ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

2019年上半期に読んだ、心に残る10冊の本

今週のお題「2019年上半期」

 

今年の上半期は、インフルエンザになったり、次男が生れたり、牛乳パックで椅子を作成したり、元号が変わって気持ちを新たにしたり、家族でピクニックに行ったり、財布をなくしたりと様々なことがあったが、おおむね充実した毎日だった。仕事も忙しく、読書の時間がなかなか確保できなかったが、数分でも必ず毎日読書をするようにしていた。

 

2019年上半期に読んだ本の中から、心に残った本を10冊紹介します。

 

 

『舞踏会・蜜柑』(芥川龍之介

舞踏会・蜜柑 (角川文庫)舞踏会・蜜柑 (角川文庫)

 

2月にインフルエンザになったとき、出勤停止となり、妊婦の妻と幼い長男に菌をうつさないために5日間自室に引きこもっていた(結局家族全員にうつしてしまった)。引きこもっているとき、どういうわけか芥川が読みたくなり、何冊か文庫本を読んだ。『舞踏会・蜜柑』はその内の一冊。

『舞踏会』は、三島由紀夫が「青春の只中に自然に洩れる死の溜息のよう」と評したそうだ。三島の評は意味がいまいちつかみかねるが、この小説の輝きとそのはかなさは酔いを覚えるような感覚であり、若く美しい令嬢とフランスの海軍将校の優美な交流の情景がありありと浮かんでくる。

この本の中でもっとも僕が好きな一編は『魔術』。平凡な男である「私」が、インド人の魔術の大家マティラム・ミスラに「欲を捨てる」ことを条件に魔術を教わる……というお話。力と欲望という切っても切れない強い結びつきについて考えさせられる。

Youtubeで『魔術』のアニメを見つけた。1978年から1979年に放送されていたテレビアニメ「まんがこどの文庫」シリーズのひとつである。絵のタッチが不気味で物語にマッチしているし、10分ほどに短くまとまっているので非常にいい。

m.youtube.com

 

 

『野火』(大岡昇平

野火(のび) (新潮文庫)野火(のび) (新潮文庫)

 

頭をガツンと鈍器で殴られたような強い衝撃を受けた。舞台は太平洋戦争のフィリピン戦線。わずか数本の芋を渡されて本隊を追放された田村一等兵が主人公。

戦場で極度の飢えに陥った田村は、狂う。彼は自分を含めた人間の身勝手で愚かな振る舞いに強い憤りを感じる。そして思考は飛躍する。彼は自身を神の代行者、つまり「天使」であると自覚するのである。そして、その倒錯した使命感から、人肉を食する獣に堕ちてしまった同胞を殺害してしまう。

自身の選択で獣に堕ちるくらいなら、狂ったほうがましであると思う。強い欲望から人間として決して許されない行為に足を踏み入れそうになったとき、自身を抑制する部分が自身の中から立ち現われてくれるであろうか。僕には自信がない。……戦争が怖くて怖くて堪らない。

 

 

『螺旋の手術室』(知念実希人

螺旋の手術室 (新潮文庫)螺旋の手術室 (新潮文庫)

 

医療ミステリ好きの先輩が職場にいて、その人に「これを読もう」と勧められたので、借りた。フィクションの世界では病院でよく殺人事件が起きるけど、それは医療と生死がとても近いところにあるからかしらん。 

『螺旋の手術』のストーリーテーリングの巧みさには舌を巻いた。主人公のまっすぐさや、彼を取り巻く家族の心の機微が非常にリアルに感じられたのである。同時に、一つひとつ手がかりが明らかになりながらも、より謎が深まっていく展開には、非常にドキドキさせられた。とにかく先の展開が知りたくてたまらなくなり、時間も忘れ、ページを繰った。眠けも吹き飛ばす面白さ。

 

 

『POWER』(ナオミ・オルダーマン)

パワーパワー

 

物語は、数人の特別な少女たちが突然変異で特別なパワーを持ち始めるところから始まる。その「パワー」とは……電撃である。

女性の鎖骨部分にスケインという新たな臓器が発達し、そこから発電して、相手を感電させることができる。このパワーを扱える女性はどんどんと増え、男性優位社会に反逆を起こす。男女の力関係が逆転し始めるのである。

女性による革命が起こり、時代が移り変わる中で、男性は性的に陵辱されたり、次々と殺されたりする。生物の肉体は電気信号で動いている。スケインを持った女性は、男性が性交を拒否しても、電撃で強制的に勃起させ、レイプすることができる。とある地域では、男性は性奴隷として扱われている。その地域を支配する女性からは男性を間引きする案が出るようになる。男性は「抵抗」などできるはずもないだろう。抵抗すれば、電撃によって激痛を与えられたり、焼き殺されたりするのだから。

男性である自分にとっては、本書を読んで大きな恐怖感を抱かずにはいられなかった。しかし、この恐怖はまさしく現実の社会で女性が抱いているそれであるのだ。

 

 

『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

 

ガブリエルが本書で主張するのは、「新しい実在論」である。「新しい実在論」はこれまでの形而上学構築主義といった認識論と存在論を刷新する考え方である。「新しい実在論」は、「わたしたちは物および事実それ自体を認識することができる」ということと「物および事実それ自体は唯一の対象領域(→意味の場)にだけ属するわけではない」ということのテーゼからなる主張である。

前者のテーゼも面白いが、特に後者のそれに僕は面白さを感じた。物や事実などの存在は、無限の意味の場に現れることができる。ガブリエルは、わたしたちが認識する物事は、どれも一面の意味に過ぎない、しかし、意味は尽きることはなく、見方によって多様な意味に出会える可能性があると言う。想像力(創造力)を使って捉え方を変えることによって、物や事実の新しい認識が発見できると考えると、大きな自由を感じるし、生きることが楽しく思えてくる。

 

 

『アナログの逆襲:「ポストデジタル経済」へ、ビジネスや発想はこう変わる』(デイビット・サックス)

アナログの逆襲: 「ポストデジタル経済」へ、ビジネスや発想はこう変わるアナログの逆襲: 「ポストデジタル経済」へ、ビジネスや発想はこう変わる

 

本書では、デジタル技術が日進月歩の勢いで発展している現代で、アナログなモノや発想が、世界で再評価されている要因を徹底した取材に基づき読み解いている。レコード、紙、フイルム、ボードゲーム……アナログ好きであり、アナログの力を信じる僕は、本書の目次を読んだだけでもワクワクせずにはいられなかった。

第2章「 紙の逆襲」では、僕もファンであるブランドノート「モレスキン」の成功と、フィジカルな「モノ」の代表である紙の強みについて書かれている。「ママ・モレスキン」と呼ばれるモレスキン社の中心人物であるマリア・セブレゴンディは感覚に重点に置くメソッドについて次のように語る。「過去三〇年間で、デジタルの夢は現実になった。でも、それが素晴らしいことだけじゃないと私たちは気がついた。人間には、フィジカルなモノと経験が不可欠なの」

近頃、読んだ本のタイトルや内容が思い出せないことが多い。音楽の場合もそうだ。音楽を聴いても、一度覚えたはずのタイトルやアーティスト名がなかなか出てこないのである。

もしかしたら、記憶に残らないのは、その作品との出会いに「物語」がないからではないかと僕は疑っている(単純に脳が老化してるだけなのかもしれないが)。働くようになってから店舗に探しに行くのが面倒で、気になった商品はすぐAmazonでポチっとしてしまう。で、数日で家に届く。今すぐ読みたい本は電子書籍で読めるし、大体の音楽はyoutubeで聴ける。

作品と出会うまでに間が空かないし、出会うのも容易になってしまったのである。つまり出会いまでの物語が発生しない。それゆえ、その作品に対する思い入れがそれほど生まれず、記憶に残りづらいのではないかと僕は推測しているのである。

本書を読んで、何かを買うときはなるべく実店舗に足を運ぼうという決意をした(実店舗での偶然的な出会いにも期待している)。そして、本当に大切にしたいものは、デジタルではなく、アナログで所有しようと思ったのであった。

 

 

『使える!「国語」の考え方』(橋本陽介)

使える!「国語」の考え方 (ちくま新書)使える!「国語」の考え方 (ちくま新書)

 

第一章「現代文の授業から何を学んだのか」では、多くの人が学校の国語に対する抱くモヤモヤが上手に整理されている。国語の授業への不満の一つとして挙げられるのは、教師による小説文の「解釈の押し付けがいやだ」というものである。筆者は続く章で、このような不満が起きる要因として、教師の指導法は別として、教科書に載る小説文が「解釈のブレが起きにくい」作品ばかりあるということを一因として挙げている。

第三章「教科書にのる名作にツッコミを入れる」では、高校国語の定番、芥川龍之介の『羅生門』を例として挙げ、「主題が明瞭すぎないか」と疑問を投げかけている。登場人物の心理がはっきり描かれすぎていたり、「老婆」がテーマを説明し過ぎたりしている。解釈のブレが少ない作品では、どうしても読み手の自由な読みの幅が狭まってしまうのである。

筆者は国語の授業での小説文の読み方の一つとして、「物語論」という読み方を提示している。物語論は、その小説がどのようにできあがっているかという構造を分析する読みの技術である。こういった技術を授業の中で学んでいけば、多様な物語を読み味わうことのできる汎用的な力にきっとつながっていくのではないだろうか。

こういった筆者による小説文の授業の考え方に加え、「論理的」とは何かだとか、理解しやすい文章のセオリーだとか、情報の整理の仕方だとか、リテラシーの身に着け方だとかが分かりやすく整理されて書かれていて、非常に勉強になったのであった。

 

 

社会学史』(大澤真幸

社会学史 (講談社現代新書)社会学史 (講談社現代新書)

 

大学時代に社会学部に在籍していた僕は「社会学史」の授業を履修していたが、あの頃は映画と女の子のことで頭がいっぱいであったので、勉強ことなどほぼ記憶にない。しかしながら、今更ながら社会学を体系的に学びたいという気持ちがにわかに盛り上がっており、ファンである大澤真幸先生のこの最新刊を手にした。自分にとっては丁度いい難しさであり、社会学史の事実を並べるだけでなく、そこに著者独自の解釈を交えていて、知的好奇心を刺激される。

この『社会学史』には、デュルケームジンメルヴェーバーパーソンズルーマンフーコーなど様々な社会学者が登場する。本書ではフロイト社会学者のひとりに加えている。突飛な論に思える、「エディプス・コンプレックス」や「去勢コンプレックス」を、社会秩序の可能性について問う社会学にとって、非常に重要な仮説であると位置づけているのが面白い。屈折しているように見えるフロイトの人間観がいかに道徳や規範が生まれてくるメカニズムと深く結びついているかの明快な解説が読みどころ。

「人間世界に対する冷静な観察者でありながら、同時に人を愛することがいかにして可能か」という筆者の言葉に心打たれた。本書を読み進めると、こういった著者の社会学に対する真摯な態度と愛がひしひしと伝わってくる。社会学に興味を持つ取っ掛かりの手引きとして、本書は非常にオススメだと思う。

 

 

 社会学用語図鑑ー人物と用語でたどる社会学の全体像』(田中正人、香月孝史)

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

 

 本書は同じプレジデント社の『哲学用語図鑑』と『続・哲学用語図鑑』の続編である。

 かわいらしい図解で、社会学に関わる人物と用語を体系的にわかりやすく解説している。上の『社会学史』とセットで読んだので理解が、社会学に再入門できた。これを読んだのをきっかけに現在、社会学者の大家マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と格闘中。

 

 

『未来を生きるスキル』(鈴木謙介

未来を生きるスキル (角川新書)未来を生きるスキル (角川新書)

 

筆者の鈴木謙介は、僕のお気に入りのラジオ番組「文化系トークラジオLife」(TBSラジオ)のメインパーソナリティである。番組内では「チャーリー」と呼ばれている。ラジオでの軽妙な語り口は親しみやすく、先日(6月23日放送)の「ポスト『熱狂』の組織論」での語りも面白かった。

『未来を生きるスキル』は語り下ろしということもあり、非常にわかりやすく、ラジオでのチャーリーの語りを聞くように、すらすらと読めてしまう。チャーリーの素敵なところは、どんなに現代の社会状況が絶望的に見えようとも、調査やデータを踏まえて、愛を持った考察で、未来に希望を見出そうとする姿勢があるところである。『未来を生きるスキル』でも、そんな希望の話が様々語られている。

本書では、未来を生きる上での求められる重要な力として、「協働」という言葉を挙げている。(そういえば、現在の学習指導要領でも「協働」は大事なキーワードだ)

「協働」する組織として僕がすぐに思いついたのは、映画『シン・ゴジラ』での「巨大不明生物特設災害対策本部」である。ああいう緊急事態ではないと、絶対にチームになることなどだいだろう価値観がバラバラな人たちが、自分たちの能力を持ち寄って課題の解決に向かっていく姿は非常に面白いし、そういう組織にいる人は充実感を持っているように思える。チームスポーツを学生時代やっていた自分はそんな「協働」できる組織に非常に憧れがあるし、社会生活の中で「協働」のスキルの大切さを感じている。

本書では、この「協働」というキーワードを中心に、仕事のこと、お金のこと、教育のこと、コミュニティのことなどについて、社会学的な見地から希望が語られている。これからの未来をよりよく生きる上でのヒントがたくさん詰まっていて、とても勉強になる一冊であった。

 

 

 

2019年下半期も、読書生活をエンジョイしたいです!

マルクス・ガブリエルは哲学の革新者なのか?-『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』を読んで

 

www3.nhk.or.jp

 

先日起きた、中東のホムルズ海峡地点でタンカーが攻撃を受けた事件関連のニュースを追っている。今回の件での、ドナルド・トランプ米大統領のやり口はえげつない。イランによるタンカー攻撃の証拠が十分ではないのにかかわらず、わずかな時間で、その権力とメディア操作によって、イランの犯行を「事実」に仕立て上げてしまおうとしている。

 

トランプ大統領による怒涛の攻めは、まるでショーを見ているかのような心持ちになり、現実感がない。ただ、僕たちは真偽について確かめようがなく、あふれる情報の波に翻弄されるばかりなのである。

 

 

 

マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』を読んだ。以前、マルクス・ガブリエルの哲学書、『なぜ世界は存在しないのか』を楽しく読んだので、彼の思想に興味を持っていたのである。

 

マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する (NHK出版新書 569)

マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する (NHK出版新書 569)

 

 

マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』の中で、彼はトランプ大統領を「ポストモダン的天才」と呼んでいる。ガブリエルはポストモダンについて、「何もできないし、何であれそれに対して何の意味もないし、何の構造もないし、何の存在もないし、現実も真実もない」と定義している。

 

「表層の時代」であるポストモダンは、現実感を帯びないソーシャルメディアと非常にマッチしている。トランプ大統領は、ソーシャルメディアこそポストモダン・プラットフォームだということを完璧に理解していて、twitterなどを駆使し、このプラットフォームを「人々を統治するため、そして経済的な豊かさを作り出すため」活用しているとガブリエルは分析する。

 

余談であるが、『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』の著者で、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリの思想も、ガブリエルの説くポストモダンの思想と合致しているように僕は思えた。

 

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ハラリは著書の中で、貨幣、国、宗教、道徳観といったものはすべて人類の作り上げた虚構であると強調している。僕は彼の著書を読んで、現実の世界は、それほどコンピューター・シュミレーションの世界と差異はないのではないかという考えに至った。

 

しかし、ポストモダンの時代に生きる僕たちは、ハラリにわざわざ指摘されるまでもなく、何もかもは虚構であると薄々感じていたのかもしれない。すべては虚構であるという考えはあまりに寂しく、生きている「はり」もなく、単純なニヒリズムに陥る可能性もある。それらを回避するために、虚構と知りながらも、僕たちは「あえて」その虚構と戯れているのではないか。

 

 

 

「真実などない、真実にアクセスする方法もない」というポストモダンの思想に、相対主義は強く結びつく。哲学における相対主義の定義は、「すべての意見はほかの意見と同じくらい良いものである」というものである。つまり、相対主義は「ものごとの事実などないと論じる」とガブリエルは言い、しかしながら、相対主義は「常に一般的に正しいはずなどない」と続ける。

 

よく知られているように、相対主義は自己言及のパラドックスを孕んでいる。相対主義は「ほかの意見を正しいと認める」論であるから、「相対主義は正しくない」という意見も認めなくてはならないことになってしまうのである。この相対主義への批判に加え、ガブリエルは「子どもを拷問してもいいのか?」という道徳観を例に出す。

 

   僕は、絶対的大多数の人間が、ロシア人であれ日本人であれインド人であれドイツ人であれ、「子どもを拷問していいのか」という質問に対して「NO」と答えるだろうと説く。当然だよね?  「子どもを拷問していいか」だ。

   答えはNOだ!  もちろん子どもを拷問していいはずがない。

 

ある種の道徳観は絶対的であり、相対化などできないと主張する。ガブリエルがこの相対主義を乗り越えるために提示する新しい思考の枠組みが、「新実在論」である。新実在論はフランスの哲学者、クァンタン・メイヤスーの議論に端を発する。

 

 

 

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最近読んだ『社会学史』(大澤真幸)の最終章では、今後の社会学の発展を救うのは、メイヤスーが議論を展開している新実在論である「思弁的実在論」ではないかと書かれている。著者の大澤真幸曰く、社会学の本格的な理論的な発展は、前世紀末の二クラス・ルーマンミシェル・フーコーツインピークスのところで終わっているそうだ。

 

思弁的実在論の狙いは何かと言うと、相関主義を超えて、実在を復権させることである。「相対主義というのは、思考と世界は相互的な相関の関係にある、という考え方です。」と大澤。メイヤスーはこの思弁的実在論によって、思考とは無関係な、なまの「実在」を救い出そうとしている。『社会学史』では、近代哲学のトレンドである相関主義の欠点を以下のように述べていた。

 

    相関主義は哲学的には主流かもしれませんが、自然科学とは相容れません。誰も認識するものがいなくても、ビッグバンは実在したと言えなくてはなりません。自然科学だけではなく、私たちね常識とも、相関主義は対立します。思弁的実在論は、相関主義を乗り越えて、実在をなんとか回復しようとしている、と言いました。ということは、思弁的実在論は自然科学や常識の味方です。

 

ガブリエルの著者を読むと、彼は哲学的史を俯瞰して、自身の思想を新実在論の潮流の中に位置づけていることがわかる。このポストモダンの時代に、なまの「実在」を掴み取るために私たちができるかとは何なのか。ガブリエルは『マルクス・ガブリエル  欲望の時代』の中で、事実(真実)を知ることに努めなくてはならないと結論づける。

 

   僕らは、今こそ、本当の事実を見つけ出すため、人類全体として力を合わせなければならない。経済的事実、宇宙に関する事実、そして道徳的事実。

 

 

 

ガブリエル独自の新実在論は、『なぜ世界は存在しないのか』に書いてある。

 

gorone89.hatenablog.com

 

その主張は、「わたしたちは物および事実それ自体を認識することができる」ということと「物および事実はそれ自体は唯一の対象領域(→意味の場)にだけ属するわけではない」ということのテーゼからなる。僕はこれを読んだとき、後者のテーゼに面白さを感じた。物や事実などの存在は、無限の意味の場に現れることができる。

 

しかし、『マルクス・ガブリエル  欲望の時代』を読んで気づいたが、この主張は相対主義と変わらないのではないか。僕はガブリエルの説く新実在論を「わたしたちが認識する物事は、どれも一面の意味に過ぎない。しかし、意味は尽きることはなく、見方によって多様な意味に出会える可能性がある」と受け止めたが、それは「すべての意見はほかの意見と同じくらい良いものである」という相対主義と僕の中ではどうしても結びついてしまう。ガブリエルは相対主義を乗り越えようとして、逆に相対主義に飲み込まれているのではないか。

 

僕の哲学的知識が浅はかで、読解力が足りないだけか。なんかすっきりせず気持ち悪いので、もう一度、『なぜ世界は存在しないのか』を読み直してみた。

 

わたしたちはーー少なくとも、この文章を書いている今このときは認めざるえないけとですがーー誰もがいずれは死ぬほかありません。それに不幸が数多く起こっていること、必要のない理不尽な苦しみがあることにも、疑いの余地はないでしょう。しかし、わたしたちは以下の点もわかっているはずです。すなわち、どんな物ごとでも、わたしたちにたいして現象しているのとは異なっていることがありうる、ということです。それは、存在するいっさいのものが、無限に数多くの意味の場のなかに同時に現象しうるからにほかなりません。わたしたちが知覚しているとおりの在り方しかしていないものなど存在しない。むしろ無限に数多くの在り方でしか、何ものも存在しない。これは、ずいぶんと励みになる考えではないでしょうか。

 

もしかすると肝要なのは、「どんな物事でも、わたしたちにたいして現象しているのとは異なっていることがありうる」というところではないか。これは、つまり「偶有性」のことである。

 

大澤真幸は、先に紹介した『社会学史』で、「偶有性」を「この世界がまったく別のものになりうる」ということと説明していた。新実在論をリードしているメイヤスーは、「『偶有性』だけが、相関主義的な循環(思考と世界の相互依存の関係)から独立した、絶対的な実在である」と言っている。大澤は「偶有性」を社会の原理として置くことで、相関主義(おそらく僕の考えでは相対主義ポストモダン)も乗り越えることができるのではないかと主張している。

 

ガブリエルは、『なぜ世界は存在しないのか』の中で、ほかの物事はどれも相対化されてしまう可能性があるが、「どんな物事でも、わたしたちにたいして現象しているのとは異なっていることがありうる」という偶有性だけは絶対的だということを言いたかったのではないか。もしそうだとすれば、ガブリエルは哲学はもちろん、他の周辺の学問をも本当に刷新する思考の枠組みを構想していることになる。

 

だんだんと頭がこんがらがってきたぞ。……しかしながら、僕はどうしても『マルクス・ガブリエル  欲望の時代』と『なぜ世界は存在しないのか』とでガブリエルが矛盾していることを言っているような気がしてならない。

 

マルクス・ガブリエルは哲学の革新者なのか、はたまた単なるペテン師なのか。それは、ある程度時が過ぎてからでないとわからないのかもしれない……と偉そうに言ってみる。おしまい。

雨の休日の話

今週のお題「雨の日の楽しみ方」

 

 

雨の日の楽しみは、なんといっても読書である。

 

この前の雨の休日、お昼から妻はお友達のところへ遊びに行った。僕は自宅の掃除と、夕飯の下準備を済ませ、本に手を伸ばした。長男のハルタ(2歳2ヶ月)と次男のレイ(0歳3ヶ月)は長いお昼寝をしている。コーヒーを淹れ、本のページを繰った。

 

僕は昔から読書が結構好きである。これをしているときが何より楽しい。読書はすることはとてもいいことだと思っている。ただ、読書のメリットを熱く説くことで他人に本を読ませようとしている人は嫌いである。

 

読書をして「語彙力や読解力が身につく」などといったことはただのオマケであり、別にそのメリットを目的に本を読んでいるわけじゃあない。そういうメリットを享受するためだけにする読書は寂しいと思っている。別に本を読んだことが、生活の何の役にも立たず、無駄になってしまったって構わないじゃないか。僕にとって読書は、ただの娯楽であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 

 

 

仕事で、中学生に「自分観察レポート」といったものを作成させてみた。

 

自分の1日の時間の使い方などを表や図にまとめさせ、そこから分かったことや考えたことを報告させる。レポートを眺めると、彼らの大半は自由な時間をスマホやゲームに消費していることが分かる。読書に時間を割いている子は皆無。読書も面白いよ。

 

まあ、スマホいじったり、ゲームするの楽しいもんね。僕も嫌いじゃない。今はどんなゲームが流行っているの?と聞くと、何本かオンラインゲームのタイトルをあげてくれた。僕はオンラインゲームはやらないが、僕の妻は大好きである(近頃は、「ポケモン」のネット対戦に夢中で、オンラインの全国順位で700位以内にランクインしたと喜んでいた)。

 

生活とインターネットの一体化が果たして良いことなのか悪いことなのか、僕には判断がつかない。一つ分かることは、新しい文化は常に若者によって作られるのであり、子供達の生活の様子を見ると、未来の生活からインターネットを切り離すことはもはや不可能だということである。時代は常に前に進み、引き返すことはできない。

 

映画『マトリックス』では、大半の人間がコンピュータの動力源として培養されている。あの映画はフィクションであるが、見方によっては現代社会も映画の状況と大して差はないのかもしれない。コンピュータと一体化した僕たち……。

 

マトリックス (字幕版)
 

 

例えば、宇宙人が地球を支配するためにやって来たとして、個別の人間と接触するよりは、まずはコンピュータと接触したほうが侵略が容易く進むと彼らは考える気がする。

 

 

 

ハルタが目覚めたので、夕飯の調理に取り掛かった。

 

僕が作れる料理は少ない。この日の夕飯は焼きそばである。ちょっと味が濃い目の焼きそばをハルタと分け合って食べた。

 

「おいちい」とハルタ。「パパもおいちい?」と聞いてきた。「うん、おいしいよ」

 

僕は『夕方の三十分』という詩を思い出した。作者は黒田三郎。『夕方の三十分』は作者が小さな娘、ユリとの生活を綴った詩集『小さなユリと』に収録されている。僕が大好きな詩である。

 

詩集 小さなユリと

詩集 小さなユリと

 

 

コンロから御飯をおろす

卵を割ってかきまぜる

合間にウィスキイをひと口飲む

折り紙で赤い鶴を折る

ネギを切る

一畳に足りない台所につっ立ったままで

夕方の三十分

 

僕は腕のいい女中で

酒飲みで

オトーチャマ

小さなユリのご機嫌とりまで

いっぺんにやらなきゃならん

半日他人の家で暮したので

小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う

 

「ホンヨンデェ オトーチャマ」

「コノヒモホドイテェ オトーチャマ」

「ココハサミデキッテェ オトーチャマ」

卵焼きをかえそうと

一心不乱のところに

あわててユリが駈けこんでくる

「オシッコデルノー オトーチャマ」

だんだん僕は不機嫌になってくる

味の素をひとさじ

フライパンをゆすり

ウィスキイをがぶりとひと口

だんだん小さなユリも不機嫌になってくる

「ハヤクココキッテヨォ オトー」

「ハヤクー」

 

癇癪持ちの親爺が怒鳴る

「自分でしなさい 自分でェ」

癇癪持ちの娘がやりかえす

「ヨッパライ グズ ジジィ」

親爺が怒って娘のお尻を叩く

小さなユリが泣く

大きな大きな声で泣く

 

それから

やがてしずかで美しい時間が

やってくる

親爺は素直にやさしくなる

小さなユリも素直にやさしくなる

食卓に向かい合ってふたり坐る

 

 

 

 

レイにミルクをあげているとき、妻が帰ってきた。

 

彼女は僕にリンツ・チョコをお土産として買ってきてくれた。僕はこのチョコの大ファンである。結構いい値段がするが、マジで美味い。ハルタが欲しがるといけないので、台所に隠れて食べた。

 

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息子2人を風呂に入れると、布団でハルタに『ちびくろ・さんぼ』を読んでやった。この絵本は人からの貰い物。2005年に瑞雲舎が復刊したものである(本書は人種差別的表現を理由に、本書を出版していた各出版社が自主的に絶版にした過去がある)。

 

ちびくろ・さんぼ

ちびくろ・さんぼ

 

 

大人が読んでもかなり面白い。息子たちにも本好きになってほしく、こういった絵本を読み聞かせている。しかし、ハルタは『ちびくろ・さんぼ』を読み聞かせている最中にまた寝てしまった。僕の読み方がヘタだったかな。

 

お話に出てくる、主人公のさんぼの前に立ちはだかる敵である3匹のトラ達の末路に同情せずにはいられない。トラ達は、さんぼから奪った戦利品を巡って、木の周りをぐるぐると回り続け、最終的には溶けて、バターになってしまう。かわいそう。

 

……外から雨の音が聞こえた。そういえば、僕はこの頃、同じところをぐるぐると回っているような気がしてない。いろいろともがいて動いているのだけど、前進している手ごたえが得られないのだ。

 

眠気がやってきた。じわりじわりと体が溶け、雨水と混ざり合っていく。

 

 

読んだもの観たもの、令和元年初夏

 

山崎豊子熱、再燃!

 

岡田准一主演の『白い巨塔』のドラマを惰性で全話視聴したが、ひどい出来で、コメディを見てるかのように感じたのであった。自分が田宮二郎版、唐沢寿明版のドラマと比較しすぎているのか。

 

白い巨塔〈第1巻〉 (新潮文庫)

白い巨塔〈第1巻〉 (新潮文庫)

 

 

僕は大学時代のある時期、山崎豊子の小説や、それを原作とした映像作品に熱中していた。そういえばあのころ僕は、『白い巨塔』のパロディ小説をmixiで書いていた。「浪速大学動物病院」という架空の動物病院を舞台に、獣医とワンちゃんたちが権力闘争に明け暮れる……。

 

山崎豊子の作品の中では特に『不毛地帯』が好きで、作品の影響で、将来は商社マンになりたいとか思っていた。2009年のドラマ版(唐沢寿明主演)も熱心に見ていたが、視聴率が悪かったため、後半のほうはあまり丁寧に描かれず、後半は駆け足の展開になってしまったのが残念であった。

 

不毛地帯(一) (新潮文庫)

不毛地帯(一) (新潮文庫)

 

 

……みたいな大学時代のことを思い出していたら、にわかに自分の中で山崎豊子熱が盛り上がってきた。まだ読んだことのない彼女の作品が読みたくなって、自分の本棚を漁った。……あった!『華麗なる一族』! これは未読。

 

華麗なる一族(上) (新潮文庫)

華麗なる一族(上) (新潮文庫)

 

業界ランク第10位の阪神銀行頭取、万俵大介は、都市銀行再編の動きを前にして、上位銀行への吸収合併を阻止するため必死である。長女一子の夫である大蔵省主計局次長を通じ、上位銀行の経営内容を極秘裏に入手、小が大を喰う企みを画策するが、その裏で、阪神特殊鋼の専務である長男鉄平からの融資依頼をなぜか冷たく拒否する。不気味で巨大な権力機構〈銀行〉を徹底的に取材した力作。 

 

今のところ上巻の半分まで読み進めたが、仕事や家事を後回しにしてしまうほどの面白さで、ページを繰る手が止まらない。キムタク主演のドラマ版も見たことないけど、あれは面白いのかしらん。

 

 

アベンジャーズ/エンドゲーム』に震えた!

 

平日の初回を見に行った。平日の朝に映画館に行くのは久しぶりである。大学時代、フリーター時代は、よくTOHOシネマズに「午前十時の映画祭」の映画を見に行っていた。

 

少し早く映画館に着いてしまったため、近くの店でコーヒーを飲んだ。……あっ、しまった。『アベンジャーズ/エンドゲーム』の上演時間は3時間。どうやらインターミッションも入らないらしい。カフェインを摂取してしまった。トイレが心配。

 

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ところが、この『アドベンジャーズ/エンドゲーム』……尿意を吹き飛ばすほどの面白さであった。各シリーズのヒーローとたちが大集合するので、もうお祭りわっしょいわっしょい、情報量多すぎてぐちゃぐちゃになるのかと思いきや、そこは絶妙の手際で捌かれ、それぞれの独立したヒーローの物語をたくみに生かしつつ、これまでの『アベンジャーズ』の歴史を振り返りつつで、どの角度から見ても楽しめる宝箱のような映画になっていた。MCUファンには垂涎の一本であり、最高の『アベンジャーズ』の締めくくりであると感じただろう。

 

さて、『アベンジャーズ/エンドゲーム』のことだけで、1本の批評記事を書こうと思っていたが、やっぱりやめた。ほかの『アベンジャーズ/エンドゲーム』について書かれたブログ記事を読んで回るうちに、この人たちのMCU愛には敵わねえと思ったからだ。僕の愛は彼らの愛には及ばない。

 

実は僕はにわかファンである。今年の4月になるまでMCUの映画を一本も見たことがなかった。4月に初めて『アイアンマン』をAmazonのPrime videoで視聴し、そこからコツコツとMCUの映画を見て、2ヶ月で『アベンジャーズ/エンドゲーム』に追いついた。にわかファンの僕でも尿意を忘れて漏らすほど感動したのだから、『アイアンマン』から10年追っかけてきた人の今作に対する感動は想像が及ばないほど大きなものであったろう。

 

今作で、『アイアンマン』『キャプテン・アメリカ』『マイティ・ソー』の物語に鮮やかなピリオドが打たれていたのが印象的だった。『スパイダーマン』『ドクター・ストレンジ』『ブラックパンサー』『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』などのヒーローたちの今後の活躍が楽しみである。

 

 

楽しい、アンパンマン・ショー……!?

 

地元で行われた「子どもフェスティバル」という催しに、僕と2歳のハルタの二人で行ってきた。目当てはその催し中に行われる、アンパンマン・ショーである。

 

ショーの開演30分前だというのに、ショーのステージの前は親子連れであふれかえっていた。アンパンマンの登場をまだかまだかと待ちわびる僕とハルタ……。やがて、「アンパンマン・マーチ」とともに、アンパンマンドキンちゃんバイキンマンがやってきた!

 

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んっ!?

 

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んんっ!!!?

 

……突っ込みたいことがいろいろあったけど、ハルタが喜んでいたのでよしとします。

 

無力感で気だるい

 

近頃知り合った美大生が『1つと3つの椅子』という作品を教えてくれた。美術作品に疎い僕にとって、彼女の話は興味深かった。

 

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1つと3つの椅子(1965年)



真ん中にあるのは実物の椅子、向かって左にあるのは椅子の写真、右にある文章は椅子の辞書的な説明である。「『椅子』とは何か説明できますか?」と彼女。僕は「大抵の椅子には脚がある。で、人が座るために使う」と陳腐な返答しかできない。

 

「でも真ん中にある実物の椅子でさえ座ることはできません。展示なので。見るだけです」。つまり並ぶ3つの椅子は、記号(観念)として椅子なのである。それぞれの椅子の存在の意味と、その関連性について考えずにはいられない。そして、「椅子とは何か?」という疑問が湧き、その答えにはなかなかたどりつかない。考えさられる芸術である。

 

『1つと3つ椅子』は、ジョセフ・コスースが製作したコンセプチュアル・アートの代表作なんだそうな。コンセプチュアル・アートとは、1960年代から1970年代に盛り上がった前衛芸術運動であり、アイデア芸術とも言われる。作品の物質的側面ではなく、観念的側面を重視したアートである。

 

 

 

「椅子とは何か?」という問いは、「存在するとは何か?」という究極の問いに飛躍する。古来より、哲学者はこの問いと格闘してきた。

 

観念としての椅子の存在と、今僕が座っているこの椅子の存在にどれだけの違いがあるのか?   僕が今座っている椅子を椅子と認知できなければこれは椅子として存在していることになるのか?  僕の頭の中で思い描いているヘンテコな椅子は果たして存在などしていないと断言できるのであろうか?

 

僕の2歳の息子は、よく空を指差し見上げ、「あ、アンパンマン!」と言う。もちろんアンパンマンが空を飛んでいるはずがない。しかし、それが幼児の妄想だとバカにすることができるだろうか?  息子は空でパトロールしているアンパンマンの存在を確かに信じている。

 

僕たち大人だって目に見えないものを信じている。愛、信頼、人の道理、他者の良心……そういったものの存在を一応信じることが社会秩序を保つ力となっている。

 

 

そういった社会秩序を支える存在を信じる心が揺らぐことが起きたとき、人は動揺する。

 

 

 

 

登戸の事件には、当事者でもなんでもないのに、どういうわけか僕は非常に衝撃を受けた。かなり堪えている。

 

 

近頃このニュースばかり追っている。子供ができたからであろうか、子供が巻き込まれる事故・事件に非常に敏感になった。容疑者はなんて取り返しのつかないことをしてしまったのか。許せない。死ぬのだったら、1人で死んでくれと言いたくなる気持ちも分からなくない。僕は人の良心の存在を信じたいが、それが大きく揺らいだ。いつもと同じ通学の朝、児童に悪意を向ける人間がいようとは誰が想像できたであろうか。襲われた児童の恐怖と、遺族の悲しみを思うとなんともやり切れない。容疑者は自殺してしまったので、動機についてはもう知りようもない。社会秩序とは?   誰もが安心して、幸福に暮らせる社会の実現なんてバカげた妄想なのだろうか?   こういう防ぎようのないアクシデント的な事件は、社会秩序を保つプログラム的には織り込み済みのことで、自然現象と同じで、しょうがないことなのだろうか?    被害者の悲しみを想像すると、そうは思いたくない。……容疑者のような人間をつくってしまったのは社会の責任なのか? つまり僕の責任か? じゃあ僕に何ができる?  もうそれらについては何も分からないし何を語っていいのかもわからない。  とりあえず確かのは、僕の愛する人も不意に悪意を向けられ殺されてしまう可能性があるということだ。無力感で気だるい。

 

 

支離滅裂な記事になってしまった。

 

 

とにかくどんな理由があろうとも、お願いだから子供を殺さないでください。

財布を落とした話

 

同じ過ちを繰り返さぬように書き残す。

 

とりあえず、酔っ払っていた。居酒屋で2人の友人と大いに飲んだあと、甘いものが非常に食べたくなり、コンビニで棒付きアイスを購入した。あの時確かに財布はあった。夜の9時半くらいであったと思う。

 

アイスを頬張りながら、友人と二次会のカラオケへ向かって歩いた。途中、アイスのかけらが道に落ちた。友人がそれを見て、「3秒ルール!大丈夫!まだ食える!」と小学四年生みたいな発言をした。僕はちょっと躊躇した(その間、10秒経過)が、そのアイスのかけらを拾って口に入れた。「うん、くっついた砂がじゃりじゃりしていてなかなか美味しいね。新食感」なぞと言ったのを覚えてる。

 

カラオケに着いた。そこで、ポケットに財布が入っていないことに気づいた。おーまいごっど。ポケットの中には、スマホ、キーケース、さっき食べたアイスのゴミしか入っていなかった(この日、カバンは持っていなかった)。僕は冷静になることに努めた。

 

友人に財布を落としたことを伝え、一人、来た道を戻り、財布を探した。カラオケからコンビニまで800メートルほど。が、どこにも落ちでおらず、コンビニまで戻ってきてしまった。うわあああ。

 

あの中には、現金のほか、運転免許証、キャッシュカード、クレジットカードなどすべて入っている。一気に酔いが醒めた。コンビニの店員さんに財布が届いていないか聞いたが、店員さんは届いていないと言う。僕は財布の特徴と自身の連絡先を店員さんに伝え、もう一度カラオケまでの道を這いずり回るように探した。

 

だが、やはりない。僕は財布が見つからなかったことを友人に伝え、「本当に申し訳ない」と言って、家に帰ることにした。帰る途中、カード会社に連絡し、すべてのカードを利用停止にした。

 

 

「スラれたんじゃない?」 と妻は呆れ顔で言った。財布はポケットには入れない、飲み会のときは運転免許証や大切なカードは家に置いていったほうがいいなどと、まあごもっともなアドバイスをされた。「ホント、自分がバカで、注意散漫のクズ野郎でした」と僕は懺悔した。「……新しい財布を買ってあげるね」と妻。優しい。

 

明くる日曜日、2歳の長男・ハルタと歩いて警察署に行った。うだるような暑さであった。いつの間に夏になったんだ。警察署で遺失物届を出した。そこで運転免許証を再発行するにはどうすればいいか、警察の方に尋ねた。

 

とにかく運転免許証がないのが困る。まず運転ができない。車通勤をしているので、これはきつい。それより困るのは、運転免許証を含め、自身を証明できるものはすべて亡失したので、自分が自分であることを証明できないことである。新しいカード類を作るには、まず自身を証明できるものが必要である。いかに「おれはおれなんだ!」と叫んだところで、それを証明できるカードや書類がなければ、誰も自分だと認めてくれない社会のシステムになっていることに気づいたのであった。

 

僕が住む神奈川県では、免許を再発行するには、横浜にある二俣川免許センターに平日に行かなくてはならないそうだ。はあ、あんな遠くに行かにゃならんのか。しかも平日……。財布を落としたことを再び後悔し、再び落ち込んだ。

 

月曜日、会社を早引きし、二俣川免許センターに行った。運転免許証の再発行にも自分を証明できるものが必要であるが、幸運なことに、会社に写真付きの社員証があった。これが証明に使える。

 

免許センターには免許を失くし、再発行に来ている人が大勢いた。なんか安心した。免許を失くした人って自分だけじゃなかったんだ、あははのは。再発行の手数料として、3500円を泣きそうになりながら支払った。再発行申請書を提出し、新しい免許証が出来上がるのを待った。2時間は待った。読書がかなり捗った。免許の再発行に行く際には、必ず暇つぶしの道具を持って行きましょう。

 

イスで再発行を待っているとき、となりに座って同じく再発行を待っている若い男性はウトウトしていた。僕は彼が手に持っていた運転免許証等亡失事実てん末書の内容をチラリと見てしまった。そこには「盗難」と記してあった。舟を漕いでいた男性は、手に持っていたそれらの書類を手放し、すべて床に落とした。彼は落としたことに気づき目覚め、僕はそれらを一緒に拾ってやった。まったく……、こうやって不用心だから、大事なものを失くすんだよ(お前が言うな)。

 

そしてやっと新しい運転免許証が手に入った。新しい免許証には、「令和」の文字があった。

 

☎︎

 

後々のため、僕の母と妻の電話での内容も記す。

 

妻「そうなんですよ。酔っ払ってて、財布なくしちゃって」

 

母「まったくあいつは……。ちゃんとガツンと言ってやんなきゃ、ダメだよ」

 

妻「でも『自分はクズ』だとか言って、すごく落ち込んでて、かわいそうになっちゃって」

 

母「そうだよ、あいつはクズだよ。甘やかさないように」

 

☀︎

 

で、運転免許証を再発行してから2日後、財布は見つかった。警察署から、あなたのもの思われる財布が届いていると連絡があった。急いで警察署に行くと、それはまさしく僕の財布であった。財布には運転免許証もカード類も現金もすべて入っていた。届けてくれた人、本当にありがとうございます。

 

お礼がしたく、警察で届け主を尋ねると、届け主はとあるスーパーの従業員であった。そのスーパーは、あの最後に財布を使ったコンビニから50メートルほど先にある。記憶を一生懸命辿ってみると、そのスーパーの前にあるゴミ箱を、食べたアイスのゴミを捨てようと見つめていたことを思い出した。しかし、実際にゴミ箱に寄ったかどうかまでは思い出せない。とりあえず、アイスのゴミはずっとポケットの中に入っていた。

 

……も、もしかすると、アイスのゴミをゴミ箱に捨てようとして、財布をゴミ箱に捨ててしまったのではないか。……まさかね〜。……しかし、自分ならやりかねない。酔ってたし。

 

スーパーにお礼に行ったが、どこで財布を見つけたかは聞けなかった。もしゴミ袋の中にあったとか言われたら、自分が大バカ者だと証明されることになる。

 

とにかく今回の件では、様々な点で深く反省し、よい教訓を得ました。今後同じ過ちを繰り返さないよう気をつけ、失くし物で困っている人にはどんどん手を差し伸べていきたいと思います。てへぺろ

『社会学史』、『誰の味方でもありません』、『未来を生きるスキル』の話

 

近頃、最近刊行されたばかりの3人の社会学者の新書を同時進行で読んでる。どれもとても面白いので紹介します。

 

 

社会学史』(大澤真幸

 

社会学史 (講談社現代新書)

社会学史 (講談社現代新書)

 

 

著者は大澤真幸

 

大澤真幸(おおさわ まさち)

1958年生まれの社会学者。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。社会学博士。千葉大学助教授、京都大学教授を歴任する。著書に『ナショナリズムの由来』(講談社毎日出版文化賞)、『自由という牢獄』(岩波書店河合隼雄学芸賞)などがある。

 

大学時代に社会学部に在籍していた僕は「社会学史」の授業を履修していたが、あの頃は映画と女の子のことで頭がいっぱいであったので、勉強ことなどほぼ記憶にない。しかしながら、今更ながら社会学を体系的に学びたいという気持ちがにわかに盛り上がっており、ファンである大澤真幸先生のこの最新刊を手にした。自分にとっては丁度いい難しさであり、社会学史の事実を並べるだけでなく、そこに著者独自の解釈を交えていて、知的好奇心を刺激される。

 

著者は社会学の歴史の性格を以下のように説明している。

       

   社会学が、今日の目で見て社会学らしい社会学になるのは十九世紀のことです。「近代」というのは曖昧な言葉ですが、とにかく近代社会がある程度成熟しないと、つまり産業革命フランス革命を経て、かなり今風の社会にならないと社会学は出てこない。なぜならば、社会学自身が社会現象だからです。

   つまり、社会現象を説明するのが社会学だとすれば、社会学そのものも社会学の対象になる。したがって、社会学の歴史は、それ自体が一つの社会学になるのです。 

 

この『社会学史』には、デュルケームジンメルヴェーバーパーソンズルーマンフーコーなど様々な社会学者が登場する。本書ではフロイト社会学者のひとりに加えている。突飛な論に思える、「エディプス・コンプレックス」や「去勢コンプレックス」を、社会秩序の可能性について問う社会学にとって、非常に重要な仮説であると位置づけているのが面白い。屈折しているように見えるフロイトの人間観がいかに道徳や規範が生まれてくるメカニズムと深く結びついているかの明快な解説が読みどころ。

 

著者がヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン・天使の詩』を登場する天使を例にし、社会学者の姿勢を語っている部分も印象深い。ちょっと長いけど、引用します。

 

天使は、人間には見えないのですが、実は、あたりにいっぱいいるということになっている。そして、天使には、人間がやっていることとか心の中で思っていることが全部見えていて、彼らはそれを記録に残している。人間のほうからは見えないが、天使のほうからは私たちが見えていて、ずっと人間を観察しているわけです。天使と人間とはコミュニケーションや相互作用ができない。ということは、天使は、人間の世界の傍観者です。

(中略)

ヴェンダースのこの映画は、天使がもっている洞察力とか、天使が人間を見抜いているということを中心的な主題にしているのではありません。むしろ傍観者にとどまり続けざるえない天使の哀しさが主題です。最終的に主人公の天使は人間になる。天使だったら永遠に生きられるのに、人間になって死にうる身体を手に入れて、人間の女と恋をするのです。ですから、この映画は、天使としてのあり方をポジティブに描いているわけではありません。

   なぜ脱線して、ヴェンダースの映画のことを説明しているかというと、私はこう考えるからです。社会学という知にとっての究極の課題は、目一杯天使でありつつ、完全に人間であることはいかにして可能か、にあるのだ、と。人間世界に対する冷静な観察者でありながら、同時に人を愛することがいかにして可能か。社会学という知が目指すことは、これだと思います。

 

「人間世界に対する冷静な観察者でありながら、同時に人を愛することがいかにして可能か」という部分に心打たれた。本書を読み進めると、こういった著者の社会学に対する真摯な態度と愛がひしひしと伝わってくる。社会学に興味を持つ取っ掛かりの手引きとして、本書は非常にオススメ。

 

 

『誰の味方でもありません』 (古市憲寿

 

誰の味方でもありません (新潮新書)

誰の味方でもありません (新潮新書)

 

 

著者は古市憲寿

 

古市憲寿ふるいち  のりとし)

一九八五(昭和六十)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。
若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『だから日本はズレている』『平成くん、さようなら』など。

 

歯に衣着せぬ発言で、何度も炎上する彼だが、それでもメディアから追放されることなく、今でも引っ張りだこなのは、彼の物言いを「もっともだ」 とか「言いにくいことをズバッと言ってくれる」と感じている人が少なくないからであろう。僕も社会での過剰な正論に辟易することが度々あり、正論とは少しずれた彼のシニカルな語りを欲する気分になることがある。

 

彼の社会を見つめる視点は独特であり、ときに正論を振りかざす人を怒らせたりもするが、彼は決して社会を嫌っているわけではない。逆に、社会に愛を感じていて、よく社会を観察しているからこそ、人から憎まれないギリギリの鋭い意見が出来るのである。彼の小説『平成くん、さようなら』を読むと、彼が自分の発言が人々にどのように受け止められるかをすべて計算済みであるかのように思える。過剰な正論に息苦しさを感じる若者は、彼のスタンスがひとつの新しいモデルになるんじゃないかな。

 

『誰の味方でもありません』は、「週刊新潮」での彼の連載エッセイをまとめたもの。一つひとつの話がユーモラスで、社会から一歩引いた視点で語られており、非常に面白い。例えば、「『限定』は常に『定番』に劣る」話。

 

   そろそろ街にハロウィン限定商品が並び始める頃だ。僕もすでにパンプキン味のチョコレートやケーキを見かけた。断言しよう。そのほとんどは大して美味しくない。なぜなら、本当に美味しい商品が開発できたなら、「限定」ではなく「定番」に鞍替えされているはずだからだ。

(中略)

   「定番」とは、流行し続けるもののことだ。それは決して時代遅れの遺物なのではない。「定番」をバカにする者は「定番」に泣く。たとえば、文字の読み書きはかれこれ6000年くらいブームが続いているし、株券も400年以上流行している。すっかり社会に欠かすことのできない定番だ。

   考えてみれば、どんな定番も初めは一時的な流行だったかも知れない。人類は、無謀な試みを繰り返し、定番を増やしてきたのだ。

 

くすりと笑えたり、新しい気づきが得られたりと、本書を読み終えたときには、社会の見え方がちょっと変わっているかもしれない。

 

 

『未来を生きるスキル』(鈴木謙介

 

未来を生きるスキル (角川新書)

未来を生きるスキル (角川新書)

 

 

著者は鈴木謙介

 

鈴木謙介(すずき けんすけ)

1976年生まれ、福岡県出身。関西学院大学先端社会研究所所長、社会学部准教授、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター客員研究員。専攻は理論社会学。サブカルチャー方面への関心も高く、2006年よりTBSラジオ文化系トークラジオLife」のメインパーソナリティをつとめる。著書多数 

 

彼は僕のお気に入りのラジオ番組「文化系トークラジオLife」のメインパーソナリティである。番組内では「チャーリー」と呼ばれている。ラジオでの軽妙な語り口は非常に親しみやすいが、『カーニヴァル化する社会』などチャーリーの著書は結構難解で読解するのに苦労した。

 

ところが、最新刊『未来を生きるスキル』は語り下ろしということもあり、非常にわかりやすく、ラジオでのチャーリーの語りを聞くように、すらすらと読めてしまう。チャーリーの素敵なところは、どんなに現代の社会状況が絶望的に見えようとも、調査やデータを踏まえて、愛を持った考察で、未来に希望を見出そうとする姿勢があるところである。『未来を生きるスキル』でも、そんな希望の話が様々語られている。

 

本書では、未来を生きる上での求められる重要な力として、「協働」という言葉を挙げている。(そういえば、現在の学習指導要領でも「協働」は大事なキーワードだ)

 

協働とは、必ずしも優れた点があるわけではない「ふつうの人」たちが、それぞれ異なる価値観や能力を持ち寄って、特定の課題を解決するために協力するということです。

 

「協働」する組織として僕がすぐに思いついたのは、映画『シン・ゴジラ』での「巨大不明生物特設災害対策本部」である。ああいう緊急事態ではないと、絶対にチームになることなどだいだろう価値観がバラバラな人たちが、自分たちの能力を持ち寄って課題の解決に向かっていく姿は非常に面白いし、そういう組織にいる人は充実感を持っているように思える。チームスポーツをやっていた自分はそんな「協働」できる組織に非常に憧れがあるし、社会生活の中で「協働」のスキルの大切さを感じている。

 

本書では、この「協働」というキーワードを中心に、仕事のこと、お金のこと、教育のこと、コミュニティのことなどについて、社会学的な見地から希望が語られている。これからの未来をよりよく生きる上でのヒントがたくさん詰まっていて、とても勉強になる一冊です。