ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

体が溶け出す8月がやってきた話

 

いつの間にか30回目の8月がやってきた。僕はそれに気づき、慌てて朝からプールに飛び込んだ。水の中は気持ちがいい。

 

プールに入ると、学生の頃を思い出す。大学生の夏休みがあまりに長く、退屈であったので、毎日午前中は近所のプールに通っていた。へたくそなクロールと平泳ぎを繰り返し、飽きると、流れるFMヨコハマを聴きながらプールサイドでファンタを飲んだ。

 

あの頃は止まっているんじゃないかと思うほど時の流れがのろのろとしていたが、この頃はどういうわけかとてつもなく早く進む。今年の夏も少し目を離したらすぐにどこかへ行ってしまいそうなので、夏をなるべく体感すべく、プールの底に潜水し、必死に足をばたつかせた。

 

ここ数ヶ月でため込んだ精神的な疲労が体の外に流れ出ていくことをイメージして泳いだ。空っぽになりたい。体のほうも強い日差しでどろどろと溶け出しそうであった。

 

 

 

バターのようになってしまった心身は、この猛暑で同じくどろどろになった他の心身を追い求めた。最終的に、群体は混ざり合って一緒くたになり、一つの普遍的な単体生命体に進化するのであった……。

 

そこまでイメージしたところで吐き気がしてきた。これじゃ『エヴァンゲリオン』の人類補完計画である。

 

近代的自我は孤独という深刻な病をもたらしたが、だからといって、個と個の壁を取り払ってみんなで一緒になりましょうという思想にはやっぱり嫌悪感がある。自分という個性への執着はなかなか捨てがたいよなあ。

 

プールからあがり、昼食にセブンイレブンで買っておいた焼きそばパンを食べた。

 

 

 

個性なんてものに価値はないとおっしゃるのは養老孟司先生。帰宅し、クーラーの効いた部屋でごろ寝しながら、先生の『無思想の発見』をぱらぱらと読んだ。

 

無思想の発見 (ちくま新書)

無思想の発見 (ちくま新書)

  • 作者:養老 孟司
  • 発売日: 2005/12/06
  • メディア: 新書
 

 

「意識に個性はあるか」という問いに対して、そんなものはないと先生は言う。意識内容……心に個性があったら、互いに了解ができない。「個性的な心」とは「他人には理解できない心」なので、現代人の「心にこそ個性がある」という考えは徹底的な間違いである。

 

よく使われる日本語で表現するなら、ほとんどの人は「我がまま」つまり「個性的である自分のまま」だから、普遍的な思想に到達しない。その個性とは、偶然である外的条件、家族、地域、友人、周囲の自然環境などに左右されて生じたものである。そうした条件は、人によって当然異なる。そこで通用する自分を自分だと信じているから、個性的で独創的になってしまう。世界中どこに行っても通用し、百年経っても通用する、そんなことを、考えることができないのである。

 

個性なんてその程度のものでしかない。ただの偶然の外的条件でしか通用しないものである。それは分かっているんだけど……。

 

読みながら寝落ちした。

 

 

 

健康診断に行ったが、体重が昨年に比べて6キロ落ちていた。

 

大好きだったお米を、朝昼は我慢して、夕飯時だけ摂る食生活に変更したことが功を奏したようですね。

 

慌ただしかった自粛明けの日々の話

 

パンツも乾かなかった。

 

やっと夏が来たが、今年の梅雨のしつこさには本当に辟易した。内臓にカビが生えるかと思った。洗濯物もなかなか乾かず、たまる一方であった。

 

ある日、風呂から上がると、乾いたパンツが一つも残っていなかった。妻にそれを裸で言うと、「コンビニで買ってくれば」と冷たい返事。「ノーパンで買いに行けってこと?」と僕が言うと、妻は無言でこちらをぎろりとにらみつけた。22時、ノーパンの上にダイレクトにズボンを履いて、雨の降る外に繰り出し、ローソンでパンツを2枚購入した。

 

文明の利器はどんどん活用すべきだと今更気づいた。7月の中旬に定額給付金で新しいエアコンを買った。以前まで使っていたエアコンは、妻が独身時代から使っていたものであったが、昨年の冬から壊れていたのである。

 

「ドライ」の偉大さよ。部屋干しで洗濯物が乾くスピードが格段に上がった。

 

 

 

自粛が明けてここ2か月の仕事の忙しさは目が回るようであった。

 

感染症対策をしながらの業務は一層気を遣うし、消毒作業に本来の業務の時間が圧迫された。加えて、マスクによって体力が奪われた。主にしゃべることが仕事なので、マスクで息苦しくなり、午後になると意識が朦朧とさえするのであった。

 

大きなミスもした。自分はもう一人前なんだという慢心が招いたミスでもあったと思う。多くの人に迷惑をかけ、かなり落ち込んだ。同僚の優しい声かけに助けられた。今回のことを忘れず、同じ失敗を二度と繰り返さないようにしたい。

 

仕事のしんどさも増したが、生活の慌ただしさの主たる要因は、何と言っても3歳と1歳、2人の息子の育児であろう。

 

 

 

育児休暇を終えた妻が今年度から職場復帰をしたので、以前のように育児を妻ばかりに頼ることができなくなった。

 

朝は夫婦で5時半に起き、6時に息子たちを起こす。6時に起こされる息子たちもたまったものではないだろう。てか、なかなか起きない。仕事の準備をしつつ、保育園の準備をを分担して行い、眠気まなこの息子たちを7時には保育園に預ける。大抵、息子たちが保育園の一番乗りである。

 

1分1秒を無駄にしないよう、効率を意識して仕事をこなし、17時には職場を出られるようにする。基本的に息子たちの迎えは、車の運転ができる僕の役割である。なかなか17時には仕事が終えられず、保育園に残っている幼児が息子たちで最後ということがよくある。保育園に早朝から晩までいさせてしまってごめんよ。

 

息子たちと帰宅すると、そこから洗い物、料理、洗濯を一気にし、息子たちを風呂に入れる。一段落するころには時計は22時をまわっている。そこから持ち帰りの仕事をし、いつのまにか電池が切れてバタンキュー……でふりだしに戻るを繰り返す毎日である。

 

6月下旬、次男が熱を出した時期は大変であった。妻と交代で半休を取ったりして、看病にあたった。夫婦ともにストレスがたまり、仲が険悪になることもあった。なんとか夏季休暇のある8月までたどり着いた。給水地点である。

 

またこの慌ただしい日々が9月から再開するのか……。夫婦共働きで、子供を立派に育て上げられた諸先輩方、まじリスペクト。

 

 

 

ということで、ここ2か月は趣味である読書が捗らなかった。読んだのは『三体』の続編、『三体Ⅱ』の上下巻くらい。

 

三体Ⅱ 黒暗森林(上)

三体Ⅱ 黒暗森林(上)

 
三体Ⅱ 黒暗森林(下)

三体Ⅱ 黒暗森林(下)

 

 

内容の紹介は省略するけど、前作をはるかに超える興奮があった。疲れも忘れる面白さがある。下は前作の紹介記事。

 

gorone89.hatenablog.com

 

 

精神的なしんどさがあったこの2か月であったが、それを大きく救ってくれたのはやはり息子たちの笑顔であった。彼らがいるから、前向きに頑張ろうと思えた。

 

今年の夏休みは何して息子たちと遊ぼうかしら。

大胆さと繊細さが絶妙にマッチしたSFお仕事小説『タイタン』の話

 

 

就職してからこれまで、怠け者の僕は仕事の過酷さに苦しんできた。

 

生きるためとはいえ、なんでこんなに仕事ばかりしなきゃならんのだ。仕事などどこかに放り捨てて、一生ぐうたらして過ごしたい!と毎日のように思っていた。

 

……ところ、このコロナ禍で自身の仕事が一時停止し、ぐうたらできる時間が一気に増えた。望んでいた時間を得て最初は幸福な気分であったが、この生活が数ヶ月続き、どうも近頃生活に「ハリ」が感じられないようになり苦しんでいる。

 

あんなに嫌だった仕事に恋しささえ抱くようになっているのである。……働きたい。働いて社会の、誰かの役に立ち、自己有用感を得たい。

 

時には苦しみを、時には喜びを人に与えるこの「仕事」とは一体何なのか……? この問いを抱く現代人は少なくないだろう。

 

SF小説という形で読み手の想像力を大いに刺激しながら、この哲学的とも言える深遠な問いに共に挑んでくれるのが、鬼才・野﨑まどが描く『タイタン』である。

 

 

 

タイタン

タイタン

 

 

物語の舞台は、社会の平和が保たれた未来の世界。人類は「仕事」から解放され自由を謳歌している。この平和と自由は何もかも至高のAIである「タイタン」による恩恵である。

 

   『タイタン』

   人間の代わりに仕事を行うもの。

   人間の暮らしをサポートするもの。

   それらを自律的に行うもの。

   産業機械、建築機械、輸送機械、掃除機械、センサー、ネットワークで繋がるもの、総合処理AI、それら個々の呼称であると同時に、それら全ての総称。

 

この世界では、人間がかつて行なっていた「仕事」をタイタンがほとんど全て代替している。家を建てることも、物を運ぶことも、何かを調べることも、掃除をすることも、マッチング率の高いパートナーを探してくれることだって、タイタンは効率よく行なってくれる。読み手によっては「なんて素晴らしい世界なんだろう!」と、この小説に理想の世界像を見出すことだろう。

 

主人公の内匠成果(ないしょうせいか)は心理学を「趣味」にしている。心理学に関する講演会を「趣味」で行なったりもする。

 

そんな彼女の元に突然「仕事」が舞い降りる。世界でほんの一握りしかいない「就労者」のナイロンが、心理学に通じた内匠にしかできない「仕事」を彼女に依頼するのである。彼女に託された「仕事」とは、突如として機能不全に陥ったタイタンのカウセリングであった……。

 

ここまでが序章にあたる「就労」のあらすじ。最高のつかみである。この時点で僕はこの小説は絶対に面白いと確信し、安心して読み進めることができた。

 

期待は裏切らず、しかし予想は大胆に裏切りながら、抜群の面白さを保ちつつ物語は展開していく。

 

 

 

十二あるタイタンの中で機能不全に陥ったのは、第二知能拠点、通称「コイオス」である。機能不全の理由は一切不明。タイタン管理者のナイレン、エンジニアの雷(レイ)、AI研究者のベックマン博士のサポートを受けながら、内匠は心理学の知識を生かして、人格化されたコイオスとの対話を試みる。


「心」という非常に繊細なものをテーマに扱いながらも、話の展開は大胆でスケールが大きい。コイオスの心を救えなければ、タイタンに支えられている世界の機能は停止してしまう。「仕事」の経験を持たない内匠と、「仕事」をすることに一切の疑問を持ってこなかったコイオスは「仕事とは何か?」という問いを中心にしながら、心の交流を重ねていく。


とある理由で、内匠とコイオスは第二知能拠点があった北海道からシリコン・ヴァレーまでを旅することとなる。全世界の人間の生活を支えるAIの意識の深層を探る営みと、大陸間の移動を並行させるダイナミズム……。読んでいてわくわくが止まらない。


さらに、クライマックスにおける、高度なAIでしか成り立たないタイタン同士のコミュニケーションの場面といったら! 想像の斜め上を行き、度肝を抜かれずにはいられなかった。

 

 

 

カウセリングが物語の中核にあるのだから当たり前なのかもしれないが、物語の底流にずっと「優しさ」があったことに個人的にはとても好感が持てた。

 

AIにコントロールされた社会という世界観だと、古典的SFの世界に慣れている人であれば、ついAI対人間という展開を予想しがちである。しかしながら、この物語に登場するAIは人間に対して徹頭徹尾優しく、決して敵対などしない。僕はこの小説の内匠の以下にある語りの部分に線を引いた。

 

昔見た古典のSF映画を思い出す。機械に管理された世界がアンチ・ユートピアとして描かれていた。そして私達は今そんな世界に生きている。映画と違うのは、機械が心の底から人間の幸福を願っているということ。そして私達もまた管理してもらう幸福を選択してきたていうこと。

 

現代の先進国では、自分たちの安全や快適さや利益のために、自ら進んで個人情報をビックデータに提供する光景は珍しくない。管理してもらう幸福を選択しているのだ。古典的なディストピア社会より、この『タイタン』の世界のような未来像の方がリアリティがあるかもしれない。

 

コイオスと内匠の温かな心の交流も、(少々セカイ系チックではあるが)丁寧に描かれていて良い。最初はコミュニケーションに失敗しながらも、内匠の努力によってコイオスは少しずつ心を開き、「大人」になっていく。

 

それと同時に「仕事とは何か?」という問いに対しても答えを曖昧にすることなく、コイオスと内匠の段階的な対話の内容をヒントにしながら、しっかりと単純明快な答えに着陸させている。思わず「お見事!」と唸ってしまったのであった。

 

 

 

今日から本格的に僕の「仕事」も始まった。

 

コイオスと内匠の「仕事」を巡る心の旅に付き合った影響だと思うが、今のところ「仕事」に対するやる気はマンマンである。

 

消えない煩悩の話

お題「#おうち時間

 

 

この数か月、気分はもう専業主夫であった。

 

妻は基本出勤、僕は基本在宅勤務である。保育園の「なるべく登園自粛をお願いしたい」という方針を生真面目に守り、自然、自宅にいる僕が息子2人の面倒を見ることになった。育児休暇を取得したいと思っていた頃があったが、図らずも数ヶ月の育児休暇みたいなものを得ることとなった。

 

朝、妻を見送る。朝食を作り、洗濯をし、掃除をする。家事が一段落ついたら、一歳息子を抱っこヒモでおぶり、三歳息子の手をつなぎ買い物に行く。近頃は地域貢献も兼ね、近くの商店街の飲食店で昼食をテイクアウトすることを続けていた。

 

下はテイクアウトで購入したステーキ丼。一日六食限定の弁当であった。当然うまい。

 

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息子2人がテレビに夢中になっている間やお昼寝をしたりしている間に読書をしたり勉強をしたりちょこちょこと仕事をしたりしている。

 

最近、読む本にはブックカバーをしている。

 

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妻が作ってくれた。息子のマスクを作るため彼女はなんと3万のミシンを購入し、そこから裁縫に目覚め、勢いで僕のブックカバーまで作ってくれたのである。ありがとう。

 

ここ数週間読書に並行して、人気の「えんぴつで」シリーズの一つ、『えんぴつで般若心経』に美文字を目指して取り組んでいる。

 

えんぴつで般若心経 (「えんぴつで」シリーズ)

えんぴつで般若心経 (「えんぴつで」シリーズ)

  • 発売日: 2015/12/07
  • メディア: 単行本
 

 

摩訶般若波羅密多心経観自在菩薩。行深般若波羅密多時。照見五薀皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。……

 

仏教がなぜかマイブームであり、音読しながら毎日少しずつなぞり書きしている。なんとなくこれをすることで「煩悩」が消え去り、「悟り」の境地とかいったものに近づくことができる……かと思ったが、むしろなぞり書きをしているときほど様々なことを考えてしまい「煩悩」が際限なく膨らむのであった。以下は『えんぴつで般若心経』にある、「般若心経」の解説。

 

この般若心経で、一貫して示される教えが、「空」という考え方です。私たちを取り巻くこの世界の、あらゆる現象や物質、人間の価値観、思考といったものごとに実体はなく、相互に変化しながら常に変化している。だから、何事にもこだわり、とらわれることには意味がない。むしろ、そうしたこだわりを捨て去ることで、本当の安らぎが得られると教えています。

 

こだわりを捨て去ると言ってもねえ……そんなに簡単なことではない。たびたび心の平安は煩悩によって乱れ、迷ってしまう。鎌倉時代曹洞宗を開いた道元は『正法眼蔵』の中で、迷いについてこのように語っている。

 

正法眼蔵〈1〉 (岩波文庫)

正法眼蔵〈1〉 (岩波文庫)

  • 作者:道元
  • 発売日: 1990/01/16
  • メディア: ペーパーバック
 

 

ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。

 

「生死」とは迷いのこと、「涅槃(ねはん)」とは悟りのことである。迷いはそのまま悟りであると捉える。迷いの中に悟りがあれば迷わないし、悟りを求めてあくせくしなければ迷わない。つまり、迷いを悟りとはかけ離れたものとして忌避するのではなく、迷う自分を「迷ってもいいんだ」と受け入れることで、自ずから悟りはやってくると言っているのである。

 

とりあえず、道元様のお言葉に従って、煩悩だらけで迷う自分を受け入れてみよう。

 

 

 

今、僕の煩悩の大半を占めるのが食欲である。自粛生活で順調に体重が増えていて食事の量を減らさなくてはならないのだが、食欲はますます増大している。下の写真は外出自粛要請解除の後、さっそく家族と行ったラーメン屋で食べた「角煮ラーメン」。

 

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腹八分目にするか腹一杯食べるか……。迷う自分を素直に受け入れ、大盛で注文し、ライスとともにペロリ。

 

煩悩が消え去り、悟りの境地がやってくる日は一体いつになるのであろうか……。

 

本屋に出かけた日曜日と『コロナの時代の僕ら』の話

 

 

またすぐ感染の第2波はやって来るかもしれないが、とりあえず我が家の外出自粛も終わりを迎えようとしている。6月になったら夫婦ともに本格的に出勤が始まり、2人の息子は毎日保育園に預けることになる。

 

「この期間、子供がいたからかろうじて生活リズムがつくれてたよね」と妻が笑って言った。「私たち2人だけだったら、ご飯食べる時間とか寝る時間起きる時間もきっと適当で生活が乱れに乱れてただろうね」

 

……まあ確かに。付き合い始めた頃は、お菓子を頬張りながら深夜まで2人でゲームをすることとかしょっちゅうあった。懐かしい。

 

 

 

先日の日曜日、にわかに外出がしたい気持ちになった。というか本屋に行きたい。しばらく行ってない。

 

隣の市にある大型書店に電車に乗って行くことにした。電車で本屋で行くのは不要不急かもしれないけど、地域の感染者もほぼいなくなったので勘弁してください。3歳息子が「つれてって」とせがむので一緒に連れて行った。

 

電車には久しぶりに乗った。ガラガラである。息子は喜んでいた。天気も良いし、素敵な日曜日。

 

やっぱり本屋はいい。たとえ購入しなくても本棚を眺めているだけで心踊る。Amazonで買った積み本が増えているので購入は3冊だけにした。

 

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『コロナ時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ)、『タイタン』(野﨑まど)、『世界哲学史2』。連れてきた3歳息子には「おしり探偵」のパズル、妻と一緒に家にいる1歳息子には絵本を買ってやった。

 

本屋から出ると、ガストに入り息子とハンバーグを食べ、手を繋いでまた電車に乗って帰った。短い時間だが楽しかった。外出はいい。

 

 

 

まずは『コロナの時代の僕ら』を読んだ。本書は新型コロナによる非常事態下のローマで、イタリア人作家パオロ・ジョルダーノが綴ったエッセイである。

 

コロナの時代の僕ら

コロナの時代の僕ら

 

 

今、僕たちが体験している現実の前では、どんなアイデンティティも文化も意味をなさない。今回の新型ウイルス流行は、この世界が今やどれほどグローバル化され、相互につながり、からみ合っているかを示すものさしなのだ。

 

この非常事態下で私たちが感じているモヤモヤとした不安や違和感を筆者は上手に言葉にしてくれている。例えば、この非常事態下で行政と専門家と市民の信頼関係が崩れていっていることをこんな風に語っている。

 

   行政は専門家を信頼するが、僕ら市民を信じようとはしない。市民はすぐに興奮するとして、不信感を持っているからだ。専門家にしても市民をろくに信用していないため、いつもあまりに単純な説明しかせず、それが僕らの不信を呼ぶ。僕たちのほうも行政には以前から不信感を抱いており、これはこの先もけっして変わらないだろう。そこで市民は専門家のところに戻ろうとするが、肝心の彼らの意見がはっきりせず頼りない。結局、僕らは何を信じてよいのかわからぬまま、余計にいい加減な行動を取って、またしても信頼を失うことになる。

   新型ウイルスはそんな悪循環を明るみに出した。

 

日本も同じような状況であると言えるだろう。行政は僕らを「気分」で動くと不信感を持ってるし、僕らの方も行政の政策の遅さを見て優柔不断さを感じ、イライラが募る。そこでメディアに登場するたくさんの専門家たちの意見に耳を傾けてみるが、専門家たちがそれぞれ違うことを言うことに惑わされ、僕たちは深く思慮しないまま自分の「気分」にあった専門家の意見に飛びつき、誰かの信頼を失うような軽率な行動を取ってしまう……。

 

筆者は「パニックはこの手の悪循環から発生する」と言う。感染の第2波、第3波に備え、覚えておきたい教訓である。

 

 

4
 
筆者は今の非常事態を「戦争」という言葉で表現することについて批判している。
 
僕らは戦争をしているわけではない。まもなく社会・経済的な緊急事態も訪れるだろう。今度の緊急事態は戦争と同じくらい劇的だが、戦争とは本質的にことなっており、あくまで別物として対処すべき危機だ。
 今、戦争を語るのは、恣意的な言葉選びを利用した詐欺だ。
(中略)
感染症流行時は、もっと慎重で、厳しいくらいの言葉選びが必要不可欠だ。なぜなら言葉は人々の行動を条件付け、不正確な言葉は行動を歪めてしまう危険があるからだ。

 

この批判は本書の中でも最も大事だと思ったし、賛同するところであった。僕は「コロナに打ち勝つ」という言葉にさえ違和感を以前から抱いていた。勝つとか負けるとかいった言葉は戦いや競争と強烈に結びつく。

 
大体、勝ち負けでいったらもうすでに大分負けている気がする。今までの生活様式は変更を余儀なくされたし、社会の分断はあらゆるところで明るみになったし、何より人が亡くなった。
 
感染症に対する姿勢を「勝ち負け」で決定することは危険ではないだろうか。「みんなで一丸となってコロナに打ち勝とう」という姿勢が、画一的な行動と相互監視を強制させ、過激な自粛警察を生んだりもする。
 
ウイルスを完全に封じ込めることはしばらくは無理であるのだから、「勝ち負け」の視座から離れることが大切だと思う。ウイルスがいつでもそこにあることを受け入れ、それぞれが想像力を働かせ言葉と行動を慎重に選び、ウイルスと上手に付き合っていかなくてはならないと考える。
 
 
 
イタリアでは外出制限が少しずつ緩和され始めたというニュースを聞いた。
 
『コロナの時代の僕ら』は非常事態のまっただ中で書かれたエッセイで、筆者はその中で「僕は忘れたくない」と繰り返しているが、この言葉は心に染みた。日本も緊急事態宣言が解除され始め収束ムードであるが、僕もこの何ヶ月のことは忘れたくないなあと思う。とかく僕らは「のど元過ぎれば熱さを忘れる」で、不安だったことや我慢したことや苦労したことなど忘れがちである。
 
まあこうやって日々あったことや考えたことをどこかに書き付けておいてたまに振り返ることは、「忘れない」ためにけっこう大事なことではないかなと思ったりもする。
 

『14歳からの読解力教室』を読んでー方略を取り入れた「読み」をしよう!

 

昨今、日本の子供達の読解力の低下が話題になることが少なくないが、「読解力はなぜ必要なのか?」、「読解力を高めるにはどうすればいいのか?」、「そもそも読解力とは何か?」といった疑問に簡潔に分かりやすく答えてくれるのが、『生きる力を身につける 14歳からの読解力教室』である。

 

14歳からの読解力教室: 生きる力を身につける

14歳からの読解力教室: 生きる力を身につける

 

 

【本書の目次】

はじめに

I 「読む」とはどういうことか

第1章 読解力は必要か

第2章 なんで「読めない」の?

第3章 暗記と理解はどう違う?

第4章 忘れてしまうのはなぜ?

II 読解力を高めよう

第5章 読解力向上のためには「たくさん本を読む」しかないの?

第6章 マンガはやっぱりダメですか?

第7章 図とかイラストを増やしてほしい?

第8章 読解力は一人で鍛えるモノ?

III 「読む」だけが読解じゃない

第9章 書いてあることは本当?

第10章 先入観はなくせる?

第11章 主観は排して読まねばならない⁉︎

第12章 結局のところ読解力ってなに?

 

どんなにAIが発達したり、分かりやすい説明がある動画が配信されたりしても、それらは「自分が読むことの代わりにはならない」と本書の筆者である犬塚美輪先生は言う。情報があふれる現代では「読む」行為から逃げることはできず、読解力はそのまま「生きる力」に直結する。

 

本書は案内役の犬塚先生と、読むことに苦手意識や疑問を感じている3人の中学生との対話を通して読解力について学んでいく形式になっている。イラストや図も充実していて、幅広い層にとって読みやすい本だろう。

 


大事なのは読む「量」ではなく「質」

 

本を読むのは好きではないという人でも、読解力を上げたいという人は多いだろう。残念ながら、文字を読むことを避けて読解力を向上させることはやはりできない。


本書の第5章にあるが、実は「読んだ本の量」と読解力の関連ははっきりしていないそうだ。ただ、「熱中して読書する」ことが、読解力を向上させることは国際的な調査である「PISA(ピザ)」の報告からわかっている。スポーツの練習と一緒で、「量」より「質」が大事だということである。

 

「いやいや、読解力がないから、読書が熱中できない(楽しめない)んです」という反論もあるだろう。たしかにその通りで、僕も子供の頃は文字だらけの本を読んでもあまり内容が理解できず、読書は苦痛であった。読解力が向上すれば読書に熱中でき、読書に熱中できれば読解力が向上するという好循環になる……はずである。


では、読解力を向上させるには具体的にどうすればよいのだろうか? 本書では読解力を向上させるための以下の方略が紹介されている。

 

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P121より


よく考えると、これらの方略はすべてでないにしろ、学校の国語の授業で学んできたものである。国語の授業ではその読み物の内容を学んでいたのはなく、「読みの方略」を学んでいたのである。上のような読みの方略を個人的な読書でも試してみれば、読書の「質」はきっと上がるはずだ。

 


「方略」を意識した読書が読解力を向上させる

 

テキストの「説明」は「理解を促進するための方略」であると本書は言う。他者を意識し、筋の通った説明を試みることで自分の「理解度」を確認できる。「説明」は読解力を向上させる手段の一つなのだ。

 

友人や家族と同じ本を読んで、それについて説明したり指摘したり感想を交流しあったりするのも読解力を向上させることにつながるだろう。僕はここ何年か読んだ本の内容や感想をノートやブログにまとめるようにしているが、以前よりも内容を説明することや要点を把握することがぐっとスムーズになったと実感している。

 

よく「読解力を向上させるにはどうすればいいか?」という質問に、「とにかく本を読みなさい」という大人がいるが、本書が丁寧に解説するように、単に本を読むだけでは読解力の向上は見込めないのである。

 

「受け身」の読書でなく、読書の「質」を高めるための「攻め」の読書の必要性が本書を読んだことでより深く、体系的に理解できた。

 

居酒屋で3歳息子とサシ飲みした休日の話

 

 

以前ならば仕事柄、土日祝日関係なく働いていたが、密状態を避ける状況下になったことでちゃんと休日が休日として休めるようになった。不要不急の外出は避けなければならないものの、やっぱり嬉しい。

 

休みなのであるからいつまでも朝寝坊しても許されるのであるが、どんなに夜更かししても習慣で早朝に目覚めてしまう(おじいちゃん)。子供たちがまだ眠っている静かな朝の時間は基本的に読書をしている。近頃読んでいるのは、司馬遼太郎の『国盗り物語』。

 

国盗り物語(一) (新潮文庫)

国盗り物語(一) (新潮文庫)

 

 

あまりに有名な小説なので作品の解説はいらないだろう。今年の大河ドラマ麒麟がくる』の視聴をきっかけに読み始めた。

 

麒麟がくる』、少しずつ面白くなってきたところなのに放送回が削減されてしまうことになってしまったのは残念である。沢尻エリカの件といい、なんてツキのない作品だろう。

 

news.yahoo.co.jp

 

打ち切りの週刊漫画のように最終回は、「敵は本能寺にあり!」という明智光秀のセリフと共に「来年の大河ドラマにもご期待ください」とテロップが流れて尻切れトンボに終了するのも悪くないかもしれない。

 

さて、『国盗り物語』を読んで、すっかり斎藤道三(庄九郎)に惚れてしまった。まあ物語的な脚色があるのは分かっているけど、その合理主義の考え方と豪胆さはカッコいい。

 

「蝮」の異名を持つ道三。単に攻めに攻めまくる男ではない。

 

気運とはおそろしい。庄九郎の信ずるところでは、「気運が来るまでのあいだ、気長く待ち、あらゆる下準備をととのえてゆく者が智者である」といい、「その気運がくるや、それをつかんでひと息に駆けあがる者を英雄」という。

 

待つ場面と攻めどころを弁えているのが英雄である。英雄は気運(しお)を的確につかむ。

 

……物語に没入しかけたところで、大抵子供達が起きて、朝ごはんを要求してくる。まあしょうがない。次の読書タイムは子供達のお昼寝のときまでお預けである。

 

 

 

先日の土曜日の話。

 

お昼寝から起きた3歳息子のハルタと駅前の商店街に出かけた。休日だというのに人出はまばらである。僕が住む神奈川県はまだ休業要請が解除されていない。飲食店などはつらいだろう。

 

現代は「リスク社会」とも呼ばれる。グローバル化の拡がりと社会構造の複雑化などによって、多くの突発的なリスクにさらされやすくなっている。感染症の世界規模の急激な広がりや、それが社会に与える複雑なダメージはリスクの1つだと言えるだろう。リスク社会では、リスクにその都度柔軟に対応していく力が求められる。

 

駅前の商店街の飲食店は「テイクアウト大作戦」というのを協力して行なっていた。夕飯のおかずをテイクアウトしようと思いつき、ハルタと一軒の居酒屋に入った。

 

店内はやはりガラガラ。注文したテイクアウトの「厚木シロコロホルモン焼き鳥」などが出来上がるのを待つ間、図らずもソフトドリンクで3歳児とサシ飲みすることになった。

 

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こんな先行きの見えない時代に生まれた子供たちも大変だなあとオレンジジュースを無邪気に飲む息子を見て思った。しかし、親のしてやれることなぞあまりに少なく、結局は自分で未来を切り開いてもらうしかない。

 

荘子は「窮するもまた楽しみ、通ずるもまた楽しむ。楽しむところは窮通に非るなり。」と言った。どんな状況でも楽しめる心をなんとか育んであげたいとは思う。

 

 

 

自宅で夕飯を食べた後、息子たちとDVDで『クレヨンしんちゃん アクション仮面vsハイグレ魔王』(1993年公開)を見た。『クレヨンしんちゃん』の劇場版第1作。興行収入は22.2億円もあったそうだ。

 

 

 

僕も幼いとき、今の息子たちのように『クレヨンしんちゃん』を熱心に見ていたわけだけど、劇場版のストーリーには結構恐ろしさを感じていた思い出がある。前半場面の家族や友達とののほほんとした穏やかな日常が、突然壊されたり混乱に陥ったりする展開がこわかった。

 

今『クレヨンしんちゃん』を見て思うのは、しんちゃんは本当に強いということである。どんな状況でも全く動じず、我が道を行き、それを楽しんでさえいる。そして気運を無意識のうちに見つけ、状況を好転させる。

 

「親が子供に見せたくないテレビ番組」ワースト1位になったこともある『クレヨンしんちゃん』であるけど、現代人に求められているのは野原しんのすけのメンタリティだよなあとか思ったりしたのであった。