今を今のものとして無目的に消費する時間をできるだけ増やしたいという新年のささやかな抱負の話
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年明けバスケをしたが、15人も集まったのには驚きであった。
昨年の12月初め頃、高校時代のバスケットボール部で同じ学年であった仲間のグループLINEの中で「年初めにバスケがしたい」という話題になったので、参加者を募って、体育館を確保し、年明けにバスケをした。
高校のバスケ部の同学年の仲間は全員で21人いた。15人というと約4分の3の仲間が集まったことになる。高校卒業後の10年間、たびたび集まる機会があったが、これほどの参加率はおそらく初めてではないかと思われた。
年明けバスケは紅白戦を中心に行った。自分の頭の中でのプレーのイメージに、体力と身体能力が全く追いつかず、衰えを痛感した。こりゃあと10年経ったら何もできないな。
友人が「バスケは3Dだから疲れる」とつぶやいたが、なるほどと思った。笛が鳴るまで縦横無尽に走り回り、ときには全力でジャンプする。
まあ、かなり疲れたし、最後のほうは皆グダグダになっていたのであるが、やっぱり楽しかった。
高校のときみたいに、プレーの技術をあげたいとか、試合に勝ち進みたいとか思ってプレーをしているわけではない。今この一瞬を、無目的に、気の置けない仲間とバスケを通して共有しているという感覚を楽しむことができた。
こういう時間って大切だよなと改めて思ったのである。
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バスケットを久しぶりにして、近頃、「時間は目的意識を持って効率的に使い、一つひとつのタスクをなるべく時間をかけずに片付けなくてはならない」という強迫観念に自分が駆られていることに気づいた。
目的意識のない時間が、だらだらと過ぎていくことに不安を感じる。そういえば、時計が気になって仕方がない。お正月休みも、ただだらだらと過ごしていることに落ち着かなくなり、なんか仕事とかしちゃったのである。
仕事だけならいいが、このような強迫観念は趣味の領域にも及んでいる。たとえば、映画のDVDを倍速で見てみたり、本を探す時間や読む時間を無駄にしないために本屋に行く前に書評を必死に読み漁ってみたり、数分時間が空くとすかさず誰かのブログを覗いてみたり、やってみたいことを諦めてみたり。
こういう時間の使い方って、今を今として楽しめていない気がするし、なにか大事なものを失っている気がする。もちろん、目的意識を持って時間を効率的に使うことはかなり大切なことなんだけど、それと同じくらい、今を今として無目的に消費する時間があることも大切ではないかと思う。
この前の年明けバスケには、時計を気にせず、今を今として自然に楽しんでいる感覚があったのである。
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いちいち目的を持って効率的に時間を消費するという意識が習慣化されたのは、やっぱり仕事を第一優先にしていることで、自分と自分の家族との時間が圧迫されていることに原因がある。もっとやりたいことにじっくり時間をかけたいし、時間に対してもう少し意識低い系でありたい。
子どものときは、(当たり前だけど)先々のことや時計も気にせず、今を今として大いに楽しんでいた。大人になるためには一見無駄に思われるような時間を過ごしたことの方が、案外今の自分の血肉となっている。
今をしっかりと楽しむ術を忘れてしまったままで、仕事をリタイアし、どうやってぽかりと空いた時間を埋めていいか分からない、先々のない老人になってしまったらと思うと怖い。
先日、『不安な個人、立ちすくむ国家』を読んだ。
昨年5月に経産省の若手プロジェクトが発表したレポートを書籍化したものである。このレポートでは、変化する社会状況や、その中で増幅される個人の不安を指摘と、変わりつつある価値観に基づいた新しい政策の方向性の提示がまとめられている。
このレポートの中に、高齢者の老後について、「定年退職を境に、日がなテレビを見て過ごしている」というデータがある。……そういう老後は嫌だなあ。(テレビめっちゃ好きな人はいいかもしれないけど)
書籍版には、経産省若手プロジェクトと養老孟司の対談が収録されている。そこにある養老孟司のお話が印象的。
高齢者がーーそれこそ90代でホスピスに入ってる爺さんが「死にたくない!」と毎日わめいていたりする。90歳過ぎて「まだ死にたくない」ということは、やりたいことをやれずに来て、後悔しているということでしょ?「あんた、今まで何してたんだよ?」とも言いたくなりますよ。早く大人になってしまい、やりたいことを後回し後回しにしていくと、人生を生きそびれてしまいますよ、ということは言っておきたいですね。
大人になんかなりたくない!
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この前のバスケは、楽しむために計画したんだから、楽しめて当たり前かな。
もしかしたら楽しめないかもと思っても、時間を無駄にしてしまうことを恐れず、今を今のものとして無目的に消費する時間を果敢に増やしたい。そうすれば、いずれはどんな時間でもニヤニヤと楽しめる人間になれるかも。
というのが僕の新年の抱負です。今年もよろしくお願いします。
同級生との飲み会と『美少女戦士セーラームーン』と『Kの昇天』の話
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先日、中学校の同級生の何人かと飲みに行った。
1年か2年かの周期で集まるのであるが、それぞれ取り立てて面白い近況の話題を持っているわけではなく、話題のほとんどは中学時代の思い出に終始するのであった。
調理実習をボイコットした話、学校の廊下でミニ四駆を走らせた話、教室のカーテンをすべて取り外して持ち帰った話、数学の先生が特別教室に置いていた十数個の植木鉢に咲く花々に過剰に水をやり全滅させた話……。
「ゴロネは教室に貼ってあった、大きな時間割の掲示物を徐々に下の方から破っていくイタズラしてたよな。最終的には3時間目あたりまでしか時間割がわからなくなってた」と友人。
「いや、それはおれじゃない」
……などと、似たような話が集まる度に繰り返し話され、正直そのループにうんざりしていた。
近頃では、中学時代の記憶など風化しつつあって、その思い出の出来事は実際にあったことなのか、それとも誰かの作り話が実際にあったこととして記憶に組み込まれたことなのかと疑わしくなってきた。何人かの友人と共有されている思い出話であっても、最近では、お互いの記憶の間で細部の部分についてかなりの齟齬が生じていた。
真相は藪の中。
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飲み会のあとは、カラオケに行った。(そこでも飲んだ)
僕は、アニメ『美少女戦士セーラームーン』の「ムーンライト伝説」を熱唱した。
月〜の光に導かれ〜♪ な〜んども巡り会う〜♪
昨年の夏頃、僕は妻が持っていた『美少女戦士セーラームーン』の漫画を熱心に読んでいた。
バイリンガル版 美少女戦士セーラームーン1 Pretty Guardian Sailor Moon (KODANSHA BILINGUAL COMICS)
- 作者: 武内直子,ウィリアム・フラナガン
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2017/11/23
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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月野うさぎはタキシード仮面に恋をしている。恋をしている本人は真剣かもしれないが、はたから見ると、それはほとんどコメディと変わりはなかった。
うさぎ「私のこと、“うさぎ”じゃなくて、“うさこ”って呼んで……♡」
ゴロネ「きもっ!」
妻「そもそも、セーラームーンを読んでるお前がきもい」
ゴロネ「……」
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カラオケが終わり、解散することとなった。最近結婚した友人が、気持ち悪そうな顔をしている僕を心配してくれた。僕は彼の気遣いに感謝し、「大丈夫、ありがとう」と言った。(そして、ポケモンのソフトを中学のときから借りパクしたままでごめん)
足をふらつかせながら、1人で歩いて帰る道の途中、少し吐いた。涙目になった。
夜空には、月が輝いている。もうすぐ満月だな。そういえば新年の1月2日はスーパームーンらしい。
名月をとってくれろろろろろろろろろろと泣く子かな
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主人公の「私」は、満月の輝く夜の砂浜で、砂の上を見つめてうろうろと歩く「K君」と出会う。彼らは仲良くなり、「私」は「K君」 に満月の夜に砂浜で何をしていたのかを問うと、「K君」は自分の影を見ていたと答える。
君もやってみれば、必ず経験するだろう。影をじーっと凝視めておると、そのなかに段々生物の相があらわれて来る。外でもない自分自身の姿なのだが。それは電燈の光線のようなものでは駄目だ。月の光が一番いい。
自身の姿が見えて来る。不思議はそればかりではない。段々姿があらわれて来るに随って、影の自分は彼自身の人格を持ちはじめ、それにつれて此方の自分は段々気持ちが遙かになって、或る瞬間から月へ向って、スースーッと昇って行く。それは気持ちで何物とも云えませんが、まあ魂とでも云うのでしょう。それが月から射し下ろして来る光線を遡って、それはなんとも云えぬ気持で、昇天してゆくのです。
月に照らされた自身と自身の影は、二つに分裂し、自身のほうは月に昇天する。なんて幻想的なお話だろうか。ミラクル・ロマンっす。
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いやはや、月に昇天できたら、どんなに良い気持ちだろうか。僕の身体は月の光に導かれ、ついには煙のようになり、月に昇ってゆく。
……ふう。
2018年も、足を地につけて堅実に生きたいと思います。みなさん良いお年を。
『l was born』と『中動態の世界』の話
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「天気がいいから、ハルタと散歩に行ってくる」と言った。
「別にいいけど、髪をとかしてから外出したほうがいいよ。誘拐犯と間違われるかもしれないから」と妻。
なるほど鏡をしっかり見てみると、無精髭も生えているし、髪は鉄腕アトムみたくなっている。しかし、誘拐犯は言い過ぎじゃないかな。
僕はお湯をかぶり、髪をなでつけ、抱っこ紐を身につけ、そこに息子をセットし、外に出た。
快晴である。「そらをこえて〜♪ ららら、ほしのかなた〜♪」と口ずさんで歩いた。有給を取り、平日の昼間に外をぷらぷら歩くのはとてもいい気分である。
自宅から10分ほど歩いたところにある産院の前を通った。「君が生まれたところだぜ、懐かしいね」とハルタに声をかけると、彼は笑った。最近息子はよく笑うようになった。……息子が生まれてから9ヶ月かあ。
「生まれる」って、生まれる本人からすると、どんな感覚なのかしらん。僕はもう随分昔のことなので忘れちゃった。みなさん覚えていますか?
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「生まれる」という動詞を思い浮かべると、僕は吉野弘の詩である『l was born』を連想する。
高校の国語の教科書に載っていた。高校生のときは、講義型の授業(特に国語)はほとんど寝ていたのだけど、この詩については心にずしりとくるものがあり、よく覚えている。
- 作者: 吉野弘
- 出版社/メーカー: 角川春樹事務所
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確か 英語を習い始めて間もない頃だ。
或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げにゆっくりと。
女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想しそれがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。
女はゆき過ぎた。
少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということがまさしく<受身>である訳をふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
----やっぱり I was born なんだね----
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
---- I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね----
その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
----蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね----
僕は父を見た。父は続けた。
----友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは----。父の話のそれからあとはもう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
----ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体----
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「生まれる」 は受身なのか?
妻の妊娠と出産に接し、新しい命のうごめきを感じて、「生まれさせられる」とは違うと僕は思った。新しい命は、「生まれよう」「生きよう」として生まれてきた(と妻は言ってた)。そして新しい命は、実際に「生まれる」という行為をしている。
「生まれる」のは強制されたと言い難く、単純に「生まれる」を受動に分類することはできない。
しかし、「生まれる」は能動なのかというと、そうでもない。先ほど「生まれよう」「生きよう」と書いたが、そのような「意志」を持って、新しい命が生まれてきたわけでもなさそうだ。新しい命は「生まれる」という選択しかできずに生まれてきたのである。(というか、「生まれない」という選択肢は意識にのぼらない)
そうなると、「生まれる」は自発性が薄く、能動に分類することもできない。
……みたいなことを、息子が生まれてから、『l was born』の詩の意味と合わせて、ぼんやり考えていた。
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そんな能動か受動かといった行為の分類へのもやもや感は、ライターの友人が2017年の面白かった本として紹介してくれた『中動態の世界』を読んで、かなり晴れた。
中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
- 作者: 國分功一郎
- 出版社/メーカー: 医学書院
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強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。
それが見えなくなっているのは、強制か自発かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で物事を眺めているからである。
そして、能動か中動の対立を用いれば、そうした事態は実にたやすく記述できるのだ。
この本によると、「生まれる」のように「する/される」に分類することが難しい行為は、かつて存在していたとされる中動態の概念に含まれることになる。
現代の私たちは能動と受動が対立する言葉の世界に生きており、その世界には「意志」の概念が存在することが前提とされる。能動的な行為は、行為者にその行為をする「意志」があったとみなされ、行為の「責任」を負わされることとなる。
しかし、過去の積み重ねとそのときの状況から、その行為を選択することしかできなかったということは往々にしてある。そのような行為について、「意志」があったとみなされ、「責任」を負わされることに、多くの人が戸惑いや息苦しさを感じたことがあるのではないだろうか。
能動態と受動態が対立する以前は、能動態と対立していたのは中動態であったそうな。受動態は、中動態から派生したものに過ぎない。能動と中動が対立する世界では、能動と受動が対立する世界とはまったく違った世界観が立ち現れる。
能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。
中動態の主語は、動詞の過程の内部にある。中動態に対する能動態の主語は、動詞の過程の外部にある。そして、能動と中動が対立する世界には、「意志」の概念は存在しない。
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『I was born』の父親が、なぜ息子に蜻蛉(かげろう)の話をしたのか、なんとなく分かった気がした。
母親は、抗うことなどできない生命の営みに身を任せ、自分の命を削って子供を産んだ。
その母親の行為を、息子が単なる「母親が(自発的に)自分を産んだ。/自分は母親によって(強制的に)生まれさせられた。」というパースペクティブに落とし込んで理解することに、父親は耐えられなかったのではないだろうか。
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そういえば、僕は最近「育児する」も中動態であると理解しています。
父親になって初めてのクリスマスと『アンパンマンのサンタクロース』の話
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クリスマス・イブ、日が沈んだ頃、予約したケーキを取りに行くため、ひとり家を出た。
寒い。コートに手を突っ込み、きらびやかに飾られた夜の町を歩く。
通りがかった居酒屋の前で、サンタクロースの格好をした可愛らしい女の子3人組がチキンを販売していて、「おひとついかがですか?」と声をかけられた。
僕は「チキンは買うつもりはなかったけど、お姉さんたちがきれいだから、おひとつ下さい」とかは言えないチキン野郎である。さらに、妻からの「寄り道してきたら殺す」というテレパシーが聞こえた気がしたので、軽く会釈をし、ケーキ屋への道を急いだ。
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幼い頃にもらったクリスマスプレゼントでよく覚えているのは、『忍者戦隊カクレンジャー』に登場するニンジャマンの玩具である。僕は戦隊シリーズが大好きであった。(実は今でも好き)
その年の25日の朝、目覚めると、枕元にニンジャマンの入った箱が置いてあり、僕は狂喜した。サンタさん、ありがとう!!
やがてその狂喜は、今までにない高熱に発展し、僕はしばらく寝たきりとなった。前日の24日の夜に、サンタさんの姿を一目見ようと限界まで起きていたことによる疲れもあったのかもしれない。
あれから20余年経ち、今年は子供が生まれ、遂に僕も子供をクリスマスに喜ばせる側となった。
息子がもう少し大きくなったら、プレゼントに戦隊シリーズのロボットを買ってやろう。(息子のために買ってあげるというのはタテマエで、自分が欲しいのがホンネ)
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家に帰ると、持ち帰ったケーキを冷蔵庫にしまい、サンタの帽子をかぶり、生後9ヶ月の息子にはドンキホーテで購入した幼児用のサンタの服を着せた。本人は何を着せられているのかは分かってないだろうけど、素材がモコモコとして暖かいのか、着せると笑顔になった。
妻は煮込みハンバーグをこしらえ、それをテーブルに置いた。クリスマスパーティの開始である。僕は威勢良くシャンメリーを開けた。
「ポンッ!」という快音と同時に中身が噴き出し、カーペットの上にぼたぼたとこぼれた。「ぎゃあああ」と妻。この騒ぎに泣き出す息子。せっかく笑ってたのに。
カーペットをごしごしと拭き(みじめ)、息子をあやし、気を取り直してパーティを再開した。
息子へのクリスマスプレゼントの一つである絵本『アンパンマンのサンタクロース』を、僕は息子に読んであげた。
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アンパンマンが、お腹を空かせた、あかはなのトナカイとくまのサンタクロースに自分の顔をあげ、少しずつ顔がなくなっていく過程の絵が衝撃的である。
アンパンマンの かおを たべて
げんきになった ふたりを
そりに のせて、アンパンマンは
そらへ とびあがります。
「かおが ないのに
だいじょうぶかなあ。」
……こわい。
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妻と自分へのクリスマスプレゼントは電動歯ブラシである。
妻が以前から電動歯ブラシが欲しいと言っていたのと、僕が久しぶりの歯医者でクリーニング指導を受け、歯磨きへの意識が高まっていたことから、妻と僕の分の電動歯ブラシを購入した。
末長く使うだろうと思い、どうせなら機能がたくさんついているやつにしようと、1本2万円ほどするやつを買った。2本買ったので計4万円。勇ましく奮発したが、会計時ちょっと泣きそうになったよね。
さっそく使ってみた。
ヴィィィィィィィィィィ……
おお、なんかしっかり磨かれている気がする。ブラシのところは取り外しが出来て、ブラシの毛がへたっても、新しいブラシ部を買えば、半永久的にこの電動歯ブラシは使える。
ここであることに気づく。妻と同じタイミングで歯を磨くことはほぼない。
別に本体を2本買わなくても、夫婦共有の本体を1本買って、ブラシ部だけを2人分買えばよかったんじゃね?
……ヴィィィィィィィィィィ……
おお、ホワイトニング機能とかあるじゃん。歯がツルツルになる。電動歯ブラシによる歯磨きにハマりそうだぜ。
2018年は、歯磨き系男子を目指そう。
『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』の話―愛すべき未熟なジェダイ、ルークについて
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『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』を公開初日(12月15日)に、レイトショーの回で見てきた。
僕はエピソードⅠ~Ⅲの世代で、小学4年生のときにエピソードⅠを映画館で見たとき以来、新作は劇場で見てきたが、公開初日に見に行ったのは今作が初めてであった。(Ⅳ~Ⅵはソフトで見ました)
映画館に向かうと、映画館の前で、C-3POなどのマスクをつけた若者達が騒いでいた。僕は「ちっ、調子に乗りやがって」と思い、彼らの方に近づいていき、一緒に写真を撮ってもらっちゃった。
『スター・ウォーズ』の公開初日ってこういうお祭り感があるのか。いいなあ。
2(ここからネタバレを含みます)
さて、『最後のジェダイ』の感想であるが、面白かったか、つまらなかったかと言われると、……つまらなかった(笑)
確かに、伝統を受け継ぎつつも、今までに見たこともない新しい『スター・ウォーズ』を作ってやろうというという気概は感じられた。(それは、『スター・ウォーズ』のシンボルでもあるライトセーバーをルークが投げ捨てる場面に象徴されている)
レビューを見ると、その挑戦したポイントについての突っ込みどころの多さへの批判が目につくが、『スター・ウォーズ』は旧シリーズから突っ込みどころがかなりあるので、それについては僕はそれほど気にしていない。ただ、話のテンポが悪く、メリハリがないように思え、鑑賞時間がやたら長く感じられた(一週間の仕事の疲労の蓄積や、隣の席で上映中スマホをいじり続ける客が気になっていたことに原因があるのかもしれないけど)
しかし、ルーク・スカイウォーカーの師匠としての成長物語だけに注目してみると、興味深いお話だったのかなと今になって思えてきた。
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今作の、年老いたルークの描かれ方については素晴らしかったと思う。
『最後のジェダイ』のルークは、ジェダイ・マスターとして弟子の育成に失敗したことを悔やみ、孤島に引きこもっている。
僕は安心した。繊細で、自分の感情に流されてしまう、あの頃のルークのままだ。ヨーダやオビワンのような、完璧なジェダイ・マスターとして描かれていたら失望していたことだろう。
そもそも、ルークはジェダイとしては未熟者であり、ジェダイ・マスターの器ではない。エピソードⅠ~Ⅲ時代のジェダイのように、正統なジェダイとしての訓練を幼少期に受けているわけでもなく、ヨーダによる修行も、仲間を助けに行くという理由で(ヨーダとオビワンの制止にも関わらず)、途中放棄する。
ルークは、たまたまジェダイの息子であり、たまたまフォースの潜在能力が高かっただけであり、ジェダイの伝統を正確に受け継いでいるわけではない。
しかしながら、そのジェダイとして半端さや異質さがあったからこそ、これまでのジェダイでは成し得なかった、宇宙の平和を実現してしまう存在へとルークはなれたのである。
そのことにルークは年を重ねても気づいていない。宇宙の危機を救った自分は、ヨーダやオビワンのような完璧なジェダイ・マスターになれると勘違いをし、失敗をする。自己を客観視できない未熟さは当時のままだ。
年老いたルークに、昔と変わった点があるとすれば、かつて自分の父を飲み込んだダークサイドへの恐怖の増幅である。
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ダークサイドと向き合い、その存在を認め、上手に付き合っていくことで、『スター・ウォーズ』の世界はフォースの真のバランスを保った世界となる(と僕は考えている)。
ダークサイドに決しておぼれてはならないが、ダークサイドは誰の心の中にもあることを真のジェダイはまず認めなくてはならない。光は闇がなくては存在せず、闇は光がなくては存在しない。どちらか一方だけが存在することなどあり得ないのである。
老いたルークはダークサイドを過剰に恐れ、その恐怖が弟子のベンに影響し、カイロ・レンを生み出してしまったのである。その事実がさらに、ダークサイドに対するルークの恐怖を増幅させ、彼は島に引きこもってしまう。……ヨーダが「怒り、恐怖、敵意。それがダークサイドだ」と言っていたのを忘れちゃったのかよ!
フォースのダークサイドを恐れるルークは、ジェダイの素質を持つレイをまともに教え導くことはできず、彼女は、かつてルークが父であるダース・ベイダーをダークサイドから救いに行ったときと同様、ダークサイドに墜ちたカイロ・レンを救いに行ってしまう。
そして、なすすべなく絶望するルークの元へ、師である霊体のヨーダが現れる。
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今作で最も良かった場面は、やはりヨーダが登場する場面である。
ヨーダは、ライトセーバーを振りまわしていた頃の姿ではなく、隠居し、ルークを教えた頃のそのままの姿で登場し、ルークに「会いたかったぞ、若きスカイウォーカー」と声をかける。泣けるで。
そうだ、ルークはヨーダに比べ若すぎる! それは年齢的にだけではなく(ヨーダは900歳)、ジェダイとして、人としての精神的な部分について若すぎるのである。
ヨーダは今作でも、ルークに向け、そして私たちに向け、最高の名言を残してくれる。
「失敗こそ最高の師なのだ」
ルークはかつてのジェダイ・マスターのように、理想とする完璧なマスターであらねばならないと思っていたのだろう。しかし、マスターだからといって、自分の弱みや失敗を隠すのではなく、弟子にそれをさらけ出しちゃってもいいんじゃないのとヨーダは言うのである。その弱みや失敗を共有し、そこから学びを得ることで、師匠と弟子はともに成長していく。
ヨーダの言葉に、ルークは覚悟を決めるのである。
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散々ルークのことをこき下ろしたが、僕はルークを愛している。
ルークは短気で頑固で向こう見ずで繊細ですぐ弱音を吐くが、その不完全さからにじみ出る彼の人間らしさを『スター・ウォーズ』のファンは愛している。そして、もう一つ愛すべき点は、彼が仲間を守るときの勇敢さである。
物語のラスト、ルークはレイの正義感とヨーダの言葉に突き動かされ、仲間のもとへと駆けつける。
最後のルークの技については、批判もあるかもしれないが、ルークはあそこでヨーダをも凌ぐであろうフォースの力を発揮することで、自分の人間性を示していた。
僕は、フォースが本当の力を発揮するのは、ライトサイドのフォースの使い手(真のジェダイ)のように宇宙全体の平和のために使われるときでも、ダークサイドのフォースの使い手のように自分自身の憎しみのために使われるときでもないと考えている。
フォースは、自分の愛すべき仲間を守るという覚悟で使われるときに、最も強い力を発揮させるのである。
それを発揮できる唯一無二の存在が、ジェダイの未熟者であるルーク・スカイウォーカーなのだ。
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ここまで書いたら、『最後のジェダイ』はやっぱり面白かったんじゃないかと思えてきました。もう一回見に行こうっと。
追記。エピソード9『スカイウォーカーの夜明け』の感想↓
名画座での思い出や学びの話
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名画座とは、主に旧作映画を主体に上映している映画館である。たくさんのスクリーンで新作を代わる代わる上映するTOHOシネマズやイオンシネマなどのシネマコンプレックスの台頭で、名画座は一時代よりも大分減ってしまったようだけど、探せば、それぞれ特色のある素敵な名画座がまだ結構営業している(都内中心に)。
僕が学生時代によく通っていたのは、シネマヴェーラ渋谷、神保町シアター、銀座シネパトス(閉館)、飯田橋ギンレイホール、早稲田松竹、横浜シネマジャック&ベティ、川崎市アートセンターなどである。
今や、昔の名作映画は、DVDやインターネットで自宅や移動中にお手軽に視聴できる時代だ。しかし、映画館で見ると、やっぱり映画館効果ってのがあって、スクリーンで見ることであったり、他人と観賞を共有しているという感覚だったりで、鑑賞の感動が倍増するのである。
旧作映画は名画座で見ることをお勧めします。
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学生の頃、Twitterで知り合った何人かの同じ映画好きの学生と、シネマヴェーラ渋谷に『四畳半襖の裏張り』(1973年)を見に行ったことがある。『四畳半襖の裏張り』は、日活ロマンポルノ作品の一つである。
日活ロマンポルノは、簡単に言うと、70年代から80年代にかけて映画製作会社の日活で作られた、成人向けの官能映画である。僕は一時期、名画座やDVDで熱中して見ていた。
……と、それほど映画好きではない人にこれを話すとひかれることが多いのだけれど、日活ロマンポルノには日本映画史に残る傑作が多くあり、これらの映画はたくさんのスターや映画人を生み出してきた。
2012年には、日活創立100周年を記念して、『生きつづけるロマンポルノ』という企画が行われ、たくさんの名画座で、日活ロマンポルノのリバイバル上映が行われていた。
『四畳半襖の裏張り』は、永井荷風の『四畳半襖の下張り』を下敷きに、「エロスの巨匠」神代辰巳が監督した作品である。大正期の東京の花街を舞台に、男女の悲喜こもごもを描く。
この映画がシネマヴェーラ渋谷で上映されるということで、Twitterで仲良くなった人たちと約束をして見に行った。(以前はTwitterに夢中でしたが、もうやめました)
僕はこの映画はそのとき初鑑賞であった。笑えるシーンが多く、かなり楽しんだ気がする。(うろ覚え)
観賞後、一緒に観賞した人たち(5人くらいだった気がする)と、居酒屋に行き、飲みながら映画の感想を語り合った。そして話は、映画のクライマックスの場面のことになった。
物語の終わりの方で、主要人物の一人である男がシベリアに出兵することに決まる。シベリアに行くことに嘆きつつ、男は愛する女と最後の交わりを行う。
行為を終えて、女は「これを弾除けのお守りとして持って行って」と言い、自分の下の毛を男に渡す。それを受けた取った男は、後ろ髪引かれる思いで、シベリアへと向かうのであった。
「あの男、シベリアに行ったら、すぐに死にますね」と一緒に飲んでいた、いかにも頭の良さそうな男の人が言った。
「なぜですか?」と僕は聞いた。
「下の毛はよく『たま』が当たるところだからです」
なっ、なるほど〜。僕は彼の観賞力に感心してしまった。
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僕が最も好きだった名画座は、神保町シアターである。
2007年に開業した比較的新しい名画座で、建物の外装や内装は、本の街、神保町にはそぐわぬ奇抜さである。様々なテーマにちなんだ日本映画の名作を上映している。
日本映画と、古書店の並ぶ神保町が好きな僕は、暇があるとここに通っていた。旧作の日本映画を上映しているので(たまに無声映画特集とかもやってる)、観客の年齢層は高めである。
映画に対する観賞の心構えは、この神保町シアターで出会った一人のおじいさんから学んだ。
僕の隣の席に座っていたそのおじいさんは、なんと上映前からすやすやと眠っていたのである。
神保町シアターは、他の名画座のように二本立てや三本立てではなく、シネコンのように完全入れ替え制である。入場してから、寝るまでのスピードが速すぎる。しかも、いつ起きるのかと隣を気にしてが、上映開始一時間後くらいまでずっと眠っていたのである。
彼は観賞の達人だと僕は思った。
僕はそれまで映画を見るとき、支払ったお金と割いた時間を少しでも意味のあるものにしたいという思いから、一分一秒も見逃さないつもりで肩の力を入れて見ていた。しかし、そんな前のめりな観賞の仕方をして、本当に映画を楽しんでいると言えるだろうか。
僕はあのおじいさんの仙人のような観賞態度を見て、これまでの自分自身の観賞への姿勢を恥じた。
彼はあまりに自然体であり、お金や時間に執着はなく、しかも映画を見ることでさえも、さほど重要視せずに映画を見に来ていたのである。……敵わねえ。
それから僕は、映画を心から楽しむため、映画館で映画のチケット代を支払っても、その映画を見ず、ファミレスでパフェを食べて家に帰っても別にいいというような心がまえで映画館に行くようになった。
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この年末年始、久しぶりにどこかの名画座に行きたいなあ。
旧作映画にはどんな名作があるのか知りたいという人は、入門書として、キネマ旬報社が2009年に出版した『オールタイム・ベスト 映画遺産200』をお勧めします。
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久しぶりの歯医者と『あんぱんまんとばいきんまん』の話
1
ここ数ヶ月、奥歯にかすかな痛みがあったのだが、仕事も忙しく、歯医者に行くのが面倒くさいので放置していた。
横着の結果が現れたのは、先日の夜である。自宅での食事中、にわかに奥歯の痛みが激しくなった。
「いたいよお~」
耐えがたい痛さである。しかし、このとき午後十時。近所の歯医者はどこもやっていない。
妻が「バファリン飲んどけば。私、歯が痛いとき、痛み止めとしてよく飲んでたよ」と言った。へえ、バファリン効くの? まあとりあえずこの痛みがひくなら何でもいいや。
妻はがさごそと棚から薬を取り出し、僕に手渡した。
……パッケージには「バファリン・ルナ」と書いてある。
「これ生理痛用の薬じゃん!」
「これしか家にはないよ。普通のバファリンとたいして変わりはないでしょ。痛みに負けルナ!」と笑顔の妻。
あ、確かに効用のところに「歯痛」と書いてある。
……薬を服用し、しばらくして痛みは落ち着いた。やるな、バファリン・ルナ。
2
そして、翌日の朝、また激しい痛みがやってきた。絶対虫歯だこれ。
僕はこれまでの食生活を猛烈に反省した。僕と妻は甘いものが好きで、よく夜遅くにお菓子などを食べる。
実家から送られてきたリンゴで、妻が深夜にリンゴパイを焼いてくれたこともあった。妻は甘い香りのする熱々のリンゴパイをテーブルに置いて、「こんな時間に食べて、すぐに寝たら、明日吐き気がするよ」と僕に言った。
「自分で作っておいて、おぬしは何を言っておるのだ。今これを食べて、明日気持ち悪くなったっとしても、拙者は一切後悔せぬ」と僕は決め顔で言い、自分の分のアップルパイを平らげた。次の日、一日中気持ちが悪く、めちゃくちゃ後悔した。
ああいう食生活が、虫歯の発達を促したのだ。もう夜に糖分は当分摂取しないぞ……!と心に固く誓った。
3
朝、会社に電話をし、午前中のみ有給を取得して、会社の近くの歯医者に行った。
結構混んでいる。僕は待合室の本棚を眺めた。病院に行っても、ラーメン屋に行っても、床屋に行っても、待っているときは自分の本ではなく、そこに置いてある本や新聞を読むのが自分ルールである。
その歯医者には面白そうな本がなかったので、日経を広げて読んだ。
子供のころに通っていた歯医者には、やなせたかしの絵本『あんぱんまんとばいきんまん』が置いてあったのを覚えている。
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元気がなく、パン作りを休むジャムおじさんに、あんぱんまんは心配して声をかける。
「おじさん あんこが くさりますよ。」
そうだ、『あんぱんまんとばいきんまん』を、クリスマス、息子にプレゼントしてあげよう。
4
久しぶりの歯医者である。10年ぶりくらいじゃないかなあ。
子供のころに診てもらっていた歯医者は昔ながらの歯医者で、麻酔を簡単にしてくれなかった。
中学生のときだったと思うけど、そこの歯医者で虫歯を削るとき、歯医者さんに「今から削るけど、痛かったら手を上げてね。麻酔打つから」と言われた。
僕は「根性なしに思われたくない」という妙な意地があり、治療中、激しい痛みがありながらも手を挙げず、最後まで耐え抜いた。精神力の強さが僕の長所です。
そんなことを思い出していると、受付の女性に名前を呼ばれた。いよいよ診てもらえる。
僕の歯のレントゲン写真を眺めながら歯医者さんは言った。
「あー、立派な穴が開いてるね、痛いでしょ。こうなる前に歯医者に来なきゃ。もう神経まで穴が達してるから、神経抜かなきゃならんね。麻酔打っていいよね?」
「はい、お願いします!」と僕は即答した。
5
ガガガガガガガッガガガガッガッガガ……
麻酔ってすばらしいと虫歯の治療中に思った。全然痛くない。
痛くない、痛くない、「ブチっ」痛い!
「君、君」と歯医者さんは、治療台に寝そべっている涙目の僕に声をかけた。
「後学のために見ておきなさい。これが歯の神経だよ」
歯医者さんが持っている針の先に、短く細い糸みたいのがついていた。きもちわるっ!自分のだけど。
「これを今引き抜いたんだな」と歯医者さん。
「にゃるほど」
6
神経を取り除いたおかげで、歯の痛みはさっぱりなくなりました。歯が痛くないって素晴らしい!
これでまた甘いものをたくさん食べられるぞ!