ゴロネ読書退屈日記

ゴロネ。読書ブログを目指している雑記ブログ。2人の息子とじゃれ合うことが趣味。

走りながら14歳の頃を思い出したりした話

 

20時頃、工業団地を走った。マスクは取った。体の調子はすこぶる良い。3日前にワクチンを接種した直後は、肩パンされたときのような懐かしい痛みがあったものの、それもすっかり引いた。

 

ランニングのお供にSpotifyフリッパーズギターを聴いた。恥ずかしながら東京オリンピックの開会式の騒動以前は小山田圭吾のことをほとんど知らず、彼のことを調べているうちにフリッパーズギターの曲にハマってしまった。ーアーティストに嫌悪感を持ちながらも、その曲は大好きという態度は許されるだろうか? 作家と作品は切り離して考えるべきだとはよく言われるけど、まあそんな簡単な問題ではない。ーとにかくランニングのテンションを持続させるのには最適である。途中スキップなんかもしちゃった。

 

工業団地の中央には小さな野球場があって、そこでおじさん草野球チームがナイトゲームをしていた。僕はフェンスを掴み、その試合をしばらく眺めた。おっ、いい当たり。レフトを守っているおじさんがこっちに気づき、僕を睨みつけた。いつもの癖でニヤニヤしていたのかもしれない。逃げるようにその場を離れた。ランニングをしている人は多かった。日中はあまりに暑すぎるからね。

 

工業団地を抜け、出身中学校の通学路を走った。志村くんがくれたハイロウズの曲をまとめたMDを聴きながら登下校した14歳の頃を思い出したりなんかした。紆余曲折あったが結局今も地元で暮らしてる。ここら辺の道は知り尽くしていて、走っていると思い出がぽろぽろとよみがえる。思い出されるのはクソみたいなそればかり。

 

東名高速道路の下のトンネルまで来た。狭くて暗い。スプレーで書かれたラクガキもひどい。ここで先輩に殴られた。腕を後ろに組まされた。あの先輩、シンナーを吸っていたからか、歯がボロボロだった。

 

もう帰ろう。家に向かって走っているとき、「今がいちばん楽しい」と思った。歳を重ねるほど、どんどん自由が感じられるようになってきたし、楽しめることが増えた。30代でこんなに楽しいってことは、40代、50代になったらどうなってしまうのかしら。わくわく。

 

とにかく映画が見たくなる!ー『仕事と人生に効く教養としての映画』を読んで

 

映画が見たい……! ちゃんと見たい!

 

学生時代は三度の飯より映画が好きであった僕であるが、ここ数年は仕事や育児の忙しさを言い訳に映画をみる機会がめっきり減り、映画への思いもすっかり冷めてしまった。が、『仕事と人生に効く教養としての映画』を読んで、その思いは激しく再燃した。

 

 

本書は映画をどう見ればいいのか、そしてどのように仕事や人生に活かせばいいのかのヒントを教えてくれる。その教えの明快さ、そして、映画研究者である著者の行間から滲み出る映画に対する強い愛が、僕に火をつけた。

 

映画が無性に見たくなり、まずは4歳の息子と『トイ・ストーリー』を見た。『トイ・ストーリー』は『仕事と人生に効く教養としての映画』のプロローグで紹介される映画である。著者は『トイ・ストーリー』とアメリカ人のフロンティア精神の関係について他の人気映画を巧みに引用しながら解説することで、本書の入り口に立ったばかりの読み手の心を鷲掴みにする。

 

 

2

 

「仕事に効く」と冠された本書。僕は映画を見てきたことが、仕事の役に立ったことがあったかどうかを思い返してみた。

 

……あれは、職場でのとある会議であった。その会議の中で、「支援を再び厚くしていかなくてはなりませんね」というような発言があった。その発言を受けて、ある年配の上司が「シェーン、カムバック」とボソリと、しかし会議の参加者の全員には聞こえるぐらいの声の大きさで言った。その上司は日頃からよく意味のわからないギャグを連発する人で、僕も含め職場の人から疎まれていた。会議での上司のその発言も「またわけのわからんこと言ってるよ」という白けた空気によって軽く流され、会議は何事もなかったかのように続行された。

 

しかし、映画好きだった僕だけが、このギャグの教養の深さを理解していた。「シェーン、カムバック」は、古典ハリウッド映画の名作西部劇である『シェーン』(1953年)での最も有名なセリフである。あの一瞬で、「支援を再び」とこの名ゼリフをかけるとは……。この会議をきっかけに、僕の中のその上司に対する評価は爆上がりしたのであった。

 

……いやいや、だめだ、こんなくだらない思い出しか出てこない。『仕事と人生に効く教養としての映画』の第1講では、映画を見ているとどのようないいことがあるかが以下の5点に整理されている。

 

①感情の起伏を経験し、内省を深めることができる

②他人の人生を擬似体験できる

③異文化に触れることができる

④知識を身につけるきっかけになる

⑤人間としての魅力が増す

 

なるほど! 各効用の説明には説得力がある。映画を見る1つ目の効用である「感情の起伏を経験し、内省を深めることができる」の項には、

 

映画を通して感情の起伏を積み重ねていくと、自分の感情の振れ幅がわかるようになります。

 

とあり、また、「自らの感情の動きを知り、内省を深めてそれをコントロールできるようになる」とある。

 

そういえば僕は仕事などでピンチに陥ったときに、その状況とそこに置かれた自分自身を、離れたところからあたかも映画観客となって見つめるイメージをする癖がある。このイメージは、状況と自分の感情を冷静に分析し、ピンチから脱するのに役立っている。本書を読んで気が付いたが、この自分の認知活動を客観的に捉える力(いわゆるメタ認知)は映画を意識的に見ることによって鍛えられてきた部分が大きいのではないか。

 

著者は言う。

 

私は「映画を意識的に見ることは、人間としての能力の底上げや人生の向上につながる」という確信を抱いています。

 

映画ってやっぱりスゴい……!

 

 

3

 

僕が本書の中で特に面白さを感じたのは、黒澤明溝口健二小津安二郎といった日本映画の巨匠の作品の魅力が語られる第3講と第4講である。

 

映画が好きだった僕はよく人におすすめ映画を紹介していたが、古典の日本映画を見てもらうのが特に難しかった。「白黒の邦画」というだけで、見る側の心理的ハードルがぐっと高くなり、敬遠されてしまうのだ。

 

しかし、本書は実際のショットの画とともに、研究者の視点で、その映画の魅力や巨匠たちのテクニックの緻密さを段階的に丁寧に解説してくれるので、読み手の誰もが「見てみようかな」という気持ちにさせられるだろう。溝口監督の『お遊さま』(1951年)の導入部での連鎖のショットのすごさや、小津監督の映画文法のずらし方の例の解説などは目から鱗

 

こういった巨匠の巨匠たる理由を知っていると、映画を見ることへの意識が変わり、現代映画の楽しみ方もぐっと広がるはずである。

 

 

4

 

本書が映画の見方を学ぶ他の入門書と一線を画すのは、映画を見た後、それをどのようにアウトップットしていくのかについて語られているところだと思う。学生時代の僕もやっていたが、著者はまずは鑑賞記録をつけることを強く勧めている。

 

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僕の学生時代の映画鑑賞ノート

 

SNSでの映画の発信のコツなんかもあり、映画を見て抱いた思いを発信したいけど、うまく言葉にすることができないでいる人には必読。著者は「映画をよく見てそれについて書くことが、よりよく生きることにつながると信じている」と述べているが、これはかなりの名言である! 熱い!

 

また、著者は「『映画を見る会』を開こう」と勧める。誰かと一緒に映画を見て、観賞後に意見を交わし合う場は「重要なアウトプットの場である」と言う。著者は、大学時代に様々な人に声をかけ「映画を見る会」を開いていたそうだ。

 

ー実は僕も学生時代に著者である伊藤弘了さんにtwitter経由で誘われ、一緒に2回ほど映画館に映画を見に行ったことがある。観賞後、鑑賞をともにしたメンバーと作品について語り合ったが、語り合うことで、作品の理解がより深まった。この理解の深まりには、一人で見て考えるだけでは絶対に辿り着けなかったであろう。(伊藤さん、その節はお世話になりました。)

 

 

5

 

映画を普段あまり見ない人にはもちろん、映画が大好きな人にも自信を持って『仕事と人生に効く教養としての映画』はおすすめできる。映画の楽しみ方が広がり、とにかく映画が見たい!という気持ちになる一冊である。

 

なかなか外出のできないこのコロナ禍の夏休み、この本を傍らに、映画鑑賞に没頭してみてはいかがでしょうか?

大人だけど進研ゼミを始めた話など

1

 

妻と僕との共通の趣味は「勉強」である。

 

子育てを含めた生活についての話題を別とすれば、今どんなことを勉強をしているかとか、これからどんな勉強したいかといったことについての話題が夫婦間の話題の大半を占めている。コロナ禍によってオンラインでの学びのイベントが増えたことも勉強熱に拍車をかけた。教員である妻は、「SENSEIイベントポータル」というサイトに登録し、休日になるとオンライン勉強会に参加している。

 

senseiportal.com

 

この前『BRUTUS』の「大人の勉強案内」の号をつい買ってしまったが、YouTubeで視聴できる大学授業の案内が載っていて、ワクワクが止まらなかった。

 

 

しかしながら、昨今、簡単にアクセスできる勉強コンテンツがあまりに溢れかえっているので、自分が若干「勉強迷子」になっている感も否めないのであった。一つのことに腰を据えて勉強ができず、興味がどんどん新しい勉強へと移行していってしまう。

 

 

2

 

そういえば、〈古いノリを脱して新しいノリへ向かう〉という過程が「勉強」であり、その移行の速度を上げていくべきだといったようなことが千葉雅也先生の『勉強の哲学』に書いてあったのを『日本哲学の最前線』を読んで思い出した。まあ、「勉強迷子」のままでもいっか。

 

 

この頃、高校の国語の先生とお話しする機会が多くあり、にわかに高校国語の学び直しをしたいという気持ちが高まった。そうなると居ても立っても居られず、「進研ゼミ」の高校講座を始めてしまった。数学も、高校時代に壊滅的な成績であったことを思い出して学び直そうかと思ったが、続けていける自信がなかったので、とりあえず国語一科目のみで申し込んだ。

 

4歳の息子の名前で申し込んだ。ベネッセは混乱していることだろう。これまで幼児用の「チャレンジ」の広告を送っていた家から、まだ4歳であるはずの子供の名前で高校講座が申し込まれたのだから。ありえない飛び級である。

 

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「進研ゼミ」のテキストは想像以上にわかりやすい。先日手に入れた高校の「国語総合」の教科書を机に開いて並べて、休日に少しずつ進めている。自分の学生時代にはまだ存在しなかったサービスである映像コンテンツが充実しているというのが最大の魅力である。追加料金なしでリモート授業を受けたりもできる。それらを最大限に活用すれば、「進研ゼミ」は結構コスパの良い大人の学び直しコンテンツではないだろうか。

 

 

 

近頃、4歳の息子はどういうわけか「月」にハマっている。

 

毎夜少しずつ形が変わっていくことに魅力を感じているようで、曇って月が見えない日には残念がっている。息子に月のカレンダーを与えたところ、毎日それをチェックするようになった。今年のクリスマスは、小さな天体望遠鏡をプレゼントしてやろうかと夫婦で話している。

 

息子のお友達が習い事をちらほら始めている。僕ら夫婦は自分たちが「勉強」が好きなのに、小さいうちから子供に習い事をやらせることには消極的である。ただ、息子がどんなものに興味を持ったとしても、それを突き詰めることを邪魔せず、常に応援できる親でありたいとは思う。

 

www.springin.org

 

「月」以外に4歳息子がハマっているのは、「Springin'」というアプリ。対象は4歳以上で、遊びながらプログラミングを学ぶことができる。

 

自分の描いた絵が動いたり声を出したりするのが堪らなく楽しいようです。

 

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「主体性」を評価することについて

 

ラジオで自分のメールが読み上げられ、深夜にも関わらず小躍りしちゃった。こういうのはいくつになっても嬉しい。

 

メールを読んでくれたラジオは、「文化系トークラジオLife」。隔月で、社会や文化についてゲストたちが雑談を繰り広げる番組。僕は5年前くらいからこの番組のファンで、アーカイブも全て聴いた。

 

life.www.tbsradio.jp

 

今回のテーマは「努力の現在〜いま何にどんな努力をしていますか?」というテーマだった。予告編では、いかに必要のない努力を省略し、効率化するかといった「努力の合理化」の風潮が話題になった。

 

僕は自身が中学校の教員であるという立場から、教育現場での「努力の合理化」について番組にメールを送ってみた。

 

2

 

Lifeクルーのみなさん、こんばんは。いつも楽しく拝聴しています。

 

私は中学校の教員をしています。昨今は教育現場も、児童・生徒に「努力の合理化」を求めるように変化しています。以前は勉強でも部活動でも、根性論に基づいた「がむしゃらな努力」が評価されるきらいがありましたが、今は適切な「努力の合理化」をしているかどうかが評価されます。この「努力」の捉え方は、制度面でも変わりました。

 

中学校では今年度から、高校では来年度から新学習指導要領が全面実施されますが、それに伴って、学習評価の在り方が改められました。最も大きな変化は、評定を支える学習評価の観点が、①「知識・技能」、②「思考・判断・表現」、③「主体的に学習に取り組む態度」の3点に整理されたことです。3点目の「主体的に学習に取り組む態度」というのが「努力の合理化」を評価する観点です。従前の学習指導要領では「関心・意欲・態度」と呼ばれていた観点で、従前と比べ、「主体的に学習に取り組む態度」は、学習内容を身につけるために、自らの学習状況を把握し、学習の進め方について試行錯誤するなど自らの学習を調整しながら学ぼうとしているかどうかを評価するという面が強調されています。ただがむしゃらに努力してるだけでは、高い評価は得られません。授業中に思いついたことをひたすら発言しまくったり、ノートの隅から隅まで漢字練習をしたりする姿勢を見せられても、学習を調整しているとは判断できないからです。

 

予測困難な時代に柔軟に対応し、新しい価値観を創造していくたくましい学習主体を育てるという偉い人たちの理想は分かりますが、現場の教員はこの「主体的に学習に取り組む態度」の評価をどのように見取るかということに苦労しています。ペーパーテストの結果では評価できない観点であり、学習の目標に照らして、自分は「何かできるようになったか/できていないか」、「どのように学習すればより成長できるか」といった学習者の振り返りの記述などを評価材料とします。評価評定は受験にも大きく関わる大切なものなので、教師には、できるだけ主観を排しながら丁寧に学習者の「努力の合理化」を評価していくことが求められています。

 

「努力の合理化」を評価する側も大変ですが、評価される側も大変です。いかに自分がよりよい「努力の合理化」に努力しているかを少年少女のころからアピールしていかなくてはなりません。これからの社会に歓迎されやすい人は、陰で歯を食いしばって努力を続ける人ではなく、自分の「努力の合理化」を巧みにプレゼンできる人なのかなと思ったりしています。

 

ゴロネ(男・31歳)神奈川県在住

 

 

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「関心・意欲・態度」からの時代からであるが、生徒の主体性を評価の観点とするというのは多くの問題点があり、個人的にはこの評価のあり方には憤りを感じている。

 

ラジオでも言及されていたが、「主体性」という本来数値で測れないものを育てよう目的でありながら、最終的にそれを数値で評価するというのは大きな矛盾である。生徒の主体性を評価し、数値という形で彼らにフィードバックすることによって、主体性の意味合いは一気に変わってしまう。

 

生徒は成績というリターンのために、自分は努力をしているということを必死にアピールしよとする。そうした努力は外発的動機付けによるものであり、主体性とはほど遠いところにあるように思えてならない。リターンがあるかないかは関係なく、目前にある学びが楽しいからその学びに夢中に取り組むというところに真の主体性があるはずである。

 

ということで、以前「文化系トークラジオLife」の「春の頑張り迷子相談室」というテーマで、三宅秀道先生がおっしゃった「頑張りは投資ではなく、消費」という言葉がここ最近になってじわりときているのである。

 

 

 4

 

まあ、ただ批判するだけでは何も始まらないし、現行制度の中でやっていくしかない。国は学習評価のあり方についてどのように考えているのか、新学習指導要領の下、実際にどのように学習指導を行っていくのかということをちゃんと勉強しておく必要がある。学習指導要領とともに以下の国研の資料は必読である(高校版はまだ案しか出ていない)。

 

 

加えて、新3観点での授業指導案作成例は、以下の本でかなりわかりやすく紹介されているのでおすすめ(これも高校版はないが、小中は各教科あり)。

 

 

 

 

 

夢と保育参観と『シブヤで目覚めて』の話

 

駅から出られない夢を見た。

 

夢の中の駅は、さまざまな在来線が入り組んでいて迷宮のようで、なかなか目的のホームまでたどり着けない。階段を何度も登り降りした。これじゃあ間に合わない。今日は絶対外せない大事な仕事を抱えているのだ、と焦る。

 

目が覚め、ほっとした。大事な予定が控えているのに、障害があって間に合わないという夢はよく見る。その障害が「迷宮のような駅」というのは初めてのパターンだった。

 

 

2

 

有給を取得し、息子の保育園に参観に行った。

 

参観に来ている保護者は皆母親で、父親は僕だけだった。今年度は特異な異動をし、定時退勤ができ、有給が取りやすいホワイトな職場で働いている。妻は相変わらずの激務で、休みを簡単に取ることはできない。自然、育児や家事は僕が中心に担うことになった。こういう保育参観のようなイベントにも積極的に参加している。

 

参観中、つい涙ぐんでしまった。いつから僕はこんなにヤワになってしまったのか。息子のことになると、僕はどうかしてしまう。

 

息子は友達と一緒に歌ったり、体を動かしたり、先生の声がけに大きな返事をしたりしていた……。生まれた時は未熟児だったのに、あれから4年経ち、こんなにも逞しく成長している。……と考えるともうダメで、目頭が熱くなってしまうのだった。

 

このように自分の息子の成長に感動すると同時に、自分が教育関係の仕事に携わっていることもあって、保育園の先生による幼児への接し方にも注目してしまう。

 

とにかく幼児への声がけがうまい。僕なぞ普段家で自分の子供の面倒を見るだけでもアタフタし、疲労困憊なのに、保育園の先生方は笑顔を絶やさず、あれだけ大勢の幼児の行動を巧みにコントロールしている。自身の仕事にも生かせるテクニックが多かった。保育士さん、まじリスペクト。

 

 

 

頑張っていた息子に今夜はカレーを作ってやろうと思い立ち、スーパーに行った。駅から出られない夢を見たのは、最近読んだ小説『シブヤで目覚めて』の影響があるかもしれないと、買い物をしながら考えた。

 

 

チェコで日本文学を学ぶ大学生のヤナは、素性がまだよく知られていない作家「川下清丸」の研究に夢中である。一方、分身のヤナは、2010年の渋谷に閉じ込められている。分身の彼女が街中を歩いても、「幽霊」であるかのように彼女のことを誰も見向きもせず、渋谷を離れてどこかに行こうとすると、すぐハチ公像の前に引き戻されてしまう……。

 

作者はチェコの新進気鋭、アンナ・ツィマ。ヤナと同じように、彼女自身も大学時代、日本文学を学んでいたそうだ。

 

物語の構造は多層的で、さまざまなジャンルの要素が詰め込まれているが、それをみずみずしい軽快な語り口でまとめてしまう技量がすごい。ページを進めるにつれ、その各層は絡み合っていき、読者は物語に魅了され、分身のヤナと同様、物語世界に閉じ込められてしまう感覚に陥る。

 

物語は、大学生のヤナの層、渋谷に閉じ込められた分身のヤナの層、そして、架空の作家「川下清丸」の小説「分身」の層で構成される。この川下清丸の造形と作中作「分身」にリアリティがあり、自分が知らないだけで、こういう作家と作品が実在していたのかと思ってしまったほどである。

 

日本文化への強い愛もビシビシと感じられ、かなり楽しんで読めた。今年イチオシの小説です。

 

 

 

家族で少し遠出して、横浜のランドマークタワーに行ってきました。来週からまた緊急事態宣言。

 

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松陰神社に行った話など

 

 

Audibleで『いっきに学び直す日本史』を聴いた。大学受験の学習参考書であった『大学への日本史』が最新内容に全面改訂されたのが本書であるそうだ。

 

いっきに学び直す日本史 【合本版】

いっきに学び直す日本史 【合本版】

 

 

高校で文系クラスにいた僕は、大学受験では好きだった日本史を社会科の受験科目として選択した。学習塾には通わなかった。自分なりにコツコツと勉強して、日に日に知識が積み重なっていくことに充実感を抱いてことを覚えている。

 

『いっきに学び直す日本史』を聞いて少し衝撃があったのは、高校生のときに必死になって覚えたことをもうすっかり忘却してしまったことに気づいてしまったこと。まあ、人名や事件などの固有名詞にはなんとか引っかかりはあるんだけど、それが一体何なのか、歴史の流れの中でどういった意味があるのかってことについての記憶はかなり曖昧になっている。大学受験から10年以上経っているし、当然か‥‥。

 

今年は意識して、歴史本ばかり読んでる。元々歴史好きだったので、歴史本を読んでるとかなりワクワクする。現在の自分の生活に生かせるとかどうかとかそういうのは関係なく、ただ単に歴史に名を残した人たちの生き方や考え方に触れるのは楽しい。

 

また一から歴史を勉強し直して、歴史の学習を生涯の趣味の一つに加えようと決意したのであった。

 

 

 

といっても、古代から時系列に学んでいくはつまらないので、日本史世界史関わらず、興味の湧いた人物や事件からつまみ食い的に学んでいこうと思う。

 

近頃、歴史を熱く語るPodcast『コテンラジオ』にハマっていて、勢いで月1000円払うサポーターにもなってしまった。その『コテンラジオ』のホームページに参考文献が掲載されていて、そこで紹介されている本に手を出していくことにした。

 

cotenradio.fm

 

まずは半藤一利『幕末史』、そして田中彰吉田松陰 変転する人物像』などで吉田松陰と彼が生きた時代周辺を学んだ。

 

幕末史 (新潮文庫)

幕末史 (新潮文庫)

  • 作者:半藤 一利
  • 発売日: 2012/10/29
  • メディア: 文庫
 

 

吉田松陰 変転する人物像 (中公新書)

吉田松陰 変転する人物像 (中公新書)

 

 

吉田松陰かっけえ。友達のために脱藩したり、黒船に乗り込んだり、聞かれてもないのに老中の暗殺計画を幕府に告白して処刑されたりなどと、とにかくパンク。

 

彼の一君万民の思想と行動が後の尊皇攘夷運動や明治維新を牽引する人物に与えた影響は計りしれない。松蔭の一君万民の思想については、今年5月に出版された『もっと試験に出る哲学』にコンパクトかつわかりやく紹介されている。

 

 

では誰が倒幕するのか。もはや大名や藩に期待はできません。それどころか、「おそれながら天朝」も頼ることはできないとまで覚悟を決めます。こうして松蔭は、尊王攘夷の志を持つ草莽(在野)の人々の決起に、天皇と人民が直接結びつく「一君万民」への政治改革を託したのです。

 

 

 

ということで吉田松陰熱が高まったので、先月家族を連れて、世田谷の松蔭神社にお参りしてきた。

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そういえば、31歳になりました。

 

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『エチカ』を読んでースピノザ的自由の話

 

 

スピノザの説くあり方の神であれば、なんとか信じることができた。

 

すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられない。(『エチカ』第一部定理一五)

 

17世紀オランダの哲学者スピノザは、世界のあらゆるものは神の持つ性質のあらわれだと考える「汎神論」を説いた。この考えは、自然は神の創造物だとするキリスト教とは相慣れないものであり、教会側から強いバッシングを受けたそうだ。

 

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ベネディクトゥス・デ・スピノザ(1632〜77)

精神と身体は別々に存在しているとする、デカルトの説く心身二元論スピノザは疑問を抱いていた。私たちが経験から知っているように、精神と身体は密に結びついている。心身二元論では精神と身体が連動することの説明ができない。

 

心身二元論は精神を至高のものとし、身体をただの物体の地位に格下げもしたが、身体は精神が操縦するロボットのようなものではない。無意識のうちに身体が動くなんてことは日常生活でざらにあることだからだ。

 

スピノザは人間の精神も身体も含めた自然はすべて神の一部であると考えることで、心身二元論を乗り越えようとした。この汎神論であれば、精神も身体も神の性質のあらわれに過ぎないので、これらが密につながり、連動する事実は当然のことと捉えることができるようになる。

 

神の一部である人間は神の考えの下に動いている。スピノザは人間の行動は人間の意志によるものではないとし、自由意志の存在を否定する。ちなみに、自由意志の存在は最新の脳科学でも否定されていて、意識は行動よりも後に現れるというのが定説である。人は自分の行動があたかも自分の意思の結果であると錯覚しているだけなのである。

 

私たちの無意識は常に外部からの作用や影響にさらされていて、そこで起きていることすべてを意識することは到底できない。自分の意志ではどうにもならない(「運命」とも言い換えられる)ことを「神」と呼ぶのであれば、たしかに神は存在していると思うのである。

 

 

 

先日やっと、スピノザの『エチカ』を読み終えた。半年くらい時間をかけて、ちびりちびりと読み進めていた。難解なので、最初の5ページくらいで挫折しそうになったが、『100分de名著』での國分功一郎先生の解説に縋ることで理解へのモチベーションを保つことができた。

 

エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

  • 作者:スピノザ
  • 発売日: 1951/09/05
  • メディア: 文庫
 
スピノザ エチカ 下 (岩波文庫)

スピノザ エチカ 下 (岩波文庫)

 

 

スピノザの哲学について最も魅力を感じたところは、「自由」についての考え方である。

 

「自由」を辞書で引くと、「他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまうこと」とあり、これは当然私たちがイメージする「自由」の状態と一致している。しかしながら、全く束縛のない、制限のない状態などあり得ないし、ましてやそれらを超え出ることなど人にはできないとスピノザは考える。人は神の考えの下で動いているからだ。

 

では、スピノザはどのような状態を「自由」と捉えているのだろうか?

 

スピノザ『エチカ』 2018年12月 (100分 de 名著)

スピノザ『エチカ』 2018年12月 (100分 de 名著)

  • 発売日: 2018/11/24
  • メディア: ムック
 

 

   与えられている条件のもとで、その条件にしたがって、自分の力をうまく発揮できること。それこそがスピノザの考える自由の状態です。(『100分de名著 スピノザ エチカ』)

 

 と國分先生は言う。『エチカ』では「自由」を以下のように定義している。

 

自己の本性の必然性のみによって存在し・自己保身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。(『エチカ』第一部定義七)

 

スピノザは、自らの必然性に従って存在したり、行為をしたりすることが自由であるのだと言っている。自由の度合いは、水の中で泳ぎ回る魚のように、必然的な法則の中で自らを充分に生かせているかどうかで決まるのである。

 

自由であるということは、すなわち「能動」の状態であるとスピノザは言う。

 

  ふつう能動と受動は、行為の方向、行為の矢印の向きで理解されています。行為の矢印が、私たちから外に向かっていれば能動であり、矢印が私に向かっていれば受動というわけです。

    しかしスピノザはそのような単純な仕方ではこれらを定義しませんでした。スピノザは、私が行為の原因になっている時ーーつまり、私の外や内で、私を原因にする何事かが起こる時ーー私は能動なのだと言いました。(『100分de名著 スピノザ エチカ』)

 

仕事でたとえるが、心からワクワクする自発的にとりくむことができる仕事もあれば、外部から与えられた恐ろしくつまらなくやる気の起きない仕事もある。社会人の責任としてどちらの仕事もこなすし、行為の方向だけ見れば、前者も後者も「私がその仕事をする」ので「能動」である。ところが、スピノザの哲学においては、後者の仕事は他人の力をより多く表現している行動、つまり外部によって強制されているそれなので「受動」と呼ばれる状態に当たるのである。

 

先にも触れたように、私たちは常に外部から何らかの制限や影響を受けているので、完全な能動、完全な自由は存在しない。國分先生はそれつについてこのように説明する。

 

    ただ、完全に能動にはなれない私たちも受動の部分を減らして、能動の部分を増やすことはできます。スピノザはいつも度合いで考えるのです。自由も同じです。完全な自由はありえません。しかし、これまでよりすこし自由になることはできる。自由の度合いをすこしずつ高めていくことはできる。(『100分de名著 スピノザ エチカ』)

 

スピノザは100%の能動の状態あるいは100%の受動の状態のどちらかがあると考えるのではなく、ある状態には能動と受動が入り混ざっていると考える。受動をゼロにすることはできない。しかし、能動50%を60%にすることはできる。そうすることで自由の度合いも広がっていくのだ。

 

図にすると以下のような感じ。

 

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お盆は毎年、妻の実家にある福井の田舎に行くのだけど、コロナ禍なので断念した。今年のお盆は外も暑いし、家に引きこもっている。といっても、元々お家大好きなので、かなり楽しんでるし、自由を感じている。

 

心身のおもむくままにゴロゴロし、何か食べたいものが思い浮かんだら、外に食事に出かける。昨日は家族でかき氷を食べに行った。

 

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近頃、仕事でスピノザ的な受動の状態が続いていたので、現在そこからの解放感に浸っている。しかしながら、受動の状態にうんざりしているだけじゃあダメな気もする。現在の自身の状態をできるだけ客観視し、いかにして外部からの強制を自発に置き換える工夫ができるかっていうのが今の自分の課題なんだよなあと『エチカ』を勉強して思ったのであった。