『創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで』を読んでー「統合失調症=創造の病」の時代の次に来るもの
先日、槇原敬之氏が覚醒剤所持で逮捕されたが、彼を擁護する意見を少なからず目にした。こういうアーティストとドラッグについて取り沙汰されるときに必ずある擁護の意見の一つは、「クレイジーさが創造的なものを生み出す源になる」といったものである。
その意見に、自然と納得してしまう自分がいることに気づく。一般的にも「創造」と「狂気」は分かち難いものとして捉えられていると思うが、「創造」と「狂気」の結びつきにはどのような歴史背景があるのだろうか。
『創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで』では、「創造」と「狂気」の問題が、西洋思想史の中でどのように扱われてきたのかという歴史を解きほぐす。この「創造と狂気の歴史」は、約2500年前、哲学の祖であるプラトンから始まった。
本書の内容を簡単に辿っていきたい。
神的狂気とメランコリーによる人間的狂気の時代
プラトン以前にも「創造と狂気」について触れた思想家はいたようだが、それについての十分な記述があるのは、やはりプラトンからだそうだ。
プラトンは著作の中で、偉大な詩作をする際、詩人は狂気に陥っていると指摘する。その狂気は神からインスピレーションを受けて引き起こされるのだと彼は言う。「創造」に「神的狂気」を結びつけたのである。
対して、アリストテレスは、人間のメランコリー(うつ)が創造の根源であると説いている。著者が、プラトンとアリストテレスが並ぶ絵画《アテナイの学堂》(ラファエロ作)を、この2人の「創造と狂気」に関する考えの対立を重ねて見ているのが興味深い。
絵の中央にいる二人のうち、手で垂直方向(前)に広げているのがアリストテレスですが、プラトンが高所にある神的狂気を、アリストテレスが地上にある人間的な狂気を重視していたことを考え合わせると、私たちの興味関心からも非常に面白い絵画になっています。
アリストテレスが説く、「メランコリー=創造の病」説の時代はしばらく続くものの、次第に、近代的主体(自分の理性をつかって、行動ができる主体)と共に登場した「統合失調症=創造の病」説に取って代わられることになる。
統合失調症中心主義の時代
本書の中盤では、近代を代表する哲学者であるデカルト、カント、ヘーゲルなどが、どのように狂気を近代的主体に位置づけようとしたのかの格闘の様子を追っている。
そのデカルト、カント、ヘーゲルの章に続いて、ヘーゲルの親友であるドイツの詩人、フリードリヒ・ヘルダーリンについて一章が割かれている。彼は統合失調症に侵された詩人であった。「彼の頂点と評されることもある詩作品は、まさに彼の狂気(統合失調症)の発病前後からその極期に作られたもの」であり、「ヘルダーリンは、西洋思想史における『創造と狂気』の関係を考えるにあたっては避けては通れない人物」なのだそうだ。
近代以降の思想の特徴である「神の不在」は、「私」とは何かという哲学的な問いにとらわれるきっかけを作り、その問いは統合失調症(→理性の解体に至る病)の発症に強烈に結びついる。統合失調症は近代以降にしか現れることのできなかった病なのである。
狂気の詩人、ヘルダーリンは「神の不在」を歌う。このヘルダーリンの詩作をもとに、ハイデガーは「否定神学」(ある構造において、中心にあるべきものが欠如しているが、それが欠如しているがゆえにその構造はより強力に機能する)の哲学を作り上げ、続けて、ラカンは、その「否定神学」を統合失調症と結びつけた。このような議論がによって、統合失調症が創造的なインスピレーションを生むというパラダイムが確立したのである。
僕が本書で大きく関心を持って読んだのは、ヘルダーリンと同じく統合失調症的な狂気を持つ人物であるニーチェについて書かれているところである。僕は近頃、ニーチェの代表作『ツァラトゥストラはかく語りき』を読んだばかり。このニーチェの著作を読めば読むほど、まともな人間が書いたとは思えない、狂気を含んだ迫力を感じずにはいられなかった。
実際、ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』を執筆しているとき、梅毒感染による進行麻痺(梅毒によって脳実質が侵されて生じる精神病であり、当時の統合失調症と同じく、理性の解体に至る病)を患っていた。ニーチェ、そしてヘルダーリンは、プラトンが考えるような上から降ってくる狂気ではなく、「私」を問題にしたときに内側からやってくる狂気に恍惚を感じ、それを創造の源としていたのである。
ニーチェにおいてはーというよりも、ヘルダーリン以降の狂気の人物においてはー霊感は人間に直接的に与えるのではなく、人間に恍惚のなかで「自分」の主体的なありようを問題にさせるのです。ヘルダーリンやニーチェのような統合失調症圏の作家・思想家においては、神から直接的に言葉が与えられるのではなく、自分自身の存在が問われることによって、それまで覆われていた裂け目が、ブラックホールとして露出させられます。そして、そのことが彼らにそれまで一度も体験したことがない恍惚を感じさせるのです。これは、神なしで作動するー少なくとも、神がはっきり現れるわけではないような仕方で作動するーインスピレーションだといってよいでしょう。
ポスト統合失調症中心主義の時代
最後の章で登場するのはドゥルーズである。
ここまでの章の、統合失調症中心主義(統合失調症を患った傑出人が特権化され、「統合失調症者は、統合失調症でない人々では到達できないような真理を手に入れる」という言説)と悲劇主義的パラダイム(統合失調症を患った傑出人が真理を獲得できるのは、自分の理性の不可逆的な解体を受け入れた場合のみであるという考え)の議論を丁寧に追っていれば、この最後の章は読んでいて非常にワクワクする章となるだろう。ドゥルーズの哲学は、この統合失調症中心主義と悲劇主義的パラダイムを乗り越えうる哲学である。
ドゥルーズはポスト統合失調症の時代を、『不思議の国のアリス』の作者で、自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)であったというルイス・キャロルにみている。真理に及ぶ創造と結びつくのは、統合失調症的狂気(縦、深さ)とは無関係のところにある、そして、生の現実に触れることを避ける、キャロルによる言葉遊びのような表面の言語の世界(横、拡がり)への探求や偏愛なのかもしれないと考えているのである。
そのようなドゥルーズの考えに、著者はどのような「創造と狂気」の新たな可能性を見出すのであろうか……詳しくは、本書を「おわりに」「あとがき」の章までじっくり読んでいただきたい。
第1章にある、草間彌生の統合失調症の症例と創造の結びつきについての紹介から一気に引き込まれ、夢中になって最後まで読み進めた。「創造と狂気」についての様々な捉え方が獲得できると同時に、哲学史を新たな切り口で学ぶこともできる一冊である。