「普通」は移ろいやすいの話ー『生命式』など読んで
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4月から妻が仕事に復帰するため、3歳になる長男と1歳の次男が保育園に入園することになり、今週から慣らし保育が始まった。
今週の預ける時間は、1日1時間半だけなのであるが、初日からドキドキしちゃった。初日とあって、妻と自分の2人で子供の送り迎えを行なった。預けるとき、子供は泣くかと思ったが、2人とも泣かなかった。それも寂しい(ちなみに僕は泣きそうだった)。
預けている間に、僕と妻はデニーズに行き、いちごパフェを食べた。僕はいちご系スイーツが三度の飯より好きである。
そういえば、妻と2人きりになるのは久しぶりである。少し戸惑う。仕事や子供の話をした。しゃべっている間も、息子2人の様子が気になってしょうがなかった。
迎えに行くと、次男は僕たちの顔を見て、ちょっと泣いた。そして長男は……、「かえりたくない!もっとおともだちとあそびたい!」と言って、泣いて暴れた。宥めて、家に連れ帰るのが大変であった。
保育園の先生曰く、2人とも楽しそうに過ごしていたそうな。心配していたが、スムーズに保育園児になれそうである。
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「来年度から、子供の送り迎えがあるので、少し遅れて出社することや、早めに退勤することがあると思います」と上司に伝えたが、すんなり受け入れてくれた。
うちの会社は結構寛容であるが、まだまだ男性が育児に積極的に関わることに難色を示す企業は多いと聞く。「なんで男の君が子供の送り迎えするの? そういのは奥さんにやってもらわなきゃ」とか言われちゃうのだ。
しかし、一昔前に比べると、男性が育児に関わることへの寛容さが社会全体に広がってきているように思う。夫婦共働きの家庭が増える中で、育児は女性が主で行い、男性が副で行う、あるいは全く行わないというのは不平等であるし、時代遅れだ。
「男だから」「女だから」といった言葉も非常に言いづらくなった感もある。僕自身、教育テレビの「おかあさんといっしょ」とか、オムツのCMの「先輩ママさんに選ばれています!」とかに、「これって男女差別じゃない?」と憤りを感じるほどではないものの、敏感に反応するようになった。
20年前、いや、10年前であれば、こんなにジェンダー表現を気にすることはなかっただろう。以前であれば「男だから」「女だから」といった言葉は普通に使われていた。
「普通」は移ろいやすい。
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さて、ここからは本の話。
「普通」って何? ってことを強く考えさせてくれる小説家が村田沙耶香である。彼女の短編小説『生命式』を読んだ。
この小説の世界では、葬式は「生命式」と呼ばれている。生命式とは、死んだ人間を食べながら、男女が受精相手を探し、相手を見つけたら2人で式から退場してどこかで受精を行う式である。「死から生を生む」というスタンスで生命式は行われている。
「死んだ人間を食べる」というのはギョッとする設定であるが、この世界ではこの生命式が執り行われることが「普通」のこととなっている。しかし、この世界でも、30年くらい前までは、人間を食べることは禁忌とされていた。
主人公の池谷は、倫理観が30年前とすっかり変わってしまったことに違和感を持っている。その違和感を、仲の良い同僚の山本にぶつけると、こう諭される。
「真面目な話さあ。世界ってだな。常識とか、本能とか、倫理とか、確固たるものみたいにみんな言うけどさ。実際には変容していくもんだと思うよ。お前が感じてるみたいにここ最近いきなりの話じゃなくてさ。ずっと昔から、変容し続けてきたんだよ」
「俺はさー。今の世界、悪くないって思うよ。きっと、お前が覚えてる、30年前の世界も悪くなかったんだと思う。世界はずっとグラデーションしてっててさ、今の世界は、一瞬の色彩なんだよ」
そうだ、僕たちが今確固たるものだと信じているものは、全然確固たるものなんかではなく、いつのまにか変容してしまう可能性は十分にある。
山本は突然事故死する。友人のよしみで、池谷は彼の生命式を手伝うことになる……。生命式の手伝いを終えたばかりの彼女は、鎌倉の海でゲイの青年に出会い、そこでもまた倫理観の移ろいへの戸惑いを口にする。
「30年くらい前のことって、覚えていますか?」
(中略)
「もし、そのころの人たちが、今、山本をカシューナッツ炒めにして食べている私たちを見たら、発狂してるって思うと思いますか?」
少し考えて、男性は頷いた。
「はい。そうだと思います」
「そのこと、変だって思いますか? 世界はこんなにどんどん変わって、何が正しいのかわからなくて、その中で、こんなふうに、世界を信じて私たちは山本を食べている。そんな自分たちを、おかしいって思いますか?」
男性は首を横にふった。
「いえ、思いません。だって、正常は発狂の一種でしょう? この世で唯一の、許される発狂を正常と呼ぶんだって、僕は思います」
正常は発狂の一種……。この世で唯一の、許される発狂を正常と呼ぶ。
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最近、草間彌生の作品集や関連書籍を読んでる。
草間彌生の作品や考え方には既成概念を揺さぶれる。今ではコアなファンがいる彼女であるが、若い頃、その表現のどぎつさは、理解されない、受け入れられないことが多かったようだ。こういう表現者たちの戦いが「普通」の外にあったものを、「普通」の内側に織り込んでいくのである。
芸術や文学は、効率社会の中では、残念ながら「無駄なもの」として切り捨てられてしまうことがよくある。しかしながら、芸術や文学こそが、パラダイムシフトを引き起こす、そして、確固たるものを変容させる大きなパワーを持っているんじゃないかなと思う。今の「普通」が辛い人にとって、芸術や文学は欠かすことはできない役割を担っている。