ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

「おうち時間」に全然退屈を感じないという話

お題「#おうち時間

 

 

元々インドア派なので、この外出自粛の状況でも全く鬱々とした気分にはならず、「おうち時間」をかなり楽しんでいる。

 

確かに少々は不安なこと、困っていることがないわけでもないが、心の状態はいつになく平穏である。仕事をしている時間が相対的に減ったことも関係しているだろう。コロナ禍以前は当たり前にあった休日出勤もなくなり、休日にちゃんと休むことの大切さを噛みしめている。会社の飲み会がなくなったのも嬉しい。

 

大幅に増えた「おうち時間」で、家事、育児、仕事のための自己研鑽、趣味活動に精を出している。趣味活動はやっぱり読書が中心である。積み本が順調に減っている。

 

読書は隙間時間に分割してできるからいい。独身のときは映画漬けの生活だったので、本当は家で映画を視聴したいのだけど、それは諦めている。元気いっぱいの幼児が家に2人いるので、約2時間を集中して見ることは難しい。

 

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あと久しぶりにゲームをやっている。Switch版の『三國志13』。同じコーエーが制作する『信長の野望』はプレイしたことはあるけど、『三國志』シリーズのプレイは初めて。

 

三國志13 with パワーアップキット - Switch

三國志13 with パワーアップキット - Switch

  • 発売日: 2017/03/30
  • メディア: Video Game
 

 

現在「三国志」を勉強中で、勉強を兼ねてこのゲームを購入しようかどうかを考えていたところ、先日24日、コーエー京都市に3000万円を寄付したというニュースを見てちょっぴり感動し、購入してしまった。

 

mainichi.jp

 

ゲームのシステムを段々と理解し、面白くなってきた。子供が寝静まったあと、夜な夜なプレイをしている。関羽好き。

 

 

 

今から10年ほど前の大学生のときは、現在よりもっと時間と自由があってインドア活動に励んでいたが、正直心から楽しめてはいなかった。恵まれた環境にいる人間の贅沢な悩みかもしれないが、日常があまりに平凡で、とにかく退屈を感じずにはいられなかった。好きなことをやっていても、暇つぶしに取り組んでるような気がしてならないのである。

 

近頃ラッセルの『幸福論』を読んでいる。『幸福論』は退屈の正体を的確につかんでいる。

 

幸福論(ラッセル) (岩波文庫)

幸福論(ラッセル) (岩波文庫)

 

 

退屈は、本質的には、事件を望む気持ちのくじかれたものだ。事件といっても、必ずしも愉快なものでなくてもいい。要は、倦怠の犠牲者にとって、きょうと、きのうを区別してくれるような事件であればいいのだ。ひと言で言えば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮である。

 

まさしくこれである。学生時代の僕は自身の退屈をくじく「事件」を心待ちにしていた。しかしながら、かといって「事件」に遭遇するために外の世界に関わっていこうとする積極性と勇気を持ち合わせておらず、棚ぼた的に「事件」がやってこないないかなあと口をぱくぱくしながら待っている、まあ本当にどうしようもない人間であった。

 

そういう人間にとって退屈はより一層つらい。退屈は自身の興味を内側に向かわせがちである。自分とはどういう人間なのか? 自分が本当に望んでいることは何なのか? 自分の生の価値とは? ……こんなことばかり一人で考えていた。こんなこと考えたって「自分」なぞ見つかるはずもなく、むしろ「自分」を見失うに過ぎず、不安しか生まない。

 

もちろん誰かに貢献しているなんて感覚もなかった。不安で自分に自信がなく、新しいコミュニティに飛び込もうとか関わろうとかせず、「孤独を楽しむおれ」を演じてみる。ところが、自分ばかりを見つめ、他者には何も与えようとしないくせに、心の内では他者からの承認を実は何よりも求めているというこじらせっぷりであった。これで日常が楽しくなるはずがない。

 

 

 

大人になってからの日常のほうが断然楽しい。それは働き始めたことや、家庭を作ったことで、自分の社会的な役割を実感できるようにようになったことが大きく関係しているように思える。会社では会社を動かす社員の一人であり、家庭では夫、父親の役割をになっている。

 

社会的な役割があると、興味は外に向きがちである。例えば、育児をする中で子供はよく熱を出すが、そんなときは親として心配になり、必死に看病する。無心で役割を実行しているときに「自分とは何か?」なんて考える暇はない。

 

ラッセルは「私たちの情熱と興味が内でなく、外へ向けられているかぎり、幸福をつかむことができる」と説く。僕は社会的な役割ができ、興味が外に向かったことで、初めて自分の価値観がわかり、自分自身で自分を承認できるようになった気がする。それは確かに幸福なことだ。「自分とは何か?」といった問いの答えは自分の中をいくら探してもなく、社会との、他者との関係性の中に見つけることができるのである。

 

ありのままの自分を認められるようになることが、すなわち大人になることなのかもしれない。この自己承認の安心感があると、「事件」がない平凡な日常も十分楽しめ、強い興奮も求めなくなる。

 

社会的な役割がある生活の中でたまにやってくる自分だけの時間は最高である。その時間では、自分は何をしたいのか、何をすべきなのかというのがすぐに見つけることができるし、退屈を感じずにその取り組みに没頭できるようになった。

 

 

 

くだらない自分語りが長くなってしまったが、要するに、興味が内側ばかりでなく、外側に向くようになったことで、やっと自分の価値観が分かり、心が求める声がクリアに聞こえるようになったということである。

 

心の声は「おうち時間、最高!」と今のところ言っています。