ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

2018年に読んだ心に残る30冊の本

2018年も隙間時間を見つけて、読書ライフを楽しめたかなと思います(相変わらず遅読だけど)。今年お世話になった本の中から、30冊を紹介します。

 

 

 

 『悪霊』(ドストエフスキー

悪霊〈上〉 (岩波文庫)

悪霊〈上〉 (岩波文庫)

 

登場人物がそれぞれ魅力的。様々な登場人物の中で僕が最も魅力的に感じたのが、ピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホーヴェンスキーである。彼は、この物語の(おそらく)主人公であるスタヴローギンという人物を語る、狂言回しの役も担っている。

このピョートルは面白いほどよくしゃべる! ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。彼のこの雪崩のような言葉が、様々な出来事を大げさにし、事件へと発展させているのではないかと思えるほどだ。実際に彼の存在が、他の登場人物たちに不幸をもたらし、小説にドラマ性を与えているのである。読んでるこちらも彼に影響され、感情の起伏が激しくなります。

 

 『羅生門・鼻・芋粥・偸盗』(芥川竜之介

羅生門・鼻・芋粥・偸盗 (岩波文庫)

羅生門・鼻・芋粥・偸盗 (岩波文庫)

 

芥川龍之介の短編集。特に僕が好きなのは『芋粥』。この短編の面白さは、なぜ主人公の五位は、夢であった大量の芋粥を目前にして、食欲を失ってしまったのかを考えることである。

夢はそれを追う過程に意味があるのであり、自分にとって本当に大事な夢であれば、その夢への障害が大きければ大きいほど、その夢に夢中になる。その夢が何の苦労もなく、思いがけず叶ってしまったとしたら……。五位は「芋粥に飽かむ」という夢があったからこそ、それが心の支えとなって、惨めな生活にも耐えられたのである。夢であった大量の芋粥を目前にした彼をはたから見た他者は「幸福」であるように思うだろうが、この瞬間、彼は大切にしてきた夢を突然、ほとんど暴力的に奪われ、「不幸な」人間へと転落してしまったのである。

 

 『蓼食う虫』(谷崎潤一郎

蓼喰う虫 (新潮文庫)

蓼喰う虫 (新潮文庫)

 

 「小田原事件」をベースに書いた小説と言われている。夫婦になった途端、男は妻に欲情しなくなってしまう。二人は不和になり、お互い愛人を持つ。夫婦とはいったい何のか。谷崎潤一郎によるこういう男女の心の機微の描写は本当に天才的です。

 

宮本武蔵』(吉川英治

宮本武蔵(一) (新潮文庫)宮本武蔵(一) (新潮文庫)

 

やっと今年全巻読み終えた。VS吉岡一門が燃える。佐々木小次郎との巌流島での戦いは、引っ張った割にはあっけない決着な気がする。『バガボンド』は、この巌流島の戦いをどのように料理してくれるのか楽しみです。

 

 菜の花の沖』(司馬遼太郎

菜の花の沖 全6巻 完結セット(文春文庫)

菜の花の沖 全6巻 完結セット(文春文庫)

 

 江戸時代に活躍した商人・高田屋嘉兵衛の生涯。僕は高田屋嘉兵衛から「不器用」な男という印象を受けた。この器用さというのは、世間を渡っていく上での器用さだ。嘉兵衛は自分の目的に突き進んでいくが、あまり“工夫”というものが見られない。彼が人を惹きつけるときは、その肉体の動きによって惹きつける。彼の船頭としての技術、能力に魅せられ、人々は集まってくるである。

嘉兵衛は現実主義であり、私利私欲のためには動かないところである。自由な商いを目指す彼にとって、この時代の封建社会は息苦しかったであろう。何をするにも、階級というものを意識しなければならない。個人の能力だけでは変えることのできないことが、あまりに多すぎる。だからこそ嘉兵衛は、日本人がまだ把握していなく、階級のしがらみが少ない、蝦夷地という未開の地に魅力を感じたのかもしれない。誰も航海したことのない海、誰も足を踏み入れたことのない土地に行くというのは、相当な強心臓の持ち主でなければなせることではないだろう。嘉兵衛の果てしない冒険心には強い憧れを抱いてしまう。

 

 『ヘッセ詩集』(ヘルマン・ヘッセ

ヘッセ詩集 (新潮文庫)

ヘッセ詩集 (新潮文庫)

 

 『車輪の下』、『少年の日の思い出』のヘルマン・ヘッセの詩集。彼の豊かな感受性に触れることで、もっと心を広げて周囲のものをじっくり見つめてみようという気持ちになる。『青い蝶』という詩が自分のお気に入り。

 

『蠅の王』(ウィリアム・ゴールディング) 

蠅の王 (新潮文庫)

蠅の王 (新潮文庫)

 

 「未来における大戦のさなか、イギリスから疎開する少年たちの乗っていた飛行機が攻撃をうけ、南太平洋の孤島に不時着した。大人のいない世界で、彼らは隊長を選び、平和な秩序だった生活を送るが、しだいに、心に巣食う獣性にめざめ、激しい内部対立から殺伐で陰惨な闘争へとの駆りたてられてゆく……。」というあらすじの非常に恐ろしい小説。闘争が極限へと達するクライマックスは手に汗握った。

大人のいない孤島に生きる少年たちは、正体不明の獣に怯え、不安から衝突する。ただひとり、「獣というのは、ぼくたちのことにすぎないかもしれない」と気づいたサイモンという少年は、人間の内なる暗黒の象徴である蠅の王と対決する。自身の獣性に目をそらさず、向き合うことで、初めて人は人間性を獲得できるんじゃないかなと思ったりしました。

 

 『エロチック街道』(筒井康隆

エロチック街道 (新潮文庫)

エロチック街道 (新潮文庫)

 

筒井康隆の短編集。お気に入りは『昔はよかったなあ』。

頭が変になるので、一気読みは注意。

 

 『存在の耐えられない軽さ』(ミラン・クンデラ

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

 

チェコ出身の作家、ミラン・クンデラの代表作。強く印象に残ったのは、サビナとテレザの女性2人が互いの裸をカメラで取り合うシーン。喜劇的でありながら耽美的で、息を飲んだ。

帯には「20世紀恋愛小説の最高傑作」とある。どうしてもすれ違ってしまう男女の愛の向け方の難しさについて考えさせられます。

 

  大日本サムライガール』(至道流星) 

 

大日本サムライガール1 (星海社文庫)

大日本サムライガール1 (星海社文庫)

 

拡声器を片手に街頭で叫ぶ謎の演説美少女・神楽日鞠(かぐらひまり)。彼女の 最終目的は日本政治の頂点に独裁者として君臨し、この国を根底から変えることである。その目的達成の手段として、さまざまな人々の協力を得ながら、美貌を武器にアイドルとして活動していく。 

キワモノかと思いきや、キャラが立ち、物語の構成も緻密な本格的なエンターテイメント作品に仕上がっている。右翼とアイドルという意外な組み合わせが、読者を魅了する面白さを十二分に発揮している。

ヒロインである神楽日鞠がすごく魅力的で、彼女のアイドルとしてずれた言動にクスクスと笑ったり、(僕は右思考ではないけど)彼女の国のことを心の底から思う真摯な姿勢に感動させられたりしたのでした。

 

『グローバライズ』(木下古栗)

グローバライズグローバライズ

 

読者によって好き嫌いが真っ二つに割れるであろう木下ワールド。僕は時に木下ワールドが恋しくなったり、憎たらしくなったりする。読むと、体調によって、極上な時間を過ごした気分になるときと、時間をかなり無駄にした気分になるときがある。

短編集である本書の中には、同じ意味不明な下ネタで終わる2つの短編などがあります。

 

 『BUTTER』(柚木麻子)

BUTTER

BUTTER

 

この小説内での殺人事件の容疑者・梶井真奈子は、2007年から2009年にかけて発生した首都圏連続不審死事件の犯人である木嶋佳苗をモデルにしている。自分の欲望に忠実な梶井が、序盤でバター醤油ご飯について語る場面があるのだが、僕はこの描写によって、この小説に一気に引き込まれた。とにかくお腹が空く小説である。 

物語のテーマは、この社会での女性の生きづらさと、どうすれば女性が不自由さから解放され、真の自由さを得られるのかということではないか。「女性は○○であるべき」という男性側のものさしで女性の価値を決めるこの男性社会と、そのものさしを過剰に意識して不自由に生きる女性を批判しているように思えた。男性の自分としては、この小説を読んで強烈に反省の気持ちが沸き起こったのでした。

 

 『平成くん、さようなら』(古市憲寿

平成くん、さようなら

平成くん、さようなら

 

今売れっ子の社会学者、古市憲寿の書いた初の小説である。本当は作者と作品は切り離して読みたいのだけれど、個性の強い作者と、中心人物のである平成くんの人間性が重なって、作者の顔が頭の中にちらついた(彼のメディア露出が多いため、しょうがないのであるが)。それが原因で、読んでいて、作者のほのかなナルシシズムを勝手に感じずにはいられなかった。

ただ、その点を除けば、平成末期にふさわしい(?)、心打たれる切ないラブストーリーである。無機質なざらつきがありながらも、その奥に温かみがあり、身近な愛しい人に自然と優しくなれるような気持ちになる深みのある小説だった。平成の風俗、情景を果敢に描写しているのも面白いです。

 

 ソクラテスの弁明』(プラトン、岸見一郎)

シリーズ世界の思想 プラトン ソクラテスの弁明 (角川選書)

シリーズ世界の思想 プラトン ソクラテスの弁明 (角川選書)

 

 

ソクラテスの「無知の知」の思想に強く惹かれた。「知らないことは知らない」と自覚できる者こそが本当の知者なのである。自分自身が「知らないことは知らない」と簡単に認められないようになったのは、一体いつからであろうか。仕事や勉強によって、ある特定の分野に詳しくなっただけで、変な自信を持ってしまい、他人に無知と思われるのが嫌で、全く知らないことに対してまるで知っているかのような素振りを見せてしまうことは少なくない。

しかしながら、ソクラテスの思想からわかるように、自分の無知を認めることから出発し、他者や自身との問答を繰り返してでしか、本当の知は形成し得ないのである。

 

 『風姿花伝』(世阿弥) 

風姿花伝 (岩波文庫)

風姿花伝 (岩波文庫)

 

 『風姿花伝』は、世阿弥が父である観阿弥から受け継いだ能の奥義を、子孫に伝えるために書いたものである。この書の中で世阿弥は、若い頃の初心、人生の時々の初心、老後の初心を忘れてはならないと言っている。

若い頃の初心とは、具体的には24〜25歳のころである。この時期こそ、改めて自分の未熟さに気づき、周りの先輩や師匠に質問したりして自分を磨き上げていかなければ、「まことの花」にならないと世阿弥は言っている。世阿弥が言うように「初心」を忘れることなく、自身を日々更新する努力をする生き方をしたい。

 

「構造と力ー記号論を超えて」 (浅田彰

構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて

 

 「構造主義」の入門書を何冊か読んでいたので2割くらい理解できた(8割よく分からない)。浅田の論の面白さは、近代資本制の「差異=運動」がもたらす、「過剰」という名のエネルギーを大きく肯定していることであると思う。あらゆる方向へ運動することを要請する彼の詩的な文章に心は動かされ、勇気づけられた。スピーディにスマートに動き続けることが構造主義クラインの壺)から脱し、ポスト構造主義の生き方に続くと浅田は信じているのである(多分)。

 

社会学』 (長谷川公一、浜日出夫、藤村正之、町村敬志) 

社会学 (New Liberal Arts Selection)

社会学 (New Liberal Arts Selection)

 

にわかに「社会学」 を勉強したい気持ちになり、入門書として良さそうな本書を買った。丁寧な解説でとても分かりやすい。各テーマごとに、参考文献が紹介されていて、読書の幅が広がります。分厚いので、読みきるのにかなり時間がかかりました。

 

『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎

 

 昨年読んだ『中動態の世界 意志と責任の考古学』にドはまりし、同じ著者が書いた本書にも手を伸ばした。「何かをしなくてはならない」という強迫観念に駆られる、あの暇と退屈の正体がよく分かります。

 

『社会を変えるには』(小熊英二

社会を変えるには (講談社現代新書)

社会を変えるには (講談社現代新書)

社会学者、小熊英二による分厚い新書。出版当時は、反原発運動が盛り上がっていた。結局、社会を変えたいのであれば、動きを起こし、「対話」を繰り返していくしかないということを本書で知った。「誰かがどうにかしてくれるだろう」と期待しているだけでは、自分自身も周囲の大切な人も苦しい状況へと追い込まれていくことになるのです。
 

『人口知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊』(井上智洋)

今後AIを搭載した機械が人々の雇用を順調に奪っていくと、今から30年後の2045年には、全人口の1割ほどしか労働しない社会になっているかもしれないそうだ。僕みたいな役立たずは真っ先にAIに仕事を奪われるであろう。

9割の人が職を失ってしまうそんな時代を救う現実的な制度として、筆者がおすすめしているのが、「ベーシックインカム(収入の水準に拠らずに全ての人に無条件に、最低限の生活費を一律に給付する制度)」である。労働意欲のない僕は、「ベーシックインカム」が導入される時代を今か今かと待ち望んでいます。

 

 『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(千葉雅也)

勉強の哲学 来たるべきバカのために勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

この本には、「勉強とは、これまでの自分の自己破壊である。」と書いてある。勉強とは、「新たな環境のノリに入る」ことらしい。「アイロニー」と「ユーモア」という言葉を使い、勉強へ取り組む姿勢のあり方が分かりやすく説明されていて、夢中で読み進めた。

勉強の具体的な実践の方策として、勉強用のノートづくりを維持することが推奨されている。「勉強用のノートとは、生活の別のタイムラインそのものであり、自分の新たな可能性を考えるための特別な場所なのだ」と著者。

 

  『世界からバナナがなくなるまえに:食料危機に立ち向かう科学者たち』(ロブ・ダン)

世界からバナナがなくなるまえに: 食糧危機に立ち向かう科学者たち世界からバナナがなくなるまえに: 食糧危機に立ち向かう科学者たち

 

この本には、病原体による現代の食糧危機と、それに立ち向かう科学者たちの戦いが熱を持って書かれている。タイトルにあるバナナだけでなく、私たちが頼る数少ない作物は、すべて危機にさらされている。……僕が大好きなチョコレートの原料である、カカオも例外ではない。この食料危機の危険性を一気に高めたのが、大規模なアグリビジネス(農業関連産業)の台頭である。

アグリビジネスは、生産の極端な効率化を図るために、広域な農場に単一栽培(モノカルチャー)を行っている。短期的な効率化には最上の手段ではあるが、広大な農場に遺伝子的に同一の作物しかないというのは長期的に見て非常に危険である。遺伝子的に同一ということは、同じ害虫や病原体に弱いということである。一つの作物が弱点である害虫や病原体に攻撃されると、その農園の作物が全滅する道にそのままつながるのである。

故意でなくとも、自然に害虫や病原体が農場に拡散する可能性は常にある。本書ではそういった食糧危機に対する科学者の地道な戦いと、私たちに何ができるかということが書かれていて、最初から最後まで知的好奇心を大いに刺激されました。

 

 『パパは脳科学者 子どもを育てる脳科学』(池谷裕二

パパは脳研究者 子どもを育てる脳科学パパは脳研究者 子どもを育てる脳科学

 

この本では、脳科学者である著者が、娘さんの4歳までの成長を、脳の機能の原理から分析して、成長の一か月ごとに章立てして記録している。自分の息子(現在1歳2ヶ月)の成長と合わせて読み進めていて、とても勉強になります。この娘さんと比べると、自分の息子の成長はかなり遅れており、不安になる笑

  

『1990年代論』(大澤聡 編)

1990年代論 (河出ブックス)

1990年代論 (河出ブックス)

 

様々な論者が多角的に90年代を論じている。「社会問題編」では、現在の様々な社会問題が90年代に端を発していることが分かる。「文化状況編」では、様々な90年代のコンテンツが軽妙に論じられていてワクワクした。90年代は幼年期であった自分。もう10年早く生まれて、全身でこれらのコンテンツの受容を楽しみたかった。

 

 

『不安な個人、立ちすくむ国家』(経産省若手プロジェクト)   

不安な個人、立ちすくむ国家不安な個人、立ちすくむ国家

 

 

昨年5月に経産省の若手プロジェクトが発表したレポートを書籍化したものである。このレポートでは、変化する社会状況や、その中で増幅される個人の不安を指摘と、変わりつつある価値観に基づいた新しい政策の方向性の提示がまとめられている。日本社会のひずみが浮き彫りにされていて、日本の未来について悲観的にならざるを得ない。 

書籍版には、経産省若手プロジェクトと養老孟司の対談が収録されている。養老孟司が、高齢者が「死にたくない!」とわめく様子を見て、若者に向けて「早く大人になってしまい、やりたいことを後回し後回しにしていくと、人生を生きそびれてしまいますよ」と言っているのが印象的。

 

 『新・日本の階級社会』(橋本健二

新・日本の階級社会 (講談社現代新書)新・日本の階級社会 (講談社現代新書)

 

現代の日本社会が「階級社会」に変貌してしまった現実を、様々な社会調査データを基にして暴いていくといった内容である。階級格差は加速しており、特に非正規労働者から成る階級以下の階級(アンダークラス)の貧困が甚だしい。しかも、階級は世襲として固定化しやすく、親の階級以上の階級に転じることは難しくなっている(逆に「階級転落」の可能性は高い)。

この本では、格差拡大が社会全体にもたらす弊害が具体的に述べられて、読後、現代社会に対する危機感をちょっぴり持ったのでした。

 

 『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(宇野常寛) 

若い読者のためのサブカルチャー論講義録

若い読者のためのサブカルチャー論講義録

 

この本は、評論家の宇野常寛による、マンガやアニメやゲームといった「オタク的なもの」を取り上げたサブカルチャー論の大学での講義録をまとめたものである。ここ40年ほどのオタク思想を広く(浅く)学べます。

 

 『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』(ユヴァル・ノア・ハラリ)

 

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

 

『サピエンス全史』の続編。人間至上主義に取って代わる、データ至上主義について語られる下巻の最後の章に、僕は最も強い知的興奮を感じた。現在、人間至上主義からデータ至上主義への移行は確実に進んでいる。データ教の信者は、テクノロジーの発展で実現する「すべてのモノのインターネット」と一体化したがり、「データフローと切り離されたら人生の意味そのものを失う恐れがある」と考えている。

実はこんな風にブログを書く行為も、ハラリの歴史観に立てば、自分がデータ至上主義者であることの証明なのである。

 

 『試験に出る哲学ー「センター試験」で西洋思想に入門する』(斎藤哲也

まず、倫理のセンター試験の問題ってこんな面白い(変な?)問題が出ているんだという驚きがあった。本書ではその問題にからめて西洋哲学のポイントがとてもわかりやすく紹介されている。用語を解説したイラストも可愛らしくてとてもいい。西洋哲学についてさらに学びを深めたいときには、巻末のブックガイドを参考にできるので、とてもありがたいです。

 

 アメリカ』(橋爪大三郎大澤真幸

アメリカ(河出新書)アメリカ(河出新書)

 

社会学者の橋爪大三郎大澤真幸アメリカという国をわかりやすく語ってくれる。同じ二人の対談本である、講談社新書の『ふしぎなキリスト教』、『げんきな日本論』が大好きなので、本書も迷わず購入した。

トランプ大統領になぜ根強い支持層があるのか疑問な点だったが、トランプとキリスト教福音派の関係を知ってすっきり。アメリカでのプラグマティズムの影響の話など、『試験に出る哲学』で予習していたこともあってすとんと腑に落ちた。

 

 ☆

 

年末年始もコタツに入ってぬくぬくと本を読みたいです。

 

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一歳の息子の熱性けいれんに慌てた話

 

金曜日の午前中、「ハルタの熱が下がらない。病院に連れていきたいから、早めに帰ってきて」と妻から連絡があった。その前日の夜から一歳の息子は38度以上の熱を出していた。

 

僕は職場を定時に出た。積みあがった仕事は土日に処理すればいい。僕はもう自分の人生の主人公の座からとっくに降りた。息子より優先するものは何もない。

 

かかりつけの病院に息子を連れて行くと、普通の発熱と診断され、お薬をもらった。家に帰ると息子はつらいのかすぐに寝ころんだ。「はあはあ」と息遣いが荒く、深く眠れないようで、たまに泣いたりして、苦しそうであった。

 

そのうち、息子のほうから少し大きめの「ちゅぱちゅぱ」という音が聞こえてきた。息子は眠るときは指をしゃぶるので、いつもその音はかすかに聞こえている。しかし、いつもの睡眠中と違って、そのときの「ちゅぱちゅぱ」の音はやけに大きかった。

 

様子を見ると、口から大量の唾液が出ていた。そして息子の体が変な動きを始めた。……けいれんしている!

 

そのうち、白目をむき、顔が真っ青になった。かなり焦った。背中をさすって、名前を呼んだが、反応はない。

 

「これ、熱性けいれんだよ」と妻も慌てた様子で言った。「なんだそれ?」こんなの初めてである。

 

1分くらい経つが、息子のけいれんはとまらない。「救急車呼ぶ?」と妻。「……うん、呼ぼう」救急車を呼ぶべき事態か判断がつかなかったが、呼ばずに後悔するより、呼んで反省するほうがマシである。

 

さらに1分ほど名前を呼びかけると、やっとけいれんが止まった。そして、息子は大声で泣き始めた。「あ、生き返った」

 

そして救急隊の方がやってきて、救急車で運ばれる間、息子は大声で泣き続けた。熱に浮かされ、「バイチーン!!バイチーン!!」と叫んでいた。

 

「バイチーン」とは、息子が大好きなバイキンマンのことである。息子にとって、自分を窮地から救ってくれるヒーローは、アンパンマンではなく、どういうわけかバイキンマンなのであった。

 

 

 

病院でもハルタは力の限り泣き続けた。しばらくの間のけいれんを防ぐ座薬をお医者さんに入れてもらい、その副作用で眠気がやってきたようで、泣き声はやみ、深い寝息を立て始めた。安らかな寝顔である。

 

熱性けいれんは幼児期に起こりやすいらしく、日本人の10人に1人が幼児期に高熱を出したときにこのけいれんを起こすそうだ。けいれんの発作自体が生命にかかわることは、まずないということを知った。

 

「よく熱性けいれんだって知ってたね」と僕は妻に言った。

 

「いや、熱性けいれんの特徴を詳しく知ってるわけではないよ。言葉だけ知ってた。けいれんについては大学のときに研究してたから。てんかんの遺伝子を持ったネズミを繁殖させて、それに興奮剤みたいの打って、てんかん起こさせて、そのけいれんを観察してた」 

 

「ひどいことするね」しかしながら、そのような研究によって医療の進歩は支えられているのである。

 

座薬を入れて、効果が効き始める2時間が経ったので、お医者さんにお礼を言い、息子を抱えて自宅に帰った。

 

あれから数日経ったが、熱は引き、息子はすっかり元気を取り戻した。日曜日の夜は、『西郷どん』のOP曲を聴いて、おしりを振りながらニコニコして踊っていた。

 

 

 

―ええ、そうですね、情けない話ですが、息子がけいれんしているときはかなり動揺しました。あのような症状を見たのは初めてだったので。後々ネットで熱性けいれんのことを調べてみると、救急車を呼ぶほどの状況ではなったかもしれないと思いました。救急車の無駄な出動が問題になってますし。

ただ、あのときは本当に焦りに焦って、息子が息苦しそうにしている様子に見えたので、「もしかしてこのまま死んじゃうかも」ということが頭によぎり、怖くなったのです。けいれんが収まり、命にかかわるものではないと知ったときは、妻には内緒ですが、ほっとして泣きそうでした。子供のなりやすい病気についてちゃんと知っとこうと思う、よい機会になりました。

妻と「みくに龍翔館」に行った話


 

福井県坂井市三国町にある妻の実家に来て2日目。

 

三国の歴史や文化のお勉強がしたくなり、義母らに息子を預け、妻と二人で地元の博物館、「みくに龍翔館」を訪れた。三国駅から歩いて10分くらいのところにある。

 

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この異彩なデザインの建物が「みくに龍翔館」。明治時代に三国を訪れたオランダ人土木技師、G.Aエッセルがデザインした龍翔小学校の外観を充実に再現して建てられたそうだ。妻は中高生のころ、校外学習で何度もここを訪れたと言っていた。

 

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建物に入るとすぐに、江戸時代、日本海の交易に活躍した北前船(実際の5分の1サイズ)が展示されていた。三国湊はこの北前船による交易により、かつて大きく繁栄した。

 

江戸時代、北前船を造るには、約1000両という莫大な資金が必要だったそうだ。しかしながら、その造船資金はたった1年の交易で取り戻せたらしい。もうかりますね。

 

 

 

3階から三国の町が展望できた。ちょっとわかりにくいが、奥の川は九頭竜川

 

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三国祭りの山車も展示されていた。明治時代の山車を復元したものなんだって。でかい。

 

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「三国と近代文学」のコーナーもあった。詩人三好達治は一時期、この三国に居を構えていたそうだ。知らなかったなあ。

 

 

 

三好達治詩集 (新潮文庫)

三好達治詩集 (新潮文庫)

 

 

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。

次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。

 

 

 

「みくに龍翔館」から出ると、三国の町をぶらぶらと妻と歩いた。そういえば、妻とこういう風に二人きりになるのはかなり久しぶりである。いつもは息子が一緒にいるからね。

 

手をつないで歩きながら、三国で過ごした妻の青春時代の話を聞いた。初めて聞いた話が多く、けっこう面白い。と思ったのと同時に、妻のことをまだまだよく知らなかったんだなと気づいた。

 

付き合って1年もせずに結婚し、現在結婚3年目。まあお互いまだ知らないことがあって当然か。

 

育った土地、環境もかなり違う僕らの人生は、あるとき思いがけず関係を持ち、互いの人生を共有するようになった。この縁が出来上がるに至るには、いくつもの偶然の積み重ねが必要である。その偶然が一つでも欠けていたとしたら、僕らはいつまでも見知らぬ二人のまま……であった。

 

 

 

二人でアイスを食べながら、三国駅で帰りのバスを待った。やってきた、えちぜん鉄道をぱしゃり。

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今回の妻の実家への帰省もかなり満喫したのでした。

 

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福井でカニをたらふく食べた話

 

昔から旅行のときには必ず本を携えることにしている。大抵移動中に読むのであるが、旅情と相まって、その読書体験は記憶に残りやすい。

 

先日の福井旅行に持って行ったのは、『存在の耐えられない軽さ』(ミラン・クンデラ)である。

 

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

 

 

しかし、連休であったので駅や新幹線や特急は激こみギュウギュウ丸であり、一歳の息子・ハルタは常に落ち着きがなく、移動中に読書する余裕などなかった。移動中、僕はハルタを膝の上に乗せるか、抱っこをしていた。もう体重は十キロを超えている。さすがに軽くはなくなってきた。

 

 そこでわれわれは何を選ぶべきであろうか? 重さか、あるいは、軽さか?

 この問題を提出したのは西暦前六世紀のパルメニデース(前五〇〇頃ー?ギリシアの哲学者)である。彼は全世界が二つの極に二分されていると見た。光ー闇、細かさー粗さ、暖かさー寒さ、存在ー非存在。この対立の一方の極はパルメデニースにとって肯定的なものであり(光、細かさ、暖かさ、存在)、一方は否定的なものである。このように肯定と否定の極へ分けることはわれわれには子供っぽいくらい容易に見える。ただ一つの場合を除いて。軽さと重さでは、どちらが肯定的なのであろうか? 

 パルメデニースは答えた。軽さが肯定的で、重さが否定的だと。

 正しいかどうか? それが問題だ。確かなことはただ一つ、重さー軽さという対立はあらゆる対立の中でもっともミステリアスで、もっとも多義的だということである。

(『存在の耐えられない軽さ』)

 

 

 

昼過ぎに、坂井市三国町にある妻の実家に到着した。前回の帰省(下の記事)から約半年ぶりである。僕が妻の実家に来たのはこれで5回目。義父も義母も成長した孫を見て喜んでいた。

 

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夜、ハルタを寝かしつけると、妻と二人でテレビを見ながら、僕らと同じく関東に住んでいる妻の妹さんの帰省を待っていた。テレビに、福井の地方CMが流れていたが、これが結構面白い。

 

特に福井の学習塾、今西数英教室のCMが心打たれた。YouTubeを検索したら、ちゃんとアップされてた。

 

 

www.youtube.com

 

「勉強なんて所詮、誰かの壮大なロマンだ」

 

 

 

2日目の朝、お坊さんがやってきた。妻の祖父の三回忌である。

 

お坊さんがお経を読んでいる間、ハルタはお坊さんをのぞき込んだり、仏壇開け閉めしようとするので、何度も捕まえに行かなければならなかった。

 

三回忌が終わると、僕はひとりで外に散歩に出た。外に出る前に妻の妹さんが、「近くで伝説のポケモンが出るよ」と教えてくれたが、僕はとっくにポケモンGOをやめている。

 

自分の見知らぬ土地を歩き回るのはとても好き。そのうち、「ナホトカ号漂着の碑」にたどり着いた。

 

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平成9年に、ロシア船籍タンカー「ナホトカ号」が日本海で沈没し、三国の海は重油に覆われた。地元の住民と全国から駆け付けたボランティアの方の必死の重油回収作業により、三国の海は美しさを取り戻した。

 

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海を眺めていると、妻から「外にお昼を食べにいこうよ」と電話。

 

 

 

お昼は近所の食事処でいただいた。

 

お刺身などもおいしかったが、何よりカニがおいしかった。身が引き締まっている。今が最も越前ガニの獲れる時期だそうで、地元ではカニフェスティバルなるものが開催されているらしい。(まじ行きたい)

 

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身をほじくって(?)食べた。食べている間、みな無口になった。

 

〆は、カニ飯である。カニの身がふんだんにご飯の上に盛り付けられており、これをかき混ぜて食べる。

 

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「うまい……!」もうこれ以上の味の表現はできない。

 

量もかなりあり、これまで様々な海の料理を食べておなかが膨れていたので、妻の一家もみんな食べきれないようであった。残してしまったカニ飯は持ち帰り(ここら辺のお食事処の料理はお持ち帰りが前提らしい。ほんとか?)、夜にまた食べた。

 

というわけで、カニを満喫したのでした。自慢です。

 

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『菜の花の沖』(司馬遼太郎)の話

 

 

菜の花の沖 全6巻 完結セット(文春文庫)

菜の花の沖 全6巻 完結セット(文春文庫)

 

 

江戸後期、淡路島の貧しい家に生まれた高田屋嘉兵衛は、悲惨な境遇から海の男として身を起こし、ついには北辺の蝦夷・千島の海で活躍する偉大な商人に成長してゆく。沸騰する商品経済を内包しつつもかたくなに国をとざし続ける日本と、南下する大国ロシアとのはざまで数奇な運命を生き抜いた快男児の生涯を雄大な構想で描いた名作! 

 

この小説も他の司馬作品同様、わくわくしながら読んだ。読んでいて持った一番の感想は、寄り道が多い!ということだ。どの司馬作品も本筋から脱線することが多いが、この作品は特にそれが多く感じた。高田屋嘉兵衛本人の人物描写よりも、彼を取り囲む環境、日本の社会や世界情勢ばかり語られている気がしないでもない。

 

ところが、この寄り道が実に面白い。特に「下らない」の話は、誰かに話したくなる。当時の江戸は生産性が低く、上方から来る“貴重な”商品を「下り物」と呼んでいた。それが、「下らない(=取るに足らない)」いう言葉の由来だというお話。

 

このような「歴史雑学」がふんだんに盛り込まれているのである。詳細に背景が語られているからこそ、そこに生きる人がよりリアルに感じられ、彼らの物語は輝きを帯びるのであろう。そして、私たちが生きる歴史の線の上に、彼らもちゃんと立っていたということが実感できるのである。

 

 

2


僕は高田屋嘉兵衛から「不器用」な男という印象を受けた。

 

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高田屋嘉兵衛さん

この器用さというのは、世間を渡っていく上での器用さだ。嘉兵衛は自分の目的に突き進んでいくが、あまり“工夫”というものが見られない。

 

竜馬がゆく』の坂本竜馬は違った。竜馬は自身の目的達成を確実にするため、得意の話術と人懐っこさを駆使して、人々を惹きつけ、うねりを創っていった。八方美人で、かなり器用な男だったといえるだろう。

 

対して、嘉兵衛はあまりおしゃべりが得意ではないし、愛嬌も足りない。人に悪印象を与えることさえある。

 

彼が人を惹きつけるときは、その肉体の動きによって惹きつける。彼の船頭としての技術、能力に魅せられ、人々は集まってくるのだ。

 

嘉兵衛と竜馬、この二人には共通点もある。どちらも現実主義であり、私利私欲のためには動かないところである。自由な商いを目指す嘉兵衛にとって、この時代の封建社会は息苦しかったであろう。何をするにも、階級というものを意識しなければならない。個人の能力だけでは変えることのできないことが、あまりに多すぎる。

 

だからこそ嘉兵衛は、日本人がまだ把握していなく、階級のしがらみが少ない、蝦夷地という未開の地に魅力を感じたのかもしれない。誰も航海したことのない海、誰も足を踏み入れたことのない土地に行くというのは、相当な強心臓の持ち主でなければなせることではないだろう。

 

嘉兵衛の果てしない冒険心には強い憧れを抱いてしまう。

 

 

3


ドストエフスキーの『悪霊』を読み終えたばかりなので、ロシアへの関心がここんところ強くある。『悪霊』の登場人物は感情の触れ幅があまりに大きかったので、ロシア人は皆ああなのかと思っていたが、少なくとも、この『菜の花の沖』に出てくるロシア人たちは違っていた。それほど感情に左右される人々でもない。

 

ただ、レザノフだけは、なんとなくドストエフスキー的な匂いがしてくる。船員たちに指示を出すが、ことごとく無視され続け、「私は日本に行くことをやめる」と駄々をこね始めるところなど面白い。

 

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レザノフさん

 

レザノフやラクスマン、ゴローウニンなどは、高校の日本史で触れはしたが、名前以上のことは知ることのできなかった人物たちだ。この小説により彼らの人間味を知り、親しみが湧いたのである。彼らの目に日本はどのように映ったのであろうか……。とにかく、日本とロシアの北方領土を巡る争いは、この時代から続いてきたのだと改めて学ぶことができ、北方領土問題への関心が高まった。

 

 

 

菜の花の沖』を読むと、「文化の衝突」が生み出すものについて、つい考えてしまう。

 

国とは単に地図上に線を引っ張って出来上がったものではない。人々の様々なドラマの歴史があり、今の世界は形作られてきた。この形はこれからも、変化を続けていくことだろう。そのたびに起こる文化の衝突は避けることはできない。

 

そのとき武器になるのが「歴史」である。歴史を知ることで自分の文化的立ち位置が分かるし、相手のことを理解しようとする姿勢が生まれる。歴史を学ぶことは、現在を知ることに直結するのである。

 

司馬史観に対しては批判もあるが、やっぱり司馬作品は抜群に面白い。歴史に関心を持つための取っ掛かりとして、まず司馬遼太郎の小説を僕はおすすめしたいです。

『悪霊』(ドストエフスキー)の話

 

モスクワに行けば、腹もすくわ

 

 

 

悪霊〈上〉 (岩波文庫)

悪霊〈上〉 (岩波文庫)

 

この作品においてドストエーフスキイは人間の魂を徹底的に悪と反逆と破壊の角度から検討し解剖しつくした。聖書のルカ伝に出てくる、悪霊にとりつかれて湖に飛びこみ溺死したという豚の群れさながらに、無政府主義無神論に走り秘密結社を組織した青年たちは、革命を企てながらみずからを滅ぼしてゆく…


『悪霊』はとても精密にできた群集劇だと言える。登場人物の一人一人が、丁寧に描写されており、リアルに感じられる。

 

そんな彼らの感情、またはそれに基づいた行動を読み手に説明してくれる存在が「わたし」(G)である。「わたし」の視点は物語中で何度も変化をする。ある場面では一人称、またある場面では三人称というように。このような語りの構造は、彼の自己の体験と、後に彼が取材して得た話を両立させていることが可能としている。

 

「わたし」は物語の中で次々と起こる事件にはあまり深くは関わってはおらず、重要人物とはいえないだろう。ピョートルには名前すら覚えてもらえない存在である。

 

注意をしてこの小説を読んでいると、彼には知りえるはずもない出来事を、彼が語っている箇所がいくつかあることに気づく。彼の視点はたまに、「神の視点」にも変化するのである。このような“実体の薄い”「わたし」に物語を語らせることによって、物語に、実際にあったかのような真実味を与えることに成功しているのではないだろうか。

 

 

 

さて、様々な登場人物の中で僕が最も魅力的に感じたのが、ピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホーヴェンスキーである。彼は、この物語の(おそらく)主人公であるスタヴローギンという人物を語る、狂言回しの役も担っている。

 

……それにしても、ロシア民族というのはなんておしゃべりが多いのだろうか。日本の小説ばかり読んでいる僕は、そんなことばかりが気になってしょうがなかった。ロシア人がおしゃべりなのか、それとも日本人が無口なのか。

 

特にこのピョートルはよくしゃべる! ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。彼のこの雪崩のような言葉が、様々な出来事を大げさにし、事件へと発展させているのではないかと思えるほどだ。実際に彼の存在が、他の登場人物たちに不幸をもたらしている。

 

レンプケは発狂し、シャートフは殺され、キリーロフは自殺した。しかも、遂に彼は自分自身をも不幸な状況へと貶めてしまうのである。彼がこの小説に、ドラマ性を与えていることは明らかだ。

 

 


そして、ニコライ・フセヴォロドヴィチ・スタヴローギン。主人公であるはずの彼について語られる場面はかなり少ない。彼という人間を知るのに、読み込むべきは、やはり「スタヴローギンの告白」の章であろう。

 

しかし、それでも彼については多くの謎が残る。これほど他の登場人物のことについて詳細に語られている中で、逆に“語られない”ということが、スタヴローギンという人物の異質さを際立たせているのだろう。

 

彼は悪徳を快感とする異常者である。彼のカリスマ性は周りの人々を熱狂させる。人々はスタヴローギンのカリスマ性ばかりを語り、彼を新時代の革命組織の理想、理念の象徴としたのである。

 

 

 

その新世代の象徴に対するのが、ステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキーだ。彼は旧世代を象徴する存在である。

 

読者は、ああ、なんて情けない不憫なおじいさんなんだと思ってしまうかもしれない(実際僕は思った)。いつも感情的で泣いてばかりいる。

 

しかし、この小説で彼が担った役割はとてつもなく大きい。旧世代の象徴の彼が他の人間に疎まれれば疎まれるほど、それがそのまま、この時代のロシアの混乱を語ることになるのである。

 

「わたし」はステパンの側近であり、ステパンについて語るとき、視点はほとんど一人称になる。ステパンの何もかもが、「わたし」によって語られている。なにも語られないスタヴローギンとは、ここでも対照的である。ステパンはスタヴローギンの鏡であり、この小説のもう一人の主人公と言えるのではないだろうか。

 

 

 

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ドストエフスキーさん

次は『白痴』にも挑戦してみようっと。

アフター5のGUと『平成くん、さようなら』の話

 

僕にとって30回目の冬が到来した。

 

週末、妻の実家がある福井に行くことになったのだが、福井は関東に比べ、もうかなり寒いらしい。暖かい格好をしていかないと。

 

クローゼットを開けると、防寒着は4年前くらいにイオンで購入したコート1着しかない。僕はファッションに昔から無頓着である。別にこのコートを着て行ってもいいのであるが、1歳9ヶ月になった息子ハルタが最近いろんな服を着れるようになり、妙にファッショナブルな格好をしていて(初孫とあって、祖父、祖母からたくさん服を買ってもらえる)、それを見ていると父親である自身の普段着を急にみすぼらしく感じるようになってきたのである。

 

冬服を一新しようと思い立ち、久しぶりに定時に仕事をあがり、家に帰った。洗いものをしていた妻に「一緒に行くかい?」と声をかけた。「どこに?」と怪訝な表情で妻。

 

 

 

GUの中をハルタは歩き回った。自宅から車で10分のところにあるGUは、客が少なく、閑散としている。僕が服を選んでいる間、歩き回るハルタに妻が付き添った。

 

チノパンを試着するために試着室でちょうど自分のズボンを脱いでいるときに、ハルタがカーテンを少し開き試着室の中に入ってきた。「おーい、入ってくるなや」とハルタに言ったが、息子はけらけらと笑っていた。

 

GUはリーズナブルな上に、ファッション性が高い(ように見える)。あまり服にはこだわりがなく、お金もかけたくないが、人からはファッションを「変」とは思われたくない自分にとっては最適のお店である。ダウンジャケット、チノパン、ベルト、セーター、さらに息子のファッションを参考にしてチェックのアンクルパンツを購入した。これで1万円もかからないのである。ファストファッションって素晴らしい。

 

ファストファッションも平成の象徴ですね。ユニクロやGUなどの台頭はファッションの民主化、豊かな社会の証であるとラジオで言っていた。

 

 

 

夜は、買ったばかりの『平成くん、さようなら』をごろ寝しながら読んだ。

 

平成くん、さようなら

平成くん、さようなら

 

 

今売れっ子の社会学者、古市憲寿の書いた初の小説である。古市君が結構好きな僕は本書を発売してすぐに購入した。

 

本当は作者と作品は切り離して読みたいのだけれど、個性の強い作者と、中心人物のである平成くんの人間性が重なって、作者の顔が頭の中にちらついた(彼のメディア露出が多いため、しょうがないのであるが)。それが原因で、読んでいて、作者のほのかなナルシシズムを勝手に感じずにはいられなかった。

 

ただ、その点を除けば、平成末期にふさわしい(?)、心打たれる切ないラブストーリーである。無機質なざらつきがありながらも、その奥に温かみがあり、身近な愛しい人に自然と優しくなれるような気持ちになる深みのある小説だった。

 

いちばん印象に残った場面は、平成の終わりに死ぬことを決めている平成くんが、家族との思い出の地である熱海に彼女と行き、亡くなった母の遺骨を撒く場面である。

 

「何となくずっと捨てられなかったんだ。区役所が火葬まではしてくれたんだけど、うちにはお墓がなかったから、親戚に言われて僕が持っていた。でもこのまま僕が死んだら、お母さんって、この世界の誰からも忘れられちゃう。ねえ愛ちゃん、それって悲しいことなんでしょ」

 

なんとなく、小説のキーワードは「思い出」である気がした。過去の出来事をさまざまなツールでどんどんと記録することができるようになった昨今だが、もっと自分の心と向き合い、その中にある温かな記憶を大切にしていきたいと思った。

 

 

 

ハルタは、僕の真似をして、ごろ寝読書をするようになった。以下の写真では、『ちびまる子ちゃん』を読んでいる。

 

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そういえば、twitterを始めました。

 

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