ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

カオスと闘争する息子、退屈な自分から逃走する父の話ー『構造と力』を読んで

 

先週の日曜日、前の職場の先輩ファミリー宅にゴロネファミリーは招かれた。

 

先輩宅にはここ何年か続けて夏に伺っているのであるが、相変わらず立派なお宅である。アパート暮らしの僕は、広い一軒家に憧れを持ってしまった。

 

招かれたのは僕たちファミリーだけではなく、先輩の知り合いである他3ファミリーが招かれていた(先輩ファミリーを含め、計5ファミリー!)。それぞれの家族に1人か2人、小さな子供がいるのでかなり賑やかであった(うちの一人息子、ハルタは1歳4ヶ月になりました)。

 

僕らパパたちは先輩宅の庭で、ノンアルビールを飲みながら肉や野菜を焼いた。そして、自分達もつまみながら、家の中にいるママたちや子供たちにそれらを提供したのである。

 

毎日大抵自宅でひとり遊びをしているハルタは、知らないお家でたくさんの子供に囲まれ、大興奮であった。同じ年頃の女の子に比べ、とにかく落ち着きがない(「落ち着きがない」のは、男の子脳の特徴であると何かの本に書いてあった)。

 

そこら中を歩き回り、いろんなものを手に取ったり、近くにいる人を突っついたりしていて、妻は彼を一生懸命に追いかけまわしていた。特にハルタは先輩宅にいた、普段触れ合うことのない犬に興奮し、犬を指差し、「あー!あー!」と大声で連呼していた。先輩宅の娘さんである小学3年生のお姉ちゃんがハルタに「あれはワンワンだよ」と優しく教えてくれた。

 

人間は言葉によって世界を分節化していると、構造主義の形成に大きな影響を与えたソシュールは言った。言葉をまだうまく取り扱えないハルタにとって、この非日常的な状況はカオスであっただろう。

 

彼は強烈な喜びともどかしさを同時に抱えながら、カオスで戯れていたのかもしれない。幼児から見ると、この世界はどんな風に見えているのであろうか?

 

ハルタは疲れたのか、帰りの車の中ですぐに寝てしまった。僕たち夫婦も楽しめたし、ハルタにも良い刺激が与えられた。先輩ファミリーに感謝です。

 

 

 

今年の夏に読んだ本の中で印象深いのは、35年前にベストセラーとなった思想書『構造と力』である。著者の浅田彰は執筆当時26歳であり、瞬く間に日本の現代思想界のスターとなり、「ニューアカ」のけん引役となった。

 

構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて

 

構造主義ポスト構造主義の思想を一貫したパースペクティヴのもとに再構成。〈知〉のフロンティアを明晰に位置づける。

 

哲学・思想に関して虫並みの知識と読解力しかない僕にとって本書の内容はとても難解であった。ただ、なんとなく理解できたところも多からずあったのは、橋爪大三郎の『はじめての構造主義』、内田樹の『寝ながら学べる構造主義』といった構造主義の入門書を以前に読んでいたためである。

 

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

  

 

『構造と力』では、人間はもともと本能が狂っていて、自然の秩序からはみ出した存在であると書かれている。

 

自然のピュシスからはみ出し、カオスの中に投げ込まれた人間は、そこに文化の秩序を打ち立てねばならない。

 

構造主義の最大の功績は、人間のこの文化の秩序が必然的に、恣意的・差異的・共時的な構造、すなわち象徴秩序という形をとることを明らかにしたことらしい。

 

文化の秩序は、言語によって、言語を通じて、言語として、構成される。このような形で文化の秩序をとらえるとき、それを象徴秩序(ordre symbolique)と呼ぼう。

 

現在カオスの中にいるハルタも、そのうち言語を巧みに扱うようになり、象徴秩序へ参入するようになる。そして、僕たち大人と同じように、本書の表現でいうところの、近代資本制が生産し続ける差異による、終わりのない「自立的相互競争」に巻き込まれていくのである。

 

そう考えると、子供たちって気の毒だなって思えてくる。せっかくフィルターのかかることのなく、競争もない、カオスの中で戯れていたのに……。

 

浅田は無限に運動が続く近代社会を、クラインの壺という下の図で表現している。

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しかしながら、無限の運動から逃れられない社会に嫌気がさしても、原始共同体以前のカオスに戻ることなど不可能である。

 

浅田の論の面白さは、近代資本制の「差異=運動」がもたらす、「過剰」という名のエネルギーを大きく肯定していることである。あらゆる方向へ運動することを要請する、以下の彼の詩的な文章に、最も僕の心は動かされ、勇気づけられた。

 

 いたるところに非合法の連結線を張りめぐらせ、整然たる外見の背後に知のジャングルを作り出すこと。地下茎を絡み合わせ、リゾームを作り出すこと。

 そのためには、ゆっくりと腰を落ち着けているのではなく、常に動き回っていなければならない。スマート? 普通の意味で言うのではない。英和辞典にいわく「鋭い、刺すような、活発な、ませた、生意気な」。老成を拒むこの運動性こそが、あなたの唯一の武器なのではなかったのか? これまでさまざまな形で語ってきたことは、恐らくこの点に収束すると言っていいだろう。速く、そして、あくまでスマートであること!

 

このスピーディにスマートに動き続けることが構造主義クラインの壺)から脱し、ポスト構造主義の生き方に続くと浅田は信じている。(多分)

 

このような浅田の思想はどのようなところからやってきたのだろうか? 東浩紀編集の『ゲンロン 4』に掲載されている浅田彰へのインタビューを読むと、全共闘世代の思想への拒絶が要因にあったことが分かる。

 

ゲンロン4 現代日本の批評III

ゲンロン4 現代日本の批評III

 

 

とにかく、『構造と力』を出したとき、おもに考えていたのは、さっき言ったように全共闘世代が主体主義的・疎外論的な隘路に入ってしまったあと、いかに風通しのいい開かれた場所に出ていくか、ということでした。主体を革命的に純化するため、あえて退路を断って背水の陣を敷くなどというのはくだらない、そんな闘争に明け暮れるよりさっさと「逃走」して横にズレていくほうがいい、と。その点では、資本主義を全否定して閉じたコミューンに回帰するより、資本主義のダイナミズムをある意味で肯定し、さらに多様化する方向で考えるべきだ、と。

 

浅田彰は「逃走」に未来を見出していたのである。

 

 

 

僕も「ズレ」を作るために、「逃走」という運動を常に繰り返していたい。ハルタのように常に落ち着きない存在でありたいのである。(スキゾ・キッズ!)

 

なにから「逃走」したいのか? それは、つまらない自分自身からである。

 

読書やブログを書くことも「逃走」の一種である気がしている。ただ最近はそれだけでは飽き足らない。狭い人間関係とひとり遊びで満足してしまう自分であるが、「あえて」コミュニティを広げてみようか。

 

先輩のように、知人とその家族を誘って、バーベキュー大会でも主催してみようかしらん。