『レモン哀歌』の話ーなぜ光太郎は智恵子の写真の前にレモンを置くのか?
人っ子ひとりいない九十九里浜の砂浜の砂に向かって智恵子は遊ぶ無数の友達が智恵子の名を呼ぶちい、ちい、ちい、ちい、ちい――砂に小さな足あとつけて千鳥が智恵子の寄つて来る。口の中でいつでも何か言つている智恵子が両手をあげてよびかえす。ちい、ちい、ちいーー両手の貝を千鳥がねだる。智恵子はそれをぱらぱら投げる。群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。ちい、ちい、ちい、ちい、ちいーー人間商売さらりとやめてもう天然の向こうへ行ってしまった智恵子のうしろ姿がぽつんと見える。二丁も離れた防風林の夕日の中で松の花粉を浴びながら私はいつまでも立ち尽くす
智恵子からの愛情が光太郎に与えた影響は限りなく大きかった。智恵子との出会いがなければ、彼の心は救われることはなく、退廃生活は死ぬまで続いていたかもしれない。幼子のように千鳥と遊ぶ智恵子を見て、「いつまでも立ち尽く」している光太郎の胸中にはどんな思いが到来していたのであろうか?
そんなにもあなたはレモンを待つてゐたかなしく白くあかるい死の床でわたしの手からとつた一つのレモンをあなたのきれいな歯ががりりと嚙んだトパァズいろの香気が立つその数滴の天のものなるレモンの汁はぱつとあなたの意識を正常にしたあなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふわたしの手を握るあなたの力の健康さよあなたの咽喉に嵐はあるがかういふ命の瀬戸ぎはに智恵子はもとの智恵子となり生涯の愛を一瞬にかたむけたそれからひと時昔山巓でしたやうな深呼吸を一つしてあなたの機関はそれなり止まつた写真の前に挿した桜の花かげにすずしく光るレモンを今日も置かう
智恵子を亡くした光太郎は、彼女の遺影の前に、すずしく光るレモンを置くようになる。なぜ、光太郎は智恵子の写真の前にレモンを置くのであろうか?
3
命の瀬戸際にあった智恵子は、死の床でレモンを求めた。
レモンの汁は智恵子の意識を正常にし、彼女はかすかに笑ったり、光太郎の手を握ったりした。智恵子から以前のような健康さ、そして愛情を感じ、光太郎は嬉しかったであろう。病んでしまった智恵子を前に、光太郎は不安や悲しみ、寂しさにずっと打ちひしがれていたのだから。
レモンは一瞬ではあるが、2人の心を再び繋いだ。このときレモンは、苦味もあるが、爽やかな幸福に満ちた、出会いからこれまでの2人の愛のやりとりの象徴となった。
レモンをはじめ、「きれいな歯」、「トパァズいろの香気」、「青く澄んだ眼」、「桜」など明るく爽やかな色彩の描写にも光太郎の思いが込められているように思える。彼は智恵子の臨終のときを、単なる暗く辛い思い出として片付けたくはなかったのではないか。詩を通して、智恵子への感謝と、智恵子との幸福な思い出を抱えながら前向きに生きていこうとする光太郎自身の姿勢を表現しようとしているようにも読み取れる。
レモンは心身を病んでいた智恵子を正気に戻す役割を果たし、そのおかげで死の直前に光太郎と智恵子は愛情を交わすことができた。光太郎は智恵子の死をただ嘆くのではなく、その日のことを忘れないように、また、智恵子の愛を死後も感じるために今日もレモンを写真の前に捧げるのである。