔法を持ってる」というポジティブフレーズが好きです。
第7位
「ガオレンジャー吼えろ!!」(山形ユキオ)/『百獣戦隊ガオレンジャー』(平成13〜14年)
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カラオケで歌うと、「ガオーッ!」の雄叫びで声が枯れます。
第6位
「JIKU〜未来戦隊タイムレンジャー」(佐々木久美)/『未来戦隊タイムレンジャー』(平成12〜13年)
(ANIMEX1200-176)未来戦隊タイムレンジャー 音楽集1
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歌詞が難しすぎて、子供には歌えません。
第5位
「鳥人戦隊ジェットマン」(影山ヒロノブ)/『鳥人戦隊ジェットマン』(平成3〜4年)
物語の暗さと、OPの明るさのギャップが激しいです。
第4位
「爆走戦隊カーレンジャー」(高山成孝)/『爆走戦隊カーレンジャー』(平成8〜9年)
(ANIMEX1200-172)激走戦隊カーレンジャー 音楽集
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「車」をモチーフにしている戦隊らしく、疾走感のある曲です。
第3位
「電磁戦隊メガレンジャー」(風雅なおと)/『電磁戦隊メガレンジャー』(平成9〜10年)
「退屈とはおさらばさ」という歌詞がいい。あれから20年。今でも「退屈」からは逃れられそうにありません。
第2位
「恐竜戦隊ジュウレンジャー」(佐藤健太)/『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(平成4〜5年)
前奏が1分ほどあり、早く歌に入れよって聴くたびに思います。
第1位
「五星戦隊ダイレンジャー」(NEW JACK 拓郎)/『五星戦隊ダイレンジャー』(平成5〜6年)
- アーティスト: TVサントラ,NEW JACK 拓郎,樫原伸彦,つのごうじ,Funky Y.K,つのごうじ&ピタゴラス,石田よう子,八手三郎,小杉保夫,白峰美津子,そのべかずのり
- 出版社/メーカー: 日本コロムビア
- 発売日: 1997/08/21
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「転身だぁ〜!!」から始まる熱い歌に、心の奥底にあるヒーロー魂が燃え上がります。
☆
やっぱり自分が幼い頃に熱心に見ていた戦隊のOPばかりがランクインしてしまいました。
『西郷どん』と『翔ぶが如く』にドハマり中
1
2018年の大河ドラマ『西郷どん』が面白い。
毎年大河ドラマは、途中で飽きて、見ることをやめてしまうことが多いのだけれど、『西郷どん』は最後まで楽しんで見られる気がしている。そのすがすがしさのあるノリに魅了され、次の回が毎週気になってしょうがない。(林真理子の原作は未読)
幼き日の西郷隆盛(小吉)が島津斉彬に出会ったり、西郷家が大久保家の隣だったりなどなど、史実にこだわらない細かな演出の一つひとつがドラマに深みを与えている。
第9回では、西郷どん(鈴木亮平)は、島津斉彬(渡辺謙)のお供として江戸へやってくる。徳川家定(又吉直樹)、徳川斉昭(伊武雅刀)、一橋慶喜(松田翔太)、井伊直弼(佐野史郎)などクセの強そうな新しい人物たちが次々と登場し、彼らが今後どのように物語にからんでくるのか楽しみである。
2
職場には『西郷どん』を見ている人がおらず、語れる相手がいなくて寂しい。
僕は、歴史や大河ドラマに興味が一ミリもない妻に、一緒に『西郷どん』見てくれることを期待して、息子が寝静まった後、『西郷どん』の魅力を一生懸命に話した。
僕の熱い語りが終わると、妻は言った。
「……明日、ゴミ出し忘れないでね」
チェスト!!
3
『西郷どん』に熱中している勢いで、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読み始めた。
明治維新とともに出発した新しい政府は、内外に深刻な問題を抱え絶えず分裂の危機を孕んでいた。明治六年、長い間くすぶり続けていた不満が爆発した。西郷隆盛が主唱した「征韓論」は、国の存亡を賭けた抗争にまで沸騰してゆく。征韓論から、西南戦争の結末まで新生日本を根底からゆさぶった、激動の時代を描く長篇小説全十冊。
司馬遼太郎の長編はほとんど読んだけど、この西郷隆盛の人生の後半戦を描く『翔ぶが如く』は未読であった。司馬史観に対する批判的な文章を目にすることもあるけど、やっぱり司馬遼太郎の小説は圧倒的に面白い。
物語は、パリ行きのフランスの列車の中で、薩摩藩士の川路利良が大便を我慢しているところから始まる。川路は、フランスの警察制度をどのように、出来上がったばかりの明治政府に輸入するかを懸命に考えることによって、便意をまぎらわせようとするが、ついに我慢の極みがやってくる。
彼は他の客に気づかれないように、床に新聞紙を敷き、
大いに発した。叫びをあげたいほどの解放感であった。
川路はそれを日本の新聞紙に包み、列車の窓から投げ捨てるのである。しかし、なんとその包みは保線夫に命中し、新聞紙の日本文字から犯人は日本人であることが判明する。そして、その「日本人うんこ投げ捨て事件」はフランスの新聞によって報じられてしまうのである。
……最高の始まり方です。
4
小説の中で、川路は西郷を「桜島のようだ」と形容している。威圧の中に無限の優しさがあり、たまにでくのぼうに見えるが、爆発を起こす危険性もはらんでいる。人は自然と西郷隆盛を崇拝する気持ちになってしまう。
こういう人って現代でもたまにいるよなあ。この人にどこまでもついて行きたいとか、この人の一挙一動を真似したいって気持ちにさせられる人。(宮台真司がよく言う「感染させる力」のある人)
これまで僕は『竜馬がゆく』の坂本竜馬が断然好きだったのだけれど、今は西郷隆盛にすっかり魅了されています。
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『西郷どん』の話に戻るが、この大河ドラマはこれから先もっともっと面白くなっていくことを確信している。
まだ西郷は若く、島津斉彬など周囲のすごい人々に圧倒されるばかりで、戸惑いの表情も多い。これから、どんどんとその才能を開花させ、周囲に影響を及ぼし、時代を転換させ、民衆のヒーローになっていく様(そして、明治政府の敵となる様)が楽しみである。
桜島のように、心身共に大きい男になれるのであろうか? テレビの前で「西郷どん」の成長を一生懸命応援したいと思います。
大杉漣と『ソナチネ』と『蠅の王』の話
1
大杉漣が亡くなったことを知ったとき、まず頭の中に思い浮かんだのは、北野武監督の映画『ソナチネ』(1993年)で、赤いアロハシャツを着た大杉漣が砂浜の落とし穴に落ちるシーンであった。
僕は何年かぶりに『ソナチネ』のDVDを再生した。
2
ビートたけし演じる村川組組長の村川は、やくざ業に嫌気が差している。
村川は、親分組織である北島組に命じられ、組員を連れて沖縄へと抗争の手助けに行く。沖縄に着いた村川組は早速、敵組織の襲撃を受け、何人かの組員を失う。
村川は、大杉漣演じる片桐など数人の子分を連れ、沖縄の片田舎にある隠れ家に避難をする。暇を持て余した彼らは、浜辺で相撲をとったり、飛ばしたフリスビーを拳銃で狙い打ちをしたりと、日々遊んで過ごすのである。
青い空、青い海、白い砂浜で子供のように遊びを繰り返す大人たち……文章にすると微笑ましい光景が浮かぶのであるが、映画を見ると、この場面から、なぜか死の匂いを感じずにはいられない。北野武監督独特の繰り返しのリズムによる演出は、たまに見ている側の不安を強烈に掻き立てる。
落とし穴は、砂浜での遊びの一つである。村川は自分で掘った落とし穴に片桐などの子分を落とし、無邪気に喜ぶ。
僕は『ソナチネ』の「落とし穴」を、「人間の残酷性がもたらす死」の象徴として受け取ってしまう。子分たちは、映画の後半、落とし穴に落ちるかのように唐突に命を奪われていく。
村川は、他者からの暴力による死からは決して逃れられないだろうということを悟っている風であり、拳銃による自決を夢想したりする。
3
この映画で特に印象に残るのは、村川と、村川たちの遊び仲間として加わった女(国舞亜矢)との会話である。
「平気で人撃っちゃうの、すごいよね。平気で人殺しちゃうってことは平気で死ねるってことだよね。強いのね。私、強い人大好きなの」
「強かったら拳銃なんか持ってないよ」
「でも平気で撃っちゃうじゃん」
「怖いから撃っちゃうんだよ」
「でも死ぬの怖くないでしょ?」
「あんまり死ぬの怖がるとな、死にたくなっちゃうんだよ」
人が本来持つ獣性と、それにどのように向き合うかについて考えさせられる映画である。
4
「人の持つ獣性」というと、小説であると、『蠅の王』を連想する。
- 作者: ウィリアム・ゴールディング,William Golding,平井正穂
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1975/03/30
- メディア: 文庫
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未来における大戦のさなか、イギリスから疎開する少年たちの乗っていた飛行機が攻撃をうけ、南太平洋の孤島に不時着した。大人のいない世界で、彼らは隊長を選び、平和な秩序だった生活を送るが、しだいに、心に巣食う獣性にめざめ、激しい内部対立から殺伐で陰惨な闘争へとの駆りたてられてゆく……。
大人のいない孤島に生きる少年たちは、正体不明の獣に怯え、不安から衝突する。ただひとり、「獣というのは、ぼくたちのことにすぎないかもしれない」と気づいたサイモンとう少年は、人間の内なる暗黒の象徴である蠅の王と対決する。
そして、蠅の王はサイモンに言う。
わたしはおまえたちの一部なんだよ。おまえたちのずっと奥のほうにいるんだよ?
自身の獣性に目をそらさず、向き合うことで、初めて人は人間性を獲得できるんじゃないかなと思ってみたり。
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オチが思いつかず、なんだかすごくまとまりのない記事になりました(いつもだけど)。失敗。
大杉漣さんのご冥福をお祈りいたします。
御殿場アウトレットとチョコレートと『世界からバナナがなくなるまえに』の話
1
妻と生後10ヶ月のハルタと、休日に静岡県にある御殿場プレミアム・アウトレットに行ってきた。
車でアウトレットの近くまで行くと、場外駐車場へ案内された。場外駐車場からは無料のシャトルバスが出ていて、それに乗ってアウトレットへと向かう。
そのバスの車内は、お客さんでぎゅぎゅう詰めであった。僕は畳んだベビーカーを持っていたので、ほかのお客さんにとってはさぞ迷惑であったことだろう。ごめんなさい。
……という話を、御殿場アウトレットによく行く先輩に話したら、「案内されても、場外駐車場に行かなければいいんだよ」と言われた。案内を無視して、そのままアウトレットの敷地に向かっていくと、すんなりと場内の駐車場に停められるそうな。本当かしらん。
2
アウトレットでは、服を見るのもそこそこに、ポケモンショップに向かった。
かわいらしい。
さらに、僕と妻は持参した3DSを取り出し、ポケモンショップ限定の色違いのグラードンとカイオーガをそれぞれ受け取った。
「ハルタのうんちみたいな色のグラードンだね」と僕は妻に言おうとしたが、やめておいた。
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ポケモンショップでの買い物を済ませると、ゴディバに寄り、チョコレートを食べた。本当にゴディバのチョコは美味しいです。幸せな気分になれる。
僕は大の甘党である。特にチョコが好きで、昔から暇があるとチョコチョコ食べていた(チョコだけに)。運動の合間にも、エネルギー源になると信じて、チョコを食べていたときもあった(今は自身の健康に配慮して、以前より量は減らしています)。
しかし、そんな美味しいチョコが、近い将来に簡単には口にできなくなるという危機にさらされているということを、『世界からバナナがなくなるまえに』を読んで知った。
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世界からバナナがなくなるまえに: 食糧危機に立ち向かう科学者たち
- 作者: ロブ・ダン,高橋洋
- 出版社/メーカー: 青土社
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バナナは、僕が唯一苦手な食べ物である。ファミレスなどでパフェを注文するときは、店員さんに必ず「このパフェってバナナ入っていますか?」と確認する。
本屋で『世界からバナナがなくなるまえに』というタイトルを目にしたとき、自分とってはバナナが世界からなくなるのって好都合だなと思った(自分勝手なやつですね)。自分の苦手な食べ物の消滅するストーリーが知りたいという興味がわき、購入した。
軽い気持ちで読み始めたのであるが、その濃い内容に圧倒された。
この本には、病原体による現代の食糧危機と、それに立ち向かう科学者たちの戦いが熱を持って書かれている。バナナだけでなく、私たちが頼る数少ない作物は、すべて危機にさらされている。……チョコレートの原料である、カカオも例外ではない(がーん)。
この食料危機の危険性を一気に高めたのが、大規模なアグリビジネス(農業関連産業)の台頭である。
アグリビジネスは、生産の極端な効率化を図るために、広域な農場に単一栽培(モノカルチャー)を行っている。短期的な効率化には最上の手段ではあるが、広大な農場に遺伝子的に同一の作物しかないというのは長期的に見て非常に危険である。
遺伝子的に同一ということは、同じ害虫や病原体に弱いということである。一つの作物が弱点である害虫や病原体に攻撃されると、その農園の作物が全滅する道にそのままつながるのである。
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チョコレートの原料であるカカオの危機の話は、第6章『チョコレートテロ』、第7章『チョコレート生態系のメルトダウン』に書かれている。『チョコレートテロ』の話は本当に衝撃的であった。
ブラジルはかつて世界二位のチョコレート生産国であった。しかし、農業テロリストによって故意にもたらされた病原体により、急激に、そして徹底的にブラジルのカカオ帝国は崩壊し、今ではブラジルはチョコレートの純輸入国になってしまったというのだ。
アグリビジネスに対する農業テロを防ぐことは非常に難しいらしい。
悪意ある個人、テロリスト組織、敵対する政府などによって、カカオのように簡単に破壊され得る作物が、他にどれくらいあるのだろうか? 作物は、広大な畑に栽培されるのに対し、害虫や病原体は一箇所もしくは数箇所に放てば済む。だから、作物は標的になりやすい。害虫や病原体の「兵器化」は、それほどむずかしいことではない。(中略)さらに都合が悪いことに、農業に対するテロ行為は、すぐに見つかりにくい。見つかっても犯人の特定は非常にむずかしい。害虫や病原体がどこから来たのかを確実に突き止めることさえ困難だ。
現在、世界で消費されているチョコレートのほとんどは、西アフリカで栽培されているカカオが原料である。もしそのカカオが農業テロの標的となってしまったら……?
☆
故意でなくとも、自然に害虫や病原体が農場に拡散する可能性は常にある。本書ではそういった食糧危機に対する科学者の地道な戦いと、私たちに何ができるかということが書かれていて、最初から最後まで知的好奇心を大いに刺激されました。
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現在、春限定でゴディバで発売されている「ショコリキサーホワイトチョコレートさくら」が非常に美味しそうです。
『千と千尋の神隠し』の千尋の両親は豚の姿にならずとも、もともと豚だったのではないかという話
1
さて、上の記事は、CookDo「中華が、家族を熱くする。」回鍋肉CMを批判するものである。
ブログ主さんは、大皿に並べられた回鍋肉を前にした子どもたちが、兄の「いただきますしてから!」と言う言葉を、「省略~!」と言って無視し、回鍋肉にがっつく姿にお怒りになっていらっしゃいます。食への冒涜だろうと。
内容に全面的に同意しつつ、僕がこの記事を読んでぱっと連想したのは、『千と千尋の神隠し』の序盤で、千尋の両親が料理をむさぼり食うシーンである。
2
トンネルを抜けた先にある不思議な町にやってきた千尋と千尋の両親。父親はおいしそうな匂いをかぎつけ、様々な料理がてんこ盛りになった皿が並べられている料理店を見つける。
千尋の両親は、店主の不在にお構いなしに、「いただきます」も言わず、いきなり料理に食らいつく。いくらお腹が減っていたとしても、下品過ぎる。しかもその料理はかなり得体の知れないものである。悲しき哉、飽食の時代。
千尋は本能からか、気味悪がって料理店に入ろうともしない。
宮崎駿監督作品において、豚は人間の果てのない欲望のメタファーである。
この後、両親が豚になってしまうのは必然と言えるだろう。
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千尋は最初、お世話になる人(リン)に挨拶もできず、お世話になった人(釜じい)に感謝の言葉も言えない少女である。
しかし、これまでの人生のアイデンティティーである「名前」を湯ばあばに奪われ、「千」として働き始めてから、様々な危機に直面することで、環境に素早く適応し、潜在していた「生きる力」を著しい勢いで伸ばしていく。
これは子どもだけが持ちうる柔軟性である。さらに、少女である千尋は、金に関心を全く示さないなど、まだ無垢さを残している。
神隠しに遭うことなく、汚れてしまった大人の代表である、あの両親のもとで育っていたとしたら、眠っている千尋の「生きる力」は眠ったままであり、無垢さもすぐに消滅していたことだろう。
物語の終盤、湯ばあばは、豚の集団の前に立ち、どの豚がお前の両親か当ててみなと千尋に難題を出す。
数々の危機を乗り越え、感覚が研ぎ澄まされた千尋は「この中に、お父さんもお母さんはいない」と毅然と答える。
ずっと前に読んだどこかの評論に、このセリフは、「もうお父さんもお母さんも私には必要ない。私は一人で生きていける」という意味で読み取ることができると書いてあって、なるほどと思ったことを覚えている。
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「親からの脱却」は、『千と千尋の神隠し』のテーマの一つであると言って間違いはないだろう。
環境に対する感謝や、謙虚さを忘れ、果てのない欲望にまみれた人間になることを避けるには、子どもの内からなんとかしなければならない。もう大人になってしまっては内面の変革は不可能なのである。
先ほども述べたように、千尋の両親が豚となってしまったのは必然である。千尋の両親は内面に忠実な姿形になったという、ただ単にそれだけの話なのである。
5
かくいう僕も、豚の一人です。今夜はしゃぶしゃぶの食べ放題に行ってきます。