ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

自尊感情を育てる必要はあるのか……?の話

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2019年の新書の中でいちばんの話題作であろう『ケーキの切れない非行少年たち』を読んだ。

 

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

 

 

 児童精神科医である著者は、多くの非行少年たちと出会う中で、「反省以前の子ども」が沢山いるという事実に気づく。少年院には、認知力が弱く、「ケーキを等分に切る」ことすら出来ない非行少年が大勢いたが、問題の根深さは普通の学校でも同じなのだ。人口の十数%いるとされる「境界知能」の人々に焦点を当て、困っている彼らを学校・社会生活で困らないように導く超実践的なメソッドを公開する。

 

僕の職場でも早くから話題になっていた本である。読み終えた同僚が貸してくれた。今まで見過ごされてきた事実に目を向けるきっかけにもなったし、教育関係者として、自身の考え方を見直すことができた。

 

本書の詳細な内容の紹介については、各メディアで話題になっているし、すでに沢山のレビューがあるので、この記事では控える。しかしながら、自身の中でモヤモヤしていたものがいっぺんに晴れた気がする、第六章「褒める教育だけでは問題は解決しない」については少しだけ取り上げたいと思う。

 

 

 

『ケーキの切れない非行少年たち』の著者は小・中学校に定期的に行って、学校コンサルテーションを行なっている。「そこでは学校で先生方に困っている子どものケース事例を出してもらい、みんなでどうするかを考えていく」そうだ。

 

そこで出てくる支援案で定番なのが、「子どものいい所を見つけてあげて褒める」です。問題行動ばかり起こしている子は、どうしても悪い面にばかりに目が向きがちなので、いい面を見つけてあげて褒めてあげる、小さなことでも褒める、または役割を与え、できたら褒める、といったものです。とにかく"褒める"の嵐です。私は聞いていていつも「またか」と思ってしまいます。(中略)

   "褒める""話を聞いてあげる"は、その場を繕うのにはいいのですが、長い目で見た場合、根本的解決策ではないので逆に子どもの問題を先送りにしているだけになってしまいます。

 

ここには思わず、うんうんと頷きながら読んだ。「褒める」教育だけでは、特に本書が取り上げている認知力の低い子どもにとっての問題の根本的な解決にはならないし、褒められないと何もできない、挑戦しようとしない人間にもなりかねない。

 

著者は、困っている子どもたちに対して使われる「この子は自尊感情が低い」という紋切り型フレーズにも批判的である。まず、「色んな問題行動を起こしている子どもは、それまでに親や先生から叱られ続けていますので、自尊感情が高いはずがない」し、さらには、自尊感情は「無理に上げる必要もなく、低いままでもいい」と著者は言う。

 

自尊感情が低い“といった言葉に続くのは、「自尊感情を上げるような支援が必要である」といった締めの言葉です。(中略)無理に上げる必要もなく、低いままでもいい、ありのままの現実の自分を受け入れていく強さが必要なのです。もういい加減「自尊感情が……」といった表現からは卒業して欲しいところです。
 
この章を読めただけでも、この本に出会えてよかったと思った。続く章で著者は、認知力の低い子どもへの具体的な支援策を紹介していく。子どもの教育に関わるすべての人に読んで欲しい本である。
 
 
 
そういえば、ルソーやアドラーなんかも「褒める教育」には積極的ではなかった。「褒める」と密につながっていそうな「自尊感情(=自尊心)」については、ルソーは『エミール』で自己愛と対比して、このように批判的に語っている。

 

エミール〈上〉 (岩波文庫)

エミール〈上〉 (岩波文庫)

 

 

 自己にたいする愛は、自身のことだけを問題にするから、自分のほんとうの必要がみたされれば満足する。自尊心は、自分をほかのものとくらべてみるから、満足することはけっしてないし、満足するはずもない。
 なごやかな、愛情にみちた情愛は自分にたいする愛から生まれ、憎しみにみちた、いらだちやすい情念は、自尊心から生まれるのだ。
 
しかしながら、現場であまりにも自尊感情が低い子に出会うと、痛々しく、なんとかしてあげたい気持ちに自然となってしまうことが、僕の場合ある。自尊感情については、『子どもの自尊感情をどう育てるか』での論が興味深い。

 

子どもの自尊感情をどう育てるか そばセット (SOBA-SET) で自尊感情を測る

子どもの自尊感情をどう育てるか そばセット (SOBA-SET) で自尊感情を測る

 

  

著者である近藤卓先生は、健康教育学や臨床心理学が専門で、僕はこの先生の講演に昨年足を運んだ。語り口が面白い上にわかりやすく、非常に勉強にもなった。講演でもそうだったが、『子どもの自尊感情をどう育てるか』でも、褒めるだけで自尊感情を育てようとすることには批判的であった。
 
 認められたり、ほめられたり、優れていると実感できたり、価値があると思えたりすれば高まるのは、自尊感情の一部分に過ぎません。自尊感情の残りの部分、これこそが大切で自尊感情の基礎をなすものなのですが、そこが放置されたままになっています。これでは、子どもの心は満たされませんし、彼らを本当に支えることはできません。
 
先生は、自尊感情を、社会的自尊感情(Social Self Esteem:SOSE)と基本的自尊感情(Basicl Self Esteem:BASE)に分けている。社会的自尊感情とは、うまくいったり、褒められたりすると高まる感情である。多くの人が思う自尊感情はこれのことである。しかし、社会的自尊感情は、「状況や状態に支配されている感情」であり、「失敗したり叱られたりすると途端にしぼんでしま」う。

 

対して、基本的自尊感情とは何か? 先生は以下のように説明する。

 

基本的自尊感情は、成功と優越とは無関係の感情です。いわば、あるがままの自分自身を受け入れ、自分をかけがえのない存在として、丸ごとそのままに認める感情です。よいところも悪いところも、長所も欠点も併せ持った自分を、大切な存在として尊重する感情が、基本的自尊感情です。そして、この感情こそが、自尊感情の基礎を支える大切な感情なのです。

 

『ケーキの切れない非行少年たち』で、「無理に上げる必要もなく、低いままでもいい」といったのはここでいう社会的自尊感情のことで、「ありのままの現実の自分を受け入れていく強さ」というのが基本的自尊感情のことだろう。(そして、基本的自尊感情は、ルソーのいう「自己愛」にあたるのだと思う。)

 

教育者は、子供の自尊感情を高めたければ、この基本的自尊感情を育まなくてはならない。近藤先生は講演で、社会的自尊感情ばかりが高くて、基本的自尊感情が低い子供がいちばん危険だとおっしゃっていた(下の図でいうとSbタイプ)。彼らは失敗したり、挫折したとき立ち直ることが難しく、ときには危険な行動に走りかねないのだそうだ。

 

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では、基本的自尊感情はどのように底上げすればよいのだろうか。

 

『子どもの自尊感情をどう育てるか』には、「『共有体験』に尽きる」とある。共有体験とは単なる体験だけではない。先生は、一つ一つの体験を和紙に例えている。その和紙を張り合わせるのりの役割をするのが、楽しい、うれしい、苦しい、つらいといった感情の共有なのである。体験と感情の共有が、基本的自尊感情を高める。

 

共有体験の基本は、「2人が並んで同じものを見つめる」ことです。

 

つまり、「共視」である。先生は、見つめあうことが「恋」、共視が「愛」だともおっしゃっていた。そういえば、夏目漱石は「I love you.」を「月がきれいですね」と訳したらしいが(このエピソードが実在した証拠はないらしいですね)、一緒に同じ対象を見たり体験したりする中で、その相手と喜びや楽しみ、ときには苦しみを分かち合う、それこそが「愛する」という行為だと言っているのではないか。

 

頭で考え、理解することも大事だが、共有体験により自然ににじみ出る「愛」も大事にしなくてはならない。その「愛」が、ありのままの自分を受け入れる強さを持った人間に成長させてくる。これはこの前読んだ、西田幾多郎の『善の研究』とも通じるところがある。

 

gorone89.hatenablog.com

 

 

社会的自尊感情ではなく、子どもの基本的自尊感情を育みたければ、子どもに共有体験を味わわせる仕掛けを地道に作っていくしかないようだ。ふうむ、勉強になりますね。

 

 

 

僕自身の子どもともできるだ共有体験を増やしたい!とうことで、休日はなるべく子どもと遊んでます。お父さんになってもうすぐ3年ですが、頑張ってます。

 

先日の日曜日は2歳の息子とトランポリン施設に行ってきました。存分に遊ぶつもりでしたが、息子は何回かジャンプしただけなのに、「こわい、こわい」と言って、すぐに座り込んで動かなくしまったので、とぼとぼと帰りました。

 

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この共有体験はちょっと早かったかな。

 

 

 

 

『居るのはつらいよ』を読んでーデイケアと学校の共通点の話など

 
愛聴しているラジオ番組「文化系トークラジオLife」(TBSラジオ)の前回(10月27日放送)のテーマは「いま友達と集まるならどこですか?~ポスト居酒屋コミュニケーションの時代」であった。
 
9月にキャンプに行ったばかりの僕は、「いま友達と集まるなら、キャンプだ!」というキャンプの魅力を熱く語ったメールを番組に送った。それがなんと番組内で読み上げられた。ラジオへの投稿が読まれる初めてだった僕は、恥ずかしさを覚えるのと同時に、ギザウレシスな気分となり、舞い上がってしまったのであった。(その投稿は↓のホームページ内でも聴けます)
 
 
同じく友達と集まる場としてキャンプをおすすめするLifeクルーの宮崎智之さんは、キャンプ場に流れる円環的な時間の話に関連して、『居るのはつらいよ』という本を番組内で紹介していた。宮崎さんはtwitterでも本書を「今年一番面白かった本」と評していたので、早速購入し、読んでみた。

 

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)
 

「ただ居るだけ」と「それでいいのか?」をめぐる
感動のスペクタクル学術書
京大出の心理学ハカセは悪戦苦闘の職探しの末、ようやく沖縄の精神科デイケア施設に職を得た。
しかし、「セラピーをするんだ!」と勇躍飛び込んだそこは、あらゆる価値が反転するふしぎの国だった――。
ケアとセラピーの価値について究極まで考え抜かれた本書は、同時に、人生の一時期を共に生きたメンバーさんやスタッフたちとの熱き友情物語でもあります。
一言でいえば、涙あり笑いあり出血(!)ありの、大感動スペクタクル学術書

 

本書には、デイケアのぬくもり、寂しさ、希望、苦しみ、そしてあぶり出される問題点がバランスよく凝縮されている。物語風、エッセイ風に書かれているので、非常に読みやすく、最後までさくさくと楽しんで読めた。
 
 
 
同時に心理師である著者の東畑開人先生の幅広い知識と深い考察に触れることができるので「なるほど」と思うところが多くあった。
 
「ケアとセラピーについての覚書」という章が後半にあるのだが、とても勉強になる。先生は、ケアとは「傷つけないこと」、セラピーとは「傷と向き合うこと」と定義し、↓のような表を作り、あえてケアとセラピーを二分法で対比している。

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ケアとセラピーは「成分のようなもの」という先生の主張には腑に落ちるところがあった。
 
 そう、「ケアとセラピー」は成分のようなものです。人が人に関わるとき、誰かを援助しようとするとき、それはつねに両方あります。だから、見てきたように、デイケアにもケアとセラピーの両方があります。たぶん、居場所型デイケアにケアの成分が多くて、それよりは通過型デイケアのほうがセラピーの成分が多いでしょう。でも、そこには両方ある。それは成分だから、両者は入り混じって、存在しているわけです。あとは配分の問題です。

 

腑に落ちるところがあったのとともに深く共感したのは、僕が教師という仕事をしているからであろう。学校で生徒と向き合うとき、臨床と同じように、頭を悩ませながら、ケアとセラピーをケースバイケースで使い分けている。

 

これに加え、教師はデイケアと同じように「居ること」のつらさを日々味わっているように思う。

 

 

 
『居るのはつらいよ』を読み終わったのは、日曜日、生徒のバスケの大会会場にいたときであった。
 
大会は休日に行われるが、部活動の顧問は生徒の引率と大会の運営に関わらざるを得ない。自身のチームの試合、審判、駐車場係などの合間をぬって、『居るのはつらいよ』の最後の章をコピーしたものを読んだ。(本を読んでいるとさぼっていると見られるのに、本をコピーしたものを読んでいると勉強している(あるいは仕事している)と見られるから不思議だ)
 
読み終えると、ちょうど駐車場係の時間になった。係のペアになった先生は初めてお目にかかる先生だった。聞けば、この4月からバスケ専門部にやってきたという。以前までずっとバドミントン専門部にいたそうだ。彼は言った。
 
「バスケ専門部って鬼畜っすね。大会だと一日拘束されるし。初心者でも審判を強制してやらされるし」
 
ため息をつく彼の言葉に僕は一応同意する。「そうっすね。体力は大きく削られてクタクタになるし、また明日から平日出勤だと思うと憂鬱ですね」
 
車は一台もやってこなかった。見上げると、空の高いところにカラスが一匹飛んでいた。
 
部活の時間を残業としてカウントすると、大会のある月の残業時間は100時間を超える。『居るのはつらいよ』の主人公、トンちゃんと同じように僕たち教師も「居ること」に縛られていた。この激務に、心や体の調子を崩す先生は少なくない。僕もいつまでこの仕事を続けられるかよく分からない。
 
仕事によって生活の大半の時間を奪われるので、ふいにやってくる隙間時間はちゃんと有効活用しようとする癖がついた。ということで、僕はこの駐車場係の時間に、ポケットからメモ帳をとりだし、そこに『居るのはつらいよ』の感想を書き付けたのだった。
 
 
 
『居るのはつらいよ』では「時間についての覚書」という章で、セラピーの時間の流れと、デイケアの時間の流れの違いを図にして表している。何らかの変化を目指すセラピーの時間(線的時間)を↓のような感じ。
 

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同じことが毎日のように繰り返されるデイケアの時間(円環的時間)を↓のような感じで表現している。
 

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 僕らは二つの時間を生きている、一つは線的時間で、それは僕らに物語をもたらす。もう一つは円環的時間で、それは僕らに日常をもたらす。
 
僕が思うに、円環的時間には安心感はあるが、線的時間のような物語が希薄なので、「終わらない日常」への疑問やむなしさを感じやすい。教師をしていると、円環的時間の流れの方を強く感じてしまう。一日単位であれば、授業し、給食を食べ、委員会や部活を見て、生徒の帰らせ、たまった仕事を片付ける。一年単位であれば、入学式があり、遠足があり、運動会があり、合唱祭があり、卒業式があるというのを繰り返す。
 
目の前にいる生徒は、大きく成長するので、線的時間を生きているように見える。彼らはどんどん入学してくるし、どんどん卒業していく。ただ僕ら教師は、この繰り返しからは決して脱出できず、ただ長い長い定点観測を行っているだけではないのか。生徒はどんどん前に進んでいるが、僕自身は一歩も前に進んでいない錯覚に陥るのである。(錯覚ではなく、実際その通りなのかもしれない)
 
僕はここに教師のむなしさを感じずにはいられない。そして、この円環的時間の中に「居る」ことに教師のすべては投入される。「生徒のため」という最強のマジックワードがそれに拍車をかける。
 
心は蝕まれ、教師にとっての学校は「アサイラム」化するのである。
 
 
 
自分の境遇と重ねて読み、最も印象に残ったのは、「居ること」のつらさに心が折れたトンちゃんの次の発見である。
 
 ケアする人がケアされない。そのとき、ブラックなものがあふれ出す。それは僕だけの問題ではない。介護施設もそうだし、児童養護施設もそうだし、学校の先生も、あるいは心理士そのものがそうかもしれない。日本中のケアする施設とケアする人に同じことが起きている。(中略)
 ケアする場所はアサイラムの種子を抱えている。ケアされる人の「いる」は脅かされやすく、同時にそこでケアする人の「いる」も軽視されやすい。
 
アサイラム」とは、「収容所とか、刑務所とか、あるいは古い精神科病院のように、そこに『いる』人を画一的に管理する場所」だそうだ。
 
 アサイラムにあっては「いる」が強制される。刑務所はその典型だ。そこから出ていくことが許されない。そのために、高い塀が築かれ、冷たい牢が当てがわれ、脱走につながる不穏な動きをすぐに察知できるように、隅々まで監視と管理が行きわたる。そうやって、自由が奪われる。「いる」が徹底されると、「いる」はつらくなるのだ。
 
トンちゃんの務めるデイケアでは「いる」ことにつらさに耐えかねた職員が次々と辞めていく。デイケアの「アサイラム」化は、ある「声」によって引き起こされているのだ。その「声」の正体こそ、本書にとって最大の謎である。その「声」とは、一体何なのか……それは本書を手に取ってお確かめ下さい!
 
『居るのはつらいよ』、ケアに関わる人もそうでない人にも非常にお勧めしたい一冊です。ぜひ読んでね。
 
 

「知」と「愛」のバランスの話ー『善の研究』を読んで

 
近頃、「あたま」を使いすぎている。頭蓋骨の間からプスプスと煙が出ている感覚がする。
 
「考える」とか「判断する」といったことにウンザリしているのである。ブルース・リーだって「Don't think. Feel!」と言っていたじゃないか。……感じたことを感じたままに受け入れたい!
 
 
 
土曜の夜、父と母、そして25歳の弟と食事をした。
 
僕の前に座った弟は、「食事中にする話じゃないんだけど」と前置きして、近頃、ビルの高層階のトイレで大便をすることにはまっていると言った。自身のそれが下水管を通ってはるか下に流れていくことを想像するのが快感なんだそうだ。先日は大便をするために、わざわざ東京スカイツリーに登ったらしい。本当に食事中にする話ではない。
 
「ちなみに……」と弟は続けた。「ネットで調べたんだけど、東京スカイツリーくらいの高さになると、流れる大便の落下スピードは最終的に、もし人間に当たったとしたら、その人を殺してしまうほどのスピードになるんだって。だから、スカイツリーの下水管の内側には突起がいくつもあって、流れた物をそれにバウンドさせて、落下スピードを抑えているらしいよ」……話がしょーもなさすぎて、僕は笑ってしまった。そういえば、子供の時から兄弟でこういう下品な話をしていた。
 
「近頃仕事はどうよ?」と僕は聞いた。弟は川崎で一人暮らしをしていて、この休日は実家に帰ってきていた。つい半年前まで地元のスーパーマーケットに勤務していて、そのときは実家から通勤していた。スーパーの仕事は激務で、いつ見ても彼は疲弊している様子だった。
 
店舗勤務のある日の夜、お客さんから店に「買った大根が腐っている」という電話があったそうだ。弟は自転車でそのお宅へ新しい大根を届けに向かった。途中、縁石につまづき、自転車もろとも転倒してしまった。そして、その衝撃で新しい大根は真っ二つに折れてしまったのであった。
 
二つに折れた大根を眺めながら、弟は「この仕事辞めよう」と思ったそうだ。弟は上司に辞意を伝えた。すると、どういうわけか本社勤務を命じられた。弟は辞意を保留し、現在は東京の本社で経理の仕事をしている。
 
本社の仕事は緊張の連続であり、加えて、一人暮らしの生活はかつかつのようで、継続して苦労しているようだった。……みんな生きるの大変そうだなあ。ストレスの中で、スカイツリーでうんこしよう!って発想が生まれてもそりゃあ不思議ではない。
 
バガボンド(21)(モーニングKC)

バガボンド(21)(モーニングKC)

 

 

弟の苦労が自分のことのように感じられ、胸が痛んだ。『バガボンド』で、吉岡清十郎が弟の伝七郎を思って言う台詞が頭をよぎる。
 
兄弟とは不思議なものだな。親子ほど密でなく、男と女ほど絡み合いもしないが、弟がもしも腕を切られたとしたら、俺の腕がもがれたように痛む。
 
この気持ちすごくよくわかるなあ。……でも、どうしてこのような気持ちになるのだろう?
 
食事中、父は孫2人とじゃれ合っていた。父の体調が回復して本当に良かった。昨年のこの頃は、父がうつ病になって大変だった。昨年の僕は父の心の苦しみ、その父を心配する母の不安を「感じ」、なんとかしようと、必死に対話し、考え、動いた。
 
離れて暮らしていても、家族の痛みは自身の痛みであり、家族の喜びは自身の喜びであった。近頃、僕はこのような自然な心の働きに、どういうわけか不思議さを抱かずにはいられなかった。この心の働きを「絆」という言葉で表現しても、まだ甘い気がする。
 
そういった心の動きは人として当たり前であり、疑問を挟む余地もないだろうと思われるかもしれない。しかしながら、息子という欠けがないのない、自身の命だって投げ出せる存在ができた今だからこそ、その当たり前を見つめ直してみたいという気持ちがわき上がってきたのである。
 
 
 
前置きが長くなってしまったけど、今日は『善の研究』の話がしたいんです!!

 

善の研究 <全注釈> (講談社学術文庫)

善の研究 <全注釈> (講談社学術文庫)

 

 

Eテレの「100分de名著」をきっかけに、西田幾多郎哲学書善の研究』を読んだ。僕が不思議を感じている、自身と対象が一致するかのような作用を『善の研究』では「主客合一」という言葉で表している。
 
 知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられて居る。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。しからば如何なる精神作用であるが、一言にて云えば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。

 

主客合一は、「あたま」だけを使って理解しようとしても作用しない。主客合一には、「心」=「いのち」=「愛」の力が必要とされる。
 
また我々が他人の喜憂に対して、全く自他の区別がなく、他人の感ずる所を直ちに自己に感じ、共に笑い共に泣く、この時我は他人を愛しまたこれを知りつつあるのである。
 
今年で僕は30歳になった。30年の間、僕は家族と共に笑い、共に苦しみ、時に憎しみ合ったりした。感情の共有体験を重ねる内に、西田の言うように自他の区別がなくなってしまい、心と心がぴったりと張り付いてしまった。これが「愛」の作用である。
 
西田は、自己が能力を発展し円満なる発達を遂げる「発達完成(self-realization)」こそが、人の「最上の善」であると定義する。しかし、一個人でどれだけ「知」を蓄え、考えても、「発展完成」にはつながらない。「知」と「愛」のバランスの上で、対象(他者)と心を重ね合わせられるようになってはじめて、「発展完成」のきっかけが得られるのである。
 
 
 
ところで、他者と喜怒哀楽を共にするとき、僕の心(=いのち=愛)は、他者のために動いているのと同時に、他者によって動かされている。主語が不明瞭になり、「あたま」で考える前の、能動とも受動とも言いがたいありのままの体験(純粋経験)で感じたこと(もの)こそが「実在」であると西田は言っている(多分)。
 
西田はこの「実在」に神の存在を見いだしている。「愛」の作用でしか神は捕捉できない。そういえば、西田がたたたえている、親鸞の言葉をまとめた『歎異抄』では、ここに阿弥陀仏の不可思議なはたらき(他力)があることを唱え、その存在を感じ、信じることで救われると説いていた。

 

歎異抄 (岩波文庫 青318-2)

歎異抄 (岩波文庫 青318-2)

 

 

「あたま」ばかりを使う毎日に嫌気が差している近頃の僕は、つまり、この「愛」の作用で立ち現れる「実在」とつながっているという意識を常に持っていたいという気持ちが強まっていたのであった。西田は『善の研究』の中で、こう説く。
 
純粋というのは、普通に経験といって居る者もその実は何らかの思想を交えて居るから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じて居るとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。
 
学べば学ぶほど、僕は自身を「思想」「思慮分別」「判断」でガチガチに武装している気がする。そして「心」=「いのち」=「愛」をないがしろにしているのではないか。この武装は非常に利己的な行為であると思う。ありのままの自分や、対象(他者)とのありのままの関係は、「愛」による「利他」「無私」の中でしか立ち現れないのである。
 
僕は『善の研究』を読む中で、「愛」の力を大切にし、「自他合一」の作用に今後注目し続けることを肝に命じた。そして、時間がかかってもいいので、いつか「最上の善」の境地にたどり着きたいと思った。
 
 
 
 
「あたま」を使うことにウンザリしていると書いたが、やっぱり考えることは楽しい作業でもある。『善の研究』は難解であったが、「あたま」を働かせ、考え、理解しようとする試みは心躍った。学んだことが腑に落ちることは、学ぶことの最上の喜びである。
 
しかしながら、何度も書くが、「知」と「愛」(=「心」=「いのち」)のバランスを大事にしたい。頭と心で学びと向き合っていきたいのである。
 
「100分de名著」の解説がかなり『善の研究』の理解の助けとなった(今最もハマっている番組!)。この番組でも紹介された西田幾多郎の名言を最後に記しておきます。
 
学問は畢竟lifeの為なり、lifeが第一の事なり、lifeなき学問は無用なり。急いで書物をよむべからず。

 

西田幾多郎 『善の研究』 2019年10月 (NHK100分de名著)

西田幾多郎 『善の研究』 2019年10月 (NHK100分de名著)

 

 

 

オーディオブックの衝撃

 
今年の目標の一つは本を100冊読むことであったが、年末までにその目標を達成できないであろうことは明白であった。言い訳をするが、本を読む余裕がないのだ。学生のころであれば、年間100冊くらいなら、なんなくクリアできたであろうが、自身の今の生活を顧みると、生来の遅読に加え、本を読むための時間がちゃんと確保できていないのであった。
 
◇平均的なゴロネの一日◇
 
  5:30〜  6:00 起床、出勤の準備
  6:00〜  6:30 読書
  6:30〜  7:30 通勤(自動車)
  7:30〜19:30 仕事(休憩なし)
19:30〜20:30 帰宅
20:30〜21:00 夕飯
21:00〜21:30 風呂(子供2人を入れる)
21:30〜22:00 子供と遊ぶ(そして子供就寝)
22:00〜23:00 読書、就寝
 
平日の読書時間は大体1時間半くらい。仕事がもっと長引くことはあるし、仕事の疲れで読書ができなくなることもある。休日は3時間ほど本を読む。もっと読書時間を増やしたい!
 
ということで、運転しながらでも読書(に近いこと)ができるオーディオブックにチャレンジしてみた。
 
様々なオーディオブックのプラットフォームがあるが、日頃amazonに頼って文化生活を楽しんでいるということもあり、amazonが運営する、Audible(オーディブル)を試してみた。
 
 
僕は基本1日2時間運転しているので、運転中に本が聴けるのは、オーディオブックの大きなメリットである。しかし、心配なこともある。オーディオブックでは、聞き流してしまったり、話が理解できなかったりすることが頻繁に発生しそうな気がする。普通の読書以上に集中力が必要とされるのではないか。
 
……と思っていたが、実際にオーディオブックを聴いてみると、本の内容にかなり没入できた。
 
最初にダウンロードしたのは、第155回芥川賞を受賞した『コンビニ人間』(村田沙耶香)である。以前から読みたいと思っていた。

 

コンビニ人間 (文春文庫)

コンビニ人間 (文春文庫)

 

 

朗読はお笑いタレントの大久保佳代子さん。レビューでは、その朗読に批判的な意見が少なからずあったが、僕は彼女の声に非常に好感が持てた。その朗読によって、物語の場面の一つひとつがありありと想像できた。
 
登場人物の一人である白羽の「この世界は異物を認めない」という台詞が頭から離れない。36歳未婚、コンビニバイト18年の女性主人公に、「普通」を押しつけようとしたり、「普通」に矯正させようとするありがた迷惑な人々がなんと多いことか。世間の「普通」と自身の「普通」のずれてしまったときの社会の恐ろしさを小説は淡々と描いている。僕も誰かに「普通」(と信じているもの)を強制していないだろうかと、自身のコミュニーケーションのあり方を問い直すことができた。…
 
…いやはや、素晴らしい小説です。
 
 
コンビニ人間』を読み終えてからも、次々と本を聴いている。オーディオブックは本なのかという議論は横においといて、とりあえず、今までとは比べものにならないほどのかなりのハイペースで近頃本を読了(聴了?)しているのであった。
 
ただAudibleは、月額1500円も払っているのに、毎月1ポイントしか得られないところが不満。1ポイントでダウンロードできるのは1冊のみである。それ以上の冊数を聴きたい場合は、別途購入しなくてはならない。お金がかかりすぎる。
 
オーディオブックそれ自体は非常に気に入ったので、Audible以外のプラットフォームも試してみたいと思います。
 

『人生論ノート』の「孤独について」の章を読んで考えたこと

 
孤独は山にはなく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである。「真空の恐怖」ーそれは物質のものでなくて人間のものである。

  

人生論ノート (新潮文庫)

人生論ノート (新潮文庫)

 

 

哲学者、社会評論家、文学者である三木清(1897-1945)の論文集『人生論ノート』を読んだ。その中でも特に現在の自分の心に深く刺さったのは、「孤独について」の章である。
 
「孤独には美的な誘惑がある。」と三木は言う。確かに僕たちはふとしたとき、一人になりたいと思う。そこで、じっくり物事と向き合い、自分を見つめ直したいと願う。
 
僕は何よりこの孤独の瞬間が好きだ。この瞬間が永遠にやってこないとしたら、きっと気が狂ってしまうだろう。
 
三木は孤独について、「物が真に表現的なものとして我々に迫るのは孤独においてである。そして我々が孤独を超えることができるのはその呼び掛けに応える自己の表現活動においてほかならない。」、「表現することは物を救うことであり、物を救うことによって自己を救うことである。かようにして、孤独は最も深い愛に根差している。そこに孤独の実在性がある。」と結論づけている。
 
僕はこれを、意図のあるなしに関わらず到来した孤独の瞬間でなければ、周囲の世界をじっくり観察し、深く理解し、それに応じたリアクションを取ることはできないと言っているのだと解釈した。そして、世界を自分なりに解釈することは、自身を理解し、救済することの助けとなる。孤独の実在性を非常に肯定的にとらえる三木の論は、少々難解ながらも、僕の腑にすとんと落ちるところがあった。
 
 
 
で、孤独がとっても好きな僕ではあるが、何より恐れているものも孤独であることに間違いはなかった。孤独は様々なことを教えてくれる人生の薬ではあるが、毒にもなり得る。
 
家族に囲まれ、信頼できる友達も数人はいて、ある程度現在の人間関係に満足しているからこそ、僕は「孤独が好き」とか余裕こいた発言ができているのではなかろうか。全然気にならない人もいると思うが、他人とのつながりが薄く、孤独な状態が長期的に続いてしまうのはやっぱり精神的にキツい。そのとき僕は「孤独が好き」なぞときっと言えないだろう。
 
孤独な状態が長く続くと、どうしてもリアルな場でのつながりが恋しくなる。フリーター時代、プライベートでも社会生活でも他者との関わりが少なく、SNSやオンラインゲームに耽溺していたが、この孤独の寂しさは、ネットコミュニケーションでは決して紛らわすことはできなかった。僕の場合、インターネットは、現実を豊かにすることはあったかもしれないが、現実の代わりにはなり得なかった。
 
今の社会は手に持つスマホでいつでもつながれる状態にありながらも、孤独な人が多すぎる気がする。ネットやテレビを見ると、悲しい事件のニュースばかりよく目にするが、その背景には孤独の末の「孤立」が多くある気がしてならない。昭和三十年代を描いた『ALWAYS 三丁目の夕日』では、どんな人でも地域を構成する大事なメンバーとして認められる、「貧しくても心豊かな」「不自由でも温かみのある」東京下町が描かれていた。あの時代を美化しすぎだろという批判もあるが、家族や友達や地域の人とのリアルなつながりがしっかりとあり、「自分はひとりじゃない」という感覚があるのは、多少煩わしさがあっても、やっぱり安心感があるし、充実感がある。
 
孤立に陥らないためには、結局のところ、コミュニケーションのあり方を変えてくしかない。SNSのような島宇宙だけにとどまるのではなく、仕事や地域で出会う価値観の異なった他者と共働し、コミュニケーションの経験値を積み、リアルな他者とつながる方法を身につけなくてはならない。そして、孤立する人をなるべく作らず、自分のできる範囲でいいので、困った人に手を差し伸べていくことが必要である。
 
人間関係のリアルな温かみがなくなってしまうと、孤独は、社会を蝕み、自分を蝕む強力な毒へと変化してしまう。
 
 
 
人間関係を充実させてこそ、孤独は初めて、その本当の力、人に活力を与える力を発揮させるのではないか。三木は「孤独は山にはなく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の『間』にある」と説く。
 
孤立して、「孤独しかない」という状況は絶望でしかない。他者とのつながりがある中で、「孤独もいつでも選択できる」人生である方が、大きな希望を感じさせてくれると僕は考えているのである。

 

 

 

あ〜そこは亀有〜♪ あ〜きっと亀有〜♪ の写真

浅草観光の帰りの車で、僕は運転しながら、浅草には両津勘吉の実家の佃煮屋があるんだという話をきっかけとして、妻に『こちら葛飾区亀有公園前』の魅力を熱く語った。妻は小学2年生まで亀有に実際暮らしていたのだそうだが、『こち亀』のことを知ってはいても、さほど興味はない。僕は「『こち亀』を読まないなんて勿体ない! 読んで! あの回のあの場面がめちゃくちゃ笑えて……」と帰り道の2時間ほどをほぼ一方的に憑かれたように喋りまくった。僕の「こち亀」への熱意に押し負けたのか、妻は第1巻から渋々読み始めた(全200巻読み終えるのにどのくらいかかるでしょうか)。

 

妻が幼少期に過ごした場所であり、「こち亀」の聖地である亀有を、今度の週末に家族で散策しようという話になり、実際に行ってきました。そのときに撮った「こち亀」キャラクターの像の写真を貼り貼りします。

 

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亀有の和菓子店の老舗、「伊勢屋」で両さんどら焼きを買いました。

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佐藤製薬のサトちゃんも両さんに!

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食事は食堂「ときわ」でいただきました。美味しかった。

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こち亀』に特にハマっていたのは高校生の頃。部室に『こち亀』が置いてあり、部活前にゲラゲラ笑いながら読んでいたのを覚えている。自分でも、お小遣いを節約して、全巻収集したのが良い思い出。一度、『こち亀』の作者である秋本治先生を秋葉原でお見かけして、感動と緊張でフリーズしてしまったことがあるなあ。

 

「特に面白い回は?」と聞かれると、面白い回は数え切れないほどあるので困るのだが、あえて一つあげるとすれば、両津勘吉の粗暴さがよく出ている第77巻の「本日より『食いだおれ』店勤務に処す!の巻」。

 

 

両津勘吉葛飾署の隣に出来た食堂に、署の命令で勤務することになる。署に出前を届けに行った両津は、バイト姿をバカにしてきた署員に回し蹴りを食らわし気絶させる、横柄な態度を取った署員にラーメンをかける、出前をフリスビーのように投げるなど、もうめちゃくちゃである。さらに、取調室にカツ丼を届けに行った両津……。

 

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取り調べを受けている男は、「こんなまずそうなカツ丼が食えるか!」とカツ丼をひっくり返す。それにキレた両津は、刑事に向かって「君はまだ新人だね! 調べ方がいかんな! それじゃあ」「君は言葉が多すぎる 私が手本を見せよう」と言って……

 

バギィ、ドガ

 

1回だけでなく、立ち上がらせて、2回男を殴りつけるのである。震え上がる男。『その男、凶暴につき』の吾妻刑事ばりの危険人物っぷりである。この後も、出前の両さんは署内で数々の悪事を働きます。

 

こち亀』の連載が終了してから、ジャンプも買わなくなっちゃったなあ。……みなさんが好きな『こち亀』のお話はどの回でしょうか?

キャンプなど友達と遊んだ話

 
木曜の夜、ヒゲ(あだ名)が自宅にやってきた。ヒゲは高校時代からの友人であり、高校生の頃から髭を蓄えていた。『SLAM DUNK』の野間忠一郎みたいに。
 

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野間忠一郎
 
現在、ヒゲの奥さんと1歳のお子さんは実家に帰っていて、彼は暇らしい(なぜ実家に帰っているのかは言わなかったし、僕も聞かなかった)。彼と僕は、僕の妻が作った手羽先の唐揚げなどをつまみに、缶ビールと缶チューハイを飲んだ。つまみをこしらえ終えた妻は「ファミレスで勉強してくるわ」と言って、外出してしまった。
 
僕は、2歳の息子・ハルタと7ヶ月の息子・レイの世話をヒゲに任せ、『仮面ライダー』のDVDを観た。近頃、デアゴスティーニの「仮面ライダーDVDコレクション」を集めている。この日に見た回の仮面ライダーの敵は「殺人女王蟻アリキメデス」であった。がんばれ! 一文字隼人!!
 
ハルタは相手をしてくれているヒゲに「アンパンマンアンパンマン」と連呼していた。ハルタは一日に320回くらい「アンパンマン」という単語を発する)。それに辟易している様子のヒゲはハルタにゲームを提案した。

 

「ハルちゃんさあ。今から『アンパンマン』我慢ゲームしよ。『アンパンマン』って言ったら、罰ゲームでくすぐるからね」

 

ハルタはそれを聞いて五秒ほど黙ったあと、「……アンパンマン」と呟き、ヒゲにくすぐられていた。

 

2時間ほどして妻が帰ってきたので、「外行くべ」とヒゲを誘い、二人で近所のショットバーに入店した。そこは僕らの行きつけのバーであり、僕ら以外の客がいることはほぼない。

 

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マスターは話好きで、映画好き。この日はスティーブ・マックイーンのかっこよさ、渋さについてマスターは熱く語っていた。サム・ペキンパーの『ゲッタウェイ』での彼が最高だそうだ。僕はフランクリン・J・シャフナーの『パピヨン』での彼もいいですよねと言ったが、酷評された。

 

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ヒゲの終電が近づいてきたので、僕たちは店を出た。別れ際、ヒゲが休日のキャンプのために、スモークベーコンを仕込んでいると言った。酔っ払っていた僕は足をふらつかせながら、家に帰った。

 

スモーク・ベーコン……偉人っぽい名である🥓

 

 

 

週末のキャンプに、僕は率先して車を出した。最近運転が楽しい。山名湖の周辺でほうとうを食べて腹ごしらえし、キャンプ場に向かった。
 

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キャンプのメンバーは僕とヒゲを含めた高校時代の男仲間の6人。キャンプ場ではコテージを借りた。

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ヒゲは早速スモークベーコンの準備に取りかかり、ベーコンにひもをくくりつけ、段ボールの中にぶら下げ、それをスモークチップで燻した。燻製の間、僕たちはドッヂビーをした。大いに盛り上がり、汗をかき、腹を空かせた。
 

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コテージに戻ると、ヒゲは持ってきたコーヒー豆を煎り、ミルで砕き、コーヒーを入れた。僕はゲームを提案し、ボスの缶コーヒー(ブラック)を自動販売機で買いに行き、コテージに戻った。どちらがヒゲが手間をかけて入れたコーヒーか、ただの缶コーヒーを当てるゲームである。
 

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ゲームマスターをノッポ(あだ名)にお願いした。ノッポは①、②とそれぞれ書かれた2つの紙コップの一方にヒゲのコーヒー、缶コーヒーを入れた。もちろんノッポ以外の男達はどちらにどちらのコーヒーを入れたのかはわからない。
 
僕はこのゲームにけっこー自信があった。自分で淹れるほどではないが、一日一杯以上はコーヒーを飲む、まあまあのコーヒー好きである。仲間達は①、②、それぞれのコーヒーを飲み、首をかしげている。そして僕の番が回ってきた。香りを嗅ぎ、それぞれのコーヒーを飲んだ。
 
……わ、わかんねえ~。自信満々だった自分が恥ずかしい。違いは確かにあるのだが、どっちもおいしいし、どちらがどちらのなのかは自信を持って答えられない。ノッポは言った。
 
「ヒゲの入れたコーヒーが①だと思う人、挙手!」
 
僕は思いきって手を挙げた。①の方が香りがよかった……気がする。まわりを見たが、3人手を挙げている。3対3! あ、ヒゲが手を挙げている!……僕は安堵した。
 
「ヒゲの入れたコーヒーは、………………①です!!」とノッポ。
 
……やったあ!!僕は子供のように喜んでしまった。ひやひやしたぜ。
 
ヒゲは「外したやつには、もったいなくておれのコーヒーは飲ませられん」と言った。僕もぎりぎりまで迷ったことはおくびにも出さず、ヒゲのコーヒーを飲みながら「缶コーヒーとの違いがわからないなんて、ガキだな」と言った。
 
夕方になり、バーベキューを始め、スモークベーコンを食べた。……う、うまい。やわらかいし、なにより香りがいい。

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買い込んだ食材を大方食べ終えると、酒を飲みながら、アプリを使ってなぞなぞしたり、段ボールを燃やしたりして遊んだ。
 
高校を卒業して12年になる。皆それぞれ、それなりの苦労をしてきたし、現在もしているが、中身はそれほど変わっていない。人生をまずまず楽しんでいる。家族を家に残してキャンプに来たのは少々罪悪感はあったが、たまにこうやって気の置けない男友達だけで集まって遊ぶのはやっぱり楽しかった。
 
ひとしきり騒ぐと、倒れるように眠った。翌朝、キャンプ場を出て、温泉に入り、帰った。
 
 
 
キャンプから帰ると、20代が終わり、30歳になった。
 
28歳の誕生日から始めたこのブログも、3年目に入ったことになる。