『社会学史』、『誰の味方でもありません』、『未来を生きるスキル』の話
近頃、最近刊行されたばかりの3人の社会学者の新書を同時進行で読んでる。どれもとても面白いので紹介します。
著者は大澤真幸。
大澤真幸(おおさわ まさち)
1958年生まれの社会学者。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。社会学博士。千葉大学助教授、京都大学教授を歴任する。著書に『ナショナリズムの由来』(講談社、毎日出版文化賞)、『自由という牢獄』(岩波書店、河合隼雄学芸賞)などがある。
大学時代に社会学部に在籍していた僕は「社会学史」の授業を履修していたが、あの頃は映画と女の子のことで頭がいっぱいであったので、勉強ことなどほぼ記憶にない。しかしながら、今更ながら社会学を体系的に学びたいという気持ちがにわかに盛り上がっており、ファンである大澤真幸先生のこの最新刊を手にした。自分にとっては丁度いい難しさであり、社会学史の事実を並べるだけでなく、そこに著者独自の解釈を交えていて、知的好奇心を刺激される。
著者は社会学の歴史の性格を以下のように説明している。
社会学が、今日の目で見て社会学らしい社会学になるのは十九世紀のことです。「近代」というのは曖昧な言葉ですが、とにかく近代社会がある程度成熟しないと、つまり産業革命やフランス革命を経て、かなり今風の社会にならないと社会学は出てこない。なぜならば、社会学自身が社会現象だからです。
つまり、社会現象を説明するのが社会学だとすれば、社会学そのものも社会学の対象になる。したがって、社会学の歴史は、それ自体が一つの社会学になるのです。
この『社会学史』には、デュルケーム、ジンメル、ヴェーバー、パーソンズ、ルーマン、フーコーなど様々な社会学者が登場する。本書ではフロイトを社会学者のひとりに加えている。突飛な論に思える、「エディプス・コンプレックス」や「去勢コンプレックス」を、社会秩序の可能性について問う社会学にとって、非常に重要な仮説であると位置づけているのが面白い。屈折しているように見えるフロイトの人間観がいかに道徳や規範が生まれてくるメカニズムと深く結びついているかの明快な解説が読みどころ。
著者がヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン・天使の詩』を登場する天使を例にし、社会学者の姿勢を語っている部分も印象深い。ちょっと長いけど、引用します。
天使は、人間には見えないのですが、実は、あたりにいっぱいいるということになっている。そして、天使には、人間がやっていることとか心の中で思っていることが全部見えていて、彼らはそれを記録に残している。人間のほうからは見えないが、天使のほうからは私たちが見えていて、ずっと人間を観察しているわけです。天使と人間とはコミュニケーションや相互作用ができない。ということは、天使は、人間の世界の傍観者です。
(中略)
ヴェンダースのこの映画は、天使がもっている洞察力とか、天使が人間を見抜いているということを中心的な主題にしているのではありません。むしろ傍観者にとどまり続けざるえない天使の哀しさが主題です。最終的に主人公の天使は人間になる。天使だったら永遠に生きられるのに、人間になって死にうる身体を手に入れて、人間の女と恋をするのです。ですから、この映画は、天使としてのあり方をポジティブに描いているわけではありません。
なぜ脱線して、ヴェンダースの映画のことを説明しているかというと、私はこう考えるからです。社会学という知にとっての究極の課題は、目一杯天使でありつつ、完全に人間であることはいかにして可能か、にあるのだ、と。人間世界に対する冷静な観察者でありながら、同時に人を愛することがいかにして可能か。社会学という知が目指すことは、これだと思います。
「人間世界に対する冷静な観察者でありながら、同時に人を愛することがいかにして可能か」という部分に心打たれた。本書を読み進めると、こういった著者の社会学に対する真摯な態度と愛がひしひしと伝わってくる。社会学に興味を持つ取っ掛かりの手引きとして、本書は非常にオススメ。
◯『誰の味方でもありません』 (古市憲寿)
著者は古市憲寿。
一九八五(昭和六十)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。
若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『だから日本はズレている』『平成くん、さようなら』など。
歯に衣着せぬ発言で、何度も炎上する彼だが、それでもメディアから追放されることなく、今でも引っ張りだこなのは、彼の物言いを「もっともだ」 とか「言いにくいことをズバッと言ってくれる」と感じている人が少なくないからであろう。僕も社会での過剰な正論に辟易することが度々あり、正論とは少しずれた彼のシニカルな語りを欲する気分になることがある。
彼の社会を見つめる視点は独特であり、ときに正論を振りかざす人を怒らせたりもするが、彼は決して社会を嫌っているわけではない。逆に、社会に愛を感じていて、よく社会を観察しているからこそ、人から憎まれないギリギリの鋭い意見が出来るのである。彼の小説『平成くん、さようなら』を読むと、彼が自分の発言が人々にどのように受け止められるかをすべて計算済みであるかのように思える。過剰な正論に息苦しさを感じる若者は、彼のスタンスがひとつの新しいモデルになるんじゃないかな。
『誰の味方でもありません』は、「週刊新潮」での彼の連載エッセイをまとめたもの。一つひとつの話がユーモラスで、社会から一歩引いた視点で語られており、非常に面白い。例えば、「『限定』は常に『定番』に劣る」話。
そろそろ街にハロウィン限定商品が並び始める頃だ。僕もすでにパンプキン味のチョコレートやケーキを見かけた。断言しよう。そのほとんどは大して美味しくない。なぜなら、本当に美味しい商品が開発できたなら、「限定」ではなく「定番」に鞍替えされているはずだからだ。
(中略)
「定番」とは、流行し続けるもののことだ。それは決して時代遅れの遺物なのではない。「定番」をバカにする者は「定番」に泣く。たとえば、文字の読み書きはかれこれ6000年くらいブームが続いているし、株券も400年以上流行している。すっかり社会に欠かすことのできない定番だ。
考えてみれば、どんな定番も初めは一時的な流行だったかも知れない。人類は、無謀な試みを繰り返し、定番を増やしてきたのだ。
くすりと笑えたり、新しい気づきが得られたりと、本書を読み終えたときには、社会の見え方がちょっと変わっているかもしれない。
◯『未来を生きるスキル』(鈴木謙介)
著者は鈴木謙介。
鈴木謙介(すずき けんすけ)
1976年生まれ、福岡県出身。関西学院大学先端社会研究所所長、社会学部准教授、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター客員研究員。専攻は理論社会学。サブカルチャー方面への関心も高く、2006年よりTBSラジオ「文化系トークラジオLife」のメインパーソナリティをつとめる。著書多数
彼は僕のお気に入りのラジオ番組「文化系トークラジオLife」のメインパーソナリティである。番組内では「チャーリー」と呼ばれている。ラジオでの軽妙な語り口は非常に親しみやすいが、『カーニヴァル化する社会』などチャーリーの著書は結構難解で読解するのに苦労した。
ところが、最新刊『未来を生きるスキル』は語り下ろしということもあり、非常にわかりやすく、ラジオでのチャーリーの語りを聞くように、すらすらと読めてしまう。チャーリーの素敵なところは、どんなに現代の社会状況が絶望的に見えようとも、調査やデータを踏まえて、愛を持った考察で、未来に希望を見出そうとする姿勢があるところである。『未来を生きるスキル』でも、そんな希望の話が様々語られている。
本書では、未来を生きる上での求められる重要な力として、「協働」という言葉を挙げている。(そういえば、現在の学習指導要領でも「協働」は大事なキーワードだ)
協働とは、必ずしも優れた点があるわけではない「ふつうの人」たちが、それぞれ異なる価値観や能力を持ち寄って、特定の課題を解決するために協力するということです。
「協働」する組織として僕がすぐに思いついたのは、映画『シン・ゴジラ』での「巨大不明生物特設災害対策本部」である。ああいう緊急事態ではないと、絶対にチームになることなどだいだろう価値観がバラバラな人たちが、自分たちの能力を持ち寄って課題の解決に向かっていく姿は非常に面白いし、そういう組織にいる人は充実感を持っているように思える。チームスポーツをやっていた自分はそんな「協働」できる組織に非常に憧れがあるし、社会生活の中で「協働」のスキルの大切さを感じている。
本書では、この「協働」というキーワードを中心に、仕事のこと、お金のこと、教育のこと、コミュニティのことなどについて、社会学的な見地から希望が語られている。これからの未来をよりよく生きる上でのヒントがたくさん詰まっていて、とても勉強になる一冊です。
文節の鉢の中で泳ぐ孤独な金魚の話
ブログに書くネタが思いつかない。
問題:上の文を文節に分けて、その文節数を数字で答えなさい。
……といったような問題が、中学校最初の国語のテストの文法問題として出題されることがよくある。上の問題の答えは「4」である。中学生の頃の自分にはこれがよくわからなかった。
大抵の国語の先生は文節分けの方法を、「文を文節で分けるには、『ネ』(『サ』、『ヨ』)を入れても不自然でない箇所で文を区切りましょう」と説明する。上の問題では、「ブログに(ネ)/書く(ネ)/ネタが(ネ)/思いつかない(ネ)」ということで、4文節になるというわけだ。……じゃあ、次の文は何文節だろう?
人がゴミのようだ。
どこに「ネ」を入れれば、不自然でない箇所で区切れたことになるのか?「人が(ネ)/ゴミのようだ(ネ)」で2文節?それとも「人が(ネ)/ゴミの(ネ)/ようだ(ネ)」で3文節?中学生の自分はこういう問題で悩んでしまった。
答えは2文節。1文節の中には必ず自立語(単独で文節を作れる単語。名詞、連体詞、副詞、接続詞、感動詞、動詞、形容詞、形容動詞)が一つあるということを覚えておかなくてはならない。付属語(助詞、助動詞)単独では、文節を作ることはできないのである。
上の一文の「ゴミのようだ」であるが、「ゴミ」は自立語(名詞)、「の」は付属語(助詞)、「ようだ」は付属語(助動詞)なので、「ゴミのようだ」で1文節と数える。「ようだ」だけでは文節を作れない。
自立語と付属語について学習する前に文節数を問うことは、口語文法の学習の初めの一歩で、文法に苦手意識を持ってしまうことに繋がりかねないのではないかなと思ってしまう。僕は文節の構造を下の金魚鉢の絵で理解している。
金魚鉢は文節、金魚は自立語、金魚のフンは付属語を表す。この金魚鉢(文節)は小さく、金魚(自立語)は1匹しか飼うことはできない。金魚のフン(付属語)は当たり前であるが、金魚(自立語)がいなければ存在しない。金魚のフン(付属語)は金魚(自立語)の後ろに付いていく。
金魚のフン(付属語)は全くない(0個)のときもあるし、1個のときもあるし、複数連なっていることもある。例えば、次の文。
ピーマンを食べさせられましたよね。
この文は「ピーマンを」と「食べさせられましたよね」で2文節である。「食べさせられましたよね」は、金魚(自立語(「食べ」(動詞)))に、フン(付属語)が「させ」(助動詞)、「られ」(助動詞)、「まし」(助動詞)、「た」(助動詞)、「よ」(助詞)、「ね」(助詞)と6つも付いていることになる。
この文節の金魚鉢がしっかり理解できてれば、口語文法の学習はいいスタートを切れるんじゃないかな。
☆
生後2カ月の次男・レイはよく笑うようになり、「あー」とか喃語を発するようになった。このころの赤ちゃんは顔つきも日に日にどんどん変化していくので、観察していて面白い。
一方、2歳1カ月のハルタも、ぐんぐん成長していて、立派ないたずら小僧になった。部屋の中を思い切り散らかして遊び、何かをこちらが促すと「いやいや」と拒否をする。あと、よくしゃべるようになった。単語をどんどん覚えて、3つとか4つの単語をつなげて話せるようになった。「ハルタ、くっく(くつ)、はく」とかね。
最近は、助詞「の」にはまっている。この前の休日、友人家族が自宅に来たときも、「の」を使ってハルタは家にあるものを彼らに向かって一生懸命に紹介していた。「ママのプッ(コップ)!」、「パパのほん!」、「これ、ハルタの!」などなど。
友達家族が帰るとき、ハルタは寂しかったのか、大いに泣いた。そういえば、泣いているときは、文節の切れ目が分かりやすいなと気づいた。
「ハルタも(ひぐっ)、おそと(ひぐっ)、いぐ〜!(ひぐっ)」
秦野戸川公園に行ったことなどGWのあれこれ
1
妻がスーパーでたこ焼きの材料とたこ焼き器を買ってきた。「たこ焼きパーティやろうぜ」と妻。たこパなんて初めてだお。大阪では一家に一台たこ焼き器があるって本当かしらん、ご飯の上にたこ焼き乗せて食べるって本当かしらん。
妻が買ってきたたこ焼きの粉の量が多すぎる。120個も作れる。そんなに食えるか。義妹をパーティに誘ったが、風邪らしい。自分の弟にお誘いのLINEを入れた。「今夜たこ焼きパーティを開催します。お暇でしたら、いらして」
1時間くらい経過しても、一向に既読がつかないので、家族だけで先にパーティを始めた。最初はたこ焼きを作るのに手こずったが、慣れてくると、クルクルときれいな丸を作るのが楽しくなってきた。2歳の長男・ハルタもはしゃぎ、口の周りをソースとマヨネーズだらけにしてたこ焼きをほおばっていた。ハルタは10個ほど、妻は20個ほど、僕は30個ほど食べた。
パーティは終わりに近づいたが、弟へのLINEには既読がつかない。そういえば、弟は彼女と同棲しているという噂を聞いている。会ったことないけど、相手の女の子は中国出身の美人だそうだ。もしかすると、この大型連休に彼女の実家がある中国に遊びに行ってるのかも。
☆
春眠不覚暁
処処聞啼鳥
夜来風雨声
花落知多少
GWはよく食べ、よく夜更かしして、日中よく寝た。夜中にAmazonプライムビデオでMCUの映画を続けて観た。『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』、『ドクター・ストレンジ』、『スパイダーマン:ホームカミング』、『マイティ・ソー/バトルロイヤル』。もう少しで公開中の『アベンジャーズ/エンド・ゲーム』に追いつける。
2
リュックサックに弁当を詰め込んで、家族で神奈川県立秦野戸川公園に行った。日差しも暖かく、風も爽やかで、お散歩日和。
3
トイザらスで幼児が参加できるイベントがGW限定でいうので、足を運んだ。
衝動的に「アベンジャーズ」のレゴブロックを買いそうになったが、なんとか踏みとどまった。
4
GW中に妻の本棚にあった『みゆき』(あだち充)を全巻読んだ。初読です。たまらなく面白い。
みゆき コミック 1-5巻セット (少年サンデーコミックス〈ワイド版〉)
- 作者: あだち充
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 1990/08/01
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連載は1980〜84年。ああ、このときの恋愛のゴールは「結婚」なんだなと思った。最終回、主人公の真人は彼女の鹿島みゆきより、長く一緒に暮らし、結婚生活をイメージしやすい妹のみゆきとの結婚を選択する。2人は幸福に暮らしました。めでたし、めでたし。
大人の階段昇る
君はまだシンデレラさ
幸福は 誰がきっと
運んでくれると
信じてるね
少女だったと
いつの日か
想う時がくるのさ
(「想い出がいっぱい」H2O)
しかし、生涯未婚率が2割近く、離婚率が3割ほどである現代日本ではこういうシンプルな恋愛物語は現実感がないかもしれない。結婚後の生活や結婚以外の選択を描くことが、現代の恋愛ストーリーの創作者には求められているんですね。知らんけど。
5
明日からお仕事。しっかり充電できたので、実際のところやる気まんまん。
『パワー』の話ー男女の力関係が逆転する衝撃のディストピア小説
1
女性に対する男性の性暴力が、不起訴になったり無罪になったりする事件が相次いでいる。冤罪の可能性があるにしろ、「被害者の抵抗の有無」が加害者の罪の判断材料になることに憤りを覚えずにはいられない。日本の法は性被害者を守れないのか。
男女間では肉体的に圧倒的に力の差があることに男性は無自覚過ぎる。女性がその力の差による恐怖にたちまち支配されてしまえば、抵抗などできるはずもない。昨今フェミニズム運動が盛り上がっているが、人々の性に対する意識の変革は喫緊の課題である。
女性学を専攻する社会学者、上野千鶴子氏による東京大学学部入学式の祝辞は胸に迫るものがあった。
女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。
弱者が弱者のままで尊重される社会の実現のために、僕らは変わらねばならない。
2
しかし、人の意識はそう簡単には変わらない。社会に横行する性差別に無自覚で、この状況をまだまだ「当たり前」と考える人間には一種のショック療法が必要かもしれない。
異色のフェミニズム小説『パワー』を読むことは、そのショック療法として充分すぎる力を発揮するだろう。
作者は英国作家ナオミ・オルダーマン。本書はオバマ前大統領が毎年発表するブックリストや、映画『ハリー・ポッター』シリーズでハーマイオニーを演じた女優エマ・ワトソンが主宰するフェミニストブッククラブの推薦図書にも挙げられ話題となった。
物語は、数人の特別な少女たちが突然変異で特別なパワーを持ち始めるところから始まる。その「パワー」とは……電撃である。
女性の鎖骨部分にスケインという新たな臓器が発達し、そこから発電して、相手を感電させることができる。このパワーを扱える女性はどんどんと増え、男性優位社会に反逆を起こす。男女の力関係が逆転し始めるのである。
女性による革命が起こり、時代が移り変わる中で、男性は性的に陵辱されたり、次々と殺されたりする。生物の肉体は電気信号で動いている。スケインを持った女性は、男性が性交を拒否しても、電撃で強制的に勃起させ、レイプすることができる。とある地域では、男性は性奴隷として扱われている。その地域を支配する女性からは男性を間引きする案が出るようになる。
「子孫を残すために男は必要だが、数が多い必要はない」
男性は「抵抗」などできるはずもないだろう。抵抗などすれば、電撃によって激痛を与えられたり、焼き殺されたりするのだから。
男性である自分にとっては、本書を読んで大きな恐怖感を抱かずにはいられなかった。しかし、この恐怖はまさしく現実の社会で女性が抱いているそれであるのだ。
3
この小説は、女性がそのパワーによって世界を支配することとなる転換期の時代に重要な役割の果たした人物たちの視点で語られる。イギリスのギャングの娘、ロクシー。アメリカの地方の女性市長、マーゴット。性的虐待を加えさせた里親をパワーで殺害したあと、宗教的指導者となる少女、アリー。
中心人物のそれぞれのドラマは重厚でとても読み応えがあり、一人ひとりの物語を紹介したいところであるが、この記事では、中心人物の中で唯一の男性であるナイジェリア人ジャーナリストのトゥンデに注目したい。トゥンデは男性でありながら、女性の支配が始まった世界で上手に生き残っていく。この新しい世界ですぐに命を落としてしまう男性は、まだ女性を腕力でひれ伏させることができると考えている浅はかな男性である。
トゥンデはスマートフォン片手に女性に寄り添う報道を世界各地から行なうことによって、女性たちからも一目置かれる有名なジャーナリストとなり、それによって自身の命も守っている。彼の武器は愛嬌である。彼は取材の中で様々な残酷なことを目撃し、自身も命の危機に晒されるが、女性から愛される愛嬌を必死でふりまくことでなんとか乗り越えていく。
『パワー』の世界は現実社会の性差別の歴史のミラーリングである。現実の社会をトゥンデのように生きる女性は少なくないだろう。「男は度胸、女は愛嬌」という古臭いことわざがあるが、「愛嬌」は男性社会で女性が自身の身をなんとか守るための処世術なのである。
『パワー』は、エンターテイメント性が充分ありながらも、物語のテーマは非常に重く、読み進めれば進めるほど、男性が女性にいかにひどい仕打ちをしてきたか、そして現在もしているかということを痛感させられる小説である。
4
イギリスでは本書が40万部のベストセラーになったそうだ。韓国でも昨年、フェミニズム小説である『82年生まれ、キム・ジヨン』がベストセラーになっている。
こういう各国の文化的盛り上がり一つとっても、日本の性差別に対する意識改革が立ち遅れている印象をどうしても抱いてしまう。令和の時代では、性差別がなくなり、パワーを持つ者が持たざる者をちゃんと尊重できる社会が実現されることを願うばかりです。
平成のおわり、桜、令和のはじまり
1
改元なぞどうでもいいと思っていたが、新しい元号の発表に何故か妙にワクワクしてしまったのであった。「令和」という新元号を書いてみたくて、あらゆる書類の「平成31年度」と表記してあるところの下に「令和元年度」と書き加えた。
大伴旅人が詠んだとされる、「令和」の典拠となった『万葉集』の漢文の一文も美しい。書き下し文はつい口ずさみたくなる。
時に、初春の令月にして、気淑く風安らぎ、梅は鏡前の粉を招き、蘭は佩後の香を薫らす。
実現はなかなか難しいとはわかっていても、誰もが、新たな時代が、うるわしく、平和な時代になることを望んでいるはず。「令和」の響きはその実現に希望を持たせてくれます。
2
古典の世界では花と言えば梅であるが、現代では花と言えばやっぱり桜である。
先週仕事を早めにあがり、2歳の長男・ハルタとお散歩ついでに近所の神社にお花見に行った。暖かい日が続いていたが、ちょっとこの日は寒かった。三寒四温。
子供の成長は早い。一緒に外を散歩ができるようになって嬉しい。このブログを始めた1年半前は、ハルタはまだ歩くことさえままならなかった。
神社には僕ら親子以外誰もいない。境内の桜はきれいに咲いていた。
ハルタは境内の砂利をひとつひとつ摘んでは、僕に「ドーゾ」と言って渡した。かわいい。『枕草子』の「うつくしきもの」の段を思い出す。
二つ三つばかりなるちごの、いそぎてはひ来る道に、いとちひさき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなるおよびにとらへて、大人になどに見せたる、いとうつくし。
また今年度もめちゃくちゃ忙しくなる予感。それでもこういった家族との時間を蔑ろにせず、大事にしていきたいです。
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妻は、4月1日に新橋で配られた新元号発表の産経新聞の号外をメルカリで手に入れた。そんなものをメルカリで売る方も売る方だが、買う方も買う方である。届いた号外はしわが多い。号外が配られた現地では、それの激しい争奪戦になったらしく、人に奪われないためにくしゃくしゃに丸めたそうだ。
元号の良いところは、元号を主語に置くことで、日本のその時代をひとまとまりと捉え、多くの人と同じ物語を共有できるところだと思う。西暦のディケイドで時代を語るのもいいけど、「昭和は〜」「平成は〜」「令和は〜」といった語りにはやはり何かぐっとくるものがある。
平成が終わる今年、僕は30歳になる。平成は僕の人生の第一幕であると思っている。令和と始まる第二幕では、今の自分の状態に安住することなく、様々なことに挑戦を続けたい。
とりあえず手始めに、社会科の教員免許とバスケットボールの審判のC級のライセンスを取得しようと桜を眺めている時に思い立ちました。
【長男2歳の誕生日】紙パックで作成したイスをプレゼントした話
妻はここ1か月ほど、牛乳の紙パックを、飲んでは洗って開き、ため込んでいた。僕は牛乳が大の苦手なので、紙パックのオレンジジュースとアップルジュースを交互にがぶ飲みし、その活動を応援した(少々下痢気味)。
なぜそれほど夫婦で紙パックをため込んでいるのかというと、3月30日に2歳の誕生日を迎える長男・ハルタへのプレゼントに、紙パックでできたイスを作成するためである。
昨年の1歳の誕生日は東京ディズニーランドに行き、散財した。今年もどこかお出かけしたかったが、次男・レイがまだ生後1か月のため遠出はできない。したがって今年の誕生日会は、「低コスト」をテーマに自宅で執り行うこととなった。
紙パックイスは、ものすごい低コストのプレゼントである。様々なサイトを参考にし、妻と協力して作った。
まず、1リットルの紙パックを下のように切る。
そして、この紙パックを三角柱の形にし、その中に新聞紙を1枚半入れ、ガムテープで止める。これを24個せっせとこしらえる。
24個の新聞紙づめ紙パックを下のように合体させ六角柱を作り、ガムテープでがっちり固定する。
六角形の形にダンボールを切り、上下の面に貼り付ける。
購入したアンパンマンのイラストの入った布を巻きつけて、縫い付け、出来上がり!!
ハルタにちょうどいいサイズ。気に入ってくれたようで、何度もこのプレゼントにお座りをしている。大人の体重にも耐えられる頑丈さである。
このイスの上にハルタを座らせて甘いケーキを一緒に食べたりして、いい誕生日になりました。
早春育児奮闘日記
3月21日(祝)
23歳の春分の日に、車にはねられた。
暖かな陽気の昼ごろ、原付に乗ってあくびをしながら停止線で信号待ちをしていると、突然の衝撃を受け、僕は前方に倒れこんだ。後ろを見ると黒い乗用車が止まっている。これがぶつかってきたのか。
車から人が降りてくるのかと思いきや、倒れている僕とバックライトが大破した原付を避け、前進してきた。僕は立ち上がった。怪我はない。車の窓は開いていて、中には僕と同世代の若い男2人と女1人が乗っていた。運転手の男が、僕をにらんで一言。「邪魔だよ!」
そして、アクセルを踏み、そのまま赤信号を突破し、彼らは逃げてしまった。僕は今でも彼らのナンバーを覚えている。僕をはねた約30分後に彼らは捕まった。警察署で聞いたが、彼らは相当飲酒をしていたそうな。
彼らは僕をはねた後、ほかにも何台もの車に激突しながら、暴走を続けた。僕は倒れ方がよかったのと車のほうがあまりスピードを出していなかったので、幸い怪我はなかっが、怪我人も何人か出たと聞いた。地元ではちょっとしたニュースになった。大学時代の友人からもらった原付は、あの事故でお釈迦になった。
飲酒運転は許せないですね。あんなので死にたくない。あのとき死んでいたら、結婚もできなかったし、二人の息子には出会えてなかったし、その他諸々この6年の楽しい思いはできなかったよなと29歳の春分の日に思ったのでした。
3月22日(金)
次男・レイが生まれて1か月が経った。とにかくレイはよく泣く。ずっと抱いていないとだめで、置くと泣き喚く。長男・ハルタはこれほど泣かなかった。もうすぐ2歳のハルタは立派ないたずら小僧へと成長した。そんなわけで、産休中の妻の疲労はかなり蓄積している。
仕事から帰宅すると、妻が「マジ眠い。代わって」と言った。選手交代。泣くレイを抱き上げると、少しずつ泣き止む。が、眠るわけではない。長時間抱いていていると、腕がやっぱり辛くなってきて、ベビーベッドに置いた。置くと、再び泣き始めた。
おれだって仕事で疲れてるんだ。お金だって稼いできてるし。……僕はレイの泣く声を無視し、椅子に座って読み途中の『社会学用語図鑑』を開いた。
本書は同じプレジデント社の『哲学用語図鑑』と『続・哲学用語図鑑』の続編である。
かわいらしい図解で、社会学に関わる人物と用語をわかりやすく解説している。読み進めると、「シャドウ・ワーク」の解説にたどり着いた。「シャドウ・ワーク」はオーストラリア出身の哲学者、イヴァン・イリイチが作った用語で、賃労働によって成り立つ生活や社会には不可欠な、専業主婦による家事など、賃金の支払われない労働のことを指す。
近代の家族は、男性が賃労働をするために、女性が家事労働を担うことによって成り立ってきました。ところがこうした性別役割分業は、女性が男性に対して従属的な立場に置かれていくことへとつながっていきました。
僕は本を閉じ、「もうちょっと頑張ろう」と思い、再びレイを抱き上げた。
3月23日(土)
夕飯前、ベビーベットの上で、踏ん張るレイ。おむつを開けると、あの幼児特有の緑のうんちをしていた。僕はおしりふきで丸いおしりの表面を丁寧に拭いた。そして、肛門についたうんちも拭き取る。なかなか手際が良くなってきたぜと思ったその時だった。
ぎゃあああああ!!!
大量の新たなるうんちがレイの肛門から勢いよく噴出した。30センチは飛んだであろう(タオルの壁がなければもっと飛んだ)。うんちは僕が来ていたお気に入りのパーカーにも飛び散った。チッキショー。噴出したうんちの片づけはかなり大変であった。
作り話と思われるかもしれないが、この日、妻が作ってくれた夕飯はなんとグリーンカレーであった。
妻に「嫌だったら食べなくていいからね」と言われたが、頑張って食べた。普通に美味しかったです。
3月24日(日)
今日は仕事がないので、妻に「子供の面倒見るから、羽伸ばしてきていいよ」と言ったら、彼女は横浜に買い物に行ってしまった。「シャドウ・ワーク」を必死にこなし、現在、二人の息子がお昼寝中でひと段落。
ブログの更新頻度がだいぶ減りました。まあ、しばらくはしょうがないか。