ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

楽しい国語の授業と『使える!「国語」の考え方』の話

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学校の「国語」の授業は面白かったか?と聞かれると、率直に言って、ひどく退屈であったと答えざるを得ない。

 

小学生の頃の国語の授業の内容はディスカッションなんかがあったので割と覚えているんだけど、中高生のときは国語の時間が苦痛だったという思い出だけはあって、内容はほぼ覚えていない。中学生のときに『カメレオン』(チェーホフ)、『走れメロス』(太宰治)を読んだことだけは辛うじて覚えている。

 

中学校のときの国語の先生は、授業が最初から最後まで講義形式で、生徒側の活動がほぼなかったので、人の話を長いこと聞くことができない子供だった自分は非常に辛かった。その先生は終始教卓の椅子に座っていて、教科書を読んだり、作品の解釈を滔々と話しているだけで、何か黒板に書くこともなく、ノートをとらせることもなかった(ノートを学校に持って行っていない僕にとっては好都合だったが。ちなみに筆箱も僕は学校に持って行っておらず、散らかっている教室に落ちているだれかのペンを使っていた)。授業では話し合い活動はおろか、作文もなかった気がする(しかし、やっぱり夏休みには読書感想文の宿題が出た)。

 

まあそういう授業は当たり前だが、荒れた。大騒ぎをして授業妨害するやつとか、ズボンを脱ぎだすやつとか、教師が余所見しているときに酎ハイを飲むやつとか、鼻をかんだティッシュをそのまま自分の口に放り込んで咀嚼するやつとかいた。僕はそのころ漫画家になりたかったので、国語の授業のときには、他教科プリントの裏にせっせとイラストを描いていたのであった。

 

学校の国語は授業も面白くないし、勉強の仕方もよくわかないしで、「つまらない」科目という印象を学生時代ずっと持っていた。

 

 

 

ちくま新書の『使える!「国語」の考え方』を読んだ。

 

使える!「国語」の考え方 (ちくま新書)

使える!「国語」の考え方 (ちくま新書)

 

 

国語の授業はとかく批判されがちである。つまらない、役に立たない、小説を読む意味はない、といった声が聞こえてくる。そのため、論理力をつけるための内容に変えるべきだという意見も強まっている。でも、それで本当に国語の力はつくのだろうか? そこで、文学、論理といった枠にとらわれないで、読む力・書く力を身につけるための新しい考え方を提案する。これまでなかった国語の授業がここにお披露目される。

 

第一章「現代文の授業から何を学んだのか」では、多くの人が学校の国語に対する抱くモヤモヤが上手に整理されている。国語の授業への不満の一つとして挙げられるのは、教師による小説文の「解釈の押し付けがいやだ」というものである。筆者は大学生に聞いた、国語の授業に関するアンケートを載せている。

 

   国語の小説文に関する批判で、必ず挙げられるのが、「自由に解釈していいと言いながら、正解が決まっている」というものである。今回のアンケートでもやはりそれは挙げられた。

 

   小説に対する感じ方はそれぞれなのに、一つの答えを強要されるのが好きではなかったので、授業はほぼ聞いていませんでした。私は先生のオリジナル問題で、先生の考えと私の考えがまったく合わなかったので嫌いでした。(慶應義塾大学文学部・女)

 

筆者は続く章で、このような不満が起きる要因として、教師の指導法は別として、教科書に載る小説文が「解釈のブレが起きにくい」作品ばかりあるということを一因として挙げている。

 

第三章「教科書にのる名作にツッコミを入れる」では、高校国語の定番、芥川龍之介の『羅生門』を例として挙げ、「主題が明瞭すぎないか」と疑問を投げかけている。登場人物の心理がはっきり描かれすぎていたり、「老婆」がテーマを説明し過ぎたりしている。解釈のブレが少ない作品では、どうしても読み手の自由な読みの幅が狭まってしまうのである。

 

学校の国語では「教育にふさわしい」教材が選ばれてしまうことにも、筆者は批判的である。

 

   文学が果たす役割は、特定の見方の押しつけではなく、むしろそれを揺るがし、拡大していくことではないだろうか。

(中略)

もちろん、普通の学校で多種多様な作品を提示するのは難しいだろうが、生徒のレベルに合わせてできるだけ多くの出会いを作ると、思わぬ効果が生まれることがある。「教育的に正しい」ものだけを提示するのでは、それは生まれない。 

 

筆者は国語の授業での小説文の読み方の一つとして、「物語論」という読み方を提示している。物語論は、その小説がどのようにできあがっているかという構造を分析する読みの技術である。こういった技術を授業の中で学んでいけば、多様な物語を読み味わうことのできる汎用的な力にきっとつながっていくのではないだろうか。

 

こういった筆者による小説文の授業の考え方に加え、「論理的」とは何かだとか、理解しやすい文章のセオリーだとか、情報の整理の仕方だとか、リテラシーの身に着け方だとかが分かりやすく整理されて書かれていて、非常に勉強になったのであった。

 

 

 

紆余曲折あって僕が中学校の国語の教員になってから、今年度で5年目である。こういった本を読むとかなり刺激を受け、やる気が出てくる。

 

妻は学生時代、国語が大の苦手科目だったらしく、「作者の気持ちを答えなさい、とか本当意味不明だった」なぞと僕に言ってくる。「登場人物の気持ちを答えなさい、て問題はあるけど、作者の気持ちを答えなさい、なんて問題はないよ」と反論しようとするが、面倒くさくなりやめる。

 

僕は社会学部出身だが、大学卒業後に、通信教育で中高の国語の教員免許を取得した。どうして国語科を選択したかというと、いちばん授業の自由度が高そうだったからとただそれだけの安易な理由である。(その後、国語の授業の難しさに何度も挫折しそうになった)

 

授業をするのは楽しいし、教材研究は大好きである。中学生時代の自分がどうしたら面白がるだろうかと想像して、授業を組み立てている。管理職からは「君は本当に授業一生懸命で、面白い授業をするよね」と言われる。(「」は副助詞。他のことがらと対比する意味を付け加える)

 

この業界に入って、すごい授業をする先生は山ほどいることを知った。自分の授業などまだまだチンピラである。授業技術のなさは、目の前の生徒を楽しませたいという気持ちでカバーしている。そういう気持ちは結構生徒に伝わり、生徒が能動的に学習に取り組むきっかけにもなる。

 

しかしながら、生徒の善意に頼ってばかりではいられない。もっと国語の教養を身につけたいし、もっと授業がうまくなりたい。生徒の関心意欲を高め、かつ、力がつく授業ができるよう、研鑽を重ねていきたいです。

 

『野火』の話ー極限状態で「神」は現れるか

 

頭をガツンと鈍器で殴られたような強い衝撃を受けた。最初に『野火』(大岡昇平)を読み終えてから2週間ほど経ったが、毎日この小説のことばかり考えてしまい、何度も読み直した。

 

野火(のび) (新潮文庫)

野火(のび) (新潮文庫)

 

 

敗北が決定的となったフィリッピン戦線で結核に冒され、わずか数本の芋を渡されて本隊を追放された田村一等兵

野火の燃えひろがる原野を彷徨う田村は、極度の飢えに襲われ、自分の血を吸った蛭まで食べたあげく、友軍の屍体に目を向ける…。

 

自分自身の無知がとてつもなく恥ずかしく思えた。僕は飢えを知らない。僕は生死の狭間を知らない。僕は戦争を知らない。

 

戦場から帰ってきた田村が戦争について語る言葉が、頭から離れない。

 

戦争を知らない人間は、半分は子供である。

 

とにかく、僕らは知らないことについて、さも知っているかのように語りたがるのであるが、知らないことについて何かを語る資格などあるのであろうか? 僕はこの小説で言うところの「子供」である。

 

『野火』のような極限状態に陥った場合、自身はどのような行動に出るだろうか。まったく予想出来ないし、それについては何も語れず、ただ漠然とした不安が拡がるのみなのである。

 

 

 

神に栄えあれ。 

 

という田村の言葉でこの小説は締めくくられる。彼の「神」は、過酷な戦場での体験や生死についての哲学をする中で、彼自身の内側から出現した神である。その神は彼が子供の頃に信じていたキリストとは、似て非なる神だ。

 

彼はフィリピン戦線の教会で思いがけず現地の女性を射殺してしまう。彼独自の神が現れたのはこのときであろう。彼はこの殺人について、自分はもはや「人間の世界に戻ることは不可能」と思うほど強い罪の意識を覚える。

 

「戦場での殺人は日常茶飯事」であり、フィリピン人の殺害は罪に問われない可能性が高い。罪に問われなければ、その罪を罰せらるのは、ただ一人。それは自分自身である。

 

ここから彼の分裂が始まっていく。彼は1つの個体でありながら、罪を背負った自分とその罪を断罪する自分とに分かれるのである。彼はその殺人のあと、度々誰かに見られている感覚に襲われるが、その見ている誰かは彼自身に他ならない。

 

彼の分裂が決定的なものとなるのは、彼が極度の飢えから彼の同胞の屍体の肉に手をつけようとする場面である。ここで彼の身体に非常に奇妙なことが起きる。屍体の肉を切り取ろうとした右手を、左手が押さえつけたのである。欲望と倫理のせめぎ合い。彼の神は彼の左半身に目に見える形で現れたのであった。

 

同胞が生前に言った、「食べてもいいよ」という許しの言葉が、逆に彼の神の力(倫理、理性、良心)を強固なものとした。彼は、見る田村(左半身)と見られる田村(右半身)とにはっきり分かれるのである。

 

彼は戦場から帰ってきて収容された精神病院で、野火に向かって歩く自分を「見ている」記憶を思い出す。

 

   再び銃を肩に、丘と野の間を歩く私の姿である。緑の軍衣は色褪せて薄茶色に変り、袖と肩は破れている。裸足だ。数歩先を歩いて行く痩せた頚の凹みは、たしかに私、田村一等兵である。

   それでは今その私を見ている私はなんだろう……やはり私である。一体私が二人いてはいけないなんて誰が決めた。

 

私が二人いてはいけないなんて誰が決めた?

 

 

 

戦場で極度の飢えに陥った田村は、狂う。

 

同胞の肉に手をつける自分自身をなんとか制止した彼は、「あたし、食べてもいいわよ」という野の百合の甘い囁きを聞く。飢える右半身。彼の左半身はそれをこんな風に理解する。

 

   私の左半身は理解した。私はこれまで反省なく、草や木や動物を食べていたが、それ等は実は、死んだ人間よりも、食べてはいけなかったのである。生きているからである。

 

彼は自分を含めた人間の身勝手で愚かな振る舞いに強い憤りを感じる。そして思考は飛躍する。彼は自身を神の代行者、つまり「天使」であると自覚するのである。

 

そして、その倒錯した使命感から、人肉を食する獣に堕ちてしまった同胞を殺害してしまう。

 

 

僕は狂いたい。

 

自身の選択で獣に堕ちるくらいなら、狂ったほうがましである。強い欲望から人間として決して許されない行為に足を踏み入れそうになったとき、自身を抑制する部分が自身の中から立ち現われてくれるであろうか。僕には自信がない。

 

……戦争が怖くて怖くて堪らない。

 

 

 

田村がフィリピン戦線で度々遭遇する「野火」は一体何の比喩なのであろうか。これは難解である。野火は彼の左半身的なもの(神性)に属するのか、あるいは右半身的なもの(獣性)に属するのか。

 

とにかく彼は野火を恐れている。野火への恐れは、同胞を殺害したのあとの欠落した(あるいは隠蔽している?)記憶への彼の不安と重なっているように見える。記憶が欠落している時間に野火へと向かったことだけを彼はかろうじて覚えている。なぜ恐れている野火に向かったのか? 彼は「比島人の観念は私にとって野火の観念と結びついている」と言っている。

 

彼は野火の下にいるフィリピン人を襲って、彼らを食したのかもしれない。襲ったとすれば左半身にとって恐るべきことであるし、襲っていないのだとすれば右半身にとって恐るべきことである。

 

野火は「禁忌」の比喩なのでないか。人間の倫理を守ろうとする神性は禁忌を破ろうとする獣性を、生命活動を維持しようとする獣性は禁忌を守る神性を非常に脅威に感じているのである。

 

 

 

この小説を原作にした、塚本晋也監督の映画『野火』(2015年製作)も非常に素晴らしい出来であった。小説ほど田村の内面の思索や葛藤にフォーカスできないにしても、映画でしか表現できない戦争のおどろおどろしさを、生々しい映像表現で描ききっています。必見。

 

野火 [Blu-ray]

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『さよならミニスカート』が面白い


 

「りぼん」で連載している『さよならミニスカート』(牧野あおい)が面白いと聞いたので、本屋に買いに行った。

 

少女漫画の棚を15分ほど探したが、見当たらない。そのうち、女の子がちらほら棚の前にやってきて、棚の前をうろうろしている自分が恥ずかしくなってきた。「娘が欲しがっている漫画がないなあ」とかつぶやこうと思ったが、余計怪しさが増す気がしたのでやめた。

 

購入をあきらめようかと思ったそのとき、やっと見つけた。『さよならミニスカート』は人気作のようで、平積みにされていた。まだ1巻しか売られていない。

 

さよならミニスカート 1 (りぼんマスコットコミックス)

さよならミニスカート 1 (りぼんマスコットコミックス)

 

 

帯には「このまんがに、無関心な女子はいても、無関係な女子はいない。」とあった。

 

 

 

主人公は、女子高生の神山仁那。彼女は通う高校で唯一スラックスで通学している女子である。言葉遣いも粗暴で、一匹狼である。

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そんな彼女には秘密があった。

 

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仁那は、ミニスカートを売りにした人気アイドルグループ「PURE CLUB」の元センター、雨宮花恋であったのだ。

 

彼女はアイドル時代の象徴でミニスカートを履くことをやめ、長い髪をバッサリと切り、「普通の」高校生として生活している。

 

彼女がアイドルグループを脱退した原因は、ファンとの握手会での傷害事件である。被害者であるはずの彼女は、「そんなに弱くてどうする」だとか「女使って男釣って儲けてるんだから恨み買われて当然」だとかいった心のない言葉を受け、心身ともに傷つき、「女の子」をやめてしまったのであった。

 

第1話のハイライトは、教室で「スカートなんて男に媚び売るために履いてる」と発言する男子生徒に仁那が怒るシーンである。

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スカートは あんたらみたいな男のために履いてんじゃねえよ

 

 

 

続く第2話、第3話でも衝撃的な展開が続き、ぐいぐいと物語に引き込まれる。

 

この作品の魅力は、近年急激に関心が高まっているジェンダー問題を積極的に取り上げ、漫画に落とし込んでいる点にある。ジェンダーレス的存在の仁那を中心としたな高校生の日常生活から、現代における社会上の性差に対する固定観念、無意識、無関心といった問題があぶりだされていく。自身もジェンダー問題への無教養から、これまで知らず知らずのうちに誰かを傷つけてきたのではないかという気持ちにさせられる。

 

……ずしりと重いテーマを扱いながらも、エンターテインメントとしてもかなり楽しめ、なにより、少女漫画らしいピュアなラブストーリーが丁寧に描かれている。仁那の「まっすぐ」で、そして「危険」な恋に、ハラハラ、ドキドキ、キュンキュンせずにはいられない。

 

今最も人にお勧めしたい漫画です! 第2巻の発売が待ち遠しい!!

電車での読書と『螺旋の手術室』と久しぶりに会った大学時代の友達の話

 

先日の土曜日、久しぶりに電車に乗った。目指すは新宿。

 

ちゃんとした社会人になる5年前くらいまでは電車をよく利用していた。ただ、今の職場は交通機関では行きづらい場所にあるので、ほとんど車を利用していて、電車には滅多に乗らなくなった。

 

電車を利用していた時はよく人間観察とかしていた。服装、仕草、会話の内容、読んでいる本などから、その人の生活や人生を想像する。こういう若い時の「自分は社会を外側から見てますよ」感は、今考えると非常に気持ち悪い。僕だって誰かからじっくり観察されていたかもしれない。(人間観察をするA、人間観察をするAを観察するB、人間観察をするAを観察するBを観察するC……)

 

人間観察を上回る電車内での楽しみは、やっぱり読書であった。あのころはどういうわけか電車内がもっとも読書に集中できる場だった。一時期、都心に通ってることがあり、片道一時間ほどかかったので読書がかなりはかどった。

 

先日の土曜日はカバンを持たずに家を出た。コートのポケットにスマホ、財布、家の鍵、文庫本一冊。電車に乗ると、空いていた端の席に座り、揺られながら文庫本を読んだ。

 

 

 

車内で読んだのは、知念実希人の『螺旋の手術室』。

 

螺旋の手術室 (新潮文庫)

螺旋の手術室 (新潮文庫)

 

 

純正会医科大学附属病院の教授選の候補だった冴木真也准教授が、手術中に不可解な死を遂げた。彼と教授の座を争っていた医師もまた、暴漢に襲われ殺害される。二つの死の繋がりとは。大学を探っていた探偵が遺した謎の言葉の意味は。父・真也の死に疑問を感じた裕也は、同じ医師として調査を始めるが……。

 

医療ミステリ好きの先輩が職場にいて、その人に「これを読もう」と勧められたので、借りた。フィクションの世界では病院でよく殺人事件が起きるけど、それは医療と生死がとても近いところにあるからかしらん。

 

実はミステリってジャンル、僕は食わず嫌い。それほど読まない。

 

僕が小説に求めているのは「人間」である。人間が丁寧に描かれてさえいれば、物語の筋に整合性がなくとも、もっと言ってしまえば、筋が支離滅裂でもかまわない。あくまで登場人物が主であり、筋が従である。筋は登場人物の人間性を描く舞台に過ぎず、逆であってはならない。ミステリはどうも読者の予想を裏切る意外な結末のために、筋があまりにもご都合主義的に進み、人間性の深掘りがないがしろにされているように思えてならないのである。

 

……これは偏見です、はい。ちゃんと面白いミステリを読んでないんですよ、僕は。面白いものはやっぱり面白い。

 

ちょっと悔しいけど、『螺旋の手術』の巧みさには舌を巻いた。主人公のまっすぐさや、彼を取り巻く家族の心の機微が非常にリアルに感じられたのである。同時に、一つひとつ手がかりが明らかになりながらも、より謎が深まっていく展開には、非常にドキドキさせられた。とにかく先の展開が知りたくてたまらなくなり、時間も忘れ、ページを繰った。

 

 

 

東京は夜の7時。新宿に来たのは久々である。にぎやかな雰囲気や鮮やかなネオンに何だか気持ちが高揚し、スキップをしたくなった。

 

約束の居酒屋に入ると、入り口の真正面のテーブルに、大学時代の男友達3人(K、S、M)が座っていた。このメンバーで集まるのは3年ぶりくらいである。彼らとは学部学科が同じであった。僕の大学時代に作った数少ない友人で、よく授業の合間にグダグダとしゃべったり喫煙したり、夜に麻雀をしたり、長期休みに旅行をしたりなどを一緒にした。

 

Kは関西でスポーツ新聞の記者をやっていて、Sは横浜で自動車部品の営業をやっていて、Mは六本木に住んでいて、仕事は……忘れた。僕とMだけ妻帯者である。Mはかなりイケメンであり、飲みに行ったりすると、よく近くのテーブルの女の子から声を掛けられていた。

 

そんなMにももう生後五か月の息子がいて、その息子にメロメロらしい。「相対的に言って、嫁さんより遥かに子供を愛してる」などと言い出す。さらに彼は、「嫁さんとは結婚して1年だけど、仲の良い友達のような感覚で、最近女性として見れない」と続ける。いつか妻と別れることになっても、それはそれでかまわないそうだ。

 

Mが大学生のとき、彼の両親は離婚した。離婚した後、彼の両親はそれぞれ新しいパートナーと楽しく過ごしているらしい。「別れても、また新しい楽しみが待ってるしね」と彼。どうやら今から別れることに前向きな様子にすら感じられる。ライトな結婚、ライトな離婚。

 

Kは現在、三人の女の子と付き合っている。器用な男である。誰と結婚を決めようか迷っているらしい。

 

Mが「やっぱり価値観が合う子がいちばんいいんじゃない?」と助言。僕も妻帯者としてそれに乗っかって、「何が好きかっていうことが同じかよりも、何が嫌いかっていうことが同じかってほうが大事かもね」などと適当なことを言ってみる。「そう!おれはそれが言いたかった!」とMは腰を浮かせて言う。だいぶ酔っているようだ。

 

僕はビールを一杯、ウーロンハイを三杯飲んだ。

 

 

 

好きなもの……鶏の手羽先、布団、ごろ寝しながらの読書、朝遅く起きたときに食べる朝食、休日の晴天、プリン、忙しいときに漏れ出るユーモアなど

 

嫌いなもの……寒い朝自己啓発書、バナナの入ったパフェ、感情をコントロールする努力をしない人、他者や環境ばかりに責任を押し付ける人、ほこりだらけの部屋など

 

 

 

友人に2件目も誘われるが、日曜日に仕事があったので、自分だけ先に帰った。

 

帰りの電車の中で『螺旋の手術室』を読んだ。酒が入っているのに、逆に物語に没入できた。しかしながら、電車内での読書は危険で、僕はこれまで何度も同じ間違いを犯してた。

 

最終章に差し掛かったころ、ふと電車の外を眺めて、自分が降りるべき駅を乗り越していることに気づいたのであった。

 

横浜アンパンマンミュージアムに行った話

 

1歳9ヶ月の息子、ハルタが『それいけ!アンパンマン』に狂った。

 

街中に出ると『アンパンマン』のキャラクターを見つければ興奮して指差し、スーパーのお菓子売り場なんかを連れていると、いつの間にか『アンパンマン』のお菓子を手に持っている事がある。家では、『アンパンマン』のDVDを見せてくれとずっとせがんでくる。家にある『アンパンマン』のDVDは数枚しかなく、ハルタは飽きずに何十回もそれを見ていた。何十回もアンパンマンは窮地に陥り、何十回もジャムおじさんはアンパンをこね、何十回もバタ子さんは「新しい顔よ!」と叫び、何十回もバイキンマンはアンパンチを食らった。僕たち夫婦は『アンパンマン』のエンドレスリピートに気が変になりそうになっている。

 

ハルタのおもちゃも絵本も大半は『アンパンマン』になってしまった。そして、ハルタは寝言でも『アンパンマン』のキャラクターの名前を呼ぶのであった。ハルタを喜ばせるために、ハルタアンパンマンを触れさせていたのだが、僕と妻はアンパンマン漬けの生活が少々しんどくなってきている。

 

しかしながら、反面、子供が生まれるまで何の興味関心もなかった『アンパンマン』に若干親しみが芽生えてきているのも事実であった。

 

 

 

平日に休みを取り、家族3人で「横浜アンパンマンミュージアム」に行った。

 

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ハルタを楽しませたかった。しかし、ハルタミュージアムの敷地に入ったのに全然笑わない。……彼は絶句していた。『アンパンマン』のキャラクターが周囲のいたるところにあることにより、興奮を通り越して訳が分からなくなっている様子であった。

 

ミュージアムに到着したのはお昼頃であったので、最初に「ジャムおじさんパン工場」に寄った。アンパンマンファミリーが皆パンになっている。まじできゃわいい。食べるのが勿体無い。

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ひとつ315円!

 

パンをちぎってハルタに渡したが、なぜかほとんど口にしようとしない。いつもご飯をバクバクと食べるのに。食事中、周囲をきょろきょろと見て、とにかく落ち着きがなかった。

 

その後、ショーに出演していたアンパンマンたちに近づけさせたりしてみたが、やっぱり笑顔を見せなかった。いつもテレビサイズでキャラクターを見ていたので、自分より遥かにでかいキャラクターを前にして驚いてしまったのかもしれない。

 

 

 

ミュージアムの入館料は、1歳以上1500円。

 

しばらくミュージアム内を見学していると、やっと慣れてきたのか、ハルタの笑顔が少しずつ見られるようになってきた。

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バイキンUFOに乗るハルタ

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床の中の絵を覗き込むハルタ


キッズルームではアンパンマンの人形劇が行われていて、それを楽しく鑑賞した。ハルタは最後に流れた「勇気りんりん」に合わせて一生懸命に踊っていたのである。

 

アンパンマンミュージアム……1歳9ヶ月くらいのお子さんでも充分楽しめます。意外と大人の僕も楽しんでしまった。やなせたかし先生の絵も、所々に飾ってあり、そういうのにも感動したのでした。

 

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最後にアンパンマングッズが売ってるショップを見て回った。

 

「森の本屋さん」ではアンパンマンの絵本がたくさん売っていた。店で一番人気のミニ・ブックスの絵本である『アンパンマンカレーパンマン・おむすびまん』を買った。

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襲ってきたオオカミを、カレーパンマンは必殺技で攻撃する。

 

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ゲロですね

必殺技を使った後のカレーパンマンはしわくちゃになってしまう。

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しわくちゃになったカレーパンマンはバタ子さんにカレーを補充してもらうのであった。めでたし、めでたし。

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補充の方法……笑

 

「ふわふわぬいぐるみやさん」では、ハルタバイキンマンのぬいぐるみを買ってあげた。バイキンマンハルタが最も好きなキャラクターである。

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ハルタはとにかくこのぬいぐるみが気に入ったようで、家に帰るまで手放そうとはしなかった。「バイチン……♡」とか言って、ぬいぐるみに口づけしたりしている。アンパンマンミュージアムから帰ってきてから毎夜、バイキンマンを自分の布団中に入れて一緒に寝ているのであった。

 

 

なかなか息子と遊んであげられる時間がないので、アンパンマンミュージアムがいい思い出になったようでよかった。また行こうね。

五代雄介という希望ー『仮面ライダークウガ』を見て

 

年末年始に『仮面ライダークウガ』を全話見た。視聴は10年ぶりくらいではないかな。

 

仮面ライダークウガ Blu‐ray BOX 1 [Blu-ray]

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仮面ライダークウガ Blu-ray BOX 3 <完>仮面ライダークウガ Blu-ray BOX 3 <完>

 

 

やはり傑作である。リアルタイムの放送から20年経った今でもその魅力は全く衰えることなく、むしろ見れば見るほど新しい魅力に気づき、物語の密度の高さに舌を巻かずにはいられない。

 

仮面ライダークウガ』が傑作である理由は、

・リアリティの高い演出

・緻密な脚本

・長短あるそれぞれのフォームチェンジを駆使した戦略の面白さ

・作りこまれた登場人物一人ひとりの人間像

クウガの敵であるグロンギの恐ろしさ

……などなどあるが、この記事ではクウガに変身する主人公、「五代雄介」(オダギリジョー)の強い人間的魅力に迫りたい。

 

 

 

五代雄介は、穏やかで優しい性格である。笑顔を大切にし、争いを好まず、強い意志を内に秘めている。そんな気持ちのいい人間性は物語の多くの場面で垣間見れる。

 

EPISODE41「抑制」での雄介の言葉が胸に刺さる。女優を夢見る朝日奈奈々は、オーディションのライバルからひどい嫌味を言われ、そのライバルを殺してやりたいという思いに駆られる。そんな彼女に雄介は「暴力では何も問題は解決しない」ということを伝えるが、彼女から「五代さんの言うことは綺麗事ばかり」と言われてしまう。それに彼はこう答える。

 

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「そうだよ!……でも!だからこそ現実にしたいじゃない!本当は綺麗事がいいんだもん!これ(暴力)でしかやり取りできないなんて悲しすぎるから!」

 

「本当は綺麗事がいいんだもん」という雄介の言葉は重い。「人々の笑顔を守る」という理由でグロンギと戦い続ける中、人間を暴力で殺害するグロンギを、クウガとして同じ暴力で殺害するというジレンマを彼は引き受けている。穏やかな彼だが、憎しみに支配され拳を振るってしまい、自己嫌悪に陥ることもあった。生きるということは、綺麗事では済まされないことは、彼が最も強く自覚しているだろう。

 

しかし、彼はそれでも暴力を許容できないし、暴力に訴えなくても、人間同士であれば対話で分かり合えると固く信じている。彼は争いのない綺麗な世界の実現は難しいと知りながらも、そのような世界の実現を決して諦めてはいないのである。

 

 

3

 

重い荷物を

まくらにしたら

深呼吸…青空になる

目をあけても つぶっても

同じ景色が過ぎて行くけど

今、見てなくちゃ…気づけない

君を連れて行こう

悲しみのない未来まで

君がくれた笑顔だけ

ポケットにしまって

僕は…青空になる

 

上は『クウガ』のED曲「青空になる」の歌詞。たまらなくいい歌である。この物語における「青空」は「希望」の象徴だ。

 

雄介は最終決戦の前、大雨に何か不吉な予感を感じている保育園の園児たちに、このように話す。

 

「この雨だって絶対止むよ。そしたら青空になる。今だってこの雨を降らせている雲の向こうには、どこまでも青空が広がってるんだ」

 

雄介こそが「青空」(=希望)である。彼の他者に対する思いやりの深さや、「みんなの笑顔を守る」ために自分の体を犠牲にしながら戦う姿を知って、周囲の人間は彼を信頼し、彼に希望を託す。

 

雄介は先ほど述べたように、争いを好まない人間である。人間をゲームとして殺害するグロンギを殺害することにも嫌悪感に近いものを抱いている。あまりに優しすぎる。

 

しかし、その優しさが彼のパワーの源でもあった。大好きな人たちを守りたいという気持ちが、彼、クウガをどんどんと強くしていく。最終決戦ではついに、その強い意志によって、アルティメットフォームに超変身する。

 

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グロンギの王である、未確認生命体第0号(ン・ダグバ・ゼバ)との死闘。大雪の中、クウガと0号は激しく殴り合い、お互い吐血する。

 

戦いの最中、仮面の下の雄介の表情が確認できるのであるが、なんと彼は泣いている。彼は殴られる痛みに泣いているのではもちろんない。相手を痛めつける苦痛に泣いているのだ。

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これまでの戦いの中でも、彼は幾度もその仮面の下で涙を流してきたのかもしれない。雄介の場合、その仮面は、「他者に自分の思い、感情を悟られない」という本来の仮面の機能を果たしているのだ。「仮面ライダー」であることの宿命の重さ、孤独、そして苦悩が、この『クウガ』という作品を通してひしひしと伝わってくる。

 

争いを嫌う、優しすぎる雄介はその宿命に非常に苦しんでいる。大人になって、彼の強さがより理解できた。宿命に耐え、戦いを続けながらも、笑顔を忘れず、周囲の人を励ます彼の姿を涙なしに見ることはできなかった。僕は雄介のような人間になれるであろうか……?

 

 

 

「誰かの笑顔を守る」ため、体に重い負担をかけるパワーアップを重ね、心をけずる戦いに身を投じる、五代雄介。彼の自己犠牲の精神には頭が上がらない。いや、彼は他者のために自己を犠牲にしているという意識すらないであろう。

 

彼は他者の喜びを、そのまま自分の喜びとしている。これは簡単なように見えて、なかなかできることではない。他者のためにした行動を、感謝されなかったり、認めてもらえなかったりして、「~してあげたのに」と憤る人は少なくない。自身の承認欲求を満たすため、他者からの感謝や称賛や見返りを常に期待して行動するのは、たとえ結果的に他者のためになったとしても、それはすべて偽善にすぎないと雄介の人とのかかわり方を見ると思えてくる。

 

どんな時代、どんなコミュニティにも、五代雄介のような人間が必要であり、求められる。他者の喜びをそのまま自分の喜びとできる人間が。生きるということは綺麗事ではないと知りながらも、理想を語り、その実現に努力できる人間が。絶望を笑顔で希望に変えられる人間が。

 

それをできる人間こそが本物のヒーローであるし、だれもがそんなヒーローになれる可能性と資格を持っているはずである。

 

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何かに絶望したとき、生きるのってしんどいなと思ったとき、自分の信念が揺らいだとき、自分自身の弱さに負けそうになったとき、是非『仮面ライダークウガ』を見てください。本物のヒーローがここにいます。

 

 

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2019年の4つの抱負

今週のお題「2019年の抱負」

 

①体重を5キロ減らす

 

元旦の夜に中学時代の友人と久しぶりに飲んだ。会って、友人の最初の言葉が「お前太ったな」であった。

 

近頃会う人会う人に「太った」と言われる。もう本当に会う人会う人に言われるんすよ。太った原因は、食べ過ぎと運動不足の他にはない。

 

ダイエットするか……。フリーターのとき、ミスドの食べ過ぎでかなり太ってしまい、「16時ダイエット」(16時以降は次の朝まで何も食べないダイエット)に取り組み、結果10キロ体重を減らした。しかし、今はあれをやる根気はない。やっぱり運動で健康的に痩せよう。

 

3日に高校時代のバスケットボール部の仲間とバスケをしたが、すぐに息切れして困った。日常的にバスケをやっている連中と運動を怠けていた自分の体力や身のこなし方の格差に愕然とした。しかしながら、日々運動していれば、またあれくらい体を動かせるようになるかもと希望も持った。

 

今年は日々の生活に意識的に運動を取り入れ、体重を今より5キロは減らしたい。

 

 

②本を100冊読む

 

本好きの方からしたら100冊なんてハードルが低すぎると思われるかもしれないけど、仕事がハードで中々読書時間が確保できないのに加え、ひどい遅読のため、100冊でもかなり高い目標である。

 

年末に本棚を整理したが、読みかけの本が結構あることに気づいたので、それも消化したい。例えば、角田光代訳の『源氏物語』。かなり読みやすいのだけれど、まだ「花散里」の章までしか読んでいない。

 

 

分厚い本だと読み途中で他の本に浮気してしまい、続きを読むのをしばらく放置してしまうことがよくある。こういう読み途中の本を、新しい本への散財を防ぐ目的も兼ねて、ちゃんと読み終えたい。

 

あとは今年はもっと本好きの人がオススメする本を積極的に読みたいと思っている。年末、読書ブロガーさんの1年間に読んだベスト本のまとめ記事は面白く読んだ。そういう記事を本選びの参考にしていきたい。

 

harunaさんの記事とか。

booksformams.hatenablog.com

 

僕の猫舎さんの記事とか。

www.bokuneko.com

 

今年も読書ライフを充実させたい。

 

 

③ブログを月に5記事以上書く

 

ブログを書くのは結構楽しい。一年ちょっとくらい細々と続けてきたが、少しずつ読者が増えたり、誰かの反応がたまにあったりして、飽き性な自分でもなんとかモチベーションが保てている。

 

ブログを日記としても使っている。僕は記憶力がかなり悪く(一昨日の夕飯を思い出すのに8分くらいかかる)、ブログを読み返すことによって、ああこういうこともあったなあとか、息子はまだここまでしか成長してなかったなあとか、この頃こういうことを考えていたなあとか思い出せる。

 

読書ブログを書くと、本の理解がさらに深まったりもすることにも気づいた。月に5記事以上継続的に書いて、ブログ更新を習慣化したい。

 

 

④育児に積極的に参加する

 

上の3つの目標はこの目標には優先しない。2月には新しい子供も産まれてくるので、育児に熱心に取り組みたい。ちなみに次も男の子です。

 

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