ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

井上ひさし『握手』を読んでー身体が語るもの

 

井上ひさしの短編集『ナイン』の中にある『握手』を読んだ。『握手』は作者の経験を元に作られた小説。読んでなんだか胸がいっぱいになっちゃったなあ。

 

ナイン (講談社文庫)

ナイン (講談社文庫)

 

 

恥ずかしながら、本書を手に取るまで、井上ひさしの小説や戯曲などの作品にはほとんど接した経験がない。幼い頃、NHKで『ひょっこりひょうたん島』のリメイクを見ていた程度。親がカラオケ好きで、一緒に連れて行かれると僕は『ひょっこりひょうたん島』のテーマ曲ばかり歌っていた記憶がある。

 

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まるい地球の 水平線に

なにかがきっと まっている

くるしいことも あるだろさ

かなしいことも あるだろさ

だけど ぼくらはくじけない

泣くのはいやだ 笑っちゃお 進め

 

泣くのはいやだ! 笑っちゃお♪

 

 

 

桜の花はもうとうに散って、葉桜にはまだ間がある季節、大人になった「私」のところに「ルロイ修道士」が訪ねてくる。ルロイ修道士は、故郷のカナダに帰ることになり、かつての教え子にさよならを言って回っていると言う。中学3年生の秋から高校卒業までの期間、児童養護施設「光ヶ丘天使園」で過ごした「私」にとって、園長のルロイ修道士は育ての親といえる存在である。気の毒なくらい空いている西洋料理店で再会した「私」とルロイ修道士は思い出を語り合う……というのが『握手』のあらすじ。

 

本作のタイトルでもある「握手」は、一般的にどのような場面でなされる行為であろうか? 出会いのとき、別れのとき、友情や合意を確認するとき……。本作では、「私」とルロイ修道士が何回か握手をするが、その握手から読み取れる思いや込められている思いは、それぞれの握手で異なっている。

 

最初の握手は、「私」が天使園に収容される日。ルロイ修道士は、「ただいまからここがあなたの家です。もうなんの心配もいりませんよ」と言い、「私」の腕がしびれるほどの強さで手を握る。ルロイ修道士は、少年だった「私」の腕がしびれるほどの強さで手を握る。「私」はその握手に大きな安心感を抱いたはずである。

 

2回目の握手は、大人になった「私」とルロイ修道士が再会したとき。そのときのルロイ修道士の握手は力が弱く、身体の衰えを感じさせる。さらに、ルロイ修道士は、「おいしいですね、このオムレツは」と言うが、店のオムレツをちっとも口に運んでいない。これらのことから、「私」は悪い予感がせずにはいられない。

 

3回目の握手は、「私」とルロイ修道士が駅でお別れをするとき。これは「私」からする握手である。「私」は、「死ねば何もないただむやみに寂しいところへ行くと思うよりも、にぎやかな天国へ行くと思うほうがよほど楽しい。そのためにこの何十年間、神様を信じてきたのです。」と死生観を別れ際に語ったルロイ修道士に、彼が痛がるほど強い握手をする。この握手には、戦争中から戦後、そして現在に至るまで長く日本で暮らし、子どものために尽くしたルロイ修道士の人生に対する深い尊敬の思いが込められているのだろう。

 

「手を握る」という身体的なつながりが、二人の心の深いところでの温かな交流を象徴している。

 

 

 

突然だが、僕は昔から電話が苦手である。自分自身の会話能力に自信がないという理由もあるが、どうやら僕はかなり身体的コミュニケーション(身振りや表情)に依存しているようで、言葉が意味するそのもの以外のことが十分に伝えられなかったり受け取れなかったりすることに不安を感じやすい。

 

2020年4月現在、コロナ禍で他人との接触を積極的に避けているこの頃、身体的なコミュニケーションの大切さをひしひしと感じている。直接人会って話せないのは何かモヤモヤするし、テレワークにも辛さがある。身体の動きが伝えることのできり情報や感情や思いの量は、言葉が伝えることのできるそれを圧倒しているように思う。

 

『握手』は、身体の様子や動きが多くの大切なことを語る小説である。手を握ること以外の印象的な動作は、ルロイ修道士の指言葉だ。右の親指をピンと立てるのは「わかった。」「よし。」「最高だ。」、人差し指をピンと立てるのは「よく聞きなさい。」、両手の人差し指をせわしく交差し、打ちつけるのは「おまえは悪い子だ。」ということを意味する。

 

「私」は握手やその指言葉やの様子から、再会したルロイ修道士の状態を察する。例えば、「よく聞きなさい」とピンと立てた人差し指はぶるぶるとふるえている。さらに、「私」がルロイ修道士に大きな心配をかけたときの思い出を語ると、懐かしい思い出をかみしめているかのように、修道士は笑いながら人差し指を交差させ、せわしく打ちつける。ルロイ修道士の動作や表情の様子から、故郷に帰るからというのは建前で、彼は本当は何かの病にかかっていて、この世のいとまごいをするためにかつての教え子に会ってるのではないかと「私」は勘ぐるのである。

 

「私」の予感は的中し、ルロイ修道士の訃報が届く。「私」はルロイ修道士の葬式で、かつての教え子である「私」たちに会っていた頃の彼は、身体中が悪い腫瘍の巣になっていたと聞かされる。それに動揺した「私」による動作の描写の一文で、小説は締めくくられる。

 

葬式でそのことを聞いたとき、私は知らぬ間に、両手の人さし指を交差させ、せわしく打ちつけていた。

 

どうして「私」は両手の人さし指を交差させ、せわしく打ちつけたのか……理由は書かれていない。書かれていないが、その動作から「私」の思いがひしひしと伝わってくる。

 

「私」はルロイ修道士を叱っている。そして、自分自身をも叱っている。「病に冒されているのに、大人になった私を心配している場合じゃなかったじゃないですか、先生。なぜ先生はそれほど人に尽くせるのですか。私は先生に大変に世話になり、それを嬉しく思い、甘えるばかりで、先生に何も恩返しをすることができなかった」と思ったのではないだろうか。

 

 

 

『握手』は現在と過去が行き来する形式になっているが、身体の様子や動作が現在と過去の時間を結びつける役割をも担っている。

 

ルロイ修道士のおかしなかたちにゆがんでいる左手の人さし指と爪は、修道士の悲惨な過去を呼び起こすことになる。戦争中にはすでに来日していた彼は、強制労働の監督官にさからう結果になったために、目せしめに指を木づちでたたき潰されてしまったのである。「私」が日本人の過ちについて謝罪すると、ルロイ修道士は、右の人さし指をぴんと立てて、怒りをあらわし、以下のセリフを言う。

 

「総理大臣のようなことを言ってはいけませんよ。だいたい日本人を代表してものを言ったりするのは傲慢です。それに日本人とかカナダ人とかアメリカ人といったようなものがあると信じてはなりません。一人一人の人間がいる、それだけのことですから。」

 

これは「国家と個人」という問題の核心をつく大切な言葉である。とかく僕らは「日本人は〜」などと大きな主語でものを語りがちだが、ルロイ修道士がいうように、だだ一人一人の人間がいて、その個人と向き合わなくてはならないのだということを忘れてはいけない。

 

短い小説であるが、ルロイ修道士はその身体を通して、いくつも大切なことを教えてくれるのである。

 

 

 

最近、家の外での他人との接触は極端に減ったのであるが、逆に家族とのコミュニケーションはかなり密になった。

 

在宅ワークをしていると、子供が「抱っこして」とか「肩車して」とかずっと求めてくるので、身体的に疲れている。まあ子供たちも外に出られず、退屈なんだろう。

 

ということで、先日、お家でものびのび遊べるように滑り台とブランコがついたお部屋用ジャングルジムを買ってやった。2万円もしました、ぐはっ。

 

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