ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

『人生論ノート』の「孤独について」の章を読んで考えたこと

 
孤独は山にはなく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである。「真空の恐怖」ーそれは物質のものでなくて人間のものである。

  

人生論ノート (新潮文庫)

人生論ノート (新潮文庫)

 

 

哲学者、社会評論家、文学者である三木清(1897-1945)の論文集『人生論ノート』を読んだ。その中でも特に現在の自分の心に深く刺さったのは、「孤独について」の章である。
 
「孤独には美的な誘惑がある。」と三木は言う。確かに僕たちはふとしたとき、一人になりたいと思う。そこで、じっくり物事と向き合い、自分を見つめ直したいと願う。
 
僕は何よりこの孤独の瞬間が好きだ。この瞬間が永遠にやってこないとしたら、きっと気が狂ってしまうだろう。
 
三木は孤独について、「物が真に表現的なものとして我々に迫るのは孤独においてである。そして我々が孤独を超えることができるのはその呼び掛けに応える自己の表現活動においてほかならない。」、「表現することは物を救うことであり、物を救うことによって自己を救うことである。かようにして、孤独は最も深い愛に根差している。そこに孤独の実在性がある。」と結論づけている。
 
僕はこれを、意図のあるなしに関わらず到来した孤独の瞬間でなければ、周囲の世界をじっくり観察し、深く理解し、それに応じたリアクションを取ることはできないと言っているのだと解釈した。そして、世界を自分なりに解釈することは、自身を理解し、救済することの助けとなる。孤独の実在性を非常に肯定的にとらえる三木の論は、少々難解ながらも、僕の腑にすとんと落ちるところがあった。
 
 
 
で、孤独がとっても好きな僕ではあるが、何より恐れているものも孤独であることに間違いはなかった。孤独は様々なことを教えてくれる人生の薬ではあるが、毒にもなり得る。
 
家族に囲まれ、信頼できる友達も数人はいて、ある程度現在の人間関係に満足しているからこそ、僕は「孤独が好き」とか余裕こいた発言ができているのではなかろうか。全然気にならない人もいると思うが、他人とのつながりが薄く、孤独な状態が長期的に続いてしまうのはやっぱり精神的にキツい。そのとき僕は「孤独が好き」なぞときっと言えないだろう。
 
孤独な状態が長く続くと、どうしてもリアルな場でのつながりが恋しくなる。フリーター時代、プライベートでも社会生活でも他者との関わりが少なく、SNSやオンラインゲームに耽溺していたが、この孤独の寂しさは、ネットコミュニケーションでは決して紛らわすことはできなかった。僕の場合、インターネットは、現実を豊かにすることはあったかもしれないが、現実の代わりにはなり得なかった。
 
今の社会は手に持つスマホでいつでもつながれる状態にありながらも、孤独な人が多すぎる気がする。ネットやテレビを見ると、悲しい事件のニュースばかりよく目にするが、その背景には孤独の末の「孤立」が多くある気がしてならない。昭和三十年代を描いた『ALWAYS 三丁目の夕日』では、どんな人でも地域を構成する大事なメンバーとして認められる、「貧しくても心豊かな」「不自由でも温かみのある」東京下町が描かれていた。あの時代を美化しすぎだろという批判もあるが、家族や友達や地域の人とのリアルなつながりがしっかりとあり、「自分はひとりじゃない」という感覚があるのは、多少煩わしさがあっても、やっぱり安心感があるし、充実感がある。
 
孤立に陥らないためには、結局のところ、コミュニケーションのあり方を変えてくしかない。SNSのような島宇宙だけにとどまるのではなく、仕事や地域で出会う価値観の異なった他者と共働し、コミュニケーションの経験値を積み、リアルな他者とつながる方法を身につけなくてはならない。そして、孤立する人をなるべく作らず、自分のできる範囲でいいので、困った人に手を差し伸べていくことが必要である。
 
人間関係のリアルな温かみがなくなってしまうと、孤独は、社会を蝕み、自分を蝕む強力な毒へと変化してしまう。
 
 
 
人間関係を充実させてこそ、孤独は初めて、その本当の力、人に活力を与える力を発揮させるのではないか。三木は「孤独は山にはなく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の『間』にある」と説く。
 
孤立して、「孤独しかない」という状況は絶望でしかない。他者とのつながりがある中で、「孤独もいつでも選択できる」人生である方が、大きな希望を感じさせてくれると僕は考えているのである。