ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

『少年の日の思い出』の話ーなぜ「ぼく」は自分のチョウを押し潰してしまったのか?

 

今週のお題「読書の秋」

 

 

昆虫採集が趣味であったヘルマン=ヘッセ(1877-1962年)は、「チョウ」に関する詩をいくつか残している。例えば、「青いチョウチョウ」という題の以下の詩。

 

ヘッセ詩集 (新潮文庫)

ヘッセ詩集 (新潮文庫)

 

 

小さい青いチョウが

風に吹かれてひらひらと飛ぶ。

真珠母の色のにわか雨のように

きらきらとちらちらと光って消える。

 

そのようにたまゆらのまばたきで、

そのようにふわりと行きずりに、

幸福が私をさし招き、きらきらと

ちらちらと光って消えるのを、私は見た。

 

 

 

 

チョウとヘッセと言えば、小説『少年の日の思い出』である。

 

昔から中学校の国語教科書に使われている小説で、現在、中学校一年生用のすべての検定教科書に掲載されている。日本で最も有名な海外文学と言っても過言ではない。教科書掲載の訳は、ドイツ文学者の高橋健二

 

何年かぶりに『少年の日の思い出』を読んで、内容の奥深さに震えた。訳の力もあるのだろうが、一つ一つの文章表現がとにかく美しい。

 

強く匂う乾いた荒野の焼きつくような昼下がり、庭の中の涼しい朝、神秘的な森の外れの夕方、ぼくはまるで宝を探す人のように、網を持って待ちぶせていたものだ。そして美しいチョウを見つけると、特別に珍しいのでなくたってかまわない、日なたの花に止まって、色のついた羽を呼吸とともに上げ下げしているのを見つけると、捕らえる喜びに息もつまりそうになり、しだいに忍び寄って、輝いている色の斑点の一つ一つ、透きとおった羽の脈の一つ一つが見えてくると、その緊張と歓喜ときたら、なかった。

 

情景がありありと目前に浮かんできて、「ぼく」の息遣いがまるで感じられるかのような描写である。

 

 

 

「ぼく」のチョウ採集への熱中ぶりは、常軌を逸したものであった。

 

「非の打ちどころない」「模範少年」である同い年の隣人エーミールが、「ぼく」が挿絵でしか眺めたことのないクジャクヤママユを手に入れたという。その噂を聞きつけ、いてもたってもいられなくなった「ぼく」は、エーミールの留守中に勝手に彼の部屋に忍び込み、彼のクジャクヤママユを盗んでしまうのである。

 

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クジャクヤママユ。「ガ」ですね。

 

メイドの足音に我に返った「ぼく」は、焦ってポケットにクジャクヤママユをねじ込み、チョウをつぶしてしまう。悲しい気持ちで家に帰った「ぼく」は、自分の罪の一切を母に打ち明けるのであった。そして、母にうながされ、「ぼく」はエーミールを尋ねる。

 

「ぼく」の確信していた通り、エーミールに謝罪も弁償も受け入れてもらえず、彼から耐え難いような軽蔑の態度を受ける。自宅に帰った「ぼく」は採集したチョウを一つ一つ取り出し、指でこなごなに押し潰してしまうのだった……。

 

なぜ「ぼく」は自分のチョウを押し潰してしまったのか?

 

中学校の授業であれば、この問いの答えを探っていくことが、この物語の読解の核心であるだろう。教師は生徒に多様な読みを促すはずである。

 

その読みの中には、「『ぼく』は美しい宝を壊した罪の重さを自覚し、自らに罰を与えようとしている」といった考えが出てくるであろう。よくある回答の一つである。

 

読者一人ひとりに自由な読み方があるのは当然であるし(だから読書は面白い)、自分の読みを人に強制するつもりはない。しかしながら、僕はこのチョウを潰した行為が、「自らを罰する」つもりでした行為だとはどうしても思えないのである。

 

「罪を償うため」という考えもあるだろうが、エーミールによって屈辱を与えられた後の「ぼく」は、贖罪などということは意識にすらのぼらなかったであろう。実際「ぼく」は、「一度起きたことはもう償いのできないもの」だということを悟っている。

 

ではどうして、「ぼく」は自分のチョウを押し潰してしまったのか?

 

それは、エーミールに対して、強い劣等感、敗北感、悔しさ、恨みがピークに達したからであると考える。そのやり場のない気持ちが、チョウを潰す行為へと走らせたのである。

 

 

 

非難されるべきは、エーミールの大事なチョウを盗み、揚げ句の果てにそのチョウを潰してしまう「ぼく」であるのは当然である。エーミールは冷淡で、情のない人間であるかのように見えるが、この物語は「ぼく」の語りであることを忘れてはならない。

 

しかしながら、それでも僕は(もしかしたら、少年時代劣等生であった自分自身のルサンチマンを重ねすぎているのかもしれないけど)、「ぼく」に同情せずにはいられない。「ぼく」の盗みには、エーミールへの悪意は一切なかった。

 

 胸をどきどきさせながら、ぼくは紙切れを取りのけたいという誘惑に負けて、ピンを抜いた。すると、四つの大きな不思議な斑点が、挿絵のよりはずっと美しく、ずっとすばらしく、ぼくを見つめた。それを見ると、この宝を手に入れたいとう逆らい難い欲望を感じて、ぼくは生まれて初めて盗みを犯した。ぼくは針をそっと引っぱった。チョウはもう乾いていたので、形はくずれなかった。ぼくはてのひらに載せて、エーミールの部屋から持ち出した。そのときさしづめぼくは、大きな満足感のほか何も感じていなかった。

 

盗みの場面を読むと、「ぼく」の盗みに対する葛藤がほとんどないことがわかる。ここで「ぼく」は理性を働かせて、欲望を抑え込むべきではなかったのかと言う人もいるだろう。

 

だが、ある対象に心が強くとらわれてしまったとき、理性などが働くはずがない(擬人法によるクジャクヤママユの描写が、それに魅了された「ぼく」の心情をよく表している)。理性の力など、自分にとって本当に魅力的なものの前では、信頼に足るものではないし、それは子供であっても大人であっても同じである。

 

「ぼく」は確かに盗みを犯しているが、同時に、その欲望と状況によって「盗まされている」のである。客観的には能動でありながら、「ぼく」の主観的な心情としては盗みは受動であったのだ。クジャクヤママユを壊してしまったことも故意ではない。どれもこれも「ぼく」の行動は、チョウへの愛情ゆえの行動なのである。(だからと言って犯罪を肯定しいるわけではないです)

 

チョウへの愛が深かったからこそ、「ぼく」は、エーミールによる「つまりきみはそんなやつなんだな。」というセリフ、普段のチョウの扱い方への非難、軽蔑の眼差しに、深い傷を負わされることになる。

 

「ぼく」に喜びを与えていたチョウのコレクションは、エーミールによる屈辱的な仕打ちによって、一転、「ぼく」の下劣さを証明するいまいましい装置へとなり変わってしまったのである。

 

 

 

大人になっても癒えることのない苦々しい「少年の日の思い出」は誰にでも大なり小なりあるだろう。大人になった今もう一度、自身の「少年の日の思い出」を重ねながら、この小説を読んで、様々考えてみてはいかがでしょうか。

 

……と、まるで中学生のときに『少年の日の思い出』を読んだかのように語ってきましたが、僕が中学一年生のときに使っていた国語の教科書にこの小説は載っていませんでした。掲載されていた海外文学は、チェーホフの『カメレオン』でした。これもなかなか素敵な作品です。